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ペリー来航時の幕府の措置について

ペリー来航の際、幕府はなぜ諸藩に意見を求め、また朝廷へ条約締結の許可を求めるなどということをしたのでしょう。 それ以前には、基本的には幕府独裁の政治を行っていたし、とくに朝廷には政治的権能をもたせていなかったはずなのに。 この時の幕府の態度が、薩長や朝廷に大きな政治的発言権を与えてしまったように思われます。 もし、幕府が薩長や朝廷に口を差し挟ませずにいれば、その後の政治状況も大いに違ってきたと思うのですが。

みんなの回答

  • weeelcom
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回答No.2

 この前の「その時歴史が動いた」でその問題に対して次のようなことを言ってましたよ。つまり、幕府の意思決定機関は硬直してしまっていて、真に国のことを憂えることなく、保身と怠惰に支配されてしまっていた。だから阿部正弘は半ば「毒をもって毒を制す」的な感じで諸藩に意見を求めるような措置をとって、幕府高官達に危機感を与えて本気にさせようとした。、、、というようなことを言っていました。永い平和で危機管理が機能しなかったんだと思います。アヘン戦争が起きても、黒船が日本に向かっていると分かってても、結局来るまでほとんど対策を立ててなかったんですから。そしていざ到来しても相変わらずな幕府高官達の態度に、阿部正弘の決断があったんじゃないですか?なるほどな、と思いました。歴史の結果を見るとその毒が強すぎたということでしょうか・・。

aoti
質問者

お礼

ありがとうございます。 とても参考になりました。私は、阿部正弘はけっこう有能な人物だったと思っていたので、この時の措置が理解できませんでした。しかし、 >「毒をもって毒を制す」的な感じで諸藩に意見を求める>ような措置をとって、幕府高官達に危機感を与えて本気>にさせようとした との意図があったと考えれば、それなりに筋は通ると思います。 ただ、そのような意図をもったこと自体、まだ幕府の余裕を感じますね。これがわずか数年後に、切羽詰まって“安政の大獄”になるわけですが…。はじめは諸藩の意見や勅許を求めながら、一転して幕府独裁になれば、それは当然ものすごい反発を招きます。むしろ、ペリー来航時に幕府がキチンと政治的主導権を確保して、その時点での反対勢力を抑えていれば(“嘉永の大獄”?)その後もイニシアティブをとれたに違いありません。その時点では、幕府には十分な権威と軍事力があったのですから。結局は、阿部正弘はじめ、それだけの決断ができる政治家が幕府にいなかったのでしょうね。

  • notnot
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回答No.1

以前に似た質問がありました。 直接には、幕府に決断力がある人が居なかったための時間稼ぎ(米に対する言い訳)だと思いますが、背景としては ・幕府内の内部対立(将軍後継の南紀派と一橋派との争い) ・尊皇攘夷思想の広がり ・有力大名の朝廷への接近 ・中下級公家を中心とした幕府への不満の高まり などの背景があったと思いますので、幕府が朝廷に相談無く鎖国を廃止しても、孝明天皇は親幕府の公武合体論者とは言え、攘夷の意思を明らかにしているので、最終的には現実と似た展開になったのではないかと思います。

参考URL:
http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=882399
aoti
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど、背景にさまざまな要因があったわけですね。

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