- ベストアンサー
「こころ」の「上三十六」
日本語を勉強中の中国人です。夏目漱石の「こころ」の中国語版を読み終えました。いま日本語版を読んでいるところです。「上三十六」の中に理解できないところがありますので、お伺いしたいと思います。原文が載っているサイトは次の通りです。ご参考になさってください。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html 1. 私(わたくし)はその翌日(よくじつ)も暑さを冒(おか)して、頼まれものを買い集めて歩いた。 ここの「買い集めて歩いた」はどういう意味でしょうか。 2.私は全く弱らせられた。 ここの「弱らせられた」はどういう意味でしょうか。 3.私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡(りょうけん)が解(わか)らないというよりも、その言葉が一種の滑稽(こっけい)として訴えたのである。 ここの「訴える」はどういう意味でしょうか。 4.一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。 「一度などは」はどういう意味でしょうか。 5.私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。 「自分が自分に気の変りやすい軽薄もの」はどういう意味でしょうか。 6.(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢(はか)ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。 (1)「控える」はどういう意味でしょうか。 (2)「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた」はどのように理解するでしょうか。ここの「軽薄」はどういう意味でしょうか。ここの「果敢ない」はどういう意味でしょうか。 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願い致します。
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
4以降について、多少ご見解が割れているような気もしますので、今さらですが多少私見を述べてみます。 4.一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。 「一度などは」はどういう意味でしょうか。 : #1さんおっしゃるとおり、「一例を挙げる時に用いる慣用句」です。 この文は、直前の二文も含めて、一つの塊としてお考えになるとご理解の助けになるでしょう。 最初の二文は、 「(A)(私は)父はすでに亡くなるべきものと覚悟していた(に違いなかった)」【ので】、 「(B)九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底(とても)故(もと)のような健康体になる見込みのない事を述べた。」 という関係にあります。 次に、同じく、 「(A)(私は)父はすでに亡くなるべきものと覚悟していた(に違いなかった)」【ので】、 「(C)一度などは(=ある時は)職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。」 と続きます。 つまり、「A に関する対応の一例」として C は述べられていることになります。 ですから、C が無い場合を考えると、 「そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。【一度などは】九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底(とても)故(もと)のような健康体になる見込みのない事を述べた。」 という文も成立します。 しかし、ここでは B と C の二文が続いています。 作者は、B よりも C のほうに「A に関する対応の一例」として強い意味を持たせたいために、C で「一度などは」を使っているわけです。 ここの解釈に勘違いが生じやすいのは、書き手である漱石の読点の打ち方にも責任の一端があるでしょう。 本来であれば、 「一度などは、職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。」 のように最初の読点を打つべきです。 『一度などは、「職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだ」とまで書いた。』 ということで、「」内が実際に手紙に書いた内容になります。 5.私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。 「自分が自分に気の変りやすい軽薄もの」はどういう意味でしょうか。 : ここの「軽薄」は、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/58116/m1u/%E8%BB%BD%E8%96%84/の、 (1)言動に慎重さを欠いて、誠意や真実みの感じられないさま。考えが浅くて信頼できないさま。 だろうと思います。 特に「言動に慎重さを欠いて、誠意や真実みの感じられないさま」でしょう。 では、なぜそのように思ったのでしょうか。 直前の 「一番心配しなければならない地位にありながら、~。~。~。できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。」 という箇所を良くお読みになるとお分かりのように、これは、 『父親の死を避けられないものとして冷静に受け止めている』 また、 『父親がまだ生きているのに父の死後を想定している』 内容です。 「父親自身の、死に対する怖れや哀しみ」を共有してあげようとする気持ちは全くと言っていいほどありません。 つまり、「父親に対する優しさ、思いやり」が存在していないわけです。 であるのに、 「その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定(さだ)めて心細いだろう、我々も子として遺憾(いかん)の至(いた)りであるというような」 いかにも道義的な人間であるかのようなことを言ったりしました。 この背反的な二面性に気がつき、それを「軽薄」と表現したのだと思います。 6.(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢(はか)ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。 (2)「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた」はどのように理解するでしょうか。ここの「軽薄」はどういう意味でしょうか。ここの「果敢ない」はどういう意味でしょうか。 : a.ここの「軽薄」も、上と同様で、 (1)言動に慎重さを欠いて、誠意や真実みの感じられないさま。考えが浅くて信頼できないさま。 だろうと思います。 ただ、上と若干違うのは、「考えが浅くて信頼できないさま」にも重点が置かれていることでしょう。 b. 「私は人間を果敢(はか)ないものに観じた」 の「果敢ない」は、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/154145/m1u/%E3%81%AF%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84/の、 (4)大したものでない。取り立てるほどのものでない。 でしょう。 「身近なものが死ぬことがわかっていても何の役にも立てない」 ということを指しています。 次が大事ですが、 『私はまた先生夫婦の事を想(おも)い浮べた。~。~。この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢(はか)ないものに観じた』 は一つの塊として捉えるのが適切です。 つまり、 「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた」の「果敢ない」は、上とは少し別の意味(さらに敷衍された意味)が意図されています。 これは、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/154145/m1u/%E3%81%AF%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84/の、 (1)消えてなくなりやすい。もろくて長続きしない。 (2)不確かであてにならない。実現の可能性が乏しい。 (3)何のかいもない。無益だ。 (4)大したものでない。取り立てるほどのものでない。 (5)思慮・分別が十分でない。愚かだ。 (6)みすぼらしい。卑しい。 の全てを含む複合的意味だと思います。 人間は、全ての生態系の頂点に立つ優れた生き物のように振舞っているが、 父親が死のうとしているのに、何の役にも立てないどころか、偉そうなことを言って善人ぶっている「私」のように、 全く愚かで、卑しく、何とも当てにならない不確かで虚しい存在だ。 といったような述懐でしょう。 「私」がそうだからといって人間全てがそうである、というのは飛躍しすぎかもしれませんが、しかし、それ(人間すべてがそうである、ということ)はおそらく事実でしょう。 「私」にはそれが良くわかっていたわけです。 漱石は晩年、「則天去私」という考え方に辿りつきますが、当初から常に自我と人間の精神性との葛藤や矛盾について探求し続けた作家です。 ここは、「私」の口を介して、自らの思想を述べた箇所のひとつでもあるのでしょう。 不明点はさらに補足なさってみてください。
その他の回答 (9)
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#9です。 >『この「私」の例のように、人間というものは、「心に浮かぶまま」の純粋で正しいと思われる言動でも、単に自我を発揮したいだけの場合が案外多い。』 ということを「私」の口を介して漱石は言わせているのだと思われます。 「私」の例から見れば、「自我を発揮したい」とは具体的にどういうようなことでしょうか。「自分が偽善者面をしている」ということを指すでしょうか。 : おっしゃるとおりです。 まず訂正があります。^^;またかよ・・・(-_-;)。 「偽善者面」は間違いで、「善人面」が正しい表現です。 もう諦めているでしょうが、申し訳ありません。 「私は実際心に浮ぶままを書いた」 わけですが、 「心に浮かぶまま」の内容が、取りも直さず「偽善(=善人面)」であったことに気づいたわけです。
お礼
度々ありがとうございます。わかりました。いろいろ大変参考になりました。お疲れ様でした。文学カテでまた質問させていただきますので、興味があれば、ご覧になってください^^。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#7です。 1、 >『この「私」の例のように、人間というものは、「心に浮かぶまま」の純粋で正しいと思われる言動でも、単に自我を発揮したいだけの場合が案外多い。』 ということを「私」の口を介して漱石は言わせているのだと思われます。 ご説明の中にある「自我を発揮したい」という言葉はどういう意味でしょうか。 : 「(他人の気持ちなどを無視して)エゴを押し通す」といったようなことです。 K に対しても「そのような事をしてしまった」と先生は思っており、それがこの作品の主題になっています。 2、 >『私はまた先生夫婦の事を想(おも)い浮べた。ことに二、三日前晩食(ばんめし)に呼ばれた時の会話を憶(おも)い出した。 「どっちが先へ死ぬだろう」 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然(はっきり)分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外(ほか)に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。』 上記の先生夫婦の事の文字で何を説明したいのでしょうか。「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄」と何か関係があるでしょうか。 : 「上記の、先生夫婦間の会話に言及している箇所では何を説明したいのか」 と言えば、 『「果敢なさ」に関して、「人間の無力さ」という【狭い意味】をまず示す』 意図があるのではないかと思われます。 そして、 「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。」の「果敢なさ」で、 「人間の愚かさ・もろさ・虚しさなど」という【深い意味】にまで発展させているわけです。 このように、【狭い意味】→【深い意味】と並べることによって、 音楽で言えば「クレッシェンド」的な効果が生じ、「人間の愚かさ・もろさ・虚しさなど」といった【深い意味】を、より印象的に表現しているのではないかと感じます。 ◇ (ア) 夕方、急に雨が降り出した。 退社して駅に降り立つと、母がわざわざ傘を持って迎えに来てくれていた。 私を気遣ってくれる母の気持ちが本当に[うれしかった(b)]。 (イ) 夕方、急に雨が降り出した。 退社して駅に降り立つと、母がわざわざ傘を持って迎えに来てくれていた。 多少の雨なら、いつもは傘など使わずに駆けて帰るのだが、今日は土砂降りだったので、傘が使えるのは[うれしかった(a)]。 私を気遣ってくれる母の気持ちが本当に[うれしかった(b)]。 上の2つの例文で、 aの[うれしい]は、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/17843/m1u/%E3%81%86%E3%82%8C%E3%81%97%E3%81%84/の、 (1)(望ましい事態が実現して)心がうきうきとして楽しい。心が晴れ晴れとして喜ばしい。 です。 「望ましい事態」とは、「土砂降りのときに傘が使える」ということです。 bの[うれしい]は、 (1)だけではなく、 (2)満足して、相手に感謝する気持ちになるさま。ありがたい。かたじけない。 という意味も含まれているはずです。 つまり、「 a の [ うれしかった ] 」<「 b の [ うれしかった ] 」ということができると思います。 そこで、この 「b の[うれしかった]」が、より印象的に読者に伝わるのは、(ア)と(イ)のどちらでしょうか? 基本的には(イ)のほうではないかという気がします。 並立させることによって【<[クレッシェンド記号のつもりです]】効果が醸成されるように思うからです。 私の例文が適切とは言えないかもしれないので、わかりづらいかもしれませんが、漱石は、このような効果を狙ったのではないかという気がするわけです。 多少趣味的な解釈かもしれませんが、そのように捉えると奥の深い表現となるでしょう。
お礼
度々ありがとうございます。「自我を発揮したい」は理解できました。「クレッシェンド」的な効果もわかりました。ただし、すみません、追加質問はまだ終わっていません(^^;)。
補足
>『この「私」の例のように、人間というものは、「心に浮かぶまま」の純粋で正しいと思われる言動でも、単に自我を発揮したいだけの場合が案外多い。』 ということを「私」の口を介して漱石は言わせているのだと思われます。 「私」の例から見れば、「自我を発揮したい」とは具体的にどういうようなことでしょうか。「自分が偽善者面をしている」ということを指すでしょうか。
4について意見が割れていますが、 “「一度」に「一回」という回数の意味があるのは見落とせない” とだけ言っておきます。 例えばお花見で今まで何度か徹夜していたら「一度などは」は不適当ということです。その場合は「一度ならず」になりますね。 5,6については語釈だけではすまない問題なんで、自分なりに漱石が主人公のことばを借りて言っている人間の性質みたいなものについて考察する必要があるのだと思います。 つまり「mizuumiさんが疑問に思っていることは小説の中からみつけろ」ということではないでしょうか。 漱石の言っていることになっとくがいかない、というのもひとつの答えと思います。
お礼
再びありがとうございます。ご意見は大変参考になりました。本当にありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#5です。 > なぜ『それ(人間すべてがそうである、ということ)はおそらく事実でしょう。「私」にはそれが良くわかっていたわけです』でしょうか。 : こういう補足質問が来るような気がしていました。^^ 「人間は、全く愚かで、卑しく、何とも当てにならない不確かで虚しい存在」という一面を持っている、ということは事実です。 「私」は、父親の死に直面しての自らの言動で、その事実に気づきました。 「父親の死に際しての私の(愚かな)言動」というのは、あくまで「私」にとっては、人間の愚かさのひとつの象徴として感じられたはずです。 「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄」とは多様な愚かさでしょう。 もう少し説明してみます。 『(兄への手紙で)私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。 私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。』 と「私」は言います。 「心に浮かぶまま」ですから、「純粋で素直な、老親に対する心配り」と評価しても良さそうです。 しかし、「書いたあとの気分は書いた時とは違って」いました。 「私」はこれを「矛盾」と捉えて考えました。そして、 「職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだ」 「年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定(さだ)めて心細いだろう、我々も子として遺憾(いかん)の至(いた)りである」 というような兄への文言は、実は、「父親の死に際」という舞台を利用して、自分が偽善者面をしているだけなのだ、ということに「私」は気づきました。 だからこそ、「私は不愉快になった。」わけです。 (単に無力であると感じただけでは不愉快になることはないでしょう。 また、「矛盾」と捉える必要もありません。) 『この「私」の例のように、人間というものは、「心に浮かぶまま」の純粋で正しいと思われる言動でも、単に自我を発揮したいだけの場合が案外多い。』 ということを「私」の口を介して漱石は言わせているのだと思われます。 「私」は、自分の例から、人間全般に「似たようなこと」がある、ということに思い至ったわけでしょう。 「親が亡くなる時に人間は全て同じような言動をする」という意味ではありません。 ◇ 考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。 『私はまた先生夫婦の事を想(おも)い浮べた。ことに二、三日前晩食(ばんめし)に呼ばれた時の会話を憶(おも)い出した。 「どっちが先へ死ぬだろう」 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然(はっきり)分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外(ほか)に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を果敢(はか)ないものに観じた。』 人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 上の『』内はあくまで挿入部分だと考えたほうが良い、ということは前回述べました。 つまり、この箇所の本意は、 「考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。 人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。」 という部分ではないかということです。 まず、 「私は人間を果敢(はか)ないものに観じた。」の「果敢なさ」で、「(#6さんおっしゃるところの)人間の無力さ」という意味を示しておいて、 「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。」の「果敢なさ」で、 「人間の愚かさ・もろさ・虚しさなど」という意味にまで発展っせているわけです。 二つつなげることで、音楽で言えば「クレッシェンド」的な効果が生じ、「人間の愚かさ・もろさ・虚しさなど」を印象的に表現しているわけで、漱石のテクニックであるように感じます。 ただし、このへんはあくまで私見です。 確信があるわけではありません。 不明な点がございましたらお手数ですが、また補足してみてください。 文学カテでご質問なさってみるのも面白いかもしれませんね。
お礼
度々ありがとうございます。わかったような、わかっていないような、どうやら難しいらしいです。もう少し考えてみます。
補足
>『この「私」の例のように、人間というものは、「心に浮かぶまま」の純粋で正しいと思われる言動でも、単に自我を発揮したいだけの場合が案外多い。』 ということを「私」の口を介して漱石は言わせているのだと思われます。 ご説明の中にある「自我を発揮したい」という言葉はどういう意味でしょうか。 >『私はまた先生夫婦の事を想(おも)い浮べた。ことに二、三日前晩食(ばんめし)に呼ばれた時の会話を憶(おも)い出した。 「どっちが先へ死ぬだろう」 私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然(はっきり)分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより外(ほか)に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。』 上記の先生夫婦の事の文字で何を説明したいのでしょうか。「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄」と何か関係があるでしょうか。
- ha dooo(@hadooo)
- ベストアンサー率34% (17/49)
4.「一度などは」というのは、「極端な例をあげるとあるときは、」と言い換えられるでしょう。 5.「自分が自分に」とは、「自分のことが、自分にとっては、」という文を縮めたものと考えることができます。「が」と「に」が確かに含まれているでしょう。 6.人間がなぜ元々軽薄か、について、例えば、「父が死にそうだ」といって悲しんで泣きわめき、大騒ぎをしたら父が死ななくて済む、というのなら、誰だってそうするでしょう。しかし、そんなに騒いだところで、父の寿命には何の関係もないわけです。だからこそ、「私」は父の死が苦にならないのです。苦にしてもなんの効力もないからです。 先生と奥さんも同じでしょう。「奥さんが先に死ぬ予定です」ということを知ったからといって、寿命を延ばす手段もなく、結局いつもどおり暮らすしかないのです。全くの無力ですから。 親しい者の死を心配はするし、不安にも陥り、感傷的にもなりますが、それらの行為があまりに無効力であることをも人間は知っています。そのため、悲しみや嘆きが自然に自分から去ってしまうのです。これが「私」の感じた「軽薄さ」、「気の変わりやすさ」でしょう。 人間の無力がときに自分にもたらすあきらめ・無関心を、「どうする事もできない持って生まれた軽薄」と「私」はいっているのでしょう。 回答No.4の方のご意見とは反しますが、私は以上のように考えます。
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。よくわかるようになりました。大変助かりました。本当にありがとうございました。
- sanori
- ベストアンサー率48% (5664/11798)
sanoriです。コメントにお答えします。 >>>4についてですが、「一度などは」と後ろの「一度顔だけでも」の「一度」は重複しているのではないでしょうか。 いえ。重複していません。 「一度などは職務の都合もあろうが」は、仕事の都合が「一度」。 つまり、「仕事の都合でいけないことは一度はあるだろうが」という意味です。 「この夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだ」は、父母のところへ行くのが「一度」。 つまり、「この夏だけでも、一度実家の父母に会いに行ったらどうだ」という意味です。 >>>5についてですが、「自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た」の中の「自分に」の「に」はどういう意味でしょうか。 通常、このような「に」の使い方は、あまりしません。少なくとも私には違和感があります。 1つの文の中に「自分」が2つあって、どちらも主語になるので、区別する意味で「が」と「に」を使っています。 わかりにくいので、1つ目の「自分」と2つ目の「自分」を、AさんとBさんにします。 「AさんがBさんに気の変りやすい軽薄もののように思われて来た」 この文を2つに分けると、 「Aさんが気の変りやすい軽薄もののようだ」 と 「Bさんに思われて来た」(=Bさんは思った) になります。 つまり、「に」は「Bさんに」という主語を作るための助詞で、意味としては「が」や「は」と同じになります。 「が」が2つあるとおかしいので、片方を「に」にしたのでしょう。 上に、「通常、このような「に」の使い方は、あまりしません。」と書きましたが、では通常はどう書くかといえば、 「自分で自分のことが気の変りやすい軽薄もののように思われて来た」 (BさんはAさんのことが気の変りやすい軽薄もののように思われて来た」 となります。 >>>6(1)についてですが、この「控える」はまだよくわかりません。「お客様控え」や「××係控え」の「控え」はどういう意味でしょうか。 領収書を例に取りましょう。 たとえば、山田さんがお店で1000円の買い物をしたとき、 お店が1000円の領収書を山田さんに渡すとします。 このとき、お店の方も、山田さんに領収書を発行した証拠を手元に残す必要があります。 1枚目の紙に「山田様 1000円」とボールペンで書いたとき、 2枚目の紙にその字がそのまま青く写ります。 1枚目を山田さんに渡して、2枚目はお店で保管します。 この2枚目の紙のことを「控え」と言います。 このことからわかるとおり、「控える」は「残す」や「置いてくる」の類義語です。 >>>6(2)についてですが、この文はまだよく理解できません。なぜ人間なんて元々軽薄なものなのでしょうか。 この小説の主人公の主観です。 「主観」というのは、その人が勝手に決め付けていること、勝手に思い込んでいることです。 「人間は元々軽薄だ」などと考える人が、この世の中の大多数ではないことは、もちろんのことです。 ですから、湖さんが疑問に感じたのも無理はありません。 夏目漱石は、主人公に「人間なんて元々軽薄だ」という決め付けを語らせることによって、 文を少しユーモラスにする効果を狙っていると思います。 ちなみに、 コメディアン(お笑い芸人)でも、物事を勝手に決め付ける台詞で笑いを取る芸風の人がいますね。 以上、ご参考になりましたら幸いです。
お礼
追加質問をご丁寧に回答していただきありがとうございます。だいぶわかるようになりました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。
4についてですが 最初の「一度などは」は 〈私は一度手紙を書いた事まである〉 という意味です。 書き直すなら 私は一度「職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだ」という手紙を書いた事まである。 ということ。 最初の「などは」は強調の意味で、上の例文の「まで」にあたる。 5,6 一度は「もう長くないから早く会いにいっておけ」とまで兄弟に手紙を書いたのに、そんな(自分でものすごい思い入れをして芝居がかって重大と書いていた)ことを、書いてしまったらいつのまにかすっかり忘れているのを指して「軽薄」と言っている。 けれども主人公は忘れてしまうのを人間に元々備わっている性質とも思っている。 ここでの「はかない」は(宇宙に対して)弱くて小さい短期間の存在への肯定、感動、感傷。(私の解釈) 「自分に」の「に」は「には」 5と6の軽薄は同じ。だけど肯定的な解釈をあとのほうは見せている。
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。4はよくわかりました。大変参考になりました。すみません、5と6はまだよくわかりません。
- sanori
- ベストアンサー率48% (5664/11798)
湖さん、こんにちは! お答えします。 1.ここの「買い集めて歩いた」はどういう意味でしょうか。 ⇒ 「(あちこちの店で)いろいろな物を買った」という意味です。 2.ここの「弱らせられた」はどういう意味でしょうか。 ⇒「困らせられた(困った)」という意味です。 日本人は困ったときに、よく「弱ったなー」という表現を使います。 3.ここの「訴える」はどういう意味でしょうか。 ⇒「思わされる(思う)」「心に響く」という意味です。 4.「一度などは」はどういう意味でしょうか。 ⇒「1回ぐらいなら」という意味です。 5.「自分が自分に気の変りやすい軽薄もの」はどういう意味でしょうか。 ⇒「自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。」までを一組で考えないといけませんね。 「自分で自分のことを、不誠実で考えの浅い人間だと思うようになった」という意味です。 6. (1)「控える」はどういう意味でしょうか。 ⇒「残す」「置いてきている」という意味です。 つまり、お父さんのいるところから、自分が離れているということでです。 注文書、伝票、領収書などで、「お客様控え」や「××係控え」というのがありますが、その「控え」と似た感覚です。 (2) ここの「軽薄」はどういう意味でしょうか。 ⇒「軽薄」は上述したとおり「不誠実で考えが浅い」という意味です。 ここの「果敢ない」はどういう意味でしょうか。 ⇒ 「果敢ない」は色々な意味がありますが、この文章においては「当てにならない」という意味になります。 「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた」はどのように理解するでしょうか。 ⇒「人間が先天的に持ってしまった軽薄さは(当てにならないものだから)しょうがないものだと静観した」 ⇒(人間なんて元々軽薄なものだから、しょうがないと思うしかない) >>>また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願い致します。 1. 「どのように理解するでしょうか。」は 「どのように理解すればよいでしょうか。」に直すべきです。 2. 現代の日本語では、「おねがいいたします」は、通常「致」を漢字で書かずに「お願いいたします」と書きます。 とはいえ、日本人でも漢字にしてしまう人は多いですが。
お礼
さのりさん、こんばんは^^。ご親切に教えていただきありがとうございます。大変参考になりました。まだよくわからないところがありますが、もう一度教えていただけないでしょうか。
補足
4についてですが、「一度などは」と後ろの「一度顔だけでも」の「一度」は重複しているのではないでしょうか。 5についてですが、「自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た」の中の「自分に」の「に」はどういう意味でしょうか。 6(1)についてですが、この「控える」はまだよくわかりません。「お客様控え」や「××係控え」の「控え」はどういう意味でしょうか。 6(2)についてですが、この文はまだよく理解できません。なぜ人間なんて元々軽薄なものなのでしょうか。
- chie65536(@chie65535)
- ベストアンサー率44% (8740/19838)
>ここの「買い集めて歩いた」はどういう意味でしょうか。 「買い集めた」+「買い歩いた」=「買い集めて歩いた」 つまり「買い集めるために、歩きまわった」と言う事。 >ここの「弱らせられた」はどういう意味でしょうか。 日本語では「困った事になった」のを「弱った事になった」と表現する事があります。 なので「困らせられてしまった」と言う意味になります。 >ここの「訴える」はどういう意味でしょうか。 日本語では「心にひびいてきた事」や「心に影響を与えてきた事」を「心に訴えてきた」と表現する事があります。 「その言葉が一種の滑稽(こっけい)として訴えたのである。」は「その言葉が一種の滑稽(こっけい)として、心に訴えたのである。」と「心に」が省略されています。 「その言葉が一種の滑稽(こっけい)として、心にひびいたのである。」と言うのが理由で「読んだ時に笑い出した。」のです。 >「一度などは」はどういう意味でしょうか。 一例を挙げる時に用いる慣用句。 「桜の花が好きだ。余りにも好き過ぎて、一度などは、見惚れて朝から晩まで桜の木の下から動かない事もあった」などと用います。 「例えばある時」と同じ意味になりますから、上の文章は「桜の花が好きだ。余りにも好き過ぎて、例えばある時は、見惚れて朝から晩まで桜の木の下から動かない事もあった」と言い換え出来ます。 >「自分が自分に気の変りやすい軽薄もの」はどういう意味でしょうか。 この文章は、もっと前の部分から繋がっています。 「考えているうちに自分が『○○○』のように思われて来た。」のです。 そして「○○○」は「自分に気の変りやすい軽薄もの」なのです。 この文章の構造は「考えているうちに『自分が自分に気の変りやすい軽薄もの』のように思われて来た。」ではなく「考えているうちに自分が『自分に気の変りやすい軽薄もの』のように思われて来た。」です。 文章を「自分が自分に気の変りやすい軽薄もの」として捉えてしまうと、日本人でも意味不明で読めない文章になってしまいます。 >(1)「控える」はどういう意味でしょうか。 「○○に控えて」と使った場合にだけ特別な意味を持つ慣用表現。 「○○を国元に控えて」は「○○を故郷に残して」と言う意味。 「仲間を後ろに控えて」は「仲間を後方に待機させて」と言う意味になる。 >ここの「軽薄」はどういう意味でしょうか。 人に対して「軽薄」と言うと「言葉や態度が軽々しくて、思慮の深さや誠実さが感じられないこと」 を意味します。 >ここの「果敢ない」はどういう意味でしょうか。 「はかない」と読み、別の字で「儚い」とも書きます。 但し「果敢ない」と「儚い」では、ニュアンスが微妙に違います。どう違うかは、日本人でもちゃんと説明するのは難しいです。 日本の歌謡曲で「果敢ない」を「かかんない」と歌っている曲がありますが、これは間違いです。 「果敢」のように「送り仮名が無い場合」には「かかん」と読みます。 が「果敢ない」のように「送り仮名が有る場合」には「はかない」と読みます。 意味は「消えてなくなりやすい」「もろくて長続きしない」「頼りない」などですが、ここでは「頼りない」の意味が一番近いです。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。大変参考になりました。まだすっきりしていないところがありますが、もう一度教えていただけないでしょうか。
補足
4についてですが、「一度などは」と後ろの「一度顔だけでも」の「一度」は重複しているのではないでしょうか。 5についてですが、「自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た」の中の「自分に」の「に」はどういう意味でしょうか。 5の「軽薄」と6(2)の中の「軽薄」は同じ意味でしょうか。
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。意見が割れていて、混乱中です。4、5は理解できるようになりました。大変助かりました。6(2)についてまだよくわかりませんので、もう一度教えていただけないでしょうか。
補足
6(2)についてですが、 >a.ここの「軽薄」も、上と同様で、 (1)言動に慎重さを欠いて、誠意や真実みの感じられないさま。考えが浅くて信頼できないさま。 だろうと思います。 ただ、上と若干違うのは、「考えが浅くて信頼できないさま」にも重点が置かれていることでしょう。 「人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた」の中の「軽薄」はなかなか理解できません。なぜそれは「人間のどうする事もできない持って生まれた」と言い切るのでしょうか。説明していただけないでしょうか。 >「私」がそうだからといって人間全てがそうである、というのは飛躍しすぎかもしれませんが、しかし、それ(人間すべてがそうである、ということ)はおそらく事実でしょう。 「私」にはそれが良くわかっていたわけです。 なぜ『それ(人間すべてがそうである、ということ)はおそらく事実でしょう。「私」にはそれが良くわかっていたわけです』でしょうか。