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福沢諭吉はなぜ瘠我慢之説で勝海舟を批判したのか?
勝海舟は幕臣ではあったが、早くからこの幕府封建体制では難局を乗り越えることはできず、衆知を集めたより近代的な政治体制が必要と考え、徳川家の安泰を図りながらもこのような観点で行動した。結果的には薩長中心の政治体制になったが、彼の思想と行動には矛盾はなかったと思う。 一方、福沢諭吉はおそらく薩長政府に批判的で、それゆえ官職につかず民間で活躍したと思うが、薩長嫌いが海舟批判に繋がったのか、それとも、海舟が幕臣でありながら倒幕に与したと考え批判したのか、はたまた、別に批判の理由があったのか、お教えください。
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ユニークな方ですね。 痩我慢の説は聞いたことはありますが、読んでません。読まれたのですか、どんな内容なんでしょ。今一瞬調べた感じではかなり良さそうであります。読もうかと思います。ありがとうございました。 私は福沢に影響されずに元より福沢的な価値観でしたので、福沢に関する本を初めて読んだ時は、ほんと満たされた気持ちになりました。 もし現代に福沢が生きていたら、悪人扱いされているでしょうね。売国奴と言われているでしょう。お札になったり、学問のすすめはすすめらているのに、現代日本の常識は、福沢と真逆の価値観ですからね。私が共感する福沢は売国奴ですよ。 痩我慢の説ではどうなのか知りませんが、福沢が勝を大批判しているのは知っています。その本に限らず、随所で非難していますから。 先に取り上げた福沢の思想、その一つが反官です。 あなたが述べた後者の理由があてはまります。 しかしそれだけではそこまでは怒らなかったはずです。 木村摂津守と対比させていますね。木村は最高で、勝は最低なんです。芥舟は大好きだけど、海舟は大嫌いなんです。 理由は、伯夷叔斉です。 歴史に詳しくない私の意見ですが、正しいと思いますよ。 質問者さんは福沢が好きではないのですか。 面白い歴史トピックスなどありましたら知りたいものです。 我無教養故不可判読、並賀良於希熱唱、教丁髷。
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- thegenus
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補足、拝見しました。新しい知識が増えて感謝しております。回答者の方が礼を言うのも変ですが、有り難うございます。 『 Kock Out Boy でしょうか』と聞かれても、意味が分からないので、答えられません。すいません。 私はsignakさんのように英語カテで活躍するほど語学力がないのです。 分かりますか。勝は慶喜の家臣。武士は今の自分があることを主君に感謝し、いざという時に恩返しをする、これがいざ鎌倉の精神です。それが戦国以来、何百年ぶりに来たまさにその時なんです。いざという時は死ぬ覚悟でするんですよね。日本中の武士全員がそうだった時の話です。 勝だけ例外ですか。 勝になんの言い分があるんですかね。勝は武士でしょ。気に入らなければ幕府の高官を辞めて、脱藩すべきです。なぜしなかったのか、ですね。 こういう話に、きりがないとおっしゃられても、あなたと同じ歴史観の回答せよということ? 質問者さんがNo.1~2の補足で、如何でしょうか如何でしょうかと質問するから答えたじゃないですか、 そしたら、信者ですよ。 反対意見を信者にする人は芸がないですよ。あなたは芸のある人なんでしょ。お教え下さいと質問して、信者はないでしょう。 私は福沢のスレを立てたり、福沢の墓のことまで知りませんから。信者じゃないですよ。福沢の著書「痩せ我慢の説」も読んでませんし。 福沢が一番なんて言っていないです。信者みたいなこと言っているのはあなたですよ。勝は、日本の『歴史上で一番』なんでしょう。あなたの意見だから構いませんが、信者は私の方じゃないでしょう。最初からお教えしているのですから、信者を撤回すべきじゃないですか。 しかも私は、「勝は第一の功労者だ」とほめてるんですがね。私の回答文のどこを読んだのですか。 礼儀や立場が分からないと、通じない話かもしれません。同じ様な話ですから。 封建時代にあっては、不満を感じる家臣の方がエゴなんですよ。そうでなければ『封建的』なんて言葉が現代でも日本語の形容詞として使われていません。 任せたという言葉は君主からの礼儀作法ですよ。文字通りにその言葉を利用して、主君を批判しても、勝の方がおかしいんです。幕臣が『慶喜、お前、言ったじゃないか』は、ないでしょう。命をも捨てる家臣が、死んで本望のはずの家臣が、怪我一つ負わなかったのに、自分の立場がないような贅沢を言うのは大間違いです。明治になって勝が出世した一方で、沢山、幕臣が死んでもいます。 全権一任は近代用語ですから、勝の弁護には語弊があります。幕府を任したんじゃない。軍使です。勝の思い違いです。 水戸藩士や会津藩士が自分の主君にたてついたら切腹ですよ。徳川家は違うんですか。 幕臣が長州藩士や薩摩藩士と同じ感覚ではおかしいいでしょう。 どうしても主君を批判したい時は、どうするんでしたっけ? 武士の常識です。字の読めない足軽でも、武士の子どもでも、知っています。 勝は?とぼけたか。 勝の業績の大きさとは関係のない面の批判です。 日本のためを思ってしたというなら、明治政府が確立したらもういいでしょ。武士としてやるべきことが残っている。乃木希典は下級武士の家柄でしたがしましたね。 高い報酬を得ながらも名誉職の勝には、やる仕事がない。勝先生は遊んでいるが、いつになったら元幕臣として、己のした事の帳尻を合せるのだ。厳しくいうと切腹すべきなのです。その批判をかわすには、慶喜の名誉回復運動中にするのが一番簡単です。勝は一番偉くて暇だったのですからできます。 木村摂津守は、幕臣として、明治政府から給料をもらおうとはしなかった。貧乏になった。倒幕運動した勝は豊かになった。義を無視する社会になったという視点。 勝が慶喜の子を養子に貰って、どこが偉いのですか。家臣はお礼として主君の子を養子を貰うのですよ。 日本の為に仕方なかったとか言うのはもういいから、何歳になっても、けじめをつけろ、というのが武士の道。乃木希典を見習え、と言っても乃木の方が若い。 勝の批判など残りませんよ。新撰組と慶喜の悪口は残っている、ということを把握していますか。勝てば官軍の歴史観、その一例です。これが分からないと、いくら古い文献を研究しても文字通りで歴史認識して、どんどん間違いが進むのじゃないでしょうか。 何事も一貫性があるかないかの問題ですね。時代が変って、過去を、ちゃらにしたら、それには批判の余地がありますよ。勝てば官軍の偏見は、大東亜戦争も戊辰戦争も同じです。 ご質問である、批判理由は、個人としては幕臣だった訳だろ、そういうこともあると思います。 回答者に対して信者などと言わない礼儀正しい質問にして下さい。 今後ともよろしくお願いします。
お礼
たいそう誤解されている様で、困りました。私は正真正銘の勝さん信者を自認しています。勝さんの考え方や行動に全面的に肯定しています。そう言う意味で貴方も同様に福沢さんの信者ではと申し上げたものです。決して誹謗中傷するつもりは一切ありませんので、誤解なさいませんように。 貴方が福沢さんを尊敬されているので、あるいは、KO義塾のOBじゃないかと思いました。 長々お付き合いいただきありがとうございました。
- thegenus
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愉快愉快そうゆうんかい。 濁点ありですよね。まるで読ませてる字では。 たしか孫文の号は日本人の名字由来の、 中山ですよね。Middlemountain。ちなみに小山はSmallmountain。 山中ならinでしょうね。 質問者さんの補足のお蔭もあって、私自身、回答しながらとても勉強になっています。 福沢がとやかく言うことはおかしいとのご指摘は否定できません。 しかしながら、ご質問は、勝を責める正当性があるか、ではなくて、 福沢の動機ないし言い分ですよね。 村の先輩へ(笑)屁理屈を言わせてもらえるならば、 自由主義は、公共の福祉に反しない限り、各自がルールを決めます。批判(言論)と強制は違います。 自由主義の方が言論の自由が多いのですから、矛盾するどころか、福沢らしいのです。 福沢の「痩せ我慢の説」、これに反論する勝の言葉「行蔵は我に在り」は、 「おいおい、頼むぜ、諭吉さんよ。お前さんが決めることじゃねえだろ」 を礼儀正しく文語にしたものです。高官の勝がカンカンだったかは知りません。 福沢にしても、どうにもならんことなだけに言うしかないというところですね。 勝・竜馬の線から、歴史に親しむ人が多いのでしょうが、私はこの二人に関心が薄く、福沢・適塾の線から幕末を楽しんでいます。ひいきの人が違うと歴史認識も変り、当人はそれが正しいと思ったままです。何事もマニアほど冷静じゃない場合が多いです。長州と会津なんかは未だに遺恨があるような話も聞きますが、国内の場合は、反対の認識から学んで、より高い認識へ移していくべきで、それに損はありません。 私も今回はだいぶ考えを新にしました。 「伯夷叔斉」についてですが、これはたぶん実際、福沢が勝への批判に使っている言葉だったと記憶しています。 そのあたりから、福沢の読者の一人である私は、ある意味、まんまと、その理屈で一件落着していたのです。 しかしまず最初に念押しとして「伯夷叔斉」で批判するのは間違ってはいません。木村摂津守(芥舟)は明治元年に隠居して、死ぬまで歌を詠む生活。福沢は木村家を経済的に援助したようですから、貧しかったことも事実で、ワラビの変わりに、野草ぐらいは摘んでお膳に添えていたかもしれません。木村芥舟は別段、文句も言わず、正直に生きていたのでしょう。それが尚更、大阪人的に義理堅い福沢を当事者でもないのに、いきり立たせたのでしょう。「伯夷叔斉」とは「摂津守」のことをほめちぎったのです。あてつけですから間違いにはならないのです。 摂津守に恩があるのは知っていましたが、福沢が著述で、恩があるから、ご恩と奉公なんだ、とは書くはずがないので、勝の出処進退が道理に合わないという過剰な批判かとも思っていましたが、元より官職が嫌いなの事が、摂津守が高官でなくなったことで、爆発したということですね。 例えるなら、太平洋戦争の敗戦を機に、軍を辞めた元上官が、自衛隊からの誘いを丁重に断り、30代で恩給暮らし、別の上官は自衛隊で出世し、すべての将校から重鎮として扱われている。世話になった元軍人の塾経営者が、出世した方に、時代錯誤の戦陣訓を言っているのような感じですかね。 ただし、封建時代の武士と武士との関係ですから、近代以降の組織内における人間関係とは違いますね。咸臨丸においては勝も木村も福沢よりも上官の立場ではありますが、福沢の主君ではありません。主君以外の誰に逆らおうが武士の不義にはなりません。よって明治維新前より、近現代の社会に見られるレベルのいがみ合いではなく、中津藩の出の福沢にとっての勝は気に入らなければ果し状を出して、殺し合っても構わない間柄なのです。明治になりそういう元武士が「痩せ我慢の説」などと遠まわしな一説を出版しようが、激し過ぎるということはない、そう思います。 元々幕臣ではない福沢の、いうなれば主君が厳密にはどのように調整されていったのかは忘れました。 私は知らないのですが、勝と将軍は、幕末にそんなにもめたのですか? 慶喜の家の為に、勝が働いたことは、評価の対象にできますが、動機を考えて下さい。将軍は廃業したのに、勝は出世しているのです。周りは福沢ほどではないが、元武士ですからね。自分の為にも、元主君の名誉を回復してやらなければ、と戦略家の勝なら考えますよ。 福沢には、守るべき役所の立場など、摂津守同様に自ら捨ててしまってないのですから、こちらは義理と名誉のためなんです。私怨であっても利益ではないのです。 儒教と門閥を敵視した福沢の方が、古風な精神を説いています。これも一見すれば矛盾です。 日本で一番の功労者で、落ち度のない重鎮の、スキのない勝を、批判する人が一人だけいて、それが一番売れる本を書ける塾経営者だった。貴重な存在ですよ。
補足
いやいやこんな話をしているときりがありませんね。えらく福沢教の御信者のようですが、ひょっとしてKock Out Boyでしょうか。 (海舟の慶喜評他) (1)ソノ内、アーいふ事になったからネ。ソレから慶喜は、後見職といふ格で、ワシに言ひつけたのサ。(海舟座談)(第2次征長休戦協議) (2)慶喜はそれから急におれに油をかけやがって、「長州に談判に行ってくれ、天朝でもぜひ、お前の外にないと仰るから」などと、ひどく油を掛けやがった。(海舟座談)(慶喜は海舟との約束=全権一任を反故にした) (3))慶喜公は済むまいぢゃあないか。さういふ国を売るよやうな事をして置き、又、大政奉還後、外交の事は、依然、此の方にて取扱ふなどといふ書付を各国公使に渡した。(海舟座談) (4)明治25年、慶喜十男精を養子とする。 (5)明治31年、皇室と徳川家の和解が成立したその日の日記、「我が苦心30年、少し貫く処あるか」 (6)明治32年、海舟はこの世を去った。遺言により墓は「海舟」の二文字のみを刻ませたもので、爵位、贈位、経歴などは一字も刻まれることはなかった。 日本が内戦に陥らず、莫大な外国からの借金を残すこともなく、独立を確保できた最大の恩人は勝海舟その人。日本史上最高のStatesmanと思います。
- thegenus
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すいません、判読できました。空桶。 思い出しました。変体仮名ですよね。面白ですね。 可春之計は、加寸志希?その意味はわかりません。 補足しますが、「薩長」政府に批判的だったからじゃないですよ。独立精神の人ですから、宮仕えは嫌いなんです。 その証拠に、その前から、官職を避けています。まず中津藩士の身分を捨てたくて捨てたくてたまらなかったのです。また幕臣であることは名誉だった時代にまったく喜んではおらず、晴れてフリーになった時に、念願かなったと喜んでいますね。 福沢は何事においても恬淡で、純粋に民間人でいる方を望んだのです。 有名な言葉に門閥制度は親の仇というのがありますから、幕藩体制を潰してくれた倒幕行為が、薩長を恨む理由にはならないと思います。 薩長に批判的だったのでしょうか、浅学の私にはピンと来ません。具体例ありますか。 薩長というよりも明治新政府や保守的な士族が福沢の自由主義に圧力をかけていました。福沢の方は、生まれもっての毒舌であり、むしろ柄にもなく慎重に言論していたようです。ほんとはもっと遠慮なく言論の自由を発揮したかったはずです。福沢の場合、自己や思想が先にあって、それで、保守的・保身的なグループと価値観が衝突して、その反論を文字にしただけだと思います。
お礼
ありがとうございます。私の名前は「center in a village」「peace growing」でございます。
補足
ありがとうございました。福沢さんが根っからの自由人であったことに異論はありませんが、彼が自由を尊ぶのなら、勝さんの身の処し方に関してとやかく言うのは、宗旨ハズレのような気もするのですが如何でしょうか?
お礼
少し調べてみました。福沢さんは木村さん(芥舟)の従者としてアメリカに渡り、その経験を通して後半生を確立したこと。木村さんのお陰で福沢さんは世に出られたこと。 木村さんは提督として、勝さんは艦長として咸臨丸に乗り合わせたが、勝さんは後に木村さんの人となりを理解することとなるが、当初は木村さんが7歳も年下ということもあり、相当に毛嫌いしたようであり、その辺りも福沢さんの勝さん批判に及ぶのかと思われます。ありがとうございました。
補足
ありがとうございました。格調高い内容で恐れ入りました。何か心が洗われたような、背筋が伸びる気分にさせられました。 ところで伯夷淑斉ですが、その通りだとは思うんですが、勝さんは古い、既に時代に即さない幕藩体制には批判的で、夷狄に対抗できる、幕府に代わる近代的な政治体制の必要性を強く認識していました。 しかし、彼は徳川慶喜には何度か煮え湯を飲まされたにもかかわらず、お膳立てをして、慶喜が参内して朝廷の許しを得るのを見届けて亡くなりました。そういう意味では彼は徳川家には忠節を励んだと思います。 そういう意味で福沢さんの「伯夷淑斉=痩せ我慢」という批判は勝さんには少し見当違いのところがあり、それが「行蔵は我にあり」という答えになったように思うのですが如何でしょうか? ちなみに、私は伯夷淑斉などどこ吹くかぜ、カラオケでストレス発散してます。