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「文鳥」の謎に迫る!片づけた顔と寒い顔の意味とは?
- 日本語を勉強中の中国人が漱石先生の「文鳥」を読んでいます。質問文には「片づけた顔」と「寒い顔を片づけてみたり」という表現がありますが、その意味を知りたいです。
- 「片づけた顔」とは、整理された印象を持つ顔や表情を指します。一方、「寒い顔を片づけてみたり」は、冷たい表情や感じを改めたり整えたりすることを意味します。
- 「文鳥」における「片づけた顔」と「寒い顔を片づけてみたり」という表現は、主人公の心理状態や行動を表現するために用いられています。
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今どき漱石を読むには当時の辞書か、ちゃんと語彙の注釈のある版本が必要でしょう。 「かたづく<片付>乱れたるが定まる。調(ととの)う。治まる。おちつく。整頓。」(「言海」ちくま学芸文庫) 「なにごともせず落ち着いてとりすましている顔。20ページに「寒い顔を片づけてみたり」、29ページに「籠の中に片づいている」との使われている。」(「文鳥」傍注(「夏目漱石全集10」ちくま文庫))
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- dayone
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「片付く(かたづく)」には、 古くから「一方の側に寄る。一方に寄って接する」などの意味があることから、 <一方(=右側または左側)に>「傾(かたむ)く」「傾(かたむ)けた」などが連想されます。 それをあてはめると、 (1)「…、片づけた顔を頬杖(ほおづえ)で支えていると、…」→ 「…、<一方(=右側または左側)に>傾(かたむ)けた顔を頬杖で支えていると、…」 (2)「…、寒い顔を片づけてみたり、…」→ 「…、寒い顔を<一方(=右側または左側)に>傾(かたむ)けてみたり、…」 (1)では 「傾(かたむ)けた顔」と「頬杖で支える」とで一連の動作を表し、 (2)では 「傾(かたむ)けてみたり」「取乱してみたり」「頬杖を突いたり」「やめたり」して 異なる動作を連記することで時間の経過などを表す効果があります。 以上 御存知のとおり『文鳥/夏目漱石』は、1908(明治41)年の作品で、 既に100年以上経過しているため確かな事はわかりませんので、 あくまでも私見=一つの解釈に過ぎませんが、 上記のように捉えれば自然な動作・表現のように感じられます。 如何でしょうか? 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^ 余談: 「先生」で一つ思い出しましたが、 (〇はプライバシー保護のため伏せ字にしました、愛称から連想してください) 日本在住で中国籍のファッション・モデル「〇民」(愛称は「桃」)さんとの 会話の中で「〇民先生」などと言ったら、 「中国では男性、しかも年配の方にしか言いませんよ」と笑われました^^
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。いろいろ参考になりました。「先生」は中国語で男性に対する敬称ですね^^。
- Postizos
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岩波古語辞典によると 1.片方に寄せる。整頓する。 2.どちらかに決める。決着をつける。 3.縁付かせる。 とあります。 頬杖のほうに寄せているとも解釈できますが「寒い顔を片づけてみたり、取り乱してみたり」とありますので「取り乱す」の対義語であろうと推測されます。だとすると「整頓する」の意味という事になるでしょう。 広い書斎を一人で持て余して、顔をいじったり髪や髭をぐしゃぐしゃにしたりきちんとしたりしている手持ちぶさたな様子を書いているのではないでしょうか。
お礼
ご丁寧に教えていただきありがとうございます。とても参考になりました。
- hakobulu
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漱石独特の諧謔表現の一種と思います。 どちらの場合も「書斎に顔を片づける」という内容になっていますね。 「片づける」は「散乱しているものを、あるべき場所に整頓する」といったような意味です。 漱石は作家ですから書斎という場所が定位置で、最も長い時間を過ごす場所です。 他の場所に居ても、最後は書斎に戻って仕事をするのが習慣になっていたはずで、自分自身が書斎に居ることが一番自然な日常だったわけです。 つまり、漱石にとっては「書斎=自分のある(いる)べき場所」だったと言えるでしょう。 「自分が自分自身を書斎という場所に片づける⇒書斎のある部屋に入る」という意味で、自分自身の象徴として「顔」という表現を用いたのだと思います。 自分の肉体を、客観的に、また、ぶっきらぼうに扱って表現することで、諧謔的な(おかしみのある)味わいを出そうとしているわけです。 「書斎に寒い顔を片づける」は、「寒さを感じながら書斎に入る」といった意味になります。
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。とても参考になりました。
- Nebusoku3
- ベストアンサー率38% (1465/3824)
>「伽藍(がらん)のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖(ほおづえ)で支えていると。。。 の前に 早稲田に移った という言葉があります。 その影響で 「引っ越しが やっと片付いた」 という ほっとした様子を 「片づけた顔」 という普通とは一風変わった表現をしているものと思います。 >「自分は毎日伽藍(がらん)のような書斎に、寒い顔を片づけてみたり、取乱してみたり、頬杖を突いたりやめたりして暮していた。」 の方は いろんな顔をして 孤独な遊び? をしている様子を 表現したものと思います。 この場合の 「片づけてみたり。。。」 は寒い顔を 「やめてみたり」 の意味で使っている様です。 顔の話題がやたらと多いのは 文鳥を飼うことの 「伏線」 であり、 小鳥から 良く見えるのは 「顔」 である事を 物語っているのではないかと推察します。 ご質問の文章には不自然なところが感じられません。 良いと思います。
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。
- gldfish
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その表現の意味がわかる日本人はおそらく殆どいないと思います。 ちょっと調べてみましたところ、「そのまま定まった状態」を指すとの記述が見つかりましたが、これが一般的な解釈どうかすらもわかりません(本人の憶測である可能性も)。 「片付ける」→「安定した状態になる」→つまり「そのまま定まる」・・・という感じでしょうか。 このことからも「片づけた顔」は「無表情」、「寒い顔を片づけてみる」は「寒い顔のままでいる」・・・という意味が伺えます。これはあくまで1つの解釈ですが。 「顔を片づける」に関してはあまり気にしなくていいですし、日常で使わない方がいいですね。 質問文は全く問題のない、ネイティブそのまま日本語です。 ただ一点。一般人が偉大な作家を「○○先生」と呼ぶことはあまりありません。(中国では呼ぶのかも知れませんが・・。)その作家の周辺関係者や、特にその作家を支持している人であれば、親しみの意味を込めて「先生」と呼んだりすることはあります。
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。参考になりました。「先生」という呼び方についてのご指摘にも感謝いたします。尊敬の気持ちを表したいのですが、あまりにも偉大な作家なので、やはり呼び捨てなのですね。今後、気をつけます。
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。大変助かりました。偶然にラジオ番組の中で聴いた文章で読みたくなりました。