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茶道と禅
茶道を通じて禅、精神修養をしたいと思っています。 茶道に「守・離・破」というのがあって、まず基本、次に体得、そして自由自在というプロセスです。 [自由自在]本当の自由になれたら、今はほど遠いですが。 茶道と禅でお奨めの著書を教えてください。 久松真一を今は読んでいます。
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- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
茶道も禅も突き詰めた場合には『同じところに行き着きます』その至る所は『道』です。この場合の道と言う意味は『人間はいかに生きる事が自由で、安楽になれるのか』と云う事です。 この結論から書くならば『平常心』ですが、この当たり前の心を忘れてしまう事が『鬱の原因になっています』 鬱の原因は『心の矛盾』からです。心の矛盾とは『平常心では無い』という意味ですが、この意味は、意識の固着です。それは『囚われ』です。貴方の場合なら『不安或いは、人生に対する不安や、生や死に対する不安です』 その不安に対して貴方の心は、その不安の除去に勤める事によって『意識が』その方向にだけ向いてしまう事です。それが『意識地獄になっている原因です』 鬱の解消方法はその人によって、或いはその個性によって、数限り無く有ると思いますがその基本は、いくつかに分ける事が出来ると思います。 有効な方法はその段階に縁ってかなりその方法は異なるかもしれませんが、その基本は同じです。 『意識の固着=意識地獄の原因』となっていますので、流れる心=平常心と言う事になる事が治療が完成する事(完治)する事を意味します。 意識(心)が流れる事が完治した姿ですので。その基本だけ書いてみますので後は、貴方が学ぶ事によって完成させてください。 貴方が抱える悩み(症状らしきもの)は本当は実態がありません。貴方は幻の恐怖に怯えている事になります。そういうことが何故起きているのかを書いてみます。 是は一人の人間の脳内(心や精神を形成する要素)には二つの意識が存在するためです。 この二つの意識が仲直りした姿が『道』です。平常心です。禅で言うならば見性する事を意味します。つまり『生死の問題の解決した姿です。』 此処まで来た時に、貴方は鬱が完治した事を意味します。 その基本だけを書いておきます。 二つの方向性が在ります。一つは意識(心)の使い方です。心を自分の『漠然とした不安の解消』にのみ向けている事を止める事です。人間の心は『一つの事』に集中させる時には『心は平常心を失います』 この意味は意識の行き場がなくなってしまうからです。平常心とは『流れる心』と言う意味ですが、此処が分ればもう鬱ではないのですが、此処が分り難いです。 人間の行動や、感情が湧き上がるシステムや、人間の健康は『意識=心』が関知していない時に完成しています。この意味は『人間は二つの意識の交替制から成り立っている事』を意味しています。 つまり人間の『心』に湧き上がる感情は、自我意識とは関係ない人格によってもたらされていると言う意味です。その人格とは『無意識の自分』です。つまり貴方の心の矛盾と言う意味は、『貴方は自分の無意識の自分』と仲違いしていると言う意味です。 人間の感情は『無意識の自分からの情報を貰って、その情報を言葉に翻訳をしてから』感情として味わっている事を意味しています。此処のところを『今の医学は究明できていないことから』鬱に対する完治を宣言できないでいます。 鬱になる原因が分らないままに、治療が開始されている事から『完治する事』の実像が未だ見えていないという意味です。 貴方が完治した姿を書いてみます。貴方には『依然として漠然とした不安は残っています。』がその不安に対して別に有っても無くてもいいジャン。と云う事になっています。つまり症状らしきものを相手にしない態度が出来ています。 その態度が出来た時点から貴方は『症状らしきもの』が意識には上がって来なくなっています。意識には上がって来なくなった時には『その症状らしきものは消滅したこと』を意味します。つまり症状らしきものを忘れ果ててしまうと言う意味です。 意識の固着が只の『湧き上がる雑念』を症状にまで、高めていた事が分るからです。 もう一つの鬱から離れる基本とは、関心の向け方です。自分の好きな事に自分の人生を捧げるのか、或いは自分の嫌な事の除去のなために自分の人生を捧げるのかと言う問題です。 この場合自分を捧げる事の内容が自分以外の場合には『自分の人生は前に転がって行くことになります。それに反して『自分の嫌な事の除去』に関心を向けた場合には、心は同道めぐりになってしまって、悪循環になるかも知れません。 如何いう形をとるにしても、自分が自分を学ぶ以外は方法は無いと思います。 禅を学ぶなら、鈴木大拙博士の著書をお奨めします。私はこの人のお陰で『見性』出来たという思いが在ります。
- yamasht
- ベストアンサー率100% (1/1)
直接的な応えではないのですが、先日、下記のクイズをやっていたら、オススメ本が紹介されていたような。 やってみてください。 http://tankosha.mobi (携帯用みたいです)
- 参考URL:
- http://tankosha.mobi/
- us123
- ベストアンサー率26% (10/38)
久松真一を読まれたら下記の本を進めさせていただきます (読まれていたらすみません) 橋本凝胤 「人間の生きがいとは何か」 1970 講談社 ・・・科学というのは大事なものであるけれど、それ以上に「情緒」というものが大切である 人間性とはいかなるものであるか。われわれは人のために生きているのではない。 社会のためにでも世界のためにでも、世界人類のために生きているわけでもない。 それを世界人類のために生きているような考え方を持たねばならぬように訓練されてきているわけです。(中略) しかしこういうものに、われわれは左右されてはいけないのです。 いつでも一人のときに、一人の生活の中に、道というものが厳然となければならないのです。
大学院で禅の研究をしております。 茶道は門外漢なので分かりませんが、 淡交社から刊行されている書籍は定評があります。 禅については私の師の師に当たる鎌田茂雄先生の 「禅とはなにか」をお勧めします。 専門家が読んでも非常に考えさせられる本です。 一言アドバイス:こだわってはいけません。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
再度の1です。 お辛いのが判りますので、気になって来てしまいました。 その先生も、貴方も誤解していると思うんですが、 茶道、禅は、自己と向き合うという性質のものではありません。 むしろ、その逆で、考えることを止めるんです。 茶道ならば、自己を離れて、動き(作法)と一体になるんです。 日本の心療内科のパイオニアの池見酉次郎という人も、セルフコントロール術として、独自の禅的瞑想術を実際の治療に取り入れていました。 西洋にも自律神経訓練法という禅に似たものがあります。 自律訓練法__http://www.med.kyushu-u.ac.jp/cephal/methods/AT.htm 他にもいろいろあります。 漸進弛緩法__http://www.fetus.org/kit/image/relax.htm#b 数息観____http://homepage1.nifty.com/totukahp/suusoku.htm 軟酥の法___http://homepage2.nifty.com/uoh/hosp/22hakuin.htm スワイショウ__http://www.theholisticisles.jp/topics/topics2.html で、それは、さておきまして、こちらも是非、参考にしてみてください。 http://server343.dyndns.org/utu/index.cgi http://www.ktv.co.jp/ARUARU/search/arutetu/tetu_1.html
- lark2000
- ベストアンサー率0% (0/0)
茶道と禅の両方を経験しましたが、茶道ー>禅は回り道です。 いままで茶道のお稽古で悟った人がいるでしょうか。 禅に興味があるならば単刀直入に禅に進むべきです。 坐禅するならば、それこそ不立文字、本を読んでも駄目でしょう。 面倒をみてくれる坐禅の老師につくのがよいと思います。 自由自在となる近道と思い書かせていただきました。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
再びの1です。 過呼吸ということですが、まず、女性には胸式呼吸の人が多いんです。ラジオ体操の悪影響もあると思うんですが、胸を大きく開いた状態での深呼吸だったり、胸を使っての呼吸です。これは良くないんです。 ですから、ご紹介してます呼吸法を実践して欲しいんですが、しばらくは「呼吸筋群」というのが鍛えられるまでに時間がかかるかも知れません。 コツは下腹部です。 で、まずは、吐き切るところからスタートしてみてください。 お臍と背中がくっつくくらい吐き切るんです。 で、吸う時は、胸ではなく、下腹部に吸い込む感覚です。 そんなに全力でやらなくて、だいたい7割の力でやれば良いんです。コツさえ外さなければ大丈夫です。 この呼吸法をやって、姿勢も正していれば、セロトニン神経というのが鍛えられます。この神経の弱りが過呼吸、パニック障害にも繋がっているとのことですので、本当にお薦めなんです。 「意識して丁寧に」と書きましたが、「自己観察しながら」という表現のほうが当たり適していると思いました。 ヴィパッサナー生活に変えて見てください。(私も頑張ってます)
補足
[茶と禅]などと悠長な事いっていましたが、そんなのはまだ先のことのようです。 主治医からは、後2年ぐらいは単純に断酒に専念して自己と向き合わ作業はしない方がいいといわれました。 まだまだ、アルコールによって侵されたものの回復が先決みたいです。 不安神経症とも診断されましたが、鬱と同じで自分が大好きな人間がなるちょっと滑稽な病だなと。 公的は別として、私的にはまず自分という私です。 自分で自分を縛っているようでは、真の自由など手に入れる事はできませんよね。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
しつこくすいません1です。m(_ _)m 本は是非、ご覧になってください。 禅の道場ですと、脱糞(大便)にも作法があるんですよ。 使う水の量もコップ一杯程度で、指で拭くんです・・・。 歯みがきにも作法があります。 寝床の作り方、寝方にも作法があります。 全ての生活全般を「意識して丁寧に」することが義務付けられているんです。(だ、そうです) おそらく茶道、華道、書道もみんなこの精神なんです。(門外漢ですが) なんでかというと、意識して丁寧にすることで脳を鍛えることが出来るからです。これは現代の生理学者が明らかにしているところです。文章も音読することで脳が活性化してきますし、歩くときも摺り足のように探りながら歩くことで脳に刺激になります。 で、これらの大元になっているのは多分「ヨガ」ですが、お釈迦さまも後世に伝えているのが瞑想と呼吸法なんです。 あと「アナパーナ・ムルサチ」または「アナパーナ・サチ(安那般那)」と言って、出る息、入る息を観察しなさいという教えです。心を込めた丁寧な呼吸をしなさいという教えです。「数息観」としても有名な呼吸法です。私のHNをクリックしてもらえればご紹介している呼吸法もそうです。 中国の「太極拳(簡化二十四式)」というのも、目線から、呼吸から、指の動きから、全ての動きが決められていて、さらに、ユックリと動きますが、これも、同様の生理的効用から来ていると思われます。 ですから、全て「異種同根」と思って間違いないです。 ですから茶道に限定せずとも、普段から、歩行禅のような形も出来ますし、洋式便器では椅子禅も出来ますし、電車の待ち時間に立禅も出来るんです。生活全般をヴィパッサナー方式に出来るんです。茶道の真価もここにあると思います。 身体がアルコールを求めていれば、その感覚に飲み込まれずに、傍観して、解説して、やり過ごすことも出来るんです。 ご参考までに。
補足
眠剤を服用していますが、夜中に目が覚めて困ります。 生活のリズムがなく、好きな時に寝たり食べたり。 追い込んでいく性格で、いつも何かしていないと駄目なので疲れます。 呼吸も過呼吸気味で、それも脳によくないんですよね。 意識的に呼吸法をしないと、改善されないんですね。 今日、書店に行ってみます。 ご親切に感謝します。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
前のご質問が無くなってしまったようですが、ご覧いただけたでしょうか。 『声に出して読む般若心経』. 山名 哲史著 本当に素晴らしい本なので、一応、再度ご紹介しときます。 タイトルは般若心経ですが、禅宗というのも結局はお釈迦さまの仏教の亜種(奇形)なんです。日本に入って来ている仏教はみんな亜種なんです。 ですから、基本的な部分というのは、みんなだいたい共通してますので、そういう意味でもこの本は素晴らしいですし、般若心経とは関係無く、心理学的にも日常生活に活かせる考えですし、表現方法ですから、本当に素晴らしい本です。 例えば「馬鹿!」という文字を見ると、一瞬で血圧が上がって、心拍数も速くなり、奥歯を噛み締め、拳に力が入って、興奮系のホルモンが分泌されてしまいます。「何を~~!」という気持ちになってしまうんです。 つまり、心も身体も「怒り一色」になってしまうんです。 でも、平常心を養うと、身体に反応は出ますが、心まで怒りに染まらないでいられるようになってくるんです。(だ、そうです・・・) つまり、ここに「自由」が出来るんです。 自由とは自分の意思で選択できる状態ですから、この場合ですと、怒り返すことも出来るし、止めることも出来る状態になれるんです。 逆に自由じゃない状態というのは、相手の言葉どおり、怒り一色に染まって、心も身体も怒りという反応に振り回されてしまうことです。 ですから、茶道とか華道、書道なんかの「道」というのは、心の現われなんだと思います。 2時間ドラマなんかでも、殺人事件後の取り調べで、「確かに、あの晩の書は、いつもの先生の書じゃなかったんです・・・」なんてお弟子さんの証言があったりしますが、まあ、そんな感じです。 この本は本当に素晴らしいですよ。
補足
ご回答有難うございます。 個人的な質問をしてしまい失礼致しました。 禅修業も茶道も、一挙一足に定律があり深い意味と合理性があると思います。 頭で考えるだけでなく、体得して精神に影響していくという。 お奨め頂いた著書を是非拝読させていただきます。
補足
説明不足でした、禅中心というより茶道を主にいきたいと思っています。 長い人生でいつか本当の自由というのを得る事ができたらと。 現在は鬱でこれを克服して、あせらず生きていきたいです。 42歳ですが、突っ走って生き過ぎた反動がきていると思います。 立ち止まって内省しなさいという感じでしょうか。