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「向上とか何とかいって」、「末」
日本語を勉強中の中国人です。夏目漱石の「吾輩は猫である」の中の表現について伺います。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html 『そのように判然たる区別が存しているにもかかわらず、人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ているものだから、吾輩の性質は無論相貌(そうぼう)の末を識別する事すら到底出来ぬのは気の毒だ。』 1.「向上とか何とかいって」はどういう意味でしょうか。 2.「末」は何と読むでしょうか。どういう意味でしょうか。 また、質問文に不自然な日本語の表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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こんにちは。先のご質問に続けてお答えします。 1.先のご質問に対する回答でもちょっと触れましたが、「向上」の部分は世間の一般の人がよく言っていることを直接話法で書いています。すなわち、「世間の人たち(特に、当時の日本人たち)は、『自分を向上させなくてはならない』と考え、いつもそう言っている」という意味です。 古来より精神性を重視する日本人全般の性向を述べているとも取れますが、わたくしが指摘しておきたいのは「吾輩は猫である」の時代背景です。この作品が連載されていた時期は明治38年から39年にかけてです。時を同じくして明治37年から38年にかけて、日本は当時のロシア帝国と戦争をしていました(日露戦争)。明治時代は、明治維新をきっかけに近代国家として生まれ変わろうとしていた日本が、欧米と肩を並べようと一生懸命に努力していた時期です。その努力は、一大強国であるロシア帝国と戦って(辛うじてですが)勝利したことで、一応の結実をみるわけです。つまり、日本という国が「向上」の努力を続け、世界の列強国と肩を並べるまでに発展した、ということです。少なくとも、日本人の大半はそう考えていたと思います。 このような明治時代の人々の性向を、この部分で漱石は思い浮かべていたのではないでしょうか。 2.「末」は「すえ」と読むのが普通です。「末」にも色々な意味がありますが、ここでは「本質的ではない、つまらないこと」という意味で使われているように感じます。「本質的ではない、つまらないこと」があるのならば「本質的な、大切なこと」があるはずですけれども、それはどこかというと「吾輩の性質」だと考えます。 「性質」、つまり性格や好みなどは、人間同士の付き合いであってもなかなか分からないことがあったりする、言ってみれば識別が難しい、「本質的な」点です。一方、見てくれや姿かたちといった「相貌」は、一目見れば分かる、識別が簡単な「瑣末的な」点ですよね。 ご質問の文より前の部分は、苦沙彌先生が自分宛てに届いた年賀状を見ている場面です。どの葉書にも、猫(『吾輩』です)の絵が描いてある。「十人十色」という言葉は猫の世界でも同じで、姿かたちだけでも色々な猫がいるが、その葉書に描いてあるのはどう見ても「吾輩」なのに、先生はそれがわからない。「吾輩」は、それについて心の中で先生に苦情を言っている、という場面です。 これを踏まえますと、「確かに一目見ただけでは猫の性格や好みなどの「性質」を識別するのが難しいのはのはもちろんだが、見てくれや姿かたちといった「相貌」を識別するのは難しくないだろうに、そんな瑣末的なことすらできない」と漱石は言いたいのではないかと考えます。 全体をまとめてみると、 「(目つきや毛並みや尻尾の垂れ加減のような、)そのようにはっきりとした区別があるにも関わらず、世間の人々は『自分を向上させなくてはならない』などと言って自分が目指す方向しか見ないものだから、猫の性格や好みなどということが分からないのはもちろん、見てくれや姿かたちといった簡単なことすら分からないのは気の毒だ」 といった感じでしょうか。 こう考えてみると、「吾輩」は「猫の本質的な部分であろうが瑣末的な部分であろうが、人間はどうでもいいものと考えている」と受け止めていると言えそうです。それは、先のご質問にあった「人間が何ぞというと猫々と、事もなげに軽侮の口調をもって吾輩を評価する癖がある」という部分とつながっているのだと思います。 また、もう少し深く漱石の気持ちを考えてみるならば、 「今の日本人は世界の列強国と肩を並べようとして『自分を向上させなくてはならない』などと無理に背伸びをしているが、それによって自分の身近にある簡単なこと(例えば猫の姿かたち)すら分からなくなっているじゃないか。それは残念なことだ。」 となるかもしれません。 ここでは「吾輩」を、失われつつあった江戸文化や日本古来の良き物の代弁者としていると考えることもできるでしょう。ただし作品全体としては、苦沙彌先生や美学者の迷亭君を始めとする主人公たちが江戸文化や日本古来の良き物の代弁者として描かれており、それに対して実業家の金田氏と奥さん、そして鈴木藤十郎君(苦沙彌先生と迷亭君の同級生だった)や多々良三平君(苦沙彌先生の教え子)が欧米的な考え方の代表者です。 この作品は気軽に書いた雑文として雑誌に発表されましたが、好評を得て連載を続けていくうちに、この二者(日本的なものと欧米的なもの)の対立がテーマとなっていきました。高度化した金融システムの崩壊による影響を実感している、現代にもつながるものを感じさせる部分もありますね。読み進めていくと確かに楽しい作品なのですが、ラスト近くにある「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」とある一言に深刻な印象を感じることができます。 つい長くなってしまいましたが、ご参考になれば幸いです。
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「○○とか何とかいって」は、○○とか、それに類する他の言葉(何とか)を言っている、ということです。口語的な、くだけた表現です。 「言っている」というのは声に出して言うのではなく、頭の中(意識の中)で、それらの言葉のもつ観念にとらわれてしまっている、その結果、本質的なものを見失っている、という意味が暗に含まれていると思います。 類似する表現としては「お題目を唱える/お題目とする」という言葉があります。言葉だけで必ずしも内容が伴っていないことを"お題目"といいます。 向上というお題目を唱える。というと、向上したい、向上する、ということを言うということですが、言ったり、思ったりする"だけ"で、実際に何か"向上する"ための行動をしないという意味を含むことがあります。 麻生総理は、経済対策をお題目にしている(が、何もしていない)。 麻生総理は、経済対策とか何とかいって、政権の座に居座っている。 末(すえ)はこの場合、細部、こまいかいところ、という意味にとってよいと思います。瑣末とか末端に通じる表現ですね。 猫という認識はあっても、別の猫との見分けができないのではないか、ということでしょうね。 現代の言葉では、そのような意味で「末」を使うことはないと思います。末というと時間的なものと捕らえるほうが多いのではないでしょうか。月末とか末期のように。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。わかりやすいと思います。本当にありがとうございました。
- hakobulu
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1.「向上とか何とかいって」はどういう意味でしょうか。 :文全体の骨子としては、 「頭だけで考えることは熱心だが、地に足がついた堅実な考え方ができていない。」 ということでしょうね。 当時のいわゆる文化人に対する漱石の社会風刺が込められているのでしょう。 「頭→上→空」ばかりに気を取られている、ということです。 『「向上することが大事」とか、「もっと勉強しなくては」とか、「もっと立派にならなくては」とか言って』 というようなニュアンスになると思います。 2.「末」は何と読むでしょうか。どういう意味でしょうか。 :「すえ」で良いでしょう。 「絵になった結果」という意味ではないかと思います。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。理解できたように思います。本当にありがとうございました。
- born1960
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向上心という言葉がありますね。 常に自分の能力などをより優れたものに使用とする心です。 で、決して上を(空を)見ていれば心も上向くってことじゃないのですが、下(地面)ばかりみて行動していても、あまり姿勢もよくないですし、心も上向きません。ただし・・・落ちているお金を拾うことは出来ますが(笑) そういうことを皮肉的に書いていると思います。 「末」はたぶん「すえ」と読むと思いますが、「相貌」とは「姿かたち・容姿」って意味なので、「相貌の末」で「顔や体の隅々まで」って意味になるのかも・・・私も自信がないです。 「人間の目は(上を向けばいいってことでもないのに)向上心とか何とか言って空ばかり見ているものだから、(足元にいる)吾輩の性格はもちろんのこと、どんな顔や身体をしていることかをみわけることすら、まず出来ないことは気の毒だ」ってことになると思います。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。大変参考になりました。本当にありがとうございました。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。時代背景を紹介していただき、外国人の私にとって大変助かりました。とても面白い作品のようで、最後までがんばりたいと思います。ご親切に教えていただき誠にありがとうございました。