• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《光あれ》という命令法は どういう実態か)

《光あれ》という命令法は どういう実態か

このQ&Aのポイント
  • 光あれという命令法は、三人称の主体に向けて語られているとされています。
  • 一人称に対する命令法は単数形と複数形があり、相手に語る形を採っています。
  • 二人称に対する命令法も相手に語られています。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.23

お礼ありがとうございます。もうおやすみでしたら、お早うございます。 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。 まずこれへの応答がはぐらかされました。補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。 >《両論のバランスを取る》という扱い方も あまり意味を成さないわけなのです。何しろ 仮りの理解であるからです。 受け止めました。 >そしてしかも言語表現の問題としてなら ひとつの可能性と言いますかひとつの表現形式をえらび それに徹して仮りの理解を得られるようにと文章をはこんで行く。こういう作業をした結果が いまの聖書です。 言いかえると 表現形式は いろんなやり方がありうる。こうなるはずです。聖書記者は そのひとつをえらんだ。だけのことだと言えると思います。 承知しました。 >つまり そういう別の可能性の線で それぞれが自分の表現物語を著わそうと試みればよいわけです。 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。 >ちなみに 旧約聖書は いまのかたちに成ったのは ふたつまたは三つの記者グループの著わした《聖書》を合わせてまとめたものだと 聖書学では言われています。 そうなんですか。ご教示ありがとうございます。創作に多くの人の思想が関わっているのでしょうね。 >神をエローヒームという言葉で表わすグループ(エロヒスト派)と 同じくヤハヱーと表わすグループ(ヤハヰスト派)。さらにもうひとグループを加える見方も提出されているようです。 神は言われた。「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。 >グループどうしの間では いくらか・またはかなりの程度で互いにいわゆる文体が違うと見られています。違うから そういう区別を見つけることが出来たというようです。 なるほど。内容の齟齬はないのでしょうか? >たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。男と女とを造ったと書いている箇所と 男のあばら骨から女を造ったと書いている箇所とです。そういう事例があるようです。 こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、合成したものだから仕方ない。あるいは表現は違うが意味しているものは同じ。一般にはどちらかに受け止められているという傾向はあるのですか? >☆ ええ。そういう可能性からの描き方・著わし方もあるわけです。いまの聖書は それらをとうぜん排除などはしていません。 ということはそのような表現も見られるということですか? >☆ あぁ。いいことを言ってくださった。つまり まさにそういう《表現の問題》なのであって であるからには 《書かれたものが 歴史事実である》という説にしがみついていることは出来ない。さりとて まったくの表現の問題であるに過ぎないと言い切ってしまうわけにも行かない。 《表現の問題》が重要なんですね。それにどう切り込んでいけばいいのでしょう。表現そのものについての考察はいくらかして、一仮説として、自己は表現者だと捉えています。それに、自らアマチュア表現者であった経験から、具体的表現がどうこうは芸術表現に多少意見するものがあります。 >ええ。 このことを――実際には うりが・・・さんという人にですが――はっきりと証明したかったことなのです。少なくとも 或る程度の信憑性をもって説明してやりたかった。そういうことなのです。まさに この《いくつかの表現可能性としての聖書》 これが この質問で問い求めていた着地点です。 この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか? つまり、先ほどの 《表現の問題》にも関わりますが、現象(現された)したものについて、受け止め、自分なりの意味を 通して表象(表す)することが多様な可能性をもっているというような。 > またまた あともなどすさんにファイナルタッチを打ち出してもらった恰好です。 ファイナルアンサーではなくタッチ(?) >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」  ☆ ええ。そのように答えるはずです。 聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。 > ★ だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。  ☆ これはすでに触れて来ました。可能性のひとつとしてそれに徹して試みた表現のまとまり これが 仮りの理解を得させるはずです。ゆえに 《有用》なのです。 神への仮りの理解が《有用》なのですか?どんな風に有用なんでしょう。これがいまいち分かりません。 >《有る神》と《無い神》 理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。それが人間の浅はかさということでしょうか。 > こういうひとつの結論が得られます。これはおおきな収穫です。信仰という信仰は 《非知》なるひとつの神とそれぞれ《わたし》との関係であるとまとめることが出来ます。非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。 そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。 > ☆ これまでのシュウキョウのほうが 勝手に・自分勝手に踊り続けて来たのです。もうそろそろ組織を自己解体して シュウキョウには終止符を打ちましょうと言っています。 自業自得ということですね。シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。つまりせっかくシュウキョウから距離をとって我が身を安全地帯においたのに、またわざわざ危険地帯へと乗り込んでいっているように見えるので。 > シュウキョウの神は 思考と想像の産物であり 観念として言葉だけが踊っているものです。シュウキョウ者は 精神錯乱に落ち入っています。精神錯乱から出発しています。 過激ですね。この対応でよいのでしょうか。個人的平和主義者のぼくとは態度がちがうんですよね。 >このシュウキョウによって わたしたちが嫌な思いをさせられて来たのです。 そんなに嫌な思いがあるのですか。これも独断的ですね。シュウキョウを敵視する態度を表現の上で和らげられないですかね。相手を煽って悪循環に陥っているのではという懸念があります。 そういう面もあるけれど、どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ 《表現の問題》が重要なんですね。  ☆ これは 二つの場合に分かれると考えます。  ひとつは ふつうに直截にあらわす方法とそして広くタトエを用いてあらわす方法とに分けて多様性を捉える場合です。これはいま扱わないでよいでしょう。  もうひとつは いまの場合であり 神という言ってみれば次元の違うナゾの何ものかをも それと同じ次元ではない経験世界における人間の言葉で表わそうとする場合の 表現の形式の問題です。  1. けっきょくこの神を 哲学によって表現し共通の理解を得ようとするかまたは文学として自由に表現するかに分かれると思います。  2. 経験合理性ないしその論理性を基礎として言葉≒概念を一つひとつ定義した上で理論づける哲学として表現する形式と そして広くそのような基礎ないし定義を決めずに自由に言葉を駆使し想像に〔も〕うったえてむしろイメージなどの喚起をおもな狙いとして表現する文学形式とがあり得ます。  3. そしていづれにしても 神を人間がその言葉で表わそうとするのは あくまで仮りの代理表現としてであります。補助線を引くだけの作業です。    4. そして補助線は およそ多種多様です。あらゆる可能性が試みられます。分かりやすい例を持ち出すなら 広く文学なる自由形式をさらに伸ばして 言葉を超えた表現形式としての絵画・音楽といった芸術による表現があります。  5. これらを内容とする《表現の問題――表現形式の多様性の問題――》を漠然と着地点として思い描いていたわけですが そこへとみちびく《ファイナル・タッチ》を打ち出してもらった。こういう意味です。  すなわち  ★ ファイナルアンサーではなくタッチ(?)  ☆ というときには そういう説明になると思います。  ★ 《表現の問題》・・・にどう切り込んでいけばいいのでしょう。  ☆ 今度の【Q:「これ」に意味があるのか?】には投稿しようと思います。  ★ この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか?  ☆ うりが・・氏に対するものとしては 単純に《聖書が文字通りの史実を書いたというのは 一面的な受け取りである》と示し得ればよいと思います。  そのほかに多様性としては すでにある書き物についての解釈の可能性と そしてさらになお聖書が書かれ得るという可能性との両方をふくみます。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」   ☆ ええ。そのように答えるはずです。  聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。その可能性がすでに現われているというところまでは意味しませんでした。そのように聞こえたとしたら すみません。言い過ぎだったかも知れません。  ★ ~~~~~~~~~~~   >《有る神》と《無い神》  理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。選び得ることが 《有用》なのだと考えます。《仮りの理解として》に過ぎないとしてもです。  なぜなら 《有る神》にしろ《無い神》にしろ そのようにそれぞれ補助線を引いたゆえに人びとは おのれの非思考の庭のあり方を確かなものとすることが出来るからです。  もっとも広く言わば中立の《神》という言葉だけで・つまりそれだけの補助線で わが信仰が得られたという場合には 有用性が限られてしまいます。  けれどもたぶん 《非知》なる神からこの有神論と無神論とがいづれも互いに同等に――仮りの理解において――みちびかれるという命題は 哲学におけるその種の袋小路を打開することができると考えます。ゆえに 有用である。つまり これは 後ろ向きの有用性ではありますが。そう認識したら もうその問題は終わったというしろものですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ・・・非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。  そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間の浅はかさ》と認識する場合というのは 或る程度その意志行為が有効性を持つ場合だと思うのです。  ところが 《考えるべきオシエをそのまま無条件に受け容れ信じよというシュウキョウ》は その出発点において意志行為が 無効なのではないかと弾劾しています。そういう問題だと理解しています。  ★ シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。  ☆ 放っておくなら 同じほどの危険性があると考えます。  《アルケーの神以外に神はない》と繰り返すだけの自己表現をしか為すことのできない意志行為は 人間が死んでおり ほかの人間をもその墓場にみちびこうとしています。危険です。アルケー教以外には 創価学会・エホバの証人・幸福の科学・あるいは 意志行為を蔑ろにする決定論を説くカルヰニズムなどです。イスラームは 生活感覚としてよく分かるまでには到っていません。  ★ どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。  ☆ 意志行為としての無効に発する人間の思想も行動もみな 死です。可能性ではないわけです。と理解します。

bragelonne
質問者

補足

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。  ☆ これはもう共通の理解に立てたと思ったのですが。  つまり《補助線思考》というのは 一面でじっさい《思考しているし思考できています》。ただし 言語表現の次元をなお狭い世界だと見るときには そのような今度は高次の存在(ないし視点)としての神本体については 一向に思考はしていない。つまり とどいていない。つまり神本体に人間の思考が届いているかいないかは 人間には分からない。  ですよね?  ★ 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。  ☆ 可能性はあり得るという判断が 妥当だと考えます。  ★ すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。  ☆ アルケーの神なる神学への批判は まさに多様性を否定していることに集中しています。《アルケーの神以外に神はない》という命題の一点張りです。それ以外には 聞く耳を持たないという点に対してです。  《創造説を否定している》ことに対してわたしが――おぼえていないのですが――もし批判したとすれば それも《創造説を否定する見解以外には人間の思考はあり得ない》と断定している点に対してだと思います。  ★ ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。  ☆ いえ。進化論のたぐいのモノの自己運動説にも《こだわり》が同じほどあります。でも どちらも《仮りの理解》です。  ★ 「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。  ☆ 《多名神》と言いますか。  1. セム語で 神は《エル》です。子音だけで示せば √ ’L です。《 √ (ルート)》は語根をあらわします。《 ’ 》はア行の子音です。空白の一拍(ないし半拍)があります。  2. ふつうは 語は三子音から成りたちます。これを √’LH というふうに H を添えて三子音にして次の《神》を表わす語が出来ています。   ヘブル語   ’eLoH エローホ / ( pl. ) ’eLoHim エローヒーム   アラビア語  ’iLaH イラーハ  3. 定冠詞は 元は ハル( HaL)だったと思われ 次のように変化したと推測されます。   HaL ⇒ ( Hbr )Ha ハー     ⇒ ( Arab )aL アル  4. 定冠詞をつけて神を表わすと 次のようになります。   Hebrew : Ha ’eLoHim ハー・エローヒーム   Arabic : aL-’iLaH アル‐イラーハ > aLLaH アッラーハ(フ)  5. なぜ神を複数形で表わすか? 尊厳の複数だと言われています。(クルアーンでは 神が語るとき自称を《われわれ》と言っています)。  6. ちなみに ヨーメル( He-said 〔形は実は He-says 〕)という動詞は その主語の単複の数をも示すのですが これが 単数なのです。その主語のエローヒームは 複数形です。また創世記1:1の 《神は天地を創造した》の神はやはり エローヒームで複数形であり しかも《創造した(バーラー He-created. )》は主語が単数に用いる活用形です。  7. しかもこの《創造した(バーラー)》という動詞は じつは・実に 神の動作にしか用いられていません。神専用の《造る》という動詞です。  8. このことからも 聖書は表現の問題だという命題が有効ではないかと考えられます。憶測をすれば 神は《モノが自己運動を起こすようにその仕組みを作ってやった》というような意味をこのバーラーが持ち得るとさえ考えられます。  9. エローヒームのほかには 神の名として次が挙げられます。  ( a ) yaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー):    意味は《 He-makes-be. かれは有らしめる》というのが一説。  ( b ) 《 ’eHYeH  ’aser  ’eHYeH エフィエー アシェル エフィエー》:    《 I-am that( who ) I-am. 》    《〈わたしはある〉 それがわたしである》。    以前には《わたしは 有りて有る者》と訳されていた。  10. 前項( b )の《エフィエー ’eHYeH ( I-am )》は じつは この質問での《 ィエヒー yeHi ( He-is )》と同じ √HYH (to be)なる動詞の人称別の活用形です。ィエヒー yeHi には √HYH について子音の省略があります。しかもこの be 動詞は ( a )の√HWH (to be)と互いに異種つまり姉妹形みたいなものです。前項( a ) YaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー)は その be 動詞の使役形です。  11. 旧約の時代から聖書記者らにあっては 神学は 《存在》論であったことになります。  12. あるいはつまり エワ(イヴ)は ハーワーと言って √HWH なる語から来ています。《ある。生きる⇒いのち》といった意味を帯びたものと考えられます。アダムは 土で造られ死ねば塵になるの《土 または 赤い》とつながっていると言われます。  13. こう考えるなら 神の名前の多形は それほどその多さには力点は置かれていないと思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。・・・  こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (創世記 1:27) 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。  ▲ (創世記 2:18-22) ~~~~~~~~~~  18: 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」  ・・・  21: 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。  22: そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこの《齟齬》についても護教論よろしく弁明につとめるとすればですが そうすると次のように解釈するのでしょうね。  ○ 《 1:27 》では 《ヒト》なる生物種が造られた(生成した)。であり 《 2:18-22 》では 性差の問題を加味してヒトを説明した。  となるでしょうね。でもどちらも《造る》のですから 二度同じものを造っていますが。(造るは 両方で同じ言葉です(アーサー)。(バーラー=創造するとはまた違いますが)。  ▲ (創世記 2:24) こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。  ☆ というふうにも 話が展開されていますから 性差に焦点を当てたと。  ★ ~~~~~~~~~~~~   ☆ いまの聖書は それら(いろんな可能性・多様性)をとうぜん排除などはしていません。  ということはそのような表現も見られるということですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう意味ではありません。閉じられていず 明けられているという意味で言いました。  (つづく)

その他の回答 (35)

回答No.15

こんばんは。お礼をありがとうございます。 難しい文法論議にはついていけませんが、こういうことではないですか。直接話法で、  And God said, "(you(霊)) Let there be light" : あるいは、  And God said, "(”Spirit(霊)”,(you)) Let there be light" : と書けば2人称が主体の命令文。それを、間接話法で、  And God said, (it(霊)) Let there be light : で書くから、書いた人の視点で3人称が主語の命令文になる。命令文との本質的な関係はない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (あ)  And God said, "(you(霊)) Let there be light" :  ☆ これですと 一解として 《 you 》と呼んでいるからには 相手は二人称であって ふつうの命令法になります。つまりは  (い)  And God said, "(you(霊)) Make there be light" :  ☆ となる。つまり 《霊よ 光をあらしめよ》と二人称で呼ぶ相手に命令している。  (う) And God said, "(”Spirit(霊)”,(you)) Let there be light" :  ☆ これも同じくですね。  そして これらの《相手》である《 霊 / Spirit 》は けっきょく神( God )のみづからの霊のことだと考えられます。つまりは 実質的に言って 《一人称の主語への命令形》なのだと捉えられるのではないでしょうか。  (え) And God said, (it(霊)) Let there be light :  ☆ この場合というのは どういう中身になっていましょうか。神( God )は 《 (it(霊)) 》に呼びかけているのでしょうか? それとも これは 頭の中に思い浮かべているけれども 特には呼びかけてもおらず・また近くにいるわけでもない ということでしょうか?  近くにいてもいいのですが 問題は この《 (it(霊)) 》に言いつけているのかどうかです。  だれに・何にむかって 命令しているのか? ではないでしょうか。  そうして 英文にかんするかぎりでは  (お) Let there be light.  ☆ この命令文は けっきょく相手がいるのかどうかも分からないかたちですが でも二人称の相手に言い渡している恰好なのだと思うのですが 違うでしょうか。  ちょっと分からなくなってきましたが 言葉の問題としてなら 英文は 二人称の相手に命令している。そして へブル文は それとして=その文法として三人称主語に向けて 命令しているかたちを採っている。  ということではないかと思うのですが。・・・

回答No.14

自分の関心として、「これ」には意味がないか? を考えていたんですが、thereがあったので、なぜかこちらの回答をつくることになってしまいました。 「一面的に捉えて矛盾する見解は二面的に捉えることで解消する」ので、神の視点と聖書記者の視点に分けて考えます。 ・神は、神の霊に向かって命じた。(神にとって2人称) ・私は、神の霊によって、そこが光のある場所であるという意味を知った。(私にとって3人称) (私は、霊を通して、神が語るのを聞いた) 神は(神の霊に)語っている「そこが光(のあるところ)であるとしなさい」と。 (こうして私は、神の霊力によって、「「そこ」は光のあるところである」という意味を経験したのである)  聖書は霊性を獲得し言語を持ったヒトの歴史から始まるという解釈になりますね。天地の創造など荒唐無稽でぼくには信じることはできませんが、ヒトが「天」や「地」を概念把握するのは神秘的な力によるということは信じています。この現実があるだけで神秘です。  言語獲得以前の動物であるヒトはクオリアはもつでしょうが秩序なき混沌だと思われます。赤子の見る世界もそうでしょう。そして彼らは神秘に気づかないと思います。ヒトと神秘との出会いから物語がはじまっても聖書の価値は損ねないとぼくは思います。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  今回は わたしは別様の視点を持ちます。結果は同じようになるかも知れませんので 異論というまでには行かないでしょうか。  その前に この質問を考えついたのは 次のような発言を別の質問への回答にもらったからです。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「聖書の<創造主なる神>はあくまで物語です」ということは、あんなことはたとえ話であり、フィクション、虚構に過ぎない、というのですか?  だけどそのフィクションが2000年にもわたって、西欧の人々に信仰されてきた事実の重みというのを、どう考えたらいいのでしょうか?  単なる絶対と相対との隔たりを確かめるための、たとえ話だと?  冗談でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 聖書は 多くの場合に表現の問題であると言い 神を創造主として描くのも 文学的な表現の問題であるとは わたしが言ったことです。そういう視点を持ちます。  ただし この絶対者による世界の創造説については 《無からの創造 creatio ex nihil 》というときの《無》は この経験世界における《有》の成り代わった相対的な無ではないのですから・つまり 絶対無と言っても絶対有と言ってもよい絶対領域のことですから 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かない。とは考えます。  単純に言えば 《創造者と被造物との関係として世界は成っている》説と《絶対領域からおのづから――どういうわけか――現われたモノの自己運動として世界はある》説(≒進化論)とは どちらも一方のみをただしいとしては決められない。と思っています。  この非知なるナゾゆえに――わたしは――  ★ ヒトが「天」や「地」を概念把握するのは神秘的な力によるということは信じています。この現実があるだけで神秘です。  ☆ という見方になります。  そして  ★ 聖書は霊性を獲得し言語を持ったヒトの歴史から始まるという解釈になりますね。  ☆ このことは 真実だと思います。    つまり アブラハムおぢさんに《非思考の庭》が成ったという信仰が始まった。(それ以前にも 信仰はあったとすれば それは 必ずしも自覚されていなかった。かまたは ただ自然現象やいわゆる英雄のはたらきに人間わざとも思えず理解も出来ず何とも不思議なチカラを感じた・ゆえにこれを受け容れたといった心の状態であったと考えます。これを 《非知》として捉えるところまでアブラハムは到ったのだと)。  もう少し継ぐとしますと ですから アブラハムのこの歴史的出来事をとうとぶ人びとは むろんその信仰の保持をねがったし そして過去の歴史にもさかのぼって行った。  その結果 ひとつに人類の始祖としてアダムとエワとを見出した。(想像をたくましくして 描き出した)。善悪を知るということや 同じことで自由意志の問題を捉え物語にして編んだ。そのあとカインとアベルのところでは すでに《ひとごろし》という主題をも扱った。・・・というようであり さらには  さらには 天地の初めにまでその観想のごとき想像力を伸ばし切った。伸ばし尽くした。そしてこの経験世界の起源については 自分たちがアブラハム以来いだくようになった信仰つまりその神との関係として 当然のごとく描いた。  神による天地の創造というかたちで物語ったのは それら聖書記者のそういう自己表現じょうの好き嫌い(クセ・エートス)によるものと考えられます。  被造物の最後のほうでヒトが造られたというのは いわゆる進化論とそれほど変わらない。《絶対領域ないし絶対者》を話に採り入れるかどうかの違いだけだとさえ考えられます。  さて:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  「一面的に捉えて矛盾する見解は二面的に捉えることで解消する」ので、神の視点と聖書記者の視点に分けて考えます。  ・神は、神の霊に向かって命じた。(神にとって2人称)  ・私は、神の霊によって、そこが光のある場所であるという意味を知った。(私にとって3人称)  (私は、霊を通して、神が語るのを聞いた)  神は(神の霊に)語っている「そこが光(のあるところ)であるとしなさい」と。  (こうして私は、神の霊力によって、「「そこ」は光のあるところである」という意味を経験したのである)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは むつかしいですね。よしこれだとも いやそれは違うとも どちらの反応もまだわたしは採れないように思われます。  ★ ・神は、神の霊に向かって命じた。(神にとって2人称)  ☆ ということは 部分的にも《二人称による命令法》が混じっているということを意味します。  それとは別に確かに  ★ ・私(=聖書記者つまり人間)は、神の霊によって、そこが光のある場所であるという意味を知った。(私にとって3人称)  ☆ というふうに《三人称〔のモノ・コト・場〕》は現われますが ひとつにこれに命令するわけではないこと。もうひとつに 《そこが光のある場所であるという意味を知った》というとき すでに《光》なる言葉もしくはそのモノとしての事実が出て来ているのではないかと思われるからです。  ただしです ただし そのあとにどんでん返しのような仕掛けが組まれてもいるようです。  ★ (私は、霊を通して、神が語るのを聞いた)  ☆ すなわち いままで取り上げたふたつのコトはすべて《わたし(=聖書記者)の言ってみれば〈非思考の庭〉におけるヒラメキにおいて与えられた霊感》である。と説明したときには 上に触れた《命令なる行為》だとか《光りなる言葉と事実》だとかの問題は その《観想・直観・インスピレーション》の中におさまる。ことになるからです。こういう仕組みなのですね。  ★ 神は(神の霊に)語っている 「そこが光(のあるところ)であるとしなさい」と。  ☆ これは ねむねこ氏とともに考え出した《一人称によるみづからへの命令という実質的意味》説ですね。言いかえると ただしその文法形式としては あくまで三人称主語への命令というかたちを採ったしこれを堅持したのだと。  というような舞台じょうの暗転やらフェイドアウトのごとくの変転を経て 最後には:  ★ (こうして私は、神の霊力によって、「「そこ」は光のあるところである」という意味を経験したのである)  ☆ というふうにも再びのごとく わが主観の内におさまる。すべては一場の夢だったのかと言うまでに。  しかもそれは 《非知》なるナゾとして・またそれを受け容れたわが心なる《非思考の庭》としては じつは――想定じょう――現実である。想定として現実である。(無現を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるという想定)。  非知を・あるいは絶対なる想定を 削除するわけには行かない。人工物ではなく人間の想像の産物でもないからである。    というわけですが 言葉の問題としては 《実質的な一人称への命令》説とそしてそれに伴ってのように《光なる言葉とそのモノとしての事実とが同時に生成した(造られた)》という同時説は この《直観の物語》とともに成り立つように思われるからには これだけでよし とするわけには行きません。という捉え方になると思います。  ★  言語獲得以前の動物であるヒトはクオリアはもつでしょうが秩序なき混沌だと思われます。赤子の見る世界もそうでしょう。そして彼らは神秘に気づかないと思います。ヒトと神秘との出会いから物語がはじまっても聖書の価値は損ねないとぼくは思います。  ☆ じつは これにも別様の視点を持ちます。(結果は 同じようなことになるかも知れません)。  赤子において すでに――母親の乳を吸うときから始まって――《聖なるあまえ》をおのづから生きていると思われます。無条件に依存していますし 依存して行きます。  この聖なるあまえは ものごころが着いたあとは きよらかなおそれとして持たれつづけると見ますが ここにはすでに《秩序ある混沌 あるいは 混沌なる秩序》が根づいているし 息づいている。こう見たいのです。  ★ そして彼らは神秘に気づかないと思います。  ☆ とつづくと思います。

  • pinetoil
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.13

わたしの意見が訊きたい   ↑ 聞いてどうするの!? それに 先駆者ヨハネが居た様にオープニングアクトだけで良いのです

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~   わたしの意見が訊きたい    ↑   聞いてどうするの!?  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから タテマエとしてだけでもと言いました。ウワベだけとしてでも 相手と話をするのだという姿勢がないのならば 誰もかまってくれないでしょう。それは 話し合いではないからです。ただの一方的な押しつけでしかないからです。  ★ それに 先駆者ヨハネが居た様にオープニングアクトだけで良いのです  ☆ その背景や何を根拠として言っているのかや もろもろの説明をするのが まづ最初の仕事です。そこから対話には入ります。  要するに蛸壺に入ったまま かろうじてこの質疑応答の場などに出没して投稿をする。相手が応じて来たなら もうけものだ。といった態度では まづ何も大切なふれあいなどは望めないでしょう。とおおしえします。    

  • pinetoil
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.12

教えて貰ったサイトは必須項目多いですね・・ ベストアンサーとかポイントとか要らないので 毎回アドやID変える俺には不向きみたいです なので・・・ 聖書・・旧約聖書 新約聖書は 共に イエスキリスト死後から次のキリスト降臨迄の人達に理解出来る様に書かれました なので 新しいキリストが全て語った現在 聖書自体無意味・・特に新約聖書に於いては キリストの再臨の時期 再臨する国 そして再臨した時に イエスの時みたいに キリストを信じない人達が どういった行動に出るのか等を書いた書物・・ なので 既に再臨し キリストの役目を果たした今となっては古書なだけ・・ そして 新時代に相応しい「成約聖書」と言うのが これからは広まります

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  或る程度分かりましたと言えば 分かりました。ネームを代えてのご投稿でしたか。  おそらく いまの書き込みの仕方だと けっきょくご自分の側の仮説の宣伝であると見られておしまいとなる可能性が高いですね。  なぜなら すでに歴史は決まっていると言っているだけの内容になっているからです。煮詰めてみれば それだけになっているわけです。  相手とのやり取りが 成り立たない態度がそちらには決まっているわけです。  ★ 「成約聖書」  ☆ を明らかにすること。これを伝えて 相手に受け容れさせること。その内容をさらに詳しく深く自分にも相手にもおしえ込むこと。――こういった仕事しかないと分かっている恰好です。  そりゃあ 嫌われます。嫌われる前に 話をしたくないと言うでしょうね たいていの人は。  それでも どうしてもその仮説を人びとに問うてみたいと言うのなら・タテマエとしてだけでもそういう人びとへのうったえがあると言うのなら その仮説の内容を かくかくしかじかであるが どう思いますか? と問えばいいのです。質問をすればいいのです。  もし質問をするのではなく このわたしの意見が訊きたいというのであれば ここでもよいですから 主題ごとに・項目別にひとまとまりの内容を順に 書き込んで行ってください。取りあえずひとつでもいいわけです。     今回の内容は きわめて大ざっぱな輪郭のみだと思います。  十四万四千人の話などは それでも聖書の文句を挙げて話をおしすすめている部分がありました。  こんどは それもなく推測と呼ばれても仕方のない預言のようなものだけを示しているのでしょうか?  こういったことを考えます。

回答No.11

ドイツ語ですと、この部分はもっとスゴいことになるようです。  Gen. 1:3 【独】 Und Gott sprach: Es werde Licht! und es ward Licht. ───ただし、ドイツ語には三人称に対する命令法がない─── ここでは《接続法1式(2式と比較すると実現可能性が高い)》が使われており、命令的要求とか命令的話法という用法なのであろう。 話者の意思や希望・願望などを接続《法》で表わす。 ちなみに、このEsは、Es gibt構文や「雨が降ってる」の「Es regnet.」のesです。 状態を表わすためのお飾り主語esといったところでしょうか。 ~~~~~~  Es werde Licht.   明かりがつく。 http://ja.wiktionary.org/wiki/werden ~~~~~~ このあたりの感覚は、Nativeやドイツ語圏で長く暮らしたことのある方でないとたぶん分からないのでしょう。 文法的にはwirdが正しいと思うのですが、聖書の影響でwerdeとなっているのであろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  接続法と《形式主語と呼ばれる Es 》の問題 ふたつあるということですね。  接続法はその一般的な用法は分かるつもりですが ドイツ語の I式・II式といったことは―― いちおうまなんだはずですが――すっかり忘却のかなたです。いまの感覚として。  No.8でぷらぽたさんと 接続法の話をしました。わたしは  ☆☆  接続法は けっきょく想像法なのだと思います。想定することを表現しておきたいというかたちでしょうか。  ☆ と書きました。  ▲ Gen. 1:3 【独】 Und Gott sprach: Es werde Licht! und es ward Licht.  ◇ 文法的には wird が正しいと思うのですが、聖書の影響で werde となっているのであろうか。  ☆ 《 werde 》なる活用形に いくらか疑義のようなものが持たれるというのですね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  ちなみに、このEsは、Es gibt 構文や「雨が降ってる」の「Es regnet.」の es です。  状態を表わすためのお飾り主語 es といったところでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては たぶん結論の出にくい議論がたたかわれているのではないでしょうか。(もう放っておかれているかも知れませんが)。  そして これはねむねこさんとすでにやり取りしました。  【Q:《 It rains. 》は 《天 降る》か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8144643.html  まだ――互いに決定打が出せずに――何となくあいまいな感じでいますが。  二点とも わたしとしては 保留です。

  • pinetoil
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.10

ついでに・・・神を語るには 質問内容から かけ離れるので 質問者が 質問内容と回答の意図が違うと思えば それでオシマイなのです

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。  いえいえ。質問者たるわたしが そういうことはしません。アラシの場合は べつですが。  あるいはぎゃくに あなたが質問してください。そういうことでしたら わたしは投稿しますから。

  • pinetoil
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.9

あなたに話したい事は色々あるが 此処で書いても 運営規定で削除されるだけ なので短文にしかならない これも 恐らく 削除対象・・ この方式を 変えるのを まずは優先にしないと駄目なのです

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  この質問でもだいじょうぶだと――と言っても確固たる保証があるわけでは確かにありませんが――思いますよ。  たとえば 創世記の記事に触れて そこから広げて行くといったかたちを採るなら 楽勝ではないでしょうか。  あるいはいまでしたら  【Q:『聖書』は 日本人には要らないか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8834570.html  ここがいいです。主題の幅が広いですから。

noname#214841
noname#214841
回答No.8

回答番号6のplapotaです。 指示形、願望形といふのですね。ありがたうございます。さういへば、以前もconstructやabsoluteの訳語を教へていただいた覚えがあります。 さういふことでしたら、指示形は、命令と願望の中間に位置するのでせうか。 >>先ほどの入門書では 存続時制( imperfect )の活用形が >>ヒフイル態(≒使役法)では 変化すると言っていますよ。 ヒフイル(使役)の件はどうもよくわからないのですが、たちまち、質問文の用例は、パアル(ふつうのやつ)ですね。 >>《現在時における存続が 未来にもおよぶ》といった >>主観の意志ないし判断だということですよね imperfect というのは。 おつしやるとほり、基本的に継続のアスペクトです。 jussiveの場合は、継続では意味をなさないので、印欧古典語でいふ接続法のやうなものではないかと考へてゐます。サンスクリット語の命令法は、接続法の発展ではないかといふ説をどこかで読んだ気がします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ヒフイル(使役)の件はどうもよくわからないのですが、たちまち、質問文の用例は、パアル(ふつうのやつ)ですね。  ☆ あ そうでしたか。ヨーセフなどは ヒフイル態の文例かと思いましたが。  ★ jussiveの場合は、継続では意味をなさないので、印欧古典語でいふ接続法のやうなものではないかと考へてゐます。  ☆ なるほど。そういう細かい点にも注意が必要でしたか。    つまりは 現在時において まだその動作などが存在していないということですね。  だとすると 継続相というだけでは 説明しえない。  接続法は けっきょく想像法なのだと思います。想定することを表現しておきたいというかたちでしょうか。  文法のほうから 決定的なヒントは出ないですかねぇ。

  • pinetoil
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.7

人間が 何か 物を造る時 言葉を発しますか!? 頭の中で考え どうすれば良いかを思考しながら 黙々と造りますよね 神も同じ・・・・宇宙を創造してる時に 言葉なんて発していません 聖書では 神が 心の中で思った言葉だろーと考え それを 読者に伝えるのに 適した言葉が たまたま「光あれ」だっただけ

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 聖書では 神が 心の中で思った言葉だろーと考え それを 読者に伝えるのに 適した言葉が たまたま「光あれ」だっただけ  ☆ これはじつは・つまり 聖書記者の表現の問題という主題は つとに問い求めて来ました。  おっとまづは ご回答をありがとうございます。  たとえばちょうどいまさっきまでも 次のような質問をしています。:  【Q:《ねたむ神》は ただの表現の問題である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8832934.html  《ねたむ》のは 神のもとに集まる人びとがであるという議論です。  ★ 聖書では 神が 心の中で思った・・・だろーと考え  ☆ その心の中の思いがたとえば《ねたみ》であるなら そのように表現したのだと。つまりは 聖書記者の・ということは一般に人びとの思いの問題であり それをどう表わすかという表現の問題であるのではないかと。  この《光あれ》も じつは・と言いますか もともと確かに表現の問題であると考えます。  ただしたぶんこのくだりについては そのように内容から攻めて問い求めるよりも 一たん言葉の問題として捉えて ひとまづの結論を出し 出来ればさらに内容について考えて行く。こういう二段構えで臨んでいます。    言いかえると ここでは・こういう出で立ちにするならば  ★ 神も同じ・・・・宇宙を創造してる時に 言葉なんて発していません  ☆ と言って説明し切ることはかなわない。のではないでしょうか。特には 信じる信じないとは関係なく聖書について哲学するときにはです。  あるいはつまり あなたも  ★ 〔神が〕宇宙を創造してる時に  ☆ と言うのなら この創造主としての神を――表現の問題に入らずに――そのまま前提として話をなさっています。  おそらくこの点にも 哲学の疑問は及んで行くかと思います。  単純に言うとすれば  ★ 人間が 何か 物を造る時 言葉を発しますか!?  ☆ に対してなら なかには発する人もいる。となるはずです。独り言なる表現法のもんだいですね。  なかなかむつかしいですよね。  話の出発点として何を置いているのか・あるいはそもそもどういう前提ですすめるのか。むつかしいです。  ですから  ★ それを 読者に伝えるのに 適した言葉が たまたま「光あれ」だっただけ  ☆ であったとしても 今度はその表現をすでに前提としたときには どういう議論が成り立つか? になるのではありませんか?  いえ。前提がどうであるかにさえ関係せずに なぜ《三人称の主語に対して 命令法が用いられているのか》という問いは成り立つと思うのですが どうでしょう。(その場合にも 神にかかわる部分とかかわらなくてよい部分とが出て来ると思います)。  (光あれと言うのなら すでに《光》は 言葉だけとしてでも あるわけです。すでにあるものを あれと言っています。うんぬん。・・・)

noname#214841
noname#214841
回答No.6

こんにちは。ユージューフダン教のplapotaです。私が口出しするまでもなく、ねこさんの英語での説明や、ぶらげろさんのコメントだけで充分だと思ひます。 三人称命令法は、英独仏を学んだあとに古典語を学習する者が疑問に感じる項目です。サンスクリット語には一人称命令法もありますね。 ヘブライ語の命令法imperativeは伝統文法では、二人称だけです。質問文の事例は、jussiveです。命令の一形態で、おだやかな指示といつたところでせうか。もうひとつcohortativeといふのもあつて、命令の意図がさらにうすれて、希求法に近くなります。(日本語で書かれた文法書を持つてゐないので、「jussive」「cohortative」を正式に何といふのかわかりません。) ヘブライ語の場合は、imperfectのなかの一形態としてjussiveがありますから、現時点ではさうなつてゐないけれど、未来では、さうなるはずだ、そんなイメージではないでせうか。「俺がルールだ、俺が言つたのだから、さうなるのだ。」言霊思想に近いかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ねこさんの英語での説明や、ぶらげろさんのコメントだけで充分だと思ひます。  ☆ あ それは失礼しました。おそかりし由良の助でしたか。まぁ 中間の結論ですけれど。  ★ ・・・「jussive」「cohortative」を正式に何といふのかわかりません。)  ☆ キリスト聖書塾の『ヘブライ語入門』では   imperative: 命令形; 二人称に   cohortative: 願望形; 一人称に   jussive: 指示形; 三人称に  と言っています。名称が定番であるかどうかは 分かりません。  次は そうは言いながら 持論の展開なのですね。  ★ ヘブライ語の場合は、imperfectのなかの一形態としてjussiveがありますから、現時点ではさうなつてゐないけれど、未来では、さうなるはずだ、そんなイメージではないでせうか。「俺がルールだ、俺が言つたのだから、さうなるのだ。」 言霊思想に近いかもしれません。  ☆ ううーん。まづは なあんだ 爪を隠してたのかですが 大きな主題・課題になりましたね。  ▽ ( OnlineEtymologyDictionary: jussive ) ~~~    http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=jussive&searchmode=none  "grammatical mode expressing command," 1846,   from Latin iuss-, past participle stem of iubere "to bid, command,"   from PIE *yeudh- "to move violently, fight;" + -ive.  △ (jubeo) ~~~~~~~~~~~~~~ ( jussi, jussum ) 命ずる。命令する・支配する 2. 決定する;裁可する 3. ある事に取り決める; ・・・であると宣言する   (田中秀央)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ へブル語の外から見た見方ですので あまり参考にならないかも。  ★ ヘブライ語の場合は、imperfectのなかの一形態としてjussiveがありますから、現時点ではさうなつてゐないけれど、未来では、さうなるはずだ、そんなイメージではないでせうか。  ☆ あぁ だけど 先ほどの入門書では 存続時制( imperfect )の活用形が ヒフイル態(≒使役法)では 変化すると言っていますよ。  ▲ ( jussive= 指示形) ~~~~~~~~~   ヒフイル態が指示形になると 次のような母音変化が起きます。ただしアクセントの位置は変わりません。    (フォントが無くてすみません)   yasettir → yasetter : 隠してください。   yoosif →  yoosef : 加えてください。増えよ。   yaaqim →  yaaqem : 成就してくださるように。   (キリスト聖書塾編集部:『ヘブライ語入門』 1985 § 38-6 p.410 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ヨーセフは ラケルがなかなか子が生まれなかったところついに男子がさづかったとき さらにもう一人の子を自分に加えてくださいと言った。その言葉らしい。ヨーセフ=《増えるように》という意味の名前をつけた。  このように活用形が変化するから 中身が違うのかどうなのか。いまのところわたしには分かりません。  《現在時における存続が 未来にもおよぶ》といった主観の意志ないし判断だということですよね imperfect というのは。  言霊思想に行き着くような思想であるのか。  その可能性と言いますか そういう人間の思考や想像の余地がありうるだけに 結論はまだよう出しません。

関連するQ&A