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ペリー来航時の幕府の措置について
ペリー来航の際、幕府はなぜ諸藩に意見を求め、また朝廷へ条約締結の許可を求めるなどということをしたのでしょう。 それ以前には、基本的には幕府独裁の政治を行っていたし、とくに朝廷には政治的権能をもたせていなかったはずなのに。 この時の幕府の態度が、薩長や朝廷に大きな政治的発言権を与えてしまったように思われます。 もし、幕府が薩長や朝廷に口を差し挟ませずにいれば、その後の政治状況も大いに違ってきたと思うのですが。
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ペリー来航の際、幕府はなぜ諸藩に意見を求め、また朝廷へ条約締結の許可を求めるなどということをしたのでしょう。 それ以前には、基本的には幕府独裁の政治を行っていたし、とくに朝廷には政治的権能をもたせていなかったはずなのに。 この時の幕府の態度が、薩長や朝廷に大きな政治的発言権を与えてしまったように思われます。 もし、幕府が薩長や朝廷に口を差し挟ませずにいれば、その後の政治状況も大いに違ってきたと思うのですが。
お礼
ありがとうございます。 とても参考になりました。私は、阿部正弘はけっこう有能な人物だったと思っていたので、この時の措置が理解できませんでした。しかし、 >「毒をもって毒を制す」的な感じで諸藩に意見を求める>ような措置をとって、幕府高官達に危機感を与えて本気>にさせようとした との意図があったと考えれば、それなりに筋は通ると思います。 ただ、そのような意図をもったこと自体、まだ幕府の余裕を感じますね。これがわずか数年後に、切羽詰まって“安政の大獄”になるわけですが…。はじめは諸藩の意見や勅許を求めながら、一転して幕府独裁になれば、それは当然ものすごい反発を招きます。むしろ、ペリー来航時に幕府がキチンと政治的主導権を確保して、その時点での反対勢力を抑えていれば(“嘉永の大獄”?)その後もイニシアティブをとれたに違いありません。その時点では、幕府には十分な権威と軍事力があったのですから。結局は、阿部正弘はじめ、それだけの決断ができる政治家が幕府にいなかったのでしょうね。