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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《光あれ》という命令法は どういう実態か)

《光あれ》という命令法は どういう実態か

このQ&Aのポイント
  • 光あれという命令法は、三人称の主体に向けて語られているとされています。
  • 一人称に対する命令法は単数形と複数形があり、相手に語る形を採っています。
  • 二人称に対する命令法も相手に語られています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

お礼ありがとうございます。もうおやすみでしたら、お早うございます。 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。 まずこれへの応答がはぐらかされました。補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。 >《両論のバランスを取る》という扱い方も あまり意味を成さないわけなのです。何しろ 仮りの理解であるからです。 受け止めました。 >そしてしかも言語表現の問題としてなら ひとつの可能性と言いますかひとつの表現形式をえらび それに徹して仮りの理解を得られるようにと文章をはこんで行く。こういう作業をした結果が いまの聖書です。 言いかえると 表現形式は いろんなやり方がありうる。こうなるはずです。聖書記者は そのひとつをえらんだ。だけのことだと言えると思います。 承知しました。 >つまり そういう別の可能性の線で それぞれが自分の表現物語を著わそうと試みればよいわけです。 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。 >ちなみに 旧約聖書は いまのかたちに成ったのは ふたつまたは三つの記者グループの著わした《聖書》を合わせてまとめたものだと 聖書学では言われています。 そうなんですか。ご教示ありがとうございます。創作に多くの人の思想が関わっているのでしょうね。 >神をエローヒームという言葉で表わすグループ(エロヒスト派)と 同じくヤハヱーと表わすグループ(ヤハヰスト派)。さらにもうひとグループを加える見方も提出されているようです。 神は言われた。「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。 >グループどうしの間では いくらか・またはかなりの程度で互いにいわゆる文体が違うと見られています。違うから そういう区別を見つけることが出来たというようです。 なるほど。内容の齟齬はないのでしょうか? >たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。男と女とを造ったと書いている箇所と 男のあばら骨から女を造ったと書いている箇所とです。そういう事例があるようです。 こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、合成したものだから仕方ない。あるいは表現は違うが意味しているものは同じ。一般にはどちらかに受け止められているという傾向はあるのですか? >☆ ええ。そういう可能性からの描き方・著わし方もあるわけです。いまの聖書は それらをとうぜん排除などはしていません。 ということはそのような表現も見られるということですか? >☆ あぁ。いいことを言ってくださった。つまり まさにそういう《表現の問題》なのであって であるからには 《書かれたものが 歴史事実である》という説にしがみついていることは出来ない。さりとて まったくの表現の問題であるに過ぎないと言い切ってしまうわけにも行かない。 《表現の問題》が重要なんですね。それにどう切り込んでいけばいいのでしょう。表現そのものについての考察はいくらかして、一仮説として、自己は表現者だと捉えています。それに、自らアマチュア表現者であった経験から、具体的表現がどうこうは芸術表現に多少意見するものがあります。 >ええ。 このことを――実際には うりが・・・さんという人にですが――はっきりと証明したかったことなのです。少なくとも 或る程度の信憑性をもって説明してやりたかった。そういうことなのです。まさに この《いくつかの表現可能性としての聖書》 これが この質問で問い求めていた着地点です。 この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか? つまり、先ほどの 《表現の問題》にも関わりますが、現象(現された)したものについて、受け止め、自分なりの意味を 通して表象(表す)することが多様な可能性をもっているというような。 > またまた あともなどすさんにファイナルタッチを打ち出してもらった恰好です。 ファイナルアンサーではなくタッチ(?) >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」  ☆ ええ。そのように答えるはずです。 聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。 > ★ だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。  ☆ これはすでに触れて来ました。可能性のひとつとしてそれに徹して試みた表現のまとまり これが 仮りの理解を得させるはずです。ゆえに 《有用》なのです。 神への仮りの理解が《有用》なのですか?どんな風に有用なんでしょう。これがいまいち分かりません。 >《有る神》と《無い神》 理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。それが人間の浅はかさということでしょうか。 > こういうひとつの結論が得られます。これはおおきな収穫です。信仰という信仰は 《非知》なるひとつの神とそれぞれ《わたし》との関係であるとまとめることが出来ます。非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。 そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。 > ☆ これまでのシュウキョウのほうが 勝手に・自分勝手に踊り続けて来たのです。もうそろそろ組織を自己解体して シュウキョウには終止符を打ちましょうと言っています。 自業自得ということですね。シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。つまりせっかくシュウキョウから距離をとって我が身を安全地帯においたのに、またわざわざ危険地帯へと乗り込んでいっているように見えるので。 > シュウキョウの神は 思考と想像の産物であり 観念として言葉だけが踊っているものです。シュウキョウ者は 精神錯乱に落ち入っています。精神錯乱から出発しています。 過激ですね。この対応でよいのでしょうか。個人的平和主義者のぼくとは態度がちがうんですよね。 >このシュウキョウによって わたしたちが嫌な思いをさせられて来たのです。 そんなに嫌な思いがあるのですか。これも独断的ですね。シュウキョウを敵視する態度を表現の上で和らげられないですかね。相手を煽って悪循環に陥っているのではという懸念があります。 そういう面もあるけれど、どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ 《表現の問題》が重要なんですね。  ☆ これは 二つの場合に分かれると考えます。  ひとつは ふつうに直截にあらわす方法とそして広くタトエを用いてあらわす方法とに分けて多様性を捉える場合です。これはいま扱わないでよいでしょう。  もうひとつは いまの場合であり 神という言ってみれば次元の違うナゾの何ものかをも それと同じ次元ではない経験世界における人間の言葉で表わそうとする場合の 表現の形式の問題です。  1. けっきょくこの神を 哲学によって表現し共通の理解を得ようとするかまたは文学として自由に表現するかに分かれると思います。  2. 経験合理性ないしその論理性を基礎として言葉≒概念を一つひとつ定義した上で理論づける哲学として表現する形式と そして広くそのような基礎ないし定義を決めずに自由に言葉を駆使し想像に〔も〕うったえてむしろイメージなどの喚起をおもな狙いとして表現する文学形式とがあり得ます。  3. そしていづれにしても 神を人間がその言葉で表わそうとするのは あくまで仮りの代理表現としてであります。補助線を引くだけの作業です。    4. そして補助線は およそ多種多様です。あらゆる可能性が試みられます。分かりやすい例を持ち出すなら 広く文学なる自由形式をさらに伸ばして 言葉を超えた表現形式としての絵画・音楽といった芸術による表現があります。  5. これらを内容とする《表現の問題――表現形式の多様性の問題――》を漠然と着地点として思い描いていたわけですが そこへとみちびく《ファイナル・タッチ》を打ち出してもらった。こういう意味です。  すなわち  ★ ファイナルアンサーではなくタッチ(?)  ☆ というときには そういう説明になると思います。  ★ 《表現の問題》・・・にどう切り込んでいけばいいのでしょう。  ☆ 今度の【Q:「これ」に意味があるのか?】には投稿しようと思います。  ★ この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか?  ☆ うりが・・氏に対するものとしては 単純に《聖書が文字通りの史実を書いたというのは 一面的な受け取りである》と示し得ればよいと思います。  そのほかに多様性としては すでにある書き物についての解釈の可能性と そしてさらになお聖書が書かれ得るという可能性との両方をふくみます。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」   ☆ ええ。そのように答えるはずです。  聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。その可能性がすでに現われているというところまでは意味しませんでした。そのように聞こえたとしたら すみません。言い過ぎだったかも知れません。  ★ ~~~~~~~~~~~   >《有る神》と《無い神》  理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。選び得ることが 《有用》なのだと考えます。《仮りの理解として》に過ぎないとしてもです。  なぜなら 《有る神》にしろ《無い神》にしろ そのようにそれぞれ補助線を引いたゆえに人びとは おのれの非思考の庭のあり方を確かなものとすることが出来るからです。  もっとも広く言わば中立の《神》という言葉だけで・つまりそれだけの補助線で わが信仰が得られたという場合には 有用性が限られてしまいます。  けれどもたぶん 《非知》なる神からこの有神論と無神論とがいづれも互いに同等に――仮りの理解において――みちびかれるという命題は 哲学におけるその種の袋小路を打開することができると考えます。ゆえに 有用である。つまり これは 後ろ向きの有用性ではありますが。そう認識したら もうその問題は終わったというしろものですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ・・・非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。  そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間の浅はかさ》と認識する場合というのは 或る程度その意志行為が有効性を持つ場合だと思うのです。  ところが 《考えるべきオシエをそのまま無条件に受け容れ信じよというシュウキョウ》は その出発点において意志行為が 無効なのではないかと弾劾しています。そういう問題だと理解しています。  ★ シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。  ☆ 放っておくなら 同じほどの危険性があると考えます。  《アルケーの神以外に神はない》と繰り返すだけの自己表現をしか為すことのできない意志行為は 人間が死んでおり ほかの人間をもその墓場にみちびこうとしています。危険です。アルケー教以外には 創価学会・エホバの証人・幸福の科学・あるいは 意志行為を蔑ろにする決定論を説くカルヰニズムなどです。イスラームは 生活感覚としてよく分かるまでには到っていません。  ★ どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。  ☆ 意志行為としての無効に発する人間の思想も行動もみな 死です。可能性ではないわけです。と理解します。

bragelonne
質問者

補足

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。  ☆ これはもう共通の理解に立てたと思ったのですが。  つまり《補助線思考》というのは 一面でじっさい《思考しているし思考できています》。ただし 言語表現の次元をなお狭い世界だと見るときには そのような今度は高次の存在(ないし視点)としての神本体については 一向に思考はしていない。つまり とどいていない。つまり神本体に人間の思考が届いているかいないかは 人間には分からない。  ですよね?  ★ 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。  ☆ 可能性はあり得るという判断が 妥当だと考えます。  ★ すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。  ☆ アルケーの神なる神学への批判は まさに多様性を否定していることに集中しています。《アルケーの神以外に神はない》という命題の一点張りです。それ以外には 聞く耳を持たないという点に対してです。  《創造説を否定している》ことに対してわたしが――おぼえていないのですが――もし批判したとすれば それも《創造説を否定する見解以外には人間の思考はあり得ない》と断定している点に対してだと思います。  ★ ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。  ☆ いえ。進化論のたぐいのモノの自己運動説にも《こだわり》が同じほどあります。でも どちらも《仮りの理解》です。  ★ 「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。  ☆ 《多名神》と言いますか。  1. セム語で 神は《エル》です。子音だけで示せば √ ’L です。《 √ (ルート)》は語根をあらわします。《 ’ 》はア行の子音です。空白の一拍(ないし半拍)があります。  2. ふつうは 語は三子音から成りたちます。これを √’LH というふうに H を添えて三子音にして次の《神》を表わす語が出来ています。   ヘブル語   ’eLoH エローホ / ( pl. ) ’eLoHim エローヒーム   アラビア語  ’iLaH イラーハ  3. 定冠詞は 元は ハル( HaL)だったと思われ 次のように変化したと推測されます。   HaL ⇒ ( Hbr )Ha ハー     ⇒ ( Arab )aL アル  4. 定冠詞をつけて神を表わすと 次のようになります。   Hebrew : Ha ’eLoHim ハー・エローヒーム   Arabic : aL-’iLaH アル‐イラーハ > aLLaH アッラーハ(フ)  5. なぜ神を複数形で表わすか? 尊厳の複数だと言われています。(クルアーンでは 神が語るとき自称を《われわれ》と言っています)。  6. ちなみに ヨーメル( He-said 〔形は実は He-says 〕)という動詞は その主語の単複の数をも示すのですが これが 単数なのです。その主語のエローヒームは 複数形です。また創世記1:1の 《神は天地を創造した》の神はやはり エローヒームで複数形であり しかも《創造した(バーラー He-created. )》は主語が単数に用いる活用形です。  7. しかもこの《創造した(バーラー)》という動詞は じつは・実に 神の動作にしか用いられていません。神専用の《造る》という動詞です。  8. このことからも 聖書は表現の問題だという命題が有効ではないかと考えられます。憶測をすれば 神は《モノが自己運動を起こすようにその仕組みを作ってやった》というような意味をこのバーラーが持ち得るとさえ考えられます。  9. エローヒームのほかには 神の名として次が挙げられます。  ( a ) yaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー):    意味は《 He-makes-be. かれは有らしめる》というのが一説。  ( b ) 《 ’eHYeH  ’aser  ’eHYeH エフィエー アシェル エフィエー》:    《 I-am that( who ) I-am. 》    《〈わたしはある〉 それがわたしである》。    以前には《わたしは 有りて有る者》と訳されていた。  10. 前項( b )の《エフィエー ’eHYeH ( I-am )》は じつは この質問での《 ィエヒー yeHi ( He-is )》と同じ √HYH (to be)なる動詞の人称別の活用形です。ィエヒー yeHi には √HYH について子音の省略があります。しかもこの be 動詞は ( a )の√HWH (to be)と互いに異種つまり姉妹形みたいなものです。前項( a ) YaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー)は その be 動詞の使役形です。  11. 旧約の時代から聖書記者らにあっては 神学は 《存在》論であったことになります。  12. あるいはつまり エワ(イヴ)は ハーワーと言って √HWH なる語から来ています。《ある。生きる⇒いのち》といった意味を帯びたものと考えられます。アダムは 土で造られ死ねば塵になるの《土 または 赤い》とつながっていると言われます。  13. こう考えるなら 神の名前の多形は それほどその多さには力点は置かれていないと思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。・・・  こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (創世記 1:27) 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。  ▲ (創世記 2:18-22) ~~~~~~~~~~  18: 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」  ・・・  21: 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。  22: そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこの《齟齬》についても護教論よろしく弁明につとめるとすればですが そうすると次のように解釈するのでしょうね。  ○ 《 1:27 》では 《ヒト》なる生物種が造られた(生成した)。であり 《 2:18-22 》では 性差の問題を加味してヒトを説明した。  となるでしょうね。でもどちらも《造る》のですから 二度同じものを造っていますが。(造るは 両方で同じ言葉です(アーサー)。(バーラー=創造するとはまた違いますが)。  ▲ (創世記 2:24) こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。  ☆ というふうにも 話が展開されていますから 性差に焦点を当てたと。  ★ ~~~~~~~~~~~~   ☆ いまの聖書は それら(いろんな可能性・多様性)をとうぜん排除などはしていません。  ということはそのような表現も見られるということですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう意味ではありません。閉じられていず 明けられているという意味で言いました。  (つづく)

その他の回答 (35)

noname#214841
noname#214841
回答No.36

>>あまりそういう言い方はしないと思います。 あくまでも、三人称命令法の説明のための設定です。 なるべくして、なる。 ユークリッドの幾何学定理が、三人称命令法に出会つた最初の用例でしたので、そのときのイメージがずつと続いてゐます。 言語といふのは、世界の中に、無理やり境界をつくつてしまふ道具ですので、人称といつても、実際にきちんと区別できるものではありません。だからどつちでもかまはない、ユージューフダン教としては、そのやうにまとめたいと考へます。これくらゐで終了します。さうさう、ユークリッドのギリシャ語や、聖書の指示形のいろいろな用例を出せばよかつたのですが、横着をしました。すみません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 人称といつても、実際にきちんと区別できるものではありません。  ☆ ぢゃあ なんで二人称や一人称の広義の命令法と違うと説明しなければならないのか?  説明しなくてよいのなら 問い求めの意味はもうありません。  ご回答をありがとうございます。

noname#214841
noname#214841
回答No.35

>>なんで《未来》なの? 《光あれ》と言つた時点を現在とすれば、出現したのが未来です。

bragelonne
質問者

お礼

 ぢゃあ 一瞬あとであっても 未来なのですね。  あまりそういう言い方はしないと思います。  ご回答をありがとうございます。

noname#214841
noname#214841
回答No.34

>>その場で《光あれ》と言って 光があった。はず。 言葉が物をつくる、といふ見解は、ひとつの見方であつて、実際には、言葉があつてもなくても、物の存在とは無関係です。 《光あれ》と言つた時点では、まだ光は存在しませんが、その後(未来)に光が現実に出現しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ その後(未来)に光が現実に出現しました。  ☆ なんで《未来》なの?  ご回答をありがとうございます。

noname#214841
noname#214841
回答No.33

>>ご回答をありがとうございます。 お礼をありがたうございます。 >>ん? ん?

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.32お礼欄) ~~~~~~~~~   ★ 未来の世界があつて、それに名前をつけただけです。   ん?   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。   ☆ ですよ?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですよ。  その場で《光あれ》と言って 光があった。はず。  《未来の世界があって》という意味が分かりません。  ご回答をありがとうございます。

noname#214841
noname#214841
回答No.32

>>そのときにおいて光という《言葉》が生まれ 光というモノが造られた。ですよね? 未来の世界があつて、それに名前をつけただけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ん?  △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  ☆ ですよ?

noname#214841
noname#214841
回答No.31

>>どこから出て来たのか。 創造です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  つまり そのときにおいて光という《言葉》が生まれ 光というモノが造られた。ですよね?  だとすると 命令は 光という言葉に対して言った。のではないかと見られて来る。という意味です。  つまりは 光よ おまえは有れ(成れ)といったようにです。  つまり 実質的には 二人称の命令形であると。同時に 形式は 三人称主語である。  あるいは いまひとつ別の解が出されています。  光なるやはり三人称として扱うモノ(いまは まだその言葉)が有る(成る)ようにチカラを及ぼせということを 神がみづから〔の霊〕に向けて言った。つまりは 実質的には一人称なるみづからへの命令形であると。かたちは 三人称主語である。  こういう理屈が得られてはいます。

noname#214841
noname#214841
回答No.30

>>《光》はどうしたのか? です。 光が出てくるのは、未来予想図です。 https://www.youtube.com/watch?v=yQneZOzJhSQ >>しつこいですか? おたがひさまです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 光が出てくるのは、未来予想図です。  ☆ よう分からんわ。  ☆☆ 《光》はどうしたのか?  ☆ っていうのは どこから出て来たのか? ですよ。あるいはその言葉が どこから出て来たのか。

noname#214841
noname#214841
回答No.29

>そして《さうなってよ》というとき 誰に向けて言っているのか? しひて言へば、だれでもない。自然、宇宙といつたら大きすぎますが、時の流れで未来が「さうなつてよ」。 >>《光》という三人称で表わすモノにそのモノがまだ生成していないときに >>あれと命令する。 二人称として直接対話するのではありませんから、生成してゐなくてもかまはないと思ひます。 あくまでも、私個人のイメージであつて、見当違ひのことを書いたのかもしれません。自分では、ギリシャ語、ラテン語、サンスクリット語、ヘブライ語と学んでいつて、この考へで特に不都合はありませんでした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううーむ。言語というものは けっきょくいかに文法が規則をとなえていても ナラハシと時の流れにしたがって変わって行くのだし それとしてむしろ規則をつくり出して行くのだ。理屈は二の次であり 従属的なものだ。  ――こうでしょうか。  それはそうなんですがね。  ★ しひて言へば、だれでもない。自然、宇宙といつたら大きすぎますが、時の流れで未来が「さうなつてよ」。  ☆ そうですね。この《光あれ》と言う前にすでに 《天と地》とは造られていることは そうなのです。  空間が出来ていて それとともに時間も動きだしているのでしょう。だったら《宇宙》になり《時の流れ》なりに向かって命令することもありなように思われます。  思われますが そうだとすると ぎゃくにそういう理解の仕方のほうが《理屈をこねている》というようにも 半分くらいですが 感じられます。  言いかえると ことは文法の問題であると捉えられ それなりに理屈づけておくほうが むしろ自然の流れであるように感じられるのです。  まぁ どっちもどっちなのかも知れません。    同じ問題の繰り返しになるかと思いますが:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >>《光》という三人称で表わすモノにそのモノがまだ生成していないときに   >>あれと命令する。  二人称として直接対話するのではありませんから、生成してゐなくてもかまはないと思ひます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう一面は言えるのでしょうね。ただしもう一面があります。つまり 《光》という言葉は どこから出て来たのか? です。  《まだ生成していないとき》という見方はそれとして成り立つかと思いますが そうだとすると 《光》なる言葉は どこから出て来たのか? まだ《天と地》やあるいは 混沌(トフボフ)があっただけだと思いますから 《光》はどうしたのか? です。  しつこいですか?

回答No.28

Es werde Licht. = Es soll Licht werden. となって、 「個人の要求や条理の要求を表わす」(私の本には接続法1式とsollenについてこんなことが書いてあった)なんてことを書こうとも思ったんですけれども、 ドイツ語なんて学校を出てから、ずっと、やっていないもんで(ポリポリ)。 注目すべきは、条理、つまり「~するべき」なんでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  直前のNo.27お礼欄にて 《表現形式の多様性の問題》を確認しました。  ◇ 注目すべきは、条理、つまり「~するべき」なんでしょうね。  ☆ というその・またの名の当為の表現形式 これもひとつの補助線なのでしょうね。

回答No.27

こんばんは。 ☆また、英語の be と違って、werden は生じる、生成するという意味がありますので、「光あれ」というよりは、何もないところから生じるという感じで、「光よ生まれよ」となると思います。 (No.21) ◇ですね。 「古事記などの《なる》みたいな感覚ですよ」といったことを書こうとも思ったのですが、これは、さすがに、恐くて書けなかった(ポリポリ)。 (原)因に(結)果が内在していて、結果が自然発生的に現われるといったようなイメージなんでしょう、たぶん。 この何だか分からないけれど、何かを生み出す、生成するものがギリシアの自然(ピュシス)であり、ロゴスはその中にあるんだ、 みたいなことをいう研究者もおるようです。  ───日本人なんですが、日下部吉信とかいう人─── こうした自然(ピュシス)の考えが印欧語の根底にあるんだ・・・。 そして、このギリシアの自然(ピュシス)観を歪めたのがピタゴラス→ソクラテス→プラトンだ。 アリストテレスは、これをギリシアの自然哲学に戻した。 だが、 ソクラテス・プラトンが、時代が下って誕生した西洋哲学の主流になり、西洋哲学はアートマン・エゴの哲学になってしまった。 そして、このレジュームチェンジをしようとしたのがニーチェであり、ハイデガーによって復権した。 私がこんなことを考えたり、思ったりしているのではなく、 こういうことを言う研究者・専門家がいる。 であるとすれば、 esはピュシスかもしれない(ポリポリ)。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  (1) まづ中間の結論〔のようなもの〕としては 次の二点を得ていました。   ( a ) 神がみづからに向けて 三人称なる光を有る(成る)ようにチカラを及ぼせと命じた。と採る。   ( b ) 光は その光という《言葉》と 光という《モノ(または存在)》とが ここで同時に生成した〔つくられた〕と解釈する。    (2) 一般に命令法としては 広義に話し手なる主観意志の願望・要請・強制などの判断内容をしめす。   (2‐1) その主観意志は 一般に相い対するその相手つまり二人称に向けて発する。   (2‐2) ただし一人称すなわち話し手の自己自身をも相手と見なして 命令法を用いることが出来る。   (2‐3) そこで 三人称のヒト〔→(3)〕・モノ・コト〔→(4)〕を相手と見なし得るか?   (3) 《ヒト》なる三人称の場合には おそらくその人とは別の二人称の相手をして三人称の人にその命令内容を告げておこなわしめる。   つまりこれは 使役法であり 命令法として二人称命令法の内に入ると見るか または 使役法を独立させるかになると思われる。  (4) モノゴトについてはどうか? むつかしいように思えるが まづその三人称のモノゴトをすでにいきなり(つまり 何か特別の考えもなく)主語に立たせる。そして ともかく主観意志をその文型の中に織り込もうとしてそれなりの(つまり 命令法なりの)かたちをつくった。――というような経緯が推測される。   (4‐1) その場合は 形式的に三人称主語に対する命令法であり 実質的には 二人称相手に向けて主観意志を示そうとしていると捉える。モノゴトをも話し手自身と向き合うかのような相手と見なすかたち。文型は そうではなく 三人称を採る。   (4‐2) さもなければ 一人称の話し手が 自分自身に向かって 三人称のモノゴトに主観意志を及ぼせと命令していると取る。   (4‐3) すなわち 《神がみづからに向かって三人称なる光に有る(成る)ように主観意志を及ぼせ》と言ったというかたち。  (5) 前項(4‐3)の場合 三人称なる《光》は じつはまだ存在していない。しかもそのモノを光と呼んで それに対する主観意志の発動をおこなおうとしている。   (5‐1) これは ひとつの解釈として この光なるモノについての《言葉》と そしてそのとき生成して来るはずの光なる《モノそのもの〔の存在〕》とが 言ってみれば同時発生というかたちなのだろうか。と考えられる。   ☆ (1)の二点( a ・ b )について以上のように考えた。  (6) その後やがて 《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するかという表現の問題にも入った。そもそも神と光とは 互いに同じ世界において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。  (7) けっきょくのところ 神と光〔ないしヒトをふくめた経験世界〕との――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性以上のチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(これは 空(シューニャター)観である)。  (8) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。  (9) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。  (10) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。  (11) 神が《創造する》とは どういうことか? 表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。  ▲ (創世記1:1) http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001  ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃  ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)  ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)  ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.  ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。  (12) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語ですが 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。    ○ bara' http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV  (13)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。  (14) すなわち 《光なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。  (15) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどに補助線を引くことが出来る。  (16) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを選び得るし あるいはそうではなく《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。  (17) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を たとえば《いやいや 神などとはその名はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。  (18) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。  (19) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉がモノ(存在)と同時発生という説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として初めに持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。  ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~     はじめに ことば(ロゴス)があった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (20) このあたりまで たどり着いたようです。たぶんあらたな出発点とすることが出来るのではないかと みなさんとともによろこびます。  (21) ドイツ語が werden なる語を用いることは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。  (22) 神学は人間学だとフォイエルバッハとかが言ったようです。たぶんフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの人間論――人間と社会の理論――はさらにこれからも寄与するものと考えられますまいか?  ☆ ピュシス説とロゴス説といづれの説をも 創世記の記者たちは難なく無理なくつつみ すでに高い次元でアウフヘーベンしている。と考えられますまいか。