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明治維新
薩長と、政府、幕府の関係が よくわかりません>< どうして、薩長は 幕府ではなく、政府側にまわったのですか? こんな質問でごめんなさい
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>どうして、薩長は幕府ではなく、政府側にまわったのですか? 幕末の朝廷は「攘夷」であって「倒幕」ではありませんでした。 孝明天皇の意思は、明らかでした。 何度も幕府に対して「攘夷決行」を要請(勅命)します。 保守派(天皇とか朝鮮国王など)は、変化を望まないのです。 ところが、幕府はいつになっても攘夷決行しない。 業を煮やした長州の桂小五郎、久留米の真木和泉守、土佐の平井収二郎、肥後の轟武兵衛らは「勅命に従わない幕府を倒して、自ら倒幕攘夷実行!」を決断します。 幕府の統治能力を見限った訳ですね。 今のポンコツ民主党政権と同じで、与野党が見限り「ポンコツ菅政権打倒!」となったのと同じです。^^; が、孝明天皇は「攘夷は認めても、倒幕の意思は無い(公武合体)」状況でした。 結局、長州藩の宮中クーデターは失敗。 討幕派だった豊岡・東園・烏丸・滋野井の4卿は、重科に服すとして自宅謹慎。 三条実美らは、後の明治天皇となる童を連れて長州に逃れます。 孝明天皇は「三条実美は、国賊だ!」とし、クーデターを防いだ会津藩主松平容保を賞しています。 1万両もの恩賞を与えています。 孝明天皇急死(三条実朝・長州藩による暗殺?)後、一気に倒幕が進みます。 薩摩藩も、同様です。 慶喜を将軍にして、幕府改革を行なう事を目論みます。 が、思った程の改革は期待出来ない。薩摩藩の政治的地位も上がらない。 結局、幕府を見限り新政権樹立を目指します。 長州藩クーデター時には、薩摩藩は長州藩と敵対しています。 以来、犬猿の仲なんですね。 これでは、武器商人であるグラバーの儲けは少ない。 何とか、仲良くして大量に武器を購入して欲しい!と一案を練ります。 「薩長同盟」なんです。龍馬の案だと思っている方が多いですよね。 実は、武器商人グラバーの発案なんです。この案を、亀山社中の龍馬に伝えたのです。 (グラバーの日記に、記載があります) 幕府の背後には、フランスがついています。イギリスとしては、外様雄藩を味方につけたい! 三条実美の命を受けた長州藩は、公武合体派の孝明天皇を暗殺。 薩摩藩は、倒幕を望まない(倒幕の邪魔になる)竜馬を暗殺。 ここで一気に倒幕が進みます。 現在と同じ状況なんです。 幕末は、ロシア・イギリス・アメリカなど列強の艦船が近海に出没。 それに対して、幕府は右往左往するしか手段が無い。 今は、尖閣諸島に中国海軍・工作船が出没。竹島は、韓国が実効支配。北方領土は、ロシアによる実効支配強化。 これに対して、民主党政権は「内乱状態」ですよね。 ポッポッポー鳩ポッポー首相は「尖閣諸島は、領有権が決まっていない」と発言。 首相の座に固執するポンコツ菅首相は「実効支配は、領土と同じ」と発言。 機能しない政権は、いつの時代も倒すしかないのです。^^;
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- mekuriya
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大政奉還です。将軍である徳川慶喜が260年間預かっていた統治権を朝廷に返上した事件です。徳川幕府は、元々徳川幕府は朝廷から統治を委任されたのだと主張して政権を理論的に正当化していました。それを大政委任論という。であるから大政委任論の裏返しで、預かっていた政権を朝廷に返上することも理論的に正当化されるわけです。幕府は欧米列強に開国を約束し、朝廷には攘夷を約束するという相反する約束をしていました。時間稼ぎをして結論を引き延ばしたところで、開国と攘夷は矛盾しますからどうにもならない。幕府は欧米列強からも朝廷からも信頼を失って政権運営に行き詰っていたのです。徳川慶喜は将軍であるにもかかわらず、欧米列強と朝廷の板ばさみになって、政権運営に目処が立たなくなっていた。それが幕末の時代背景なのである。 そして政権を返上された朝廷はどうしたか。朝廷は幕末をリードした西南雄藩、薩摩・長州・肥前・土佐に人材を求め、明治新政府を発足させたのです。それが王政復古の大号令です。 どっちに回るも何もありません。将軍徳川慶喜本人が重臣に諮ったうえで政権を返上した。それは外様藩が口出しできることではありません。また明治新政府への参画は、ひいては天皇陛下のご命令なのですから、これも潔く従うほかはない。幕府は大政奉還と共に終わっているわけですから、どっちに回るも何もない。将軍徳川慶喜本人が朝廷の沙汰を待つというのだから、否も応もなく将軍の意思を尊重するのは家臣の当然の務めでもあるのです。 幕府は朝廷の信頼を失って政権を返上した。その幕府に替わって次代の政治家の名乗りを挙げて、朝廷から信頼を勝ち取ったのが西南雄藩、薩摩・長州・肥前・土佐の志士だった。 それだけのことなのです。
お礼
詳細ありがとうございます!! とても参考になりました!! 受験生なので、ちゃんとお礼 できなくて申し訳ありませんが、 本当にありがとうございました><
- IXTYS
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薩摩藩は薩英戦争、長州藩は馬関戦争でともにイギリスと戦争をし、欧米列強の武力のけた外れの強さを肌で感じました。 薩英戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89 馬関戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89 これからは薩摩、長州、幕府もない。 日の本(ひのもと)が一つとなって欧米に追い付くのだという考えで両藩が一致します。 そして天皇を頂いて新政府を作って近代国家日本に向かって邁進する。 これが明治維新の基本構想です。
お礼
ありがとうございました!
- jyojyomamachan
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もともと薩摩は、江戸幕府を倒して、新しい政権の実権を握ろうとしていました。長州もそれを狙っていましたが、薩摩の邪魔に会い、藩自体が危なくなったところに、あの有名な坂本竜馬が薩摩と長州の仲を取り持ち、いよいよ倒幕というところまでいきました。しかし、その坂本竜馬が日本人同士で内輪もめをして戦い合って日本国自体が脆弱になってしまっては、外国の植民地になってしまう。日本人はいまこそ協力して、新しい政府を開こうと、大政奉還(政治の実権を天皇に返すこと)を実現させ、江戸城の無血開城をさせたわけです。 (その後、坂本竜馬は、暗殺されるのですが、この手引きをしたのは、薩摩藩ではないか?とも言われておりますが、諸説あり、いまだになぞです)。 しかし、そのことを快く思わなかったのは、薩摩と長州です。折角、この2大藩が手を組んで、徳川幕府を倒してやろうと思っていたのに、勝手に、徳川幕府と朝廷を和解させてしまったわけです。徳川を武力で倒す大儀名文を失い、このいかりの矛先をどうにも収められないまま、新政府を徳川の関係者と一緒に立ち上げなければならないわけです。 そういうわけで、もともと薩長は、幕府のことを倒したかったわけで、無理やり、仲直りをさせられたので後に、戊辰戦争などを経て幕府軍は、函館で退廃。表舞台から消え去ってしまうのです。 長くなりましたが、薩長が幕府を快く思っていなかった理由の説明になったでしょうか? もうひとつ余談になりますが、この状況は、いまの管内閣とよく似てると思いませんか? 今は、震災の後で、一刻も早く内閣が一致団結してこの国難に対処しなければならないのに、内閣では、自分の政党の権力争いばかり。海外は、この動向をじっと観察しているのです。日本がこのまま、なんの対処も施さぬまま、経済の混乱を続ければ、必ず日本は世界の力に屈服させられて、復興どころではなくなるはずです。 幕末の混乱の中で、坂本竜馬は、天才的な国際感覚で、混乱を静めしました。(ただ、志なかばで、暗殺されたのでとても残念です。) 今の日本は、どうでしょうか? 私も含め、日本人のひとりひとりが、この日本の危機的状況を考えなければいけないと強く感じております。
お礼
詳細ありがとうございます!! とても参考になりました!! そうですよね。 ひとりひとりの自覚が必要ですね。 受験生なので、ちゃんとお礼 できなくて申し訳ありませんが、 歴史を学ぶととが、「単なる昔の話」ではなく、 現代を生きてている私たちに すごく関係あるとおもいました。 ありがとうございました><
- kusirosi
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実は薩摩の国父・久光公あたりは 「将軍には、いつなれるのか、幕府は京に上るか、それとも鹿児島で、いいのか」 と本気で幕府開業すること考えていたのですが\(^^;)... 討幕の中核となった薩長の志士は、 もはや江戸幕府を倒した後には、島津幕府・毛利幕府などという 封建体制の継続ではなく、 日本を近代的統一国家とするための中央政府が必要と 明治新政府を樹立したのです\(^^;)..
お礼
ありがとうございました!
お礼
詳細ありがとうございます!! とても参考になりました!! 受験生なので、ちゃんとお礼 できなくて申し訳ありませんが、 歴史を学ぶととが、「単なる昔の話」ではなく、 現代を生きてている私たちに すごく関係あるとおもいました。 ありがとうございました><