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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《光あれ》という命令法は どういう実態か)

《光あれ》という命令法は どういう実態か

このQ&Aのポイント
  • 光あれという命令法は、三人称の主体に向けて語られているとされています。
  • 一人称に対する命令法は単数形と複数形があり、相手に語る形を採っています。
  • 二人称に対する命令法も相手に語られています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

お礼ありがとうございます。もうおやすみでしたら、お早うございます。 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。 まずこれへの応答がはぐらかされました。補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。 >《両論のバランスを取る》という扱い方も あまり意味を成さないわけなのです。何しろ 仮りの理解であるからです。 受け止めました。 >そしてしかも言語表現の問題としてなら ひとつの可能性と言いますかひとつの表現形式をえらび それに徹して仮りの理解を得られるようにと文章をはこんで行く。こういう作業をした結果が いまの聖書です。 言いかえると 表現形式は いろんなやり方がありうる。こうなるはずです。聖書記者は そのひとつをえらんだ。だけのことだと言えると思います。 承知しました。 >つまり そういう別の可能性の線で それぞれが自分の表現物語を著わそうと試みればよいわけです。 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。 >ちなみに 旧約聖書は いまのかたちに成ったのは ふたつまたは三つの記者グループの著わした《聖書》を合わせてまとめたものだと 聖書学では言われています。 そうなんですか。ご教示ありがとうございます。創作に多くの人の思想が関わっているのでしょうね。 >神をエローヒームという言葉で表わすグループ(エロヒスト派)と 同じくヤハヱーと表わすグループ(ヤハヰスト派)。さらにもうひとグループを加える見方も提出されているようです。 神は言われた。「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。 >グループどうしの間では いくらか・またはかなりの程度で互いにいわゆる文体が違うと見られています。違うから そういう区別を見つけることが出来たというようです。 なるほど。内容の齟齬はないのでしょうか? >たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。男と女とを造ったと書いている箇所と 男のあばら骨から女を造ったと書いている箇所とです。そういう事例があるようです。 こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、合成したものだから仕方ない。あるいは表現は違うが意味しているものは同じ。一般にはどちらかに受け止められているという傾向はあるのですか? >☆ ええ。そういう可能性からの描き方・著わし方もあるわけです。いまの聖書は それらをとうぜん排除などはしていません。 ということはそのような表現も見られるということですか? >☆ あぁ。いいことを言ってくださった。つまり まさにそういう《表現の問題》なのであって であるからには 《書かれたものが 歴史事実である》という説にしがみついていることは出来ない。さりとて まったくの表現の問題であるに過ぎないと言い切ってしまうわけにも行かない。 《表現の問題》が重要なんですね。それにどう切り込んでいけばいいのでしょう。表現そのものについての考察はいくらかして、一仮説として、自己は表現者だと捉えています。それに、自らアマチュア表現者であった経験から、具体的表現がどうこうは芸術表現に多少意見するものがあります。 >ええ。 このことを――実際には うりが・・・さんという人にですが――はっきりと証明したかったことなのです。少なくとも 或る程度の信憑性をもって説明してやりたかった。そういうことなのです。まさに この《いくつかの表現可能性としての聖書》 これが この質問で問い求めていた着地点です。 この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか? つまり、先ほどの 《表現の問題》にも関わりますが、現象(現された)したものについて、受け止め、自分なりの意味を 通して表象(表す)することが多様な可能性をもっているというような。 > またまた あともなどすさんにファイナルタッチを打ち出してもらった恰好です。 ファイナルアンサーではなくタッチ(?) >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」  ☆ ええ。そのように答えるはずです。 聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。 > ★ だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。  ☆ これはすでに触れて来ました。可能性のひとつとしてそれに徹して試みた表現のまとまり これが 仮りの理解を得させるはずです。ゆえに 《有用》なのです。 神への仮りの理解が《有用》なのですか?どんな風に有用なんでしょう。これがいまいち分かりません。 >《有る神》と《無い神》 理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。それが人間の浅はかさということでしょうか。 > こういうひとつの結論が得られます。これはおおきな収穫です。信仰という信仰は 《非知》なるひとつの神とそれぞれ《わたし》との関係であるとまとめることが出来ます。非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。 そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。 > ☆ これまでのシュウキョウのほうが 勝手に・自分勝手に踊り続けて来たのです。もうそろそろ組織を自己解体して シュウキョウには終止符を打ちましょうと言っています。 自業自得ということですね。シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。つまりせっかくシュウキョウから距離をとって我が身を安全地帯においたのに、またわざわざ危険地帯へと乗り込んでいっているように見えるので。 > シュウキョウの神は 思考と想像の産物であり 観念として言葉だけが踊っているものです。シュウキョウ者は 精神錯乱に落ち入っています。精神錯乱から出発しています。 過激ですね。この対応でよいのでしょうか。個人的平和主義者のぼくとは態度がちがうんですよね。 >このシュウキョウによって わたしたちが嫌な思いをさせられて来たのです。 そんなに嫌な思いがあるのですか。これも独断的ですね。シュウキョウを敵視する態度を表現の上で和らげられないですかね。相手を煽って悪循環に陥っているのではという懸念があります。 そういう面もあるけれど、どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  ★ 《表現の問題》が重要なんですね。  ☆ これは 二つの場合に分かれると考えます。  ひとつは ふつうに直截にあらわす方法とそして広くタトエを用いてあらわす方法とに分けて多様性を捉える場合です。これはいま扱わないでよいでしょう。  もうひとつは いまの場合であり 神という言ってみれば次元の違うナゾの何ものかをも それと同じ次元ではない経験世界における人間の言葉で表わそうとする場合の 表現の形式の問題です。  1. けっきょくこの神を 哲学によって表現し共通の理解を得ようとするかまたは文学として自由に表現するかに分かれると思います。  2. 経験合理性ないしその論理性を基礎として言葉≒概念を一つひとつ定義した上で理論づける哲学として表現する形式と そして広くそのような基礎ないし定義を決めずに自由に言葉を駆使し想像に〔も〕うったえてむしろイメージなどの喚起をおもな狙いとして表現する文学形式とがあり得ます。  3. そしていづれにしても 神を人間がその言葉で表わそうとするのは あくまで仮りの代理表現としてであります。補助線を引くだけの作業です。    4. そして補助線は およそ多種多様です。あらゆる可能性が試みられます。分かりやすい例を持ち出すなら 広く文学なる自由形式をさらに伸ばして 言葉を超えた表現形式としての絵画・音楽といった芸術による表現があります。  5. これらを内容とする《表現の問題――表現形式の多様性の問題――》を漠然と着地点として思い描いていたわけですが そこへとみちびく《ファイナル・タッチ》を打ち出してもらった。こういう意味です。  すなわち  ★ ファイナルアンサーではなくタッチ(?)  ☆ というときには そういう説明になると思います。  ★ 《表現の問題》・・・にどう切り込んでいけばいいのでしょう。  ☆ 今度の【Q:「これ」に意味があるのか?】には投稿しようと思います。  ★ この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか?  ☆ うりが・・氏に対するものとしては 単純に《聖書が文字通りの史実を書いたというのは 一面的な受け取りである》と示し得ればよいと思います。  そのほかに多様性としては すでにある書き物についての解釈の可能性と そしてさらになお聖書が書かれ得るという可能性との両方をふくみます。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~   >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」   ☆ ええ。そのように答えるはずです。  聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。その可能性がすでに現われているというところまでは意味しませんでした。そのように聞こえたとしたら すみません。言い過ぎだったかも知れません。  ★ ~~~~~~~~~~~   >《有る神》と《無い神》  理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ。選び得ることが 《有用》なのだと考えます。《仮りの理解として》に過ぎないとしてもです。  なぜなら 《有る神》にしろ《無い神》にしろ そのようにそれぞれ補助線を引いたゆえに人びとは おのれの非思考の庭のあり方を確かなものとすることが出来るからです。  もっとも広く言わば中立の《神》という言葉だけで・つまりそれだけの補助線で わが信仰が得られたという場合には 有用性が限られてしまいます。  けれどもたぶん 《非知》なる神からこの有神論と無神論とがいづれも互いに同等に――仮りの理解において――みちびかれるという命題は 哲学におけるその種の袋小路を打開することができると考えます。ゆえに 有用である。つまり これは 後ろ向きの有用性ではありますが。そう認識したら もうその問題は終わったというしろものですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ・・・非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。  そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間の浅はかさ》と認識する場合というのは 或る程度その意志行為が有効性を持つ場合だと思うのです。  ところが 《考えるべきオシエをそのまま無条件に受け容れ信じよというシュウキョウ》は その出発点において意志行為が 無効なのではないかと弾劾しています。そういう問題だと理解しています。  ★ シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。  ☆ 放っておくなら 同じほどの危険性があると考えます。  《アルケーの神以外に神はない》と繰り返すだけの自己表現をしか為すことのできない意志行為は 人間が死んでおり ほかの人間をもその墓場にみちびこうとしています。危険です。アルケー教以外には 創価学会・エホバの証人・幸福の科学・あるいは 意志行為を蔑ろにする決定論を説くカルヰニズムなどです。イスラームは 生活感覚としてよく分かるまでには到っていません。  ★ どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。  ☆ 意志行為としての無効に発する人間の思想も行動もみな 死です。可能性ではないわけです。と理解します。

bragelonne
質問者

補足

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。  ☆ これはもう共通の理解に立てたと思ったのですが。  つまり《補助線思考》というのは 一面でじっさい《思考しているし思考できています》。ただし 言語表現の次元をなお狭い世界だと見るときには そのような今度は高次の存在(ないし視点)としての神本体については 一向に思考はしていない。つまり とどいていない。つまり神本体に人間の思考が届いているかいないかは 人間には分からない。  ですよね?  ★ 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。  ☆ 可能性はあり得るという判断が 妥当だと考えます。  ★ すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。  ☆ アルケーの神なる神学への批判は まさに多様性を否定していることに集中しています。《アルケーの神以外に神はない》という命題の一点張りです。それ以外には 聞く耳を持たないという点に対してです。  《創造説を否定している》ことに対してわたしが――おぼえていないのですが――もし批判したとすれば それも《創造説を否定する見解以外には人間の思考はあり得ない》と断定している点に対してだと思います。  ★ ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。  ☆ いえ。進化論のたぐいのモノの自己運動説にも《こだわり》が同じほどあります。でも どちらも《仮りの理解》です。  ★ 「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。  ☆ 《多名神》と言いますか。  1. セム語で 神は《エル》です。子音だけで示せば √ ’L です。《 √ (ルート)》は語根をあらわします。《 ’ 》はア行の子音です。空白の一拍(ないし半拍)があります。  2. ふつうは 語は三子音から成りたちます。これを √’LH というふうに H を添えて三子音にして次の《神》を表わす語が出来ています。   ヘブル語   ’eLoH エローホ / ( pl. ) ’eLoHim エローヒーム   アラビア語  ’iLaH イラーハ  3. 定冠詞は 元は ハル( HaL)だったと思われ 次のように変化したと推測されます。   HaL ⇒ ( Hbr )Ha ハー     ⇒ ( Arab )aL アル  4. 定冠詞をつけて神を表わすと 次のようになります。   Hebrew : Ha ’eLoHim ハー・エローヒーム   Arabic : aL-’iLaH アル‐イラーハ > aLLaH アッラーハ(フ)  5. なぜ神を複数形で表わすか? 尊厳の複数だと言われています。(クルアーンでは 神が語るとき自称を《われわれ》と言っています)。  6. ちなみに ヨーメル( He-said 〔形は実は He-says 〕)という動詞は その主語の単複の数をも示すのですが これが 単数なのです。その主語のエローヒームは 複数形です。また創世記1:1の 《神は天地を創造した》の神はやはり エローヒームで複数形であり しかも《創造した(バーラー He-created. )》は主語が単数に用いる活用形です。  7. しかもこの《創造した(バーラー)》という動詞は じつは・実に 神の動作にしか用いられていません。神専用の《造る》という動詞です。  8. このことからも 聖書は表現の問題だという命題が有効ではないかと考えられます。憶測をすれば 神は《モノが自己運動を起こすようにその仕組みを作ってやった》というような意味をこのバーラーが持ち得るとさえ考えられます。  9. エローヒームのほかには 神の名として次が挙げられます。  ( a ) yaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー):    意味は《 He-makes-be. かれは有らしめる》というのが一説。  ( b ) 《 ’eHYeH  ’aser  ’eHYeH エフィエー アシェル エフィエー》:    《 I-am that( who ) I-am. 》    《〈わたしはある〉 それがわたしである》。    以前には《わたしは 有りて有る者》と訳されていた。  10. 前項( b )の《エフィエー ’eHYeH ( I-am )》は じつは この質問での《 ィエヒー yeHi ( He-is )》と同じ √HYH (to be)なる動詞の人称別の活用形です。ィエヒー yeHi には √HYH について子音の省略があります。しかもこの be 動詞は ( a )の√HWH (to be)と互いに異種つまり姉妹形みたいなものです。前項( a ) YaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー)は その be 動詞の使役形です。  11. 旧約の時代から聖書記者らにあっては 神学は 《存在》論であったことになります。  12. あるいはつまり エワ(イヴ)は ハーワーと言って √HWH なる語から来ています。《ある。生きる⇒いのち》といった意味を帯びたものと考えられます。アダムは 土で造られ死ねば塵になるの《土 または 赤い》とつながっていると言われます。  13. こう考えるなら 神の名前の多形は それほどその多さには力点は置かれていないと思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。・・・  こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (創世記 1:27) 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。  ▲ (創世記 2:18-22) ~~~~~~~~~~  18: 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」  ・・・  21: 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。  22: そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もしこの《齟齬》についても護教論よろしく弁明につとめるとすればですが そうすると次のように解釈するのでしょうね。  ○ 《 1:27 》では 《ヒト》なる生物種が造られた(生成した)。であり 《 2:18-22 》では 性差の問題を加味してヒトを説明した。  となるでしょうね。でもどちらも《造る》のですから 二度同じものを造っていますが。(造るは 両方で同じ言葉です(アーサー)。(バーラー=創造するとはまた違いますが)。  ▲ (創世記 2:24) こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。  ☆ というふうにも 話が展開されていますから 性差に焦点を当てたと。  ★ ~~~~~~~~~~~~   ☆ いまの聖書は それら(いろんな可能性・多様性)をとうぜん排除などはしていません。  ということはそのような表現も見られるということですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう意味ではありません。閉じられていず 明けられているという意味で言いました。  (つづく)

その他の回答 (35)

noname#214841
noname#214841
回答No.26

この質問にこれほど回答がつくとは思ひませんでした。もう24件ですか。bragelonneさんのブログに、結局は二人称ではないかとの見解について記載してあつたので、少しだけ追記します。 私が最初に三人称命令法に出会つたのは、ギリシャ語です。入門書の命令法の単元に、ユークリッド(エウクレイデース)『原論』の幾何学定理が練習問題として使用されてゐました。ですから、回答番号6で書いたとほり、三人称命令法は、 なるべくして、なるんだ。 今は、さうぢやないけど、私が宣言したから、未来はかうだ。 そんなイメージがあります。私のちやらんぽらんな頭は古典語に合つてゐます。二人称に置きかへる必要性など、まつたく感じません。ヘブライ語で指示形と呼ばれるのも、 指示書を作成したので、さうなつてよ。 といつた感じでせうか。 学生時代のギリシャ語の授業は、はじめは30人くらゐだつたのですが、英独仏などの現代語の感覚になじんでゐる人はどんどん脱落していつて、最後は峯くん(今は先生)とふたりだけになつてしまひました。このサイトでも、古典語の質問に回答して、ごくあたりまへの文法説明をしただけなのに、ブロック登録をされることがあります。古典語と現代語の感覚の相違については先日も質問したばかりなのですが、どうしてなのか、今もわかりません。三人称命令法は、私はそのまま三人称として、素直に考へることができます。頭が古いのでせう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  三人称主語への命令文 これに違和感がない。ということですね。  ★ 指示書を作成したので、さうなつてよ。  ☆ 違和感と言ったのは あまり適切ではなかったと さっそく取り下げたい気持ちですが つまり この《指示書を作成した》というとき 誰に渡すのか? そして《さうなってよ》というとき 誰に向けて言っているのか? これをもう少し明らかにして欲しいという思いは起きませんか?  そして 神が――天地創造のときに―― 《光》という三人称で表わすモノに そのモノがまだ生成していないときに あれと命令する。こういう分かりにくさも この文例にはあると思うのです。  そんなところでしょうか。

回答No.25

>つまり 文脈によるならば その当事者たちは理解できる――つまり一発で通じる――と採ってよろしいでしょうか? そうです。ただし、実をいうと、未来完了形は、会話ではほとんど使われないと言われています。No.24の例文のような場合も、単純な未来形で言うのが普通だと思います。 余談ですが、互盛央の「言語起源論の系譜」に、ヴァルター・ベンヤミンが、この Es werde Licht に注目した話が出ています。「それは光になった」、光を与えるのは「神」ではなく「それ」である、「神」は言語を創造の「媒質」として使うことで、言語が創造物を与えるようにさせる、媒質としての言語は、非人称でなければならない、などと書いてあります。消化できないので、御紹介するだけにとどめます。あるいは、もうお読みかもしれませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  こんばんは。わたしは肉が好きですが 毎回ほどよく焼けたステーキを食べる思いです。へんなタトエですが。  ★ そうです。ただし、実をいうと、未来完了形は、会話ではほとんど使われないと言われています。No.24の例文( Sie wird angekommen sein. )のような場合も、単純な未来形で言うのが普通だと思います。  ☆ いろいろなんですね。  ★ 互盛央の「言語起源論の系譜」  ☆ 互盛央は 図書館であの分厚いソシュール本を読んでいました。わたしはずるく振る舞いますので 途中で よっしゃ分かったと勝手に思って いまは中止しています。  最初の出だしなんかは これからいったいどういうヨーロッパ文明史が繰り広げられるのかと おどろきつつ魅せられつつ読み進んでいたことをおぼえています。  どこかに勤めている人のようで ほかにはあまり書いていないと思っていたのですが それは 論文でしょうか。そういうものをも著わしているのですね。  あれっ? ただし その主題は 逮捕ものだったんでは?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ヴァルター・ベンヤミンが、この Es werde Licht に注目した話が出ています。「それは光になった」、光を与えるのは「神」ではなく「それ」である、「神」は言語を創造の「媒質」として使うことで、言語が創造物を与えるようにさせる、媒質としての言語は、非人称でなければならない、などと書いてあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ。ベンヤミンも 触手が動きかけた(あれっ。食指を伸ばそうとした ですか)のですが ストップしています。  【Q:W.ベンヤミンは おもしろいですか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7206766.html  で尋ねて そのときは 中止しています。  ううーん。この説は あまりかんばしくないと思いますね。  つまり 言葉を媒質として世界を創造すると見た場合 そうでない場合と同じようにけっきょく《神が創造主であって 万物を創造する》ということには変わりない。からです。  《非人称》のことが出て来るのは そのあとだと思うからです。派生的な主題であると言いますか。  第一次の・主要な主題として《ことば》を持ち出したのは 福音書記者のヨハネですね。とにもかくにも ロゴスが神であった。神はロゴスであった。単純に言い切りましたから。  このロゴスによって成らなかったモノはないと。  非人称も三人称も どうしたい? 文句あっか? と啖呵を切るくらいに表現し切ったみたいですね。  どうでしょうか?  互盛央の言語起源論の本 今年の五月に出たのですか。知りませんでした。さっそく注文しました。  

回答No.24

>ということは――と調子に乗ってはいけませんが―― 未来完了形にもならない。ということですね。 あ、これはありえます。ただし、 Sie wird angekommen sein. だけでは、どちらか不明です。もし、 Sie wird morgen früh angekommen sein, wenn sie jetzt gleich abfährt. なら、「彼女は、今すぐ出発すれば、明日の朝早く到着しているだろう」という意味になります。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  少しほっとしました。    ○ Sie wird angekommen sein.  ☆ 不明つまり両義性つまり 推量と未来完了とのどちらにも受け取れるということですね。それとして文は成り立っていると。  つまり 文脈によるならば その当事者たちは理解できる――つまり一発で通じる――と採ってよろしいでしょうか?

回答No.22

>Sie wird jetzt schon angekommen sein. >彼女はまもなく到着するでしょう。→彼女はもう到着しているだろう。 >これが 右辺のように解釈されるのは 《 schon 》があるからでしょうか? schon がなかったら 左辺のごとく《彼女はまもなく到着するでしょう。》となるのでしょうか?  いいえ、なりません。angekommen sein が現在完了形で「到着している」ことを表し、wird は、この場合、未来を表すのではなく、推量を表します。したがって、jetzt、schon の両方を取ってしまっても、「彼女は到着しているだろう」という意味になります。「彼女は間もなく到着するでしょう」は、Sie wird bald ankommen.となります。

bragelonne
質問者

お礼

 しかと うけたまわりました。  スコーンと入って来ます。  しかし この段階にいるということは 道遠しの感をおぼえます。  でも前途洋洋と見ることにします。  ありがとうございました。  そしてご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄のあとにですが。  ★ wird は、この場合、未来を表すのではなく、推量を表します。  ☆ ここが ミソでしたか。  そしてそれは  ★ angekommen sein が現在完了形で「到着している」ことを表し  ☆ ているからなのですね。  ということは――と調子に乗ってはいけませんが―― 未来完了形にもならない。ということですね。  あまりにも鮮やかなご説明で 圧倒されてしまっていました。少し思考が戻りました。

回答No.21

こんばんは。 直接の回答はできませんが、ドイツ語について。 ネコさんのご覧になったドイツ語のサイトはまずいです。Es werde Licht はもちろん聖書の冒頭の言葉、「光あれ」で、「明かりがつく」などという意味にはなりません。「明かりがつく」は、Das Licht geht an. と言います。Es wird Licht. では、単に「光になる」と言うだけの叙述文になります。 接続法第1式について、文法書の解説を引用しますと、 主文において、命令の意味を持つことがある。これは特に、本来命令形のない単数3人称及び複数1・3人称の場合である。敬称2人称単・複数のにおいても、これに準ずる。 Man sage mir, was man will, an meinem Entschluß ist nichts zu ändern. 私に何か言いたい者は言え、私の決心は変わらない。 したがって、Es werde Licht! の場合、werde は、3人称単数の接続法第1式の活用形、esは非人称動詞の主語、つまり、人を主語にできない場合に使います(形式主語の es というのは、正しくは、受動態の文で使われる場合のことをいいます)。まあ、無理に直訳すれば、「それは光になれ」ということですが、es regnet (雨が降る)、es wird kalt (寒くなる)のように、主語としての意味はありませんので、訳出することはありません。ただし、この es と英語の there はもちろん対応しません。それから、英語の let に当たるのは、lassen ですが、「~させる」という意味なので、es werde~ のような命令のニュアンスではないですね。たとえば、 Jesus, lass es Licht werden für Menschen, die einsam, traurig und enttäuscht sind. また、英語の be と違って、werden は生じる、生成するという意味がありますので、「光あれ」というよりは、何もないところから生じるという感じで、「光よ生まれよ」となると思います。現代ドイツ語の意訳の聖書では、このような訳し方もあります。 Da sprach Gott: »Es soll Licht entstehen!« Da sprach Gott: »Licht entstehe!« Da sprach Gott: »Licht soll entstehen! « つまり、ドイツ語の逐語訳の場合は、es という3人称の架空の主語があることになり、Es werde Licht! という命令は、光に対して発せられたものではないことになります。見かけとしては、es がLicht になったわけで、3人称の主語は Licht ではなく、Licht という言葉が先にあったということにはならないわけです。少なくともドイツ語の逐語訳はこういう仕組みになています(現代ドイツ語の意訳の2番目の例では、Licht を直接主語にしていますが)。原典のことはわかりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ついでですので、間違いだらけのドイツ語のサイトのほかの文の訳も直しておきます。 Ich werde nach Hause gehen. 私は家に帰る。→私は家に帰ろう。 Sie wird jetzt schon angekommen sein. 彼女はまもなく到着するでしょう。→彼女はもう到着しているだろう。 Das Buch wird gerade gelesen. その本が読まれる。→その本はちょうど今読まれている。 以上、御参考まで。

bragelonne
質問者

お礼

 たすてん先生 まことにありがとうございます。  ねむねこ氏は 独自の応答をされると思います。  質問者が受け取ったところでは――そのまま受け留めた項目はそのままになりますが――  けっきょくドイツ語は ドイツ語独自の世界を持つ。ということになりましょうか。  このことは ちょうど先ほど あともなどすさんとやり取りしたところなのです。つまり 言語によって《光に対する言いつけ》の著わし方が違ってくるということではなかったのですが(言語によってではなかったのですが) 神についての表現の仕方は 幾通りもあり得るということを議論し そういう表現の多様性というひとつの結論を得ました。  聖書は 神を創造主とし人間たちを被造物として描いているけれども それは あくまで表現の問題であるということ。しかもこの問題は 表現形式の多様性という問題に帰着するはずだというものです。  ということは あたかもその多様性と同じことが 言語の違いによって難なく無理なく実現している。このように受け取りました。  すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、ドイツ語の逐語訳の場合は、es という3人称の架空の主語があることになり、Es werde Licht! という命令は、光に対して発せられたものではないことになります。  見かけとしては、es がLicht になったわけで、3人称の主語は Licht ではなく、Licht という言葉が先にあったということにはならないわけです。少なくともドイツ語の逐語訳はこういう仕組みになっています(現代ドイツ語の意訳の2番目の例では、Licht を直接主語にしていますが)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ Licht という言葉が先にあったということにはならないわけです。  ☆ すなわち もし三人称主語として《光(オール)》を立てた場合には あたかもその光が有ることを命じられて有ったというとき その《光》なる言葉もが 同時に生成しているかに――解釈としてですが――考えられると思われるからです。  これは 表現形式の多様性なのだと考えられます。それは 神が《非知》ゆえだというのは 質問者〔と あともなどすさんと〕の見解です。  もっとも 《見かけとしては、es が Licht になったわけで》というとき その《 es 》は――屁理屈をならべますと―― 《やがて Licht に成る何か》でもあると解釈し得ましょうか。し得るとしたら ドイツ語が 独自性を持つと同時に ヘブル語ないし一般的な考え方からいちじるしく離れて行ってしまうわけではない。こう考えられます。  こういう収穫を得させていただきました。    ○ 有る。成る。生まれる。生じる。  ☆ これらの用い方に関心を持ちました。つまり 《有る》以外は 現代ドイツ語が用いたようにはあまり使われなかったとしたら それは何故か? もはや今は保留ですが。  言葉のことで あとひとつおしえてくださいますか?  ○ Sie wird jetzt schon angekommen sein.  彼女はまもなく到着するでしょう。→彼女はもう到着しているだろう。  ☆ これが 右辺のように解釈されるのは 《 schon 》があるからでしょうか? schon がなかったら 左辺のごとく《彼女はまもなく到着するでしょう。》となるのでしょうか?   すみません。ありがとうございます。

回答No.20

 ☆☆ (No.14お礼欄)  ~~~~~~~~~~~~~  ただし この絶対者による世界の創造説については 《無からの創造 creatio ex nihil 》というときの《無》は この経験世界における《有》の成り代わった相対的な無ではないのですから・つまり 絶対無と言っても絶対有と言ってもよい絶対領域のことですから 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かない。とは考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここで、《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。 そして、このように絶対領域の肯定・否定の考えは、 ・分かる ・分からない ・分かるか分からないかがわからない のうち、分かる(考えることができる)のであるから、絶対領域のことを考えることができる。すなわちここでとりあつかう絶対領域とは非思考の庭のことではない。つまり、何の言及もできるものではないのにもかかわらず、少し触れていると言われるのはどういうことでしょうか。 創造説の是否両論を考えることができるが、どちらも支持せず、思考停止する。そういう領域に触れるには、 一方に立場に立って、その説を固持するのではなく、両論バランスよく、Aでもあり非Aでもある事態として取り扱うべきであり、他方を排他的に取り扱うべきではない。 ところが、(両立の事態を念頭に置きながらも)、たとえば、ぼくが否定、ぶらじゅろんぬさんが肯定の立場で、敵対的に論じ合うことになってしまう。両面的に論ぜず、一面的に論じてしまう。どちらも悪者になってしまう。 それは、相対的な世界での言語やなんやらを対象した論だとはいえ、もし非思考の庭に思考が触れるようなことがあるのならそれは、考えられる事態を総じて論ぜねばならない。こう思います。 すると、神が光を何人称で捉えているのかという問題でしたら、一人称・二人称・三人称どの場合の肯定否定も扱うことになる。もう少し単純化すると、神にとって光は自称か他称かという問題になる。もちろんどちらも考えられ、どちらかに固持しないことが正しい触れ方である。 したがって、聖書記者がそれを三人称に限定して書く事は、やっちゃいけないことではないか。やっちゃいけないことをやってしまったのをみて、それに賛同して、さらに強調することは、さらにやっちゃいけないことで、こういう場合は、バランスをとって、それを否定、というより、その否定を主張してあげなくちゃいけない。 ということで、屁理屈になりましたが、聖書記者にむかって、神は光を自称とも他称とも捉えているはずだよ。光は神自身であるという可能性を排除しちゃいけないよ。と主張するのが妥当ということになりませんか。すると、神は自らを光として捉え、自らに命じるということは、意志するということであろうから、自ら光ったというイメージがでてきます。神は語った「光あれ!」というが、神は自ら光った、そういうイメージもありうるよ。命令などないんだよということになる。 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」 ならば余計なお世話かもしれませんが。 まあ、神に言葉で触れると、なんでもありになってしまうのでしょう。だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。そういう議論は有用なんですかね。結論の形はあらかじめ分かっており、人間の問題として、どちらかに決定しなくちゃならないという問題ではなくどちらでも可能。 したがって、ぶらじゅろんぬさんが、どちらとも判断しないというまともな立場、いいかえると安全地帯にいて、愚かな者たちがああでもないこうでもないと神に抵触する議論をする構造ができてしまっています。そんな風におどらされるのは嫌なものですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ここで、《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。  ☆ ええっとですね。  《非知》なる場を 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》という定義で想定したあとは この定義の概念が 仮りに《非知》を表わすものとして代理することになります。    言わば補助線だけを扱って 解答なる本体を何とか表わそうとし 何とか仮りにでも理解しようとしている。ということになります。  創造説を単純に否定するわけにも行かないというのは この《補助線=仮りの代理表現=シルシ(言葉)》でそのように思考しています。本体を思考しているわけではありません。  ★ つまり、何の言及もできるものではないのにもかかわらず、少し触れていると言われるのはどういうことでしょうか。  ☆ 代理表現〔としての言葉〕によって触れています。仮りに。  ★ 創造説の是否両論を考えることができるが、どちらも支持せず、思考停止する。  ☆ これは 取扱いが違います。仮りの議論については 仮りにそのように理解するというだけのことです。仮りの理解ですから 仮りの理解を得たというにとどまります。  ですから その仮りの理論を《支持するかどうか》は 問うていないわけです。ただしそれでも整合性はつらぬけと要求しているでしょうね。  あるいは 仮りの理論をかたちづくるということは その途中の段階であろうが 一応最後まで理論づけたという場合であろうが 《思考停止》かどうかは 関係ないことになります。仮りの表現として理解したというだけのことですから どこまで行けば思考停止するとか まださらに思考をつづけよとか そういう問題は 《仮りの理解》にとって どちらでもよいわけです。仮りの理解のほうが問題であり それは ただ仮りのものでしかない。  ★ そういう領域に触れるには、一方に立場に立って、その説を固持するのではなく、両論バランスよく、Aでもあり非Aでもある事態として取り扱うべきであり、他方を排他的に取り扱うべきではない。  ☆ これは その通りだと思います。ただし 細かいことを言えば 《両論のバランスを取る》という扱い方も あまり意味を成さないわけなのです。何しろ 仮りの理解であるからです。  もっとも整合性を この仮りの理論であっても だいたい目指すものとは考えます。  ★ すると、神が光を何人称で捉えているのかという問題でしたら、一人称・二人称・三人称どの場合の肯定否定も扱うことになる。もう少し単純化すると、神にとって光は自称か他称かという問題になる。もちろんどちらも考えられ、どちらかに固持しないことが正しい触れ方である。  ☆ 論理的にそうなります。  ★ したがって、聖書記者がそれを三人称に限定して書く事は、やっちゃいけないことではないか。  ☆ 論理的にそうなります。  そしてしかも言語表現の問題としてなら ひとつの可能性と言いますかひとつの表現形式をえらび それに徹して仮りの理解を得られるようにと文章をはこんで行く。こういう作業をした結果が いまの聖書です。  言いかえると 表現形式は いろんなやり方がありうる。こうなるはずです。聖書記者は そのひとつをえらんだ。だけのことだと言えると思います。  なぜなら ほかの表現形式をえらんだ場合にも まったく同じくけっきょくどれもこれも《仮りの理解》を得るための《仮りの理論または物語》を描き出したことになるだけだからです。  ★ 神は光を自称とも他称とも捉えているはずだよ。光は神自身であるという可能性を排除しちゃいけないよ。と主張するのが妥当ということになりませんか。  ☆ つまり そういう別の可能性の線で それぞれが自分の表現物語を著わそうと試みればよいわけです。  ちなみに 旧約聖書は いまのかたちに成ったのは ふたつまたは三つの記者グループの著わした《聖書》を合わせてまとめたものだと 聖書学では言われています。  神をエローヒームという言葉で表わすグループ(エロヒスト派)と 同じくヤハヱーと表わすグループ(ヤハヰスト派)。さらにもうひとグループを加える見方も提出されているようです。  グループどうしの間では いくらか・またはかなりの程度で互いにいわゆる文体が違うと見られています。違うから そういう区別を見つけることが出来たというようです。  たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。男と女とを造ったと書いている箇所と 男のあばら骨から女を造ったと書いている箇所とです。そういう事例があるようです。  ★ すると、神は自らを光として捉え、自らに命じるということは、意志するということであろうから、自ら光ったというイメージがでてきます。  ☆ ええ。そういう可能性からの描き方・著わし方もあるわけです。いまの聖書は それらをとうぜん排除などはしていません。  ★ 神は語った「光あれ!」というが、神は自ら光った、そういうイメージもありうるよ。命令などないんだよということになる。  ☆ あぁ。いいことを言ってくださった。つまり まさにそういう《表現の問題》なのであって であるからには 《書かれたものが 歴史事実である》という説にしがみついていることは出来ない。さりとて まったくの表現の問題であるに過ぎないと言い切ってしまうわけにも行かない。  ええ。 このことを――実際には うりが・・・さんという人にですが――はっきりと証明したかったことなのです。少なくとも 或る程度の信憑性をもって説明してやりたかった。そういうことなのです。まさに この《いくつかの表現可能性としての聖書》 これが この質問で問い求めていた着地点です。  またまた あともなどすさんにファイナルタッチを打ち出してもらった恰好です。  ★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」  ☆ ええ。そのように答えるはずです。  ★ だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。  ☆ これはすでに触れて来ました。可能性のひとつとしてそれに徹して試みた表現のまとまり これが 仮りの理解を得させるはずです。ゆえに 《有用》なのです。  ★ 結論の形はあらかじめ分かっており、人間の問題として、どちらかに決定しなくちゃならないという問題ではなくどちらでも可能。  ☆ けっきょく確かにそういうことであり そういうことであるのですが そのときには――仮りの理解として―― 《非知》なる神は 人間の言葉で仮りに表わそうとしたら 大きくはふたつの可能性がある。《有る神》と《無い神》とのふたつです。つまり 有神論と無神論とは 《非知》なる神のもとには 互いに同等でありどちらかを優位においてえらぶことは 人間にはかなわない。  こういうひとつの結論が得られます。これはおおきな収穫です。信仰という信仰は 《非知》なるひとつの神とそれぞれ《わたし》との関係であるとまとめることが出来ます。非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。  ★ したがって、ぶらじゅろんぬさんが、どちらとも判断しないというまともな立場、いいかえると安全地帯にいて、愚かな者たちがああでもないこうでもないと神に抵触する議論をする構造ができてしまっています。そんな風におどらされるのは嫌なものですよ。  ☆ これまでのシュウキョウのほうが 勝手に・自分勝手に踊り続けて来たのです。もうそろそろ組織を自己解体して シュウキョウには終止符を打ちましょうと言っています。  シュウキョウの神は 思考と想像の産物であり 観念として言葉だけが踊っているものです。シュウキョウ者は 精神錯乱に落ち入っています。精神錯乱から出発しています。  このシュウキョウによって わたしたちが嫌な思いをさせられて来たのです。

回答No.19

お礼ありがとうございます。 疑問があるんですが、いいでしょうか。 神が光を何人称に捉えているかを考えることは、常々語っておられる非思考の庭のこととして考える対象ではないのではないですか? ご自身のなかではやっていることと言っていることに矛盾はないのだと思われますが、ぼくには、それが理解しかねます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 神が光を何人称に捉えているかを考えることは、常々語っておられる非思考の庭のこととして考える対象ではないのではないですか?  ☆ これはですね。大問題がなお横たわっているということを意味しております。  No.14で まさにあともなどすさんからのご回答に応えて 次のように述べています。  ☆☆(No.14お礼欄)  聖書は 多くの場合に表現の問題であると言い 神を創造主として描くのも 文学的な表現の問題であるとは わたしが言ったことです。そういう視点を持ちます。  ☆ つまりこの問題――聖書は 多くの場合に表現の問題であるという件――が最終的に行き着くべき場所です。  ただし この《神による天地の創造》が単なるタトエなのか? と尋ねて来た人に対しては いまこのように言語の問題として扱っている内容でいくらかは そのタトエ説を補強するのに役立っているのではないかとも考えています。  聖書記者が どのように表現しようとしたか。その跡を追っておくだけでも 何をどのように表わすのがよいか。表わし得ない事柄をどのように想像の世界においてとしても あつかい表わして行けばよいか。を探っておくことにおいてです。  言いかえると 聖書記者たちは確かに 人間にとってはただただ《非思考の庭》にてあたかも繰り広げられる〔と言っても確かなことは分からないのですが〕信仰論ないし神学の内容 これを 思考の次元で仮りに・タトエとしてどう表現するか? ここにほとんどすべてが集中して行くものと思います。  こういった大前提の上で いまの問いを問い求め議論を展開して行こうとしています。  そうして 表現の問題というのは ありがたいことに一たん言語表現という場をもうけたなら その上で――仮象や仮想の事柄であっても――何でも論じることが出来るのだとも思います。  そういう仮りの場での・いまは言語論ないし文法論議になっているというわけだと考えます。  つまり そのかぎりで《非思考の庭》なるその中身のことであっても 簡単に単純に議論の舞台に乗せておき 自由に扱いうる。というかたちになっているかと思います。  つまり 神も絶対領域もそれと人との関係としての信仰のこともみな 言語の世界における一つひとつの項目であるという仮りの姿としてあつかっています。  その上では まったく単純に平面的に 神が出て来たとしても 一人称か三人称かとまったく経験事象のものごとと同じ扱いになる。こうなのだと思います。  でも 少しは 神の問題としても触れてはいます。  たとえば 先ほどのやり取りの中で:  ☆☆ (No.14お礼欄)  ~~~~~~~~~~~~~  ただし この絶対者による世界の創造説については 《無からの創造 creatio ex nihil 》というときの《無》は この経験世界における《有》の成り代わった相対的な無ではないのですから・つまり 絶対無と言っても絶対有と言ってもよい絶対領域のことですから 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かない。とは考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように触れてはいます。これは 言語表現の問題をはみ出す問題です。絶対領域と相対世界とのあいだには それこそ絶対的な隔たりがあります。それを無視して 平面的に一人称・二人称うんぬんと言っても かんたんには同じ次元で扱うことはできない相談なわけです。  そして言語表現の問題だと一たんことわった上では  ★ 神が光を何人称に捉えているかを考えること  ☆ は 仮りの世界における議論として成り立つ。こう考えます。  どうでしょう?

回答No.18

こんばんは。 >動詞の活用形としてすでに主語(三人称)を含みます。 矛盾というか、葛藤というか、パラドクスというか、ジレンマというか、疑問というかそれが生じる前提として了解しています。 ・三人称主語の命令法 ・神が語っている ・光が主語である これらのどれをも真実とすることが、この落ち着きのない状況をつくっています。これをぼくは言葉に操られている状態とみなします。言葉を操る立場に立たなければなりません。 > (た) すみません。このように一応捉えられる内容を前提として いまいちど説明をお願いできますか? これらを前提に説明せよとおっしゃっても、無理です。無知ゆえ乱暴に言えばそれらはデタラメです。 > (ち) 間接話法というのは たとえば次のような文例になるのですよね。  ○ 神は 光が有る(生まれてくる)ことを〔誰に? かは分からないが〕命じた。 そうですが、神が光を3人称として捉えている(と創作している)なら、聖書記者が間接的に語ったたことでの3人称ということは無意味なことです。すなわち、カッコつきで、直接こうです。    神は語った「そこにあれ! 光」  創世記のここのところは、「一日」を主題として、概念の獲得の歴史が綴られていく出発点です。生まれた概念を確認しつつ名づけていくところは、教育的でもあります。口承の様子を彷彿させます。 のちにこの光の当たる場所が「昼」と名付けられるところは、昼の意味が意義として確定したことを示しています。またそれは「夜」と対になって、最終的に「一日」の理解となる訳です。 このとき、昼の場所というものも伝承すべき獲得概念として重視しているなら、同じ表現でも    神は語った「(あの昼の場所としての)そこにあれ! (昼を生じるあの)光」  というニュアンスがあるという感じです。獲得概念を伝承する教育的配慮というか、そういう気持ちを想像すれば、相手の霊的な心に訴えて、以心伝心ではないですが、分かってくれ、閃いてくれ「あのことを」となるのではないかと思います。 そういう「あの一日の」「あの昼の」「あの光の当たっているところの」とかが伝承者の心の内にニュアンスとしてあるとは思います。そういう人の心の状態が言葉に反映するのであって、見えざる神、聞こえざる神の精神が言葉に反映するというのは、創作であっても受け入れがたいことです。創作者という人間の言葉なんですから。  しかし、霊感が働いて、神がかった言葉が生じるのかもしれませんね。なんだか分かりませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ぷらぽたさんにも尋ねてみたいのですが――ブログのほうで声はかけ終えていますが―― ここから結論を出すのは むつかしいですね。  けっきょく日本文で 《三人称主語の命令文》は出来ないです。  ぎゃくに言えば  △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  この訳文は 《光》なる主語が 話し手の《神》から見てどういう関係であるか(第何人称か)があいまいであるぶん あれっ これは三人称かなと思わせるところが ちょっとくらいはあるのかも知れません。  そして次のような分かったような分からないような状態にさせられます。:  ☆☆(趣旨説明欄)  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  ☆ すなわち 《光》をめぐって その言葉というものと そのモノとしての事象とに分かれてそれらの関係はどうなんだ? という問いが発せられます。いちおうこれについては 神にとって《言葉》と《モノ》との同時生成説を出してはいますが。  そしてなお確認しておきたいと思いますが 《ィエヒー(あれ) オール(光が)》というときの《ィエヒー》は 初めに 子音の y が添えられていて これが明らかに《三人称の主語に対するこの動詞(ハーヤー)の活用形》であるということです。これは揺るぎません。  ですから あとは あともなどすさんの見解としては その文法形式のほかで 意味上の実質的な中身としては 光を二人称の相手としてあつかっているか。または 神の霊を二人称として扱うことで 実質的に一人称主語つまり自分自身への命令となっているか。だと考えられます。  《一人称主語つまり自分自身への命令》説を ねむねこさんとわたしは いちおう採りました。  ただし あともなどすさんの見解としての 《二人称主語への命令》説も 捨てたわけではありません。なぜなら 一人称主語説においても その一人称=自分自身を 二人称の相手として捉えていても 何ら同じことになる。実質的な中身として何ら変わりない。と思っているからです。  光から昼と夜 あるいはそれらで形作る一日などの説明を承けました。それらを含めて考えて いまの問題とそのありかは いま上に述べたところに横たわるのではないか。とは思っています。  いましばらく開いていようと思います。  ぷらぽたさんなり 専門家からの見解もが聞かれるとよいとも思います。  納得できませんか? 最終的に判定するちからは いまのわたしには残念ながら ないのです。

回答No.17

>純粋に一人称への命令としては:  (き) And God said to himself(the Spirit of God), "Let me make there be light"  ☆ というようなことは言えませんか? それは、こうでしょう。   And God said to himself(the Spirit of God), "(命令文で省略されるyou) Let yourself make there be light" もう一人の我を認めたからには。meだと、神が自身で働くことになります。 >そしてその文例は けっきょく実質的に言って    (く) 「そして神は自身に語っています『汝、我が霊よ、そこを光のある場所とせよ』と」  ☆ という文と同じことになるのだと。 そこは、つまり、(き)は「そして神は自身に語っています『(汝、我が霊よ) 我にそこを光のある場所とさせよ』と」ということになり、神の霊に神が使役されるように神が命令するということになります。 >つまりそうではなく 三人称主語の命令形は よほどのことでないと 使い難いというように思ったところから出発しています。  よほどもなにも、相手のyou二人称のみが命令文の主語になり、それが前提で省略されるのであって、それ以外の人称を主語とする命令文はない。三人称に変わるのは間接話法になるためではないかと言っています。ですから、命令文とは関係がないのですよ。 >(質問文) 1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。 その言語に、命令法に三人称を主語としたものがあるとは断言されていません。そこから出発しています。すなわち、「三人称の主体」とは、命令文とは関係なく、聖書記者(一人称)、聖書読者(二人称)にとっての、三人称(神の霊)になるということです。それ「に向けて」神は語っているのだよと、聖書記者(一人称)が聖書読者(二人称)に物語っているわけです。 物語の内容の世界と、物語る世界を分けて考えてみてください。物語る世界での三人称なんです。というのがぼくの意見です。こう考えれば、疑問は解消するのではないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★  よほどもなにも、相手のyou二人称のみが命令文の主語になり、それが前提で省略されるのであって、それ以外の人称を主語とする命令文はない。三人称に変わるのは間接話法になるためではないかと言っています。ですから、命令文とは関係がないのですよ。  ☆ はあぁ。そういう論理ですか。  まづ言葉をつらねるときの形式だけに注目すれば  (け) 英文では 二人称および一人称を主語とする命令文しかない。三人称主語の命令文はない。仮定法などを用いて空想やら願望として表わす。  (こ) 形式だけとして見ると ヘブル文やアラビア文には はっきりと三人称主語の命令法がある。そしてこれは《間接話法》ではないと思うのですが。  ☆☆(No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~  キリスト聖書塾の『ヘブライ語入門』では   imperative: 命令形; 二人称に   cohortative: 願望形; 一人称に   jussive: 指示形; 三人称に  と言っています。名称が定番であるかどうかは 分かりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (さ) あとは 日本文でも 一人称すなわちわれ自身を相手(二人称主語)に見立てて――言葉の上で――あたかも命令する文は作れる。つまり 命令という主観意志を表わすときには確かに 相手(二人称主語)に語る(言いつける)ことになる。  (し) ★ 三人称に変わるのは間接話法になるためではないかと言っています。ですから、命令文とは関係がないのですよ。  ☆ ここがわたしには はっきりしないということだと思います。次の点ですね。    (す) まづいまは 話し手としての主観の意志は 相手にコトを言いつけるという内容を表わしたいという場合である。  つまり早く言って 〔広義の〕命令法であると考えられるが それが三人称主語に代わると《間接話法になる》とは どういうことか?  そうなると《命令文とは関係がない》というのは 意味上は初めの《言いつけ》が有効であるからには まだ納得が行かない。    (せ) ★ 物語る世界での三人称なんです。  ☆ ええ。と言いますか いや そうではなく 神が語るその文について出て来る三人称ですよ。  (そ) 次のように聖書記者は 表わしたわけです。そういう文法であるとは思われます。    ▲ 創世記1:3  ワ(そして) ヨーメル(〔かれは‐〕言った) エローヒーム(神が):   ィエヒー(〔それは〕有ることを言いつけられよ) オール(光が)。   ワ(そして) ィエヒー(〔それが〕有る / 有った) オール(光が)。   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  ☆ 《ィエヒー》は 明らかに三人称主語のかたちです。動詞の活用形としてすでに主語(三人称)を含みます。そして それ(つまり光)は 神から見て一人称で呼ぶモノではなく 〔かたちとして〕二人称の相手としても捉えていない。ゆえに 三人称となっている。  (た) すみません。このように一応捉えられる内容を前提として いまいちど説明をお願いできますか?  (ち) 間接話法というのは たとえば次のような文例になるのですよね。  ○ 神は 光が有る(生まれてくる)ことを〔誰に? かは分からないが〕命じた。  ☆ つまり 従属節をしたがえる恰好になる場合だと思うのです。

回答No.16

> そして これらの《相手》である《 霊 / Spirit 》は けっきょく神( God )のみづからの霊のことだと考えられます。つまりは 実質的に言って 《一人称の主語への命令形》なのだと捉えられるのではないでしょうか。 神が語る相手が神自身という意味でも、当然に二人称の命令形ではないですか。  And God said to himself(the Spirit of God), "(you(霊)) Let there be light" 「そして神は自身に語っています『汝、我が霊よ、そこを光のある場所とせよ』と」

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (か)  And God said to himself(the Spirit of God), "(you(霊)) Let there be light"  ☆ ええ。独り言であっても 言葉による表現としては もう一人のわれに語るかたちを採り得ると思います。  純粋に一人称への命令としては:  (き) And God said to himself(the Spirit of God), "Let me make there be light"  ☆ というようなことは言えませんか?  そしてその文例は けっきょく実質的に言って    (く) 「そして神は自身に語っています『汝、我が霊よ、そこを光のある場所とせよ』と」  ☆ という文と同じことになるのだと。  つまりそうではなく 三人称主語の命令形は よほどのことでないと 使い難いというように思ったところから出発しています。