- 締切済み
明治新政府で藩主だけ排除の論理
薩長土肥で構成された明治新政府は、藩士のみが新政府入りして藩主は排除。 しかも藩士も藩主も世間も、其の措置が当然であると認識。 なぜなのか、其の論理をお教え頂きたい。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
みんなの回答
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (816/3045)
藩士もほとんど排除されていますよ。 一部の使える人材を使ったにすぎません。 なぜに排除されたかというとそもそも明治維新が王政復古、つまり天皇による直接統治を目指して行われたからです。 江戸幕府は(おかざりの)天皇が将軍を任命し将軍が全国を統治する、藩主はその将軍の家臣、藩士は家臣の家臣という形です。 将軍を否定されたらその家臣も家臣の家臣も同時に身分を失います。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
- ベストアンサー率31% (3132/9930)
排除されていた訳ではありません。 藩主は「藩知事」という役職に着いていたのが多かったようです。 それを辞して新政府に入った元藩主もいます。 廃藩置県後にそのまま県知事になったり、貴族院議員になった元藩主が多くいます。 また、政府入りしなくても商売を始めたり、学校を作るなどしていました。 維新の際、直接動いたのが藩士が多かったため、藩主にはそのまま地方を治めてもらうという形をとった藩が多かったのかもしれません。
歴史知識に乏しいので、具体例を示せず、回答が「曖昧模糊」としているのは否めませんが、面白いテーマだったので、老化した頭の体操を試みてみました。 藩士のみが新政府入りして藩主は排除。……幕末から維新への変化の原動力となったのが、「殿様」ではなくて、上級、下級を問わず「藩士」だったということの結果の反映だと思います。平時は、「バカ殿でも殿様」で世の中は回ったのですが、ペリーの来航など、海外からの圧力によって、民衆までも大騒ぎしている中で、「そんなこととはつゆ知らず」とは言わないまでも「我関せず」という「殿様」も少なくなかったと想像しますし、そんなぬるま湯につかったような殿様の命令を当てにするよりも、勝敗は別にして「自分が動く」、あるいは「自分が動かなければ」という一種の使命感、もっといえば悲壮感が幕末・維新の原動力になったと思います。そんな中で、殿様も藩士も動いた典型は、藩士や領民にとっては、悲劇的な結果にはなったけど「会津藩」だったという印象を持っています。 しかも藩士も藩主も世間も、其の措置が当然であると認識。……「当然である」という認識は、ほとんどの藩士も藩主も世間も持っていなかったのではないかと想像します。少なくとも「維新の中心になり、新政府の中枢に座った藩士たち」にはなかったと思います。なんといっても、武士たちも700年の歴史と伝統を築いてきたわけですし、「殿様は、バカでも殿様」という意識は、当事者の殿様にも、維新の立役者となった下級藩士にもあったと思います。そのことが明治2年の版籍奉還とともに通達された太政官達54号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」(華族令)によって、殿様たちが侯爵などに叙位されたということにも反映されていると思います。まさに、天皇のみならず、「上流の権威の世襲」は、いかなる状況の日本でも無視できないということの表れではないでしょうか。そして、その「世襲」というお化けが現代の政界や芸能界を中心として、あらゆる分野でよみがえっているというか、カビのようにじわじわと浸透し、社会をむしばんでいっているように感じています。 横道にそれましたが、「華族令」については、あるいは、「殿様を叙位することよって、なだめすかしておけば、維新に乗り遅れた地方の不満武士たちも、少しは抑えられるのではないか」という邪な期待も明治新政府にはあったかもしれません。 維新の原動力になった薩長土肥では、「賢いか馬鹿かは別にして、殿様には静かにしておいてほしい」という思いが藩士にあり、その他の藩では、「殿様に、もう少し、情勢を理解して、殿様自ら動いてほしいとか、藩士に安心を与えてほしい」というような思いが藩士にあり、藩の置かれている地理的な条件や諸藩のいろいろな事情、いろいろな葛藤が綯い交ぜになりながら、そして政変、乱、戦争などを織り交ぜながら、世の中が動いていった、さらにその結果としていろいろな悲喜劇が生まれていった……それが幕末・維新という舞台だったような漠然とした印象を持っています。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5118)
>明治新政府は、藩士のみが新政府入りして藩主は排除。 その通りですね。 旧藩主は、政治から距離をおいています。 >藩士も藩主も世間も、其の措置が当然であると認識。 当然の認識です。 >なぜなのか、其の論理をお教え頂きたい。 幕藩体制下では、各藩主は「徳川将軍家から領地を得て、その領民を管理」していましたよね。 つまり、各藩主は「徳川将軍家の家来」なのです。 幕府崩壊で、各藩主は「領土所有の正当性」を失います。 この隙間を狙って、「版籍奉還」が行われます。 領地・領民を返す。 この時点で、旧藩主は政治的な権利を失います。 この事が不満となって爆発する事を恐れた明治政府は、旧藩主に爵位を授け貴族として扱います。 結果、行政機構でなく「立憲機構(貴族議員)」に席を置いて国会議員として政治に関与しています。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11082/34532)
藩主はあくまで「お飾り」で、実際に藩政を仕切っているのは家臣たちですからね。長州藩最後の藩主である毛利敬親はなんでも部下のいうことを「そうせい」というから「そうせい公」とあだ名をつけられたという逸話がありますが、敬親にいわせれば「他に返事の選択肢がないだろが」というのはあると思います。 これの総本山が天皇です。 現在でも天皇が内閣総理大臣を任命したところで内閣は正式に発足します。じゃあ、天皇は「俺ァあいつが気に食わねえから総理大臣に任命しねえよ。署名に拒否する」といえるのかというと、いえません。任命権があるのに、なぜか拒否権はない。 これは大日本帝国における天皇も実はあまり変わらなくて、国家の方針を最終決定する御前会議で、日米開戦の決定をするときに昭和天皇は「御前会議で発言する」といって周囲を慌てさせています。御前会議では天皇は黙ってそれを認可する習わしになっていたので、御前会議で発言する、即ち決定事項を差し戻す可能性があることをいわれるのは内閣はもちろん侍従長にとっても一大事だったのです。侍従長を始め周囲は大慌てで「御前会議では天皇は発言しない習わしになっている」となだめました。 現代でも、社長は創業家の息子が単なるお飾りになっている会社は山ほどありますよね。ギャンブルで84億円を溶かしたといわれる大王製紙の社長がそうでした。会社の仕事なんて何もやらせてもらえないから、暇なのでギャンブルばっかりやってました。 なので単なるお飾りに過ぎませんから、昭和天皇に戦争責任が問われなかったように藩主に責任も問われなかったのです。 徳川慶喜を筆頭に、徹底抗戦した会津藩藩主の松平容保も切腹はさせられていません。会津藩は藩主の代わりに家老の首をひとつ差し出しました。半沢直樹じゃないけれど「すべては彼がひとりでやったことです」と。 何もやってないので、新政府発足にあたっては「貴族(華族)」という立場を与えてどうぞ悠々自適に暮らしてくださいとなったのです。