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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《光あれ》という命令法は どういう実態か)

《光あれ》という命令法は どういう実態か

このQ&Aのポイント
  • 光あれという命令法は、三人称の主体に向けて語られているとされています。
  • 一人称に対する命令法は単数形と複数形があり、相手に語る形を採っています。
  • 二人称に対する命令法も相手に語られています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

お礼ありがとうございます。もうおやすみでしたら、お早うございます。 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。 まずこれへの応答がはぐらかされました。補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。 >《両論のバランスを取る》という扱い方も あまり意味を成さないわけなのです。何しろ 仮りの理解であるからです。 受け止めました。 >そしてしかも言語表現の問題としてなら ひとつの可能性と言いますかひとつの表現形式をえらび それに徹して仮りの理解を得られるようにと文章をはこんで行く。こういう作業をした結果が いまの聖書です。 言いかえると 表現形式は いろんなやり方がありうる。こうなるはずです。聖書記者は そのひとつをえらんだ。だけのことだと言えると思います。 承知しました。 >つまり そういう別の可能性の線で それぞれが自分の表現物語を著わそうと試みればよいわけです。 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。 >ちなみに 旧約聖書は いまのかたちに成ったのは ふたつまたは三つの記者グループの著わした《聖書》を合わせてまとめたものだと 聖書学では言われています。 そうなんですか。ご教示ありがとうございます。創作に多くの人の思想が関わっているのでしょうね。 >神をエローヒームという言葉で表わすグループ(エロヒスト派)と 同じくヤハヱーと表わすグループ(ヤハヰスト派)。さらにもうひとグループを加える見方も提出されているようです。 神は言われた。「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。 >グループどうしの間では いくらか・またはかなりの程度で互いにいわゆる文体が違うと見られています。違うから そういう区別を見つけることが出来たというようです。 なるほど。内容の齟齬はないのでしょうか? >たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。男と女とを造ったと書いている箇所と 男のあばら骨から女を造ったと書いている箇所とです。そういう事例があるようです。 こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、合成したものだから仕方ない。あるいは表現は違うが意味しているものは同じ。一般にはどちらかに受け止められているという傾向はあるのですか? >☆ ええ。そういう可能性からの描き方・著わし方もあるわけです。いまの聖書は それらをとうぜん排除などはしていません。 ということはそのような表現も見られるということですか? >☆ あぁ。いいことを言ってくださった。つまり まさにそういう《表現の問題》なのであって であるからには 《書かれたものが 歴史事実である》という説にしがみついていることは出来ない。さりとて まったくの表現の問題であるに過ぎないと言い切ってしまうわけにも行かない。 《表現の問題》が重要なんですね。それにどう切り込んでいけばいいのでしょう。表現そのものについての考察はいくらかして、一仮説として、自己は表現者だと捉えています。それに、自らアマチュア表現者であった経験から、具体的表現がどうこうは芸術表現に多少意見するものがあります。 >ええ。 このことを――実際には うりが・・・さんという人にですが――はっきりと証明したかったことなのです。少なくとも 或る程度の信憑性をもって説明してやりたかった。そういうことなのです。まさに この《いくつかの表現可能性としての聖書》 これが この質問で問い求めていた着地点です。 この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか? つまり、先ほどの 《表現の問題》にも関わりますが、現象(現された)したものについて、受け止め、自分なりの意味を 通して表象(表す)することが多様な可能性をもっているというような。 > またまた あともなどすさんにファイナルタッチを打ち出してもらった恰好です。 ファイナルアンサーではなくタッチ(?) >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」  ☆ ええ。そのように答えるはずです。 聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。 > ★ だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。  ☆ これはすでに触れて来ました。可能性のひとつとしてそれに徹して試みた表現のまとまり これが 仮りの理解を得させるはずです。ゆえに 《有用》なのです。 神への仮りの理解が《有用》なのですか?どんな風に有用なんでしょう。これがいまいち分かりません。 >《有る神》と《無い神》 理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。それが人間の浅はかさということでしょうか。 > こういうひとつの結論が得られます。これはおおきな収穫です。信仰という信仰は 《非知》なるひとつの神とそれぞれ《わたし》との関係であるとまとめることが出来ます。非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。 そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。 > ☆ これまでのシュウキョウのほうが 勝手に・自分勝手に踊り続けて来たのです。もうそろそろ組織を自己解体して シュウキョウには終止符を打ちましょうと言っています。 自業自得ということですね。シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。つまりせっかくシュウキョウから距離をとって我が身を安全地帯においたのに、またわざわざ危険地帯へと乗り込んでいっているように見えるので。 > シュウキョウの神は 思考と想像の産物であり 観念として言葉だけが踊っているものです。シュウキョウ者は 精神錯乱に落ち入っています。精神錯乱から出発しています。 過激ですね。この対応でよいのでしょうか。個人的平和主義者のぼくとは態度がちがうんですよね。 >このシュウキョウによって わたしたちが嫌な思いをさせられて来たのです。 そんなに嫌な思いがあるのですか。これも独断的ですね。シュウキョウを敵視する態度を表現の上で和らげられないですかね。相手を煽って悪循環に陥っているのではという懸念があります。 そういう面もあるけれど、どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ 《表現の問題》が重要なんですね。  ☆ これは 二つの場合に分かれると考えます。  ひとつは ふつうに直截にあらわす方法とそして広くタトエを用いてあらわす方法とに分けて多様性を捉える場合です。これはいま扱わないでよいでしょう。  もうひとつは いまの場合であり 神という言ってみれば次元の違うナゾの何ものかをも それと同じ次元ではない経験世界における人間の言葉で表わそうとする場合の 表現の形式の問題です。  1. けっきょくこの神を 哲学によって表現し共通の理解を得ようとするかまたは文学として自由に表現するかに分かれると思います。  2. 経験合理性ないしその論理性を基礎として言葉≒概念を一つひとつ定義した上で理論づける哲学として表現する形式と そして広くそのような基礎ないし定義を決めずに自由に言葉を駆使し想像に〔も〕うったえてむしろイメージなどの喚起をおもな狙いとして表現する文学形式とがあり得ます。  3. そしていづれにしても 神を人間がその言葉で表わそうとするのは あくまで仮りの代理表現としてであります。補助線を引くだけの作業です。    4. そして補助線は およそ多種多様です。あらゆる可能性が試みられます。分かりやすい例を持ち出すなら 広く文学なる自由形式をさらに伸ばして 言葉を超えた表現形式としての絵画・音楽といった芸術による表現があります。  5. これらを内容とする《表現の問題――表現形式の多様性の問題――》を漠然と着地点として思い描いていたわけですが そこへとみちびく《ファイナル・タッチ》を打ち出してもらった。こういう意味です。  すなわち  ★ ファイナルアンサーではなくタッチ(?)  ☆ というときには そういう説明になると思います。  ★ 《表現の問題》・・・にどう切り込んでいけばいいのでしょう。  ☆ 今度の【Q:「これ」に意味があるのか?】には投稿しようと思います。  ★ この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか?  ☆ うりが・・氏に対するものとしては 単純に《聖書が文字通りの史実を書いたというのは 一面的な受け取りである》と示し得ればよいと思います。  そのほかに多様性としては すでにある書き物についての解釈の可能性と そしてさらになお聖書が書かれ得るという可能性との両方をふくみます。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」   ☆ ええ。そのように答えるはずです。  聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。その可能性がすでに現われているというところまでは意味しませんでした。そのように聞こえたとしたら すみません。言い過ぎだったかも知れません。  ★ ~~~~~~~~~~~   >《有る神》と《無い神》  理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。選び得ることが 《有用》なのだと考えます。《仮りの理解として》に過ぎないとしてもです。  なぜなら 《有る神》にしろ《無い神》にしろ そのようにそれぞれ補助線を引いたゆえに人びとは おのれの非思考の庭のあり方を確かなものとすることが出来るからです。  もっとも広く言わば中立の《神》という言葉だけで・つまりそれだけの補助線で わが信仰が得られたという場合には 有用性が限られてしまいます。  けれどもたぶん 《非知》なる神からこの有神論と無神論とがいづれも互いに同等に――仮りの理解において――みちびかれるという命題は 哲学におけるその種の袋小路を打開することができると考えます。ゆえに 有用である。つまり これは 後ろ向きの有用性ではありますが。そう認識したら もうその問題は終わったというしろものですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ・・・非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。  そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間の浅はかさ》と認識する場合というのは 或る程度その意志行為が有効性を持つ場合だと思うのです。  ところが 《考えるべきオシエをそのまま無条件に受け容れ信じよというシュウキョウ》は その出発点において意志行為が 無効なのではないかと弾劾しています。そういう問題だと理解しています。  ★ シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。  ☆ 放っておくなら 同じほどの危険性があると考えます。  《アルケーの神以外に神はない》と繰り返すだけの自己表現をしか為すことのできない意志行為は 人間が死んでおり ほかの人間をもその墓場にみちびこうとしています。危険です。アルケー教以外には 創価学会・エホバの証人・幸福の科学・あるいは 意志行為を蔑ろにする決定論を説くカルヰニズムなどです。イスラームは 生活感覚としてよく分かるまでには到っていません。  ★ どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。  ☆ 意志行為としての無効に発する人間の思想も行動もみな 死です。可能性ではないわけです。と理解します。

bragelonne
質問者

補足

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。  ☆ これはもう共通の理解に立てたと思ったのですが。  つまり《補助線思考》というのは 一面でじっさい《思考しているし思考できています》。ただし 言語表現の次元をなお狭い世界だと見るときには そのような今度は高次の存在(ないし視点)としての神本体については 一向に思考はしていない。つまり とどいていない。つまり神本体に人間の思考が届いているかいないかは 人間には分からない。  ですよね?  ★ 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。  ☆ 可能性はあり得るという判断が 妥当だと考えます。  ★ すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。  ☆ アルケーの神なる神学への批判は まさに多様性を否定していることに集中しています。《アルケーの神以外に神はない》という命題の一点張りです。それ以外には 聞く耳を持たないという点に対してです。  《創造説を否定している》ことに対してわたしが――おぼえていないのですが――もし批判したとすれば それも《創造説を否定する見解以外には人間の思考はあり得ない》と断定している点に対してだと思います。  ★ ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。  ☆ いえ。進化論のたぐいのモノの自己運動説にも《こだわり》が同じほどあります。でも どちらも《仮りの理解》です。  ★ 「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。  ☆ 《多名神》と言いますか。  1. セム語で 神は《エル》です。子音だけで示せば √ ’L です。《 √ (ルート)》は語根をあらわします。《 ’ 》はア行の子音です。空白の一拍(ないし半拍)があります。  2. ふつうは 語は三子音から成りたちます。これを √’LH というふうに H を添えて三子音にして次の《神》を表わす語が出来ています。   ヘブル語   ’eLoH エローホ / ( pl. ) ’eLoHim エローヒーム   アラビア語  ’iLaH イラーハ  3. 定冠詞は 元は ハル( HaL)だったと思われ 次のように変化したと推測されます。   HaL ⇒ ( Hbr )Ha ハー     ⇒ ( Arab )aL アル  4. 定冠詞をつけて神を表わすと 次のようになります。   Hebrew : Ha ’eLoHim ハー・エローヒーム   Arabic : aL-’iLaH アル‐イラーハ > aLLaH アッラーハ(フ)  5. なぜ神を複数形で表わすか? 尊厳の複数だと言われています。(クルアーンでは 神が語るとき自称を《われわれ》と言っています)。  6. ちなみに ヨーメル( He-said 〔形は実は He-says 〕)という動詞は その主語の単複の数をも示すのですが これが 単数なのです。その主語のエローヒームは 複数形です。また創世記1:1の 《神は天地を創造した》の神はやはり エローヒームで複数形であり しかも《創造した(バーラー He-created. )》は主語が単数に用いる活用形です。  7. しかもこの《創造した(バーラー)》という動詞は じつは・実に 神の動作にしか用いられていません。神専用の《造る》という動詞です。  8. このことからも 聖書は表現の問題だという命題が有効ではないかと考えられます。憶測をすれば 神は《モノが自己運動を起こすようにその仕組みを作ってやった》というような意味をこのバーラーが持ち得るとさえ考えられます。  9. エローヒームのほかには 神の名として次が挙げられます。  ( a ) yaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー):    意味は《 He-makes-be. かれは有らしめる》というのが一説。  ( b ) 《 ’eHYeH  ’aser  ’eHYeH エフィエー アシェル エフィエー》:    《 I-am that( who ) I-am. 》    《〈わたしはある〉 それがわたしである》。    以前には《わたしは 有りて有る者》と訳されていた。  10. 前項( b )の《エフィエー ’eHYeH ( I-am )》は じつは この質問での《 ィエヒー yeHi ( He-is )》と同じ √HYH (to be)なる動詞の人称別の活用形です。ィエヒー yeHi には √HYH について子音の省略があります。しかもこの be 動詞は ( a )の√HWH (to be)と互いに異種つまり姉妹形みたいなものです。前項( a ) YaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー)は その be 動詞の使役形です。  11. 旧約の時代から聖書記者らにあっては 神学は 《存在》論であったことになります。  12. あるいはつまり エワ(イヴ)は ハーワーと言って √HWH なる語から来ています。《ある。生きる⇒いのち》といった意味を帯びたものと考えられます。アダムは 土で造られ死ねば塵になるの《土 または 赤い》とつながっていると言われます。  13. こう考えるなら 神の名前の多形は それほどその多さには力点は置かれていないと思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。・・・  こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (創世記 1:27) 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。  ▲ (創世記 2:18-22) ~~~~~~~~~~  18: 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」  ・・・  21: 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。  22: そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこの《齟齬》についても護教論よろしく弁明につとめるとすればですが そうすると次のように解釈するのでしょうね。  ○ 《 1:27 》では 《ヒト》なる生物種が造られた(生成した)。であり 《 2:18-22 》では 性差の問題を加味してヒトを説明した。  となるでしょうね。でもどちらも《造る》のですから 二度同じものを造っていますが。(造るは 両方で同じ言葉です(アーサー)。(バーラー=創造するとはまた違いますが)。  ▲ (創世記 2:24) こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。  ☆ というふうにも 話が展開されていますから 性差に焦点を当てたと。  ★ ~~~~~~~~~~~~   ☆ いまの聖書は それら(いろんな可能性・多様性)をとうぜん排除などはしていません。  ということはそのような表現も見られるということですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう意味ではありません。閉じられていず 明けられているという意味で言いました。  (つづく)

その他の回答 (35)

回答No.5

言語はコミュニケーション=一人称と二人称の間で 行われるものである(それぞれに主体がある)。 「それ以外」をひっくるめて三人称と言うのである。 だから三人称はあっても四人称はなく、三「人」称 であっても物も含むのである。 命令するのに、自分にするのは変だし、具体的に 誰か相手に命令している訳でもないので、文法的に 三人称にならざるを得なかっただけでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 一人称と二人称に入らないモノゴトはぜんぶ三人称なるクラスに押し込んだだけのこと。  ☆ というご回答でしょうか?  まづ  ★ 命令するのに、自分にするのは変だし、  ☆ という疑問はあまり問題にはならないのではないでしょうか。    すなわち モノゴトも《三人称 3rd person 》に入るごとく――そして モノゴトや動物などに向かっても人は二人称の相手と見なして話をする場合さえあるごとく―― やはり表現の多様性によってのように 一人称すなわち自分自身を相手としてその自分に向けても 《願い》をしてみるわ《怒りを発して叱咤激励》をもするわで広く《命令法》を活用するように思われますから。  ★ 具体的に誰か相手に命令している訳でもないので、文法的に三人称にならざるを得なかっただけでしょう。  ☆ この《具体的に誰か相手に》するわけではなく さらにその《相手に命令している》わけでもないという捉え方が 微妙であると思われて来ます。  つまり上で考えたように《見なす》という場合がじゅうぶん普通にあり得ると考えられるからです。  モノゴトをあたかも人に譬えるごとく。  動物を人にたとえて しかも話し相手と見なすごとく。  《具体的に誰か相手に命令している》と見なすことは じゅうぶん考えられるからなのです。  《光》なるモノゴトで 初めは・ふつうなら 三人称に入るものを あたかもすでにおのれの目の前にあるかのごとく 二人称で捉えることは――《タトエや見做し》において――あり得るのではないでしょうか?  そして確かに《文法的に三人称にした》という事実が厳然とあるわけですから これについて考えるに何故か? となります。なるのですが いまは ひとつに《けっきょくは 特に話し手が神である場合には 神がみづからに命令する内容であるのだが 表現形式としては もともとの三人称扱いを保持した》という見方が出ています。  もうひとつに このようなモノゴトの起源にかかわる場合に 光なら光というモノゴトの《言葉》とそしてそれの《生成=存在》とが同時なる出来事だと捉える。こういう見方です。  どうでしょうかねぇ。    

回答No.4

「仮定法現在」というのは間違いかもしれないので、  ───祈願文と命令を同一視している─── 「命令法」としておいてください。 いずれにせよ、法(Mood)がらみの話ですよ。 命令するというのは、「現在、そうでないから命令する」ので。 Let there be light! ですが、 これは、神さまが光に命令した、とは考えにくい。 この言葉を発したと同時に、光は存在するようになったのでしょう。 では、神の頭の中に光のイメージ、概念が存在としての光に先行していたのかどうか? これをやりだすとスコラになってしまう(ポリポリ)。 スコラ的な考え方をすれば、 神の頭の中に、光のイメージ、光の形相が先にあったとなるのでしょうが、 ここで既に神を擬人的───工作をする者としての神───にとらえていますし、どうかと思うんですよ。 そもそも、存在と形相や本質は切り離せるものなのか、という問題も出てきますし・・・。 ですから、同時に存在した、と考えるべきではないですかね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですが、  これは、神さまが光に命令した、とは考えにくい。  この言葉を発したと同時に、光は存在するようになったのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのもの(《光》)とそれの《存在・生成》とは同時である。という見方は じつはしたことがあります。また 変わったわけでもありません。  ただし それをひとつの見方としても ではなぜ 三人称に向けるかたちにしたのか?    《光》なる言葉をいま得た。   その光よ   ――だから やっぱり《光よ おまえよ》となるように思われる――   現われよ。  といったように二人称になるのではないかと。  ◇ では、神の頭の中に光のイメージ、概念が存在としての光に先行していたのかどうか? / これをやりだすとスコラになってしまう(ポリポリ)。  ☆ ええ。まぁ そうでしょうね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  スコラ的な考え方をすれば、  神の頭の中に、光のイメージ、光の形相が先にあったとなるのでしょうが、  ここで既に神を擬人的───工作をする者としての神───にとらえていますし、どうかと思うんですよ。  そもそも、存在と形相や本質は切り離せるものなのか、という問題も出てきますし・・・。  ですから、同時に存在した、と考えるべきではないですかね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。やっぱり《同時説》ですか。  ◇ そもそも、存在と形相や本質は切り離せるものなのか、という問題も出てきますし・・・。  ☆ これには 賛成しています。または 実存は本質に先行すると。  問題は 表現のかたちですね。三人称を用いたという。  これだと 秘密のアッコちゃんとか ドラえもんとか(これらについてよくは知りませんが) アラヂンの魔法のランプのような呪術の園(ツァウバーガルテン)にとどまっているかに見られます。  直後の回答No.5では 一人称と二人称ではないものごとはみな三人称なる部類に入れただけのことだと言っています。

回答No.3

質問文を見て、思わず絶句してしまいました。 ですから、英語の文法書を引っ張り出して、英語の命令文について調べてみました。 命令文は、「(話者の)命令や依頼・願望をあらわす文」と書いておりました。 これでは、まったく答えになっていない(ポリポリ)。 私の文法書(500頁超)には書いておりませんけれども、 命令文には、命令や依頼・願望の他に、「容認や放任・許容」といったような意味もありそうですね。  Let them talk.(「世間の人が話するのは勝手よ」という意味らしい)。 あと、「勧誘」を表わす場合がある(これは文法書に書いてあった)。  Let's go.(さあ、行こう) で、二人称以外の命令文の場合は、「間接命令文」と呼ぶことがあるらしいです。 三人称以外にも、一人称の命令文がおもしろいですね。 Let me sleep.(私を眠らせてくれ) 周囲がうるさくて眠れず、「静にしてくれ」という意味で、この文を発するのならば、うるさくしている人たちに「静にしろ!!」と命令、もしくはお願いしているのでしょうけれど、そうでなければ、誰に向かってこの文を発しているのであろうか? 「特定の誰かではない」ことだけは確かなのでしょうね。 まぁ、英語のLet + O + 動詞の原形の場合は、 《(単複)二人称》 + let + O + 動詞の原形で、二人称の主語を欠落させたものなのでしょうね。  ───英単語のletはmakeと同じで、主語が強制的にOを○○の状態にさせるという意味を持っている─── 英語の場合は二人称の場合、原形動詞がくるので分かり辛いですけれども、二人称で動詞(let)の活用が原形と異なったとしても、原形動詞が来るのでしょう。 仮定法現在、つまり、Mood(法)で原形動詞がくるんじゃないですかね。 祈願文の  God bless me! と同じカラクリなのではなかろうかと。 私の持っている英語の文法書にはこんなことは書いていませんけれども、 おそらくそうなのであろう。 と、適当なことを言う。 二人称の相手(John)に  John, you go out!(ジョン、お前は出ていけ!) と言ってもいいんですよ。  John go out!  ───Johnが目の前にいないと、「神よ、ジョンを去らせ給え!」とかの祈願文になる???─── でも文法的にはOKなんでございます。 と長々と前置きしまして、  Let there be light! ですが、仮定法現在───beではなくletがです───ですから、この言葉を発する前は「lightは存在していない」のでしょう。光・lightに命令しているのではない。 神が命令するものは、letの前に省略されている二人称で表わされる誰か。 この言葉を発した神以外の存在が他にあれば、その存在に対して命じたとなるのでしょうが、 唯一神教ですから、これも否定しなければいけない。  ───三位一体をここで出すか・・・。三位一体説が予感されるとするか・・・─── とすると、  神は自分自身に命じた  ───自分の二人称化。自分自身に語りかけるとき、一人称の「オレ」は二人称的性格を有している。そして、自分に向かって「お前は誰だ?」と問いかけることもある─── もしくは  「さぁ、光を存在たらしめようぜ」 とか  「これから光を作っちゃおうぜ」 と自分自身に誘いをかけた、自分のやる気、意志(意思?)を表明した、 とかなるのではないですかね。 何しろ神さまですからね~、 意思(意志?)を表明する、言葉を発するだけで何でも存在たらしめられる。 あくまで英語から類推するとですよ。 ヘブライ語をはじめとするセム語の文法的知識をまったく有しておりませんので、ヘブライ語や他のセム語にこうした用法があるのかどうかは知りません。 ☆11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか? ◇目の前にいる人に向かって、三人称の奴をホニャララにしろ、と命令しているんですよ。  Let the window down. (窓をおろして) の意味で、まわりにいる誰かに命令しているのであって、 「窓よ、下りよ!!」 と窓に命令しているわけではないですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  命令文には、命令や依頼・願望の他に、「容認や放任・許容」といったような意味もありそうですね。   Let them talk.(「世間の人が話するのは勝手よ」という意味らしい)。  あと、「勧誘」を表わす場合がある(これは文法書に書いてあった)。   Let's go.(さあ、行こう)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては分かります。  すなわち 法は ムードであって 話し手の気分なわけです。主観のことでありその意志またその判断です。  ですから この主観意志ないし判断内容は 相手や動作の中身によって自由度が出て来ると思われます。  あるいは やはり主観意志の表明の仕方にもよるのでしょうか。のぞむ・願う・欲する・強く欲する・押しつけるなどが いわゆる《命令法》のもとにあり得ると考えられますから。      ◇ ~~~~~~~~~~~~~  一人称の命令文がおもしろいですね。   Let me sleep.(私を眠らせてくれ)  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですよね。つまり これは 相手がいない場合(相手を想定していない場合)と相手に向かってしゃべる場合とで分かれるでしょうか。  ◇ 周囲がうるさくて眠れず、「静にしてくれ」という意味で、この文を発するのならば、うるさくしている人たちに「静にしろ!!」と命令、もしくはお願いしているのでしょうけれど、そうでなければ、誰に向かってこの文を発しているのであろうか?  ☆ 《 Let me ・・・》の《 me 》に向かって・つまり独り言を言っていることになるのでしょうね。  しっかりせよとか落ち着けとか 同じことで気持ちが浮ついているからふだんの我れに還ってみなさいとか。魂振りですかね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  まぁ、英語のLet + O + 動詞の原形の場合は、  《(単複)二人称》 + let + O + 動詞の原形で、二人称の主語を欠落させたものなのでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ あっ。そういう解釈ですか。ううーん。    でも こう考えてみては どうですか? つまり その二人称主語は けっきょく自分自身がその役になっているのだと。  ぎゃくに言えば いまの自分は いつもの自分ではない。ゆえに いつもの自分が仮りに二人称の相手となって――けっきょくは自分がそうするのですが――その二人称主語がいまの自分に向かって語りかけていると。  でもこれは 独り言ですよね。と思うのですが。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  祈願文の   God bless me!  と同じカラクリなのではなかろうかと。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ あっ。これも いまさっきの解釈で持ちこたえられます。  つまり 《いまの不甲斐ない自分》に対して《いつもの自分》が仮りに二人称の相手となって語りかけるといった場合に代えて 今度は 三人称の誰かを持ってくる。《神》ともなれば さすが自分が成り代わるというのではないだろうけれど その神が《いつもの自分》の代わりに《いまのダメな自分》に喝を入れたりなぐさめたりする。というような仕組みを 自分で表現の構造としてつくっている。  つまりこれも 大きく《独り言 soliloquy 》なる自己表現のひとつの形式であろうと。  ちなみに 《独白 monologue 》とは違うのでしょうね。演劇における表現形式のひとつですから その場に相手がいなくても 観客という相手が想定されていますから。実質的にダイアローグに近いと思われます。  ソリロクィは アウグスティヌスの造語だとか。(これは 小耳にはさんで そのままにしており まだ検証していませんが)。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  二人称の相手(John)に   John, you go out!(ジョン、お前は出ていけ!)  と言ってもいいんですよ。   John go out!  ───Johnが目の前にいないと、「神よ、ジョンを去らせ給え!」とかの祈願文になる???───  でも文法的にはOKなんでございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから 文なる表現は 《自己表現》であって すべてその統括を話し手がおこなっています。文における最終の(最重要な)論述は これもけっきょく話し手の《主観意志》です。そのさまざまな判断内容です。肯定・否定をふくむ平叙文であったり 主観が疑問をいだくなら 述語動詞を疑問法に活用させた疑問文であったり。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~   Let there be light!  ですが、仮定法現在───beではなくletがです───ですから、この言葉を発する前は「lightは存在していない」のでしょう。光・lightに命令しているのではない。  神が命令するものは、letの前に省略されている二人称で表わされる誰か。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 英文で考えるなら そうなるでしょうね。  ◇ ───三位一体をここで出すか・・・。三位一体説が予感されるとするか・・・───  ☆ それは しません。何しろ《一体》なのですから。一人三役で そういう会話形式にしようと思えばできるでしょうけれど 実質的な内容は けっきょく《独り言》の部類に入るかと思われます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  とすると、  神は自分自身に命じた  ───自分の二人称化。自分自身に語りかけるとき、一人称の「オレ」は二人称的性格を有している。そして、自分に向かって「お前は誰だ?」と問いかけることもある───  もしくは   「さぁ、光を存在たらしめようぜ」  とか   「これから光を作っちゃおうぜ」  と自分自身に誘いをかけた、自分のやる気、意志(意思?)を表明した、  とかなるのではないですかね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そう来ましたか。  ということは 言葉の表現形式――文法――としては 《三人称主語への命令法》という独自のかたちをつくったが その心は 《一人称主語への命令法》であるのだと。  どうですかねぇ。いちばんきつい批判は 《心とは違う形式をなんでわざわざ ふざけたように つくったのか?》になるでしょうね。かたちも同じくふつうの命令法で表わしておけばいいぢゃないかと。    ◇ ヘブライ語や他のセム語にこうした用法があるのかどうか  ◆ (【Q:3人称が主語になった命令文は御座いますか?】回答No.6)~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6721766.html  古典ギリシア語も三人称の動詞に命令法がありました。  聖書の「光あれ」は genetheto phos で genetheto が三人称単数命令法「光をして生じせしめよ」です。  ところがラテン語の fiat lux は「光が作られますように」という接続法で希求を表す文に変わっています。  命令法は形式的には *fito lux となるはずですがなぜかこの形は用いられなかったため(二人称への命令もまれ)であると思われます。  ☆☆ (回答No.7)~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. 〔アラビア語で〕三人称にも命令のような内容を示すのは 《要求法 Jussive 》が別個にある。   Gen.1:3 أَمَرَ اللهُ : «لِيَكُنْ نُورٌ     ・'amara Allah: ≪ Li- ya - kun nur.≫・・・   ・ said Allah: To-〔that-〕it-be light〕.     直説法なら 《 ya - kunu ( he is )》です。日本語ならニ格(≒与格)に当たるような前置詞(接続詞)の 《 Li- 》がこの要求法をみちびいています。  ■(回答No.3) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  フィンランド語では1人称単数を除く全人称・数に命令形があります。他のウラル言語でも同様に多数の形があると思います。  たとえば「言う」の原形 sanoa に対し,   1人称複数:sanokaamme (言おう)   2人称単数:sano (言え)   2人称複数:sanokaa (同上,複数の相手または敬称)   3人称単数:sanokoon (言わせる,言うべき等)   3人称複数:sanokoot (同上,複数)  があり,それぞれ否定形があります。ただ,1人称複数の「言おう」は実際の会話では sanotaan という別な形(受動態)を通常使います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇  ~~~~~~~~~~~~~~~    Let the window down. (窓をおろして)  の意味で、まわりにいる誰かに命令しているのであって、    「窓よ、下りよ!!」  と窓に命令しているわけではないですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん問題は ですから形式としては あたかも《窓に命令している》かたちを採っていることにある。なんでだろうーお なんでだろう。

  • pinetoil
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.2

見当違い・・・・ もっと 聖書を探究しないと あなたには 到底解からないでしょうね

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  こういう疑問をも持たないあなたには もっと分かり得ないでしょうね。  ところで どうして《見当違い》だと分かったのですか?    小学生が先生の質問に 答えが分かる前に手を挙げるあれですか?  ぢゃあ ゆっくりその答えを考えてみてください。  待ってますよ。

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.1

「ここに光よ生まれて!」 という感じではないでしょうか。 天に向かって、お願いをした、というか。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 生まれる  ☆ というのは 何がしかのエネルギーがあって運動があるといった意味で 何となく分かったとして でも  ★ ここ・光  ☆ というのは すでにそのモノ・コト・または場が決められているからこそ そう呼んでいるのではないかと思ったわけです。  あと  ★ 天に向かって  ☆ というのは 一方で確かにこの文句の前に《天と地とをつくった》とありますから その《天》だとも見られ得ますが 他方では むしろ天なる神のことを言うとも採れますね。つまり 神がみづからに向かってお願いをしたという恰好にもなりますね。  天の邪鬼の疑問でした。  あぁ 《ここ》なる場というのは すでに出て来ているところ(創世記1:2)の《かたちのない地》であり《その上を神の霊が動いている水面》である。と解釈できました。すみません。

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