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明治維新の不思議
1871年、明治新政府は、岩倉使節団を欧米に派遣しています。岩倉具視を大使として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など政府の高官が50名も含まれていたそうです。(現在のように豊富な人材を抱える政治家の世界……異論もあるとは思いますが(*^_^*)……でも、50名というのは、大変な世界だと思います。) あの頃は、まだまだ、日本における諸外国の植民地化の脅威は過ぎ去っていなかったのでしょ???「征韓論」なんかも、「ロシアの脅威」が背景にあったと、参考書には記述していますし、アジア・アフリカ諸国の当時の状況を勘案しても、常識的には、とても、外遊(表現は適切でないと思います。)なんかしておれるような状況ではなかったと思いますが。 使節団派遣の理由はなんとなく漠然と分かります。 ここで質問なのですが、すでに、当時の日本は独立国としてやっていける状況にあったのでしょうか?もし、外遊中であっても、独立国としての位置を確保できると考えていたとしたら、その根拠は何だったでしょうか?(当時派遣組と留守番組で、新たな政策は実施しないという約束があったようですが、このことから考えると、外国からの侵略は全く心配していなかった、むしろ内政における覇権争いのほうが心配の種だったようにも受け取れます。)それとも、不安はあったが、「植民地化」という危険を承知の上での賭をしたのでしょうか? なお、この質問については、私も、正解だとか、良い回答だとか、判断できないと思いますので、ベスト・アンサーは選びません。それでも良ければ、あなたのお考えを教えて下さい。
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使節団派遣の目的は不平等条約の改正です。 逆に不平等条約がある限り、植民地支配の心配はありません。 各国と結んでいますから、三すくみ状態。 この時代、遠い遠い日本を攻めるだけの余裕もメリットもありません。 日本からは航海に必要な物資の調達が当初の目的で開国を迫ったわけですし。 話は変わりますが、木戸 孝允 / 桂 小五郎の改名の疑問は解決済みですか? wikipediaに詳しくあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81 NHK「八重の桜」で乾に板垣を名乗れというシーンもありました。 旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9
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- izuhara
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追加の質問ありがとうございます。ひとつひとつが深い問題ですので、十分ではないと思いますが所感を。 >当時の欧米諸国というのは、「価値があるか、ないか?」そこまで考えていたのでしょうか?それであれば、「日本はただ単に、植民地にする価値が無かったから、植民地にならなかった」ということですですよね?、私は、「とりあえず、可能なところはすべて植民地化した」と考えていました。欧米諸国にとっては、価値があろうと、なかろうと、分割してでも、植民地化する方が良かったのではないでしょうか? 明治維新前後の列強の植民地をご確認くださるとわかりやすいかと。無意味に植民地としているわけではなく、植民地化するメリットを押さえております。すでにある地域の秩序を破壊し、植民地経営に乗り出すにはかなりの労力が必要となります。すでに資源のある植民地を持ち、大市場である中国へのルートを確保している中で、日本をあえて植民地にする必要が果たして列強にあったのかという問題があるかと思います。少なくとも通商開始後の日本はイギリスにとって魅力的な市場でしたし。中国が列強に本格的に分割され始めるのも、日清戦争で清の弱体化が明らかになってからです。 >例えば、「堺事件……確かフランスとの間の事件だったと思うのですが」なんていうのは、その典型なのでしょうか? そういえるかと思います。幕末の動乱から戊辰戦争にかけて軍事国家への復帰を果たした日本の武力はいくら近代化が遅れているといえども、楽に勝てるものではなかったでしょう。 >総合的に考える必要があるとは思いますが、主要因をどこに置くのかによって、かなり変わってきます。 日露和親条約では樺太を雑居地とし、1875年に樺太・千島交換条約を結んでいるようにロシアとは順調に外交関係を結んでいます。当時、地勢的にロシアの脅威を感じた地域は蝦夷地でしょう。大陸側でいえばロシアは朝鮮の奥の国であり、明治維新期では朝鮮半島へのロシアの影響力を懸念する段階ではないと思います。 >植民地化されることの心配よりも、すでに帝国主義化への道を歩み出していたということですかねぇ? 征韓論は新政府の日本と朝鮮との外交問題であり、日朝修好条規の過程で分かるように列強の真似事の砲艦外交によって不平等条約を結ばせていますが、朝鮮の政治に介入するようなことはしていません。日本が自立のために朝鮮を意識し始めるのは、内閣ができ憲法ができ国会ができ、近代国家としての体裁が整ってからです。明治維新期の日本の第一の目標は、近代化による不羈独立(自分の国のことは自分で決める)です。列強に追いつこうとするのに必死で、まだ帝国主義を意識するレベルにはなかったと思います。
お礼
再度、ご丁寧な説明をいただき、大変恐縮しております。 幕末・維新の流れや、一つ一つの事件に、大きな意味があることを感じさせられました。また、このような激動期を理解するには、種々の事柄が関連し合っているので、ただ単に、観念的に理解するのではなく、時系列の整理というのが、大変重要だと感じました。
補足
皆さんのご回答のおかげで、少し輪郭が見えてきました。その輪郭が、本物か、あるいは陽炎のように消えていくものなのか、もうすこし勉強してみます。また、私自身の誤解も相当解消されたように思いますので、これで質問を締め切らせていただきます。皆様のご回答にベストアンサーで「お礼したい」のですが、<(_ _)><(_ _)>
- tukihana
- ベストアンサー率23% (11/46)
>私は、「とりあえず、可能なところはすべて植民地化した」と考えていました。 >欧米諸国にとっては、価値があろうと、なかろうと、分割してでも、植民地化する方が良かったのではないでしょうか? 植民地を獲得するのはゲームではありません。 軍隊を送り込み駐留させ、現地の統治のために行政組織を整備し、インフラを整備し、それだけのコストに見合うだけの収入が見込めなければ植民地化する意味がありません。 日本にそんな身入りが期待できるでしょうか? しかも日本は曲がりなりにも長い歴史と独自の文化を持った国であり、こんな所を無理やり征服しても統治するのは大変な労力でしょう。 ただ軍事的に占領するだけなら、当時の列強の力ならあるいは難しくないかもしれません。 しかし統治するのは征服するよりはるかに難しいのです。 そんな無理をするより貿易相手にする方が経済的利益につながると判断されていたのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。大変納得のできるご説明ありがとうございました。
補足
皆さんのご回答のおかげで、少し輪郭が見えてきました。その輪郭が、本物か、あるいは陽炎のように消えていくものなのか、もうすこし勉強してみます。また、私自身の誤解も相当解消されたように思いますので、これで質問を締め切らせていただきます。皆様のご回答にベストアンサーで「お礼したい」のですが、<(_ _)><(_ _)>
日本は極東にあったため、順番的に植民地化対策は他のアジアの国をよく見ながら対策は取れる地の利はありました。 ペリーもフィルモア大統領と次の大統領に交代していく中、交渉して日本にやってきたと聞いたことがあります。 割と江戸幕府後半から明治初期にかけて、荒れてはいたものの政治はしっかりしていたと思います。ですので、きっちりした判断で、アヘン戦争の情報を持って対策もうまくしました。不平等条約改正に長いことかけてやっていたのだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。地理的に恵まれていたということと、なんだかんだいっても、対応が優れていたということでしょうかね。
補足
皆さんのご回答のおかげで、少し輪郭が見えてきました。その輪郭が、本物か、あるいは陽炎のように消えていくものなのか、もうすこし勉強してみます。また、私自身の誤解も相当解消されたように思いますので、これで質問を締め切らせていただきます。皆様のご回答にベストアンサーで「お礼したい」のですが、<(_ _)><(_ _)>
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
植民地化という危険はそれほどなかったと思われます。 当時、植民地を確保していた列強は、ヨーロッパ情勢の対応を重視していました。 また、日本に植民地としての魅力があったかといえば、なかったでしょう。 不平等ながら、幕府の外交努力で外国人の内地雑居は防いでいました。 仮に植民地化のために戦闘を仕掛けた場合、戦国時代よろしく、武装した野蛮な戦闘員がごまんといる状況ですので、被害は軽微では済まない。 以上のように、外国からの侵略が懸念される状況ではなかったため、長期にわたって政府首脳が海外に滞在できたと考えられます。その後の富国強兵・殖産興業に見えるように、欧米での視察は滞在期間に見合う結果をもたらしたといえるでしょう。 征韓論の背景にロシアの脅威というのはちょっと主要因から外れている気がします。 日本との外交を拒絶する朝鮮への制裁と、くすぶった戊辰戦争後の武力の使いどころという要素のほうが強いかと思います。
お礼
大変、わかりやすいご回答ありがとうございました。 「植民地化という危険はそれほどなかったと思われます」……やはりそうですよね。植民地化の心配があるのに、ノコノコと出かけるほど、当時の日本人は馬鹿ではないですよね。 「日本に植民地としての魅力があったかといえば、なかったでしょう。」……当時の欧米諸国というのは、「価値があるか、ないか?」そこまで考えていたのでしょうか?それであれば、「日本はただ単に、植民地にする価値が無かったから、植民地にならなかった」ということですですよね?、私は、「とりあえず、 可能なところはすべて植民地化した」と考えていました。欧米諸国にとっては、価値があろうと、なかろうと、分割してでも、植民地化する方が良かったのではないでしょうか? 「不平等ながら、幕府の外交努力で外国人の内地雑居は防いでいました。」というのは、私にとっては、新たな視点です。勉強してみます。 「仮に植民地化のために戦闘を仕掛けた場合、戦国時代よろしく、武装した野蛮な戦闘員がごまんといる状況ですので、被害は軽微では済まない。」……例えば、「堺事件……確かフランスとの間の事件だったと思うのですが」なんていうのは、その典型なのでしょうか? 「征韓論の背景にロシアの脅威というのはちょっと主要因から外れている気がします。」ということについては、私も疑問があって、1月21日に、質問をしました。総合的に考える必要があるとは思いますが、主要因をどこに置くのかによって、かなり変わってきます。 「日本との外交を拒絶する朝鮮への制裁と、くすぶった戊辰戦争後の武力の使いどころという要素のほうが強いかと思います。」ということは、植民地化されることの心配よりも、すでに帝国主義化への道を歩み出していたということですかねぇ?
補足
皆さんのご回答のおかげで、少し輪郭が見えてきました。その輪郭が、本物か、あるいは陽炎のように消えていくものなのか、もうすこし勉強してみます。また、私自身の誤解も相当解消されたように思いますので、これで質問を締め切らせていただきます。皆様のご回答にベストアンサーで「お礼したい」のですが、<(_ _)><(_ _)>
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
外遊中であっても、独立国としての位置を確保できると考えていた ↓ 戦争の判断をする人が誰か?を考える。 当時の外交をリードしたのはイギリス。 オールコック(WIKIPEDIAより引用) 四国艦隊下関砲撃事件では主導的役割を果たすが、これを認めなかった外相ジョン・ラッセルにより帰国が命じられた 生で上記の状況をみていた明治維新政府関係者には、日本に来ている外交官と話をしてもひっくり返される、単なる出先機関であると認識していたと思われる。 アヘン戦争を行うに際して、英国議会の議決が必要だったことも知っていたかと思う。英字新聞に出ているんだから。
お礼
ご回答ありがとうございました。 「単なる出先機関であると認識していた」というが、日本が植民地化されない根拠と考えて、外遊したのであれば、「賭け」という以上に「大ばくち」のような気がするのですが?
補足
皆さんのご回答のおかげで、少し輪郭が見えてきました。その輪郭が、本物か、あるいは陽炎のように消えていくものなのか、もうすこし勉強してみます。また、私自身の誤解も相当解消されたように思いますので、これで質問を締め切らせていただきます。皆様のご回答にベストアンサーで「お礼したい」のですが、<(_ _)><(_ _)>
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
>>すでに、当時の日本は独立国としてやっていける状況にあったのでしょうか? 当時は、世界をみれば、アジアは、日本とタイを除けば、ぜーんぶ植民地になっていたし、アフリカも同様でしょう。そして、日本が欧米よりも遅れているのは確かだった。 なので、「やっていくしかない!」と考えていたのでは? >>もし、外遊中であっても、独立国としての位置を確保できると考えていたとしたら、その根拠は何だったでしょうか? 「江戸幕府をなんとか終わらせ、外国勢力のちょっかいもあったけど、無事、明治政府を作り上げた」ってことが、若干の自信になっていたのかもしれませんね。 何にしても、新しいことをやろうとすれば、リスクはあります。 外遊中の欧米侵略、内政混乱などを恐れて、欧米を視察しなければ、短期的にみれば安心です。 でも、中長期的にみれば、欧米のことを自分の目で見て学んでおくことが日本の大発展には絶対必要と判断したのではないでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございました。 『「やっていくしかない!」と考えていたのでは?』……単純明快で、しかも人間臭いというか、日本人臭くて、わかりやすい説明だと思いました。 「若干の自信になっていたのかもしれませんね。」……上記と同じ意味で、分からないことはないのですが、「そうでしょうか???」という感じです。 「何にしても、新しいことをやろうとすれば、リスクはあります。外遊中の欧米侵略、内政混乱などを恐れて、欧米を視察しなければ、短期的にみれば安心です。」……そのとおりだと思います。 「でも、中長期的にみれば、欧米のことを自分の目で見て学んでおくことが日本の大発展には絶対必要と判断したのではないでしょうか?」……中長期的に見た場合の「使節団の目的」としては、分かります。しかし、『不安はあったが、「植民地化」という危険を承知の上での賭をしたのでしょうか?』という私の質問のポイントと、少しずれているように感じました。
補足
皆さんのご回答のおかげで、少し輪郭が見えてきました。その輪郭が、本物か、あるいは陽炎のように消えていくものなのか、もうすこし勉強してみます。また、私自身の誤解も相当解消されたように思いますので、これで質問を締め切らせていただきます。皆様のご回答にベストアンサーで「お礼したい」のですが、<(_ _)><(_ _)>
- yama891
- ベストアンサー率13% (191/1368)
今、平成26年の様に、マスコミ(インターネット・新聞・テレビ・ケーブルテレビ・スマホ・携帯電話_等)が、実質・存在していないと・同じでしょうから。
お礼
早速のご回答ありがとうございました。少し意味を理解するのが、難しいのですが、「現代と異なり、情報が不足しており、そのために外国からの侵略は全く心配していなかった」ということなのでしょうか?
補足
皆さんのご回答のおかげで、少し輪郭が見えてきました。その輪郭が、本物か、あるいは陽炎のように消えていくものなのか、もうすこし勉強してみます。また、私自身の誤解も相当解消されたように思いますので、これで質問を締め切らせていただきます。皆様のご回答にベストアンサーで「お礼したい」のですが、<(_ _)><(_ _)>
お礼
ご回答ありがとうございました。 不平等条約の改正が、欧米派遣の目的にあったことは、なにかで読んだ記憶があります。しかし、それは、遠い将来に向けての課題の一つですよね。そうでないと、使節団が「大規模である」ことの説明には無理があるような気がするのですが。 それと「不平等条約がある限り、植民地支配の心配はありません。」というのも、……???「条約」が絶対のものというのは、当時は「条約」というのは、信じるに値する「国際関係」の手段だったのでしょうか?むしろ「三すくみ状態」という説明のほうが、私には理解できます。 「話は変わりますが、木戸 孝允 / 桂 小五郎の改名の疑問は解決済みですか?」……わざわざありがとうございます。(*^_^*) 以前に質問を投稿しました。ご回答に、必ずしも、納得できたわけではありませんが、それを否定する根拠も持ち合わせていなかった……だから質問させていただいたのですが(*^_^*)……その後、参考書などをめくっているうちに、たまたま「桂 小五郎と木戸 孝允……名前を改名する謎」という小さなコラムが目に付きました。要旨は「常に命を狙われる危険にさらされたため、行方をくらます目的で10種類以上の名前を使用した。」と解説されていました。これも一つの理由で、「木戸」というのにも、理由はあったようです。私は、生まれてから以降、名前を変えたことはありませんが、しかし、名前を変えられるというのも、「現在の自分を変えられるのではないか」という期待があって、当時の人が少し羨ましいですね。(*^_^*)今でも、変えられるとは思いますが、役所の手続きもあるし、逆に「変に勘ぐられても」困るし。(*^_^*) 「元服」というのも、そんな意味もあったのではないか?という気がします。
補足
皆さんのご回答のおかげで、少し輪郭が見えてきました。その輪郭が、本物か、あるいは陽炎のように消えていくものなのか、もうすこし勉強してみます。また、私自身の誤解も相当解消されたように思いますので、これで質問を締め切らせていただきます。皆様のご回答にベストアンサーで「お礼したい」のですが、<(_ _)><(_ _)>