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幕末・維新を動かしたエネルギー
徒然にというか、うとうととしながら、ふと、幕末・維新を動かしたエネルギーは一体何だったのか?という疑問が湧いてきました。もちろん、幕末・維新を動かしたエネルギーといっても単純ではないと思います。エネルギー同士ぶつかり合うこともあっただろうし、交錯することもあったと思います。 それで、ほんのちょっぴり歴史を楽しんでいる程度の少ない知識の中で、自分なりに少し考えて、思い浮かんだのが次の5点です。 (1) 外様大名と藩士の恨み すぐに思い浮かんだのが、「薩長土肥」ということでした。それで調べてみると、4藩とも、いわゆる「外様大名」でした。それで関ヶ原の合戦以降、2百数十年間、恨みを持ち続けたのかも知れないということです。 ただ疑問もあります。 ア) 江戸城では、外様大名は、常に末席だったということを聞いたことがありますが、戦に負ければ、生かされているだけでありがたい、冷遇されるのは当たり前で、この程度のことで、「恨み」が原動力になるとは?とても考えられません。それとも江戸幕府は、外様大名に対して、2百数十年間、恨みを持ち続けられるような待遇をしてきたのだろうか?という疑問です。 イ) それと、もしそうであれば、「薩長土肥」に限らず、他の外様大名も、団結して歩調を合わせたのではないか?と思うのですか、「薩長土肥」の藩同士の関係においても、また、それぞれの藩の内部においても、必ずしも1枚岩ではなかったと歴史本を読むと理解できます。 ウ) また、他の外様藩から抜きん出たのは、この4藩に何か共通点があるのだろうか?という疑問も生じました。確かに、この4藩から、明治政府の要人を多く輩出していますが、だからといって、明治になってから、この要人達に、幕末・維新を動かしたエネルギーというものが、今ひとつ感じられません。彼らも大変だったと思いますし、表現は適切ではないと思いますが、勝てば官軍的、派閥的、官僚的、利己的な考え方が支配していて、本当にこの人達が、エネルギーになり得たのか?という疑問が生じます。根拠はありません……私のゆがんだ見方かも知れません。ただ漠然と。 (2) 幕府擁護派の抵抗 「薩長土肥」に討幕のエネルギーがあったとすれば、当然、それに抵抗するエネルギーがあったからこそ、動乱の幕末維新史が形成されたのだろう?いうくらいの知識しかありませんが。 ただ、幕末期、「江戸城の存在がずいぶん薄いなぁ」という印象を持っています。このあたり、幕府擁護派に何か方策はなかったのか?という疑問があります。もしも、幕府が江戸ではなく、京都か大阪にあったら?展開も変わっていたかもなどとも想像します。それとも、開国について、朝廷にお伺いを立てた時点で、「江戸は終わった」ということなのか?という疑問も湧いてきます。 (3) ペリーの来航 幕末史は、おおむね、ペリーの来航に始まると理解しています。 ただ、幕末・維新を動かしたエネルギーというよりも、欧米の植民地主義的な海外進出という大きな潮流がペリーの来航によって日本にも訪れ、それに巻き込まれざるを得なかったのではないか?明治政府の誕生は、この大きな潮流と、幕末・維新の動乱の中での、たまたまの結果に過ぎなかったのか?あるいは、日本なるがゆえの独自の選択の結果、あるいは切り開いてきた明治だったのか?という疑問が生じました。 (4) 江戸幕府なり、幕藩体制の体制疲労 室町幕府も、江戸幕府とおおむね同じ期間成立していますが、江戸幕府は、室町幕府とは、比較にならないほど安定していたと想像します。15代将軍慶喜の行動如何によって、多少延命されたかも知れませんし、全く異なった時代が到来したかも知れません。 ただ、ペリーの来航はひとつのきっかけであって、そもそも江戸幕府なり、幕藩体制が、世の中の流れについて行ってなかった、あるいは仕組み自体が古くなっており、ペリーの来航には関係なく早晩倒れる運命にあった。 これについては、無知なる者の単なる想像で、疑問も生じません。(*^_^*) (5) 尊皇攘夷思想 これも、私にはよく分かりません。一貫していたわけではなく、変動が激しいですよね。安政の大獄や桜田門外の変ばかりでなく、多くの出来事に関係していると思いますが、どのように影響したのか理解できていません。それに、尊皇攘夷と一言で言っても、「尊皇」と「攘夷」を分けて考えないと幕末・維新の理解が難しいのかな?という気もします。 質問、お願いは、次の2点です。 (1) 上記5点について、認識の誤りがあればご指摘願います。合わせて上記の文中、「?」のついているところについて、ご意見等いただければ、なおありがたいです。 (2) 私の考えた上記5点の他に、幕末・維新を動かしたと思われるエネルギーについて、あなたのお考えを教えて下さい。 なお、この質問については、できるだけ多くの方の異なったご意見をお伺いし、今後、日本史や幕末・維新を考える上での参考にしたいと考えておりますので、ご回答の有無、多少にかかわらず、4月5日(日)までは、締め切らないでご回答をお待ちいたします。よろしくお願いいたします。
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- fumkum
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長文の後に、追記をするのも申し訳ないのですが。 八月十八日の政変のあとに、中川宮と関白二条斉敬が朝廷を主導し、朝廷に参預を設置し、公武合体派の、一橋慶喜・島津久光・山内豊信・伊達宗城・松平慶永・松平容保画任命され、参預会議という名の合議制会議を実現します。ここに阿部正弘時代からの有力大名(雄藩)連合の体制が実現します。しかし、元治元(1864)年1月(実際は文久4年 。2月20日に改元)に参預が任命され、意見の相違により3月には崩壊します。しかし、天皇の御前で国政の重要事項について合議するというスタイルであったことは、注目されます。参預会議の崩壊後、7月19日の禁門の変を経て、一橋慶喜、京都守護職松平容保(会津藩)、容保の実弟で京都所司代松平定敬(桑名藩主)による「一会桑(いちかいそう)」政権が成立します。この三者は会津藩の武力を背景に朝廷・京都を押さえ、江戸の幕府老中と距離を置きつつも、京都における幕府を代表し、さらに参預会議の中核であった雄藩、特に薩摩藩を国政の場から排除し、国政の主導権を握ろうとします。長州征伐、外交問題などを主導していきます。このように、朝廷の場にも参預会議、一会桑政権のように武家が進出し、主導権を握った時期があったのです。 慶応2(1866)年7月の将軍家茂の死を受けて、一橋慶喜が変節し、会津・桑名の反対を押し切り、第2次長州征伐を中止します。また、将軍職を継ぎ、一会桑政権下で排除してきた有力大名による会議を復活させることを重視され、一会桑は崩壊します。年末の孝明天皇の崩御もあり、この政権下で排除されていた尊攘派が復活し、雄藩の動きが活発化し、雄藩連合ではなく、倒幕への流れが加速します。 参預会議 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E9%A0%90%E4%BC%9A%E8%AD%B0 一会桑政権 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%9A%E6%A1%91%E6%94%BF%E6%A8%A9 「15代将軍慶喜の行動如何によって、多少延命されたかも知れません」 慶喜の評価が一般に高いのですが、上記の参預会議、一会桑政権の崩壊は慶喜の性格による面も大きく、公武合体派の孝明天皇の崩御ということがあったにせよ、権力基盤である幕府内でも積極的支持は限られ、参預会議、一会桑政権を主導しながらもそれを生かしきれず、参加者の反発を招いた慶喜の登場が、幕府の崩壊を早めたともいえます。 これに対して、前代の家茂の幕府・譜代大名間の人気は高く、勝海舟も明治に入り、家茂のことを考えるといつも涙が止まらないとしています。若くして将軍位を継ぎ、さまざまな難局に直面し、誠実に立ち向かう姿。部下に対する思いやりなど、将軍としての幕臣・譜代大名間に支持があったとされます。慶応2(1866)年に将軍家茂、孝明天皇がなくなり、一会桑政権が崩壊し、押さえつけていた重石がなくなり、実質的に幕府の命運はここに尽きたのだろうと思います。 ところで、孝明天皇が多くの宸翰を残したことは意外なことだろうと思いますので、その例を下記に。 松平容保宛孝明天皇宸翰 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%AE%B8%E7%BF%B0 最後に、幕府についてですが、幕府の本来的意味は、幕がテントで、府は役所を意味しました。テントの役所という意味が原義で、それが野戦に出た将軍の居所を指し、また、将軍そのものを指すようになります。日本においては、律令の「軍防令」に規定される、将軍・大将軍などは臨時の官職で、常置ではないので、武官の最高官職である(左・右)近衛大将の居る場所、近衛大将そのものを指します。また、幕下(ばくか)とも称します。『吾妻鑑』に頼朝が「幕下」「右幕下」と表記される例が多いのは、そのような習慣からきています。そのために、前右近衛大将であった頼朝の屋敷・政庁を幕府と呼ぶようになります。ですから、最初は征夷大将軍を指していたわけではありません。その後頼朝が征夷大将軍に任命され、後継者も征夷大将軍に任命されるようになると、征夷大将軍と政庁を幕府と呼ぶように変わってきます。しかし、征夷大将軍を首長とする武家政権全体を幕府と呼ぶようになるのは、江戸時代に入ってからになります。江戸時代でも、幕府よりは、「公儀」のほうが使われていたとも思います。ただ、鎌倉時代を通じて征夷大将軍の位置づけが高まり、室町期の公家の日記でも、征夷大将軍を指して「重職」としています。このころには、日本の実質的な政権担当者は、征夷大将軍もしくは将軍家の家督との認識が定着します。江戸後期の大政委任論にしても、実態が先にあり、それを後から意味づけたに過ぎません。 武家政権全体についても、実態が先行し、それを形式が追いかけるような形です。近年発見された資料によれば、征夷大将軍の任官に際して、鎌倉側は「大将軍」への任官にこだわってはいますが、征夷大将軍の任官には必ずしもこだわっていません。さらに、武家政権の最初を平氏政権に求める考えが主流になりつつあります。ともかく、江戸時代は250年以上の長きにわたり続きます。将軍の位置づけも時期により変化します。征夷大将軍・幕府とひとくくりで考えることは無理があるのではと思います。 本当に、長文になり申し訳ありません。資料としては、『岩波講座 日本歴史 第12巻』『幕末の天皇』『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』『日本の歴史18 開国と幕末変革』『国史大辞典』『一会桑政権』などを使用しました。
- fumkum
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ただ、天皇は、中国では賢才を選んで帝王とするが、日本では皇統連綿の事、誠に他国に例なく、日本に限る事、ひとえに天照大神の仁慮、言語に尽くしがたく、その代々の天皇が、万世一系の血脈だから、日本は中国より優れた神州で、それだから欧米との修好通商は神州の瑕瑾で、許すまじき事と考えていたとされ、その神州の清浄の空間を異類が侵すことは、清浄を汚すものだという観念があり、この神道的な観念は、天皇だけでなく、公家社会全体を覆う観念で、初期の攘夷論の背景をなしています。 尊皇思想は、宋学特に朱子学に根源をなすとされ、武力による支配である覇道政治より、徳による支配である王道政治を尊ぶ考えから興り、日本においては、天皇が王道であり、将軍・幕府は覇道であるとする考え方です。それだけでなく、『詩経』の「小雅」の中にある、「普(本来はさんずいに「専」)天之下 莫非王土 率土之浜 莫非王臣」の後半部分の「率土(そっと)の浜(ひん) 王臣に非(あら)ざる莫(な)し」の部分を、「日本国中に天皇の家臣で無い者はいない」と解釈(本来の意味ではない)し、天皇の下、全ての人民は、王臣として同じであり平等だとする考え方に至ります。封建的身分制社会で、閉塞した中で支配される状況を打破しようとする被支配者層の思想で、吉田松陰の唱えた「一君万民」論に、通底するもので、このような意味での尊皇論もあったのです。 さらに、幕末が近づき、欧米列強の艦船が日本近海に出没するとともに、本来幕府内部の秘密事項であった『オランダ風説書』などの外交・対外情報も民間に流れ、広くインテリ層を中心に、対外危機感が高まりを見せます。渡辺崋山は『慎機論』を書き、高野長英は『戊戌夢物語』を書いて、幕府の対外政策に言及し、弾圧されますが、対外危機感から、国の形を、公武合体による国論の統一、攘夷論による排外思想などの様様な考え方が出てきます。初期には、公武合体と尊皇攘夷論は相反するものではなく、孝明天皇のように、公武合体しての再鎖国=攘夷の考え方もあったのです。 次に26人の家格・門流・石高についてまとめました。ただ、「長い間貧乏な暮しをして来た下級公家には燃える情熱と才能を持った者が多く出た。」に該当する人物の特定は分かりません。ただ、石高が低いほど貧しいとは思いますが、一概に言えるのかは不明です。逆に、江戸時代の公家は言われるほど貧乏ではなかったとの説もあります。さらに、30石3人扶持の蔵米支給の家で、20ほどの家来を持っていた例や、摂家で100人規模の家来を持っていたなどの研究結果もあり(名目だけの者は除いてとあります)ます。 有栖川宮幟仁親王=皇族 有栖川宮熾仁親王=皇族 中川宮朝彦親王=皇族 仁和寺宮嘉彰親王=皇族 九条尚忠=摂家・3052石 近衛忠凞=摂家・2860石 近衛忠房=摂家・2860石 鷹司輔凞=摂家・1500石 鷹司政通=摂家・1500石 二条斉敬=摂家・1708石 西園寺公望=清華家・507石・一条門流 三条実美=清華家・472石・非門流・(七卿落ち) 正親町三条実愛=大臣家・近衛門流・200石 三条西季知=大臣家・502石2斗・(七卿落ち) 姉小路公知=羽林家・九条門流・200石 岩倉具視=羽林家・一条門流・150石 大原重徳=羽林家・一条門流・30石3人扶持(蔵米) 四条隆謌=羽林家・一条門流・180石・(七卿落ち) 中山忠光=羽林家・一条門流・200石 中山忠能=羽林家・一条門流・200石 野宮定功=羽林家・一条門流・200石 東久世通禧=羽林家・非門流・30石3人扶持(蔵米)・(七卿落ち) 壬生基修=羽林家・一条門流・130石・(七卿落ち) 六条有容=羽林家・非門流・265石 沢宣嘉=半家・九条門流・30石3人扶持(蔵米)・(七卿落ち) 錦小路頼徳=半家・近衛門流・30石3人扶持(蔵米) (1) 外様大名と藩士の恨み 幕末史を見ると、「薩長土肥」の内、「薩土」と「長」・「肥」は違うという印象です。「薩長土肥」は雄藩と呼ばれ、藩政改革に着手し、藩財政の再建と、藩権力の強化に成功をします。しかし、「薩土」は天保の改革の失敗の後、老中阿部正弘の下で推進された有力大名との連携・強調路線に乗り、中央政界に進出し、幕府・有力大名だけでなく、朝廷を含め、政治統合運動の一翼を担い、公武合体をも推進する勢力になります。また、一橋派として、将軍後継問題にも介入します。これに対して「長」はこのような協調路線に乗り出すことはしていません。藩論が開国から攘夷へと大きく変化し、何度の権力の交代を繰り返します。「肥」は独自路線といってもいいような動きをします。それぞれ別々といってもよいような動きをしながらも、最後の段階で倒幕という路線で歩み寄ります。外様大名の恨みといっても、「土」は関が原の戦いにより、徳川家から多大な恩恵を受けています。奥羽列藩同盟の中心として佐幕(幕府を佐-たす-ける)を貫いた仙台藩も外様です。逆に「長」のように恨みを継続したとされる藩もあります。外様大名と一概に論ずるのは難しいのではないかと思います。 「江戸城では、外様大名は、常に末席だった」という例はありません。大名の家格の一つとして、国主・準国主・城持・城持格・陣屋という区分がありますが、国主の多くは外様大名で占められます(御三家などは含めない)。この国主が江戸城中の伺候席の区分に反映されます。国主のうち、前田家は御三家とともに大廊下、その他の国主は第2席の大広間という具合です。このように外様大名が末席ということはありません。ただ、外様大名は原則的には幕府政治に携わることはできませんでしたので、この面では外様大名にとっては不満だったことはあると思います。例外も多々あるのですが、阿部正弘の協調路線まで、外様大藩の幕政関与は表面的にはありません。 「幕末期、「江戸城の存在がずいぶん薄いなぁ」という印象を持っています。」ということですが、修好通商条約の勅許問題以降、天皇・朝廷の権威が上昇し、政治の中心が江戸から京都に移転した感じがあります。将軍・将軍後見役のみならず、幕府重職、諸大名、浪人などが京都に集まります。このことが幕末の江戸の印象を薄くしているのだと思います。 「幕末史は、おおむね、ペリーの来航に始まると理解しています。」に関してはその通りだと思いますが、近代・明治維新もペリー来航に始まると位置づけられています。 「ただ、幕末・維新を動かしたエネルギーというよりも、欧米の植民地主義的な海外進出という大きな潮流がペリーの来航によって日本にも訪れ、それに巻き込まれざるを得なかったのではないか?明治政府の誕生は、この大きな潮流と、幕末・維新の動乱の中での、たまたまの結果に過ぎなかったのか?あるいは、日本なるがゆえの独自の選択の結果、あるいは切り開いてきた明治だったのか?という疑問が生じました。」 対外的危機感が幕末・維新を動かしたエネルギーの一つであったことと考えることには賛成です。ただ、1778年頃からロシアをはじめとして欧米列強の艦船が日本近海に出没し、中には通商を求めて交渉に及ぶ例も出てきます。さらに、アヘン戦争の勃発と結果に日本に与えた衝撃も、対外的危機感も幕末・維新を動かしたエネルギーの一つであったことと思います。当時の日本の識字率の高さ、情報の伝達と受容がこの対外的危機感に結びついたと思います。 大分長くなってしまいました。以上、参考まで。
お礼
国主・準国主・城持・城持格・陣屋……はじめて聞く言葉です。もうすこし調べてみます。 当時の日本の識字率の高さ、情報の伝達と受容がこの対外的危機感に結びついた……日本というものを新たに認識し直しました。
- fumkum
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なお、上記勅許問題以外に慶応2(1866)年に、第二次長州征伐が失敗に終わり、8月18日の政変で追放された尊皇攘夷派の公家の復帰を求める列参があります。 その後、井伊直弼の大老就任、戊午の密勅があり、安政の大獄が進行します。修好条約について再度説明のために入洛した老中間部詮勝は、調印は大政委任の枠内のことであり、大半の大名は外国との避戦論であり、条約調印は外国に勝つための軍備充実の時間稼ぎであり、軍備が充実すれば再度鎖国に戻すとした。天皇は、「公武合体にて何分早く良策を廻らし、前件の通り(鎖国に)引き戻さるべく候、(調印の)やむを得ざる事情においては、つまびらかに御氷解あらせられ、方今のところ(攘夷を)御猶予の御事に候」とし、修好通商条約の調印を了解するに至ります。そして、幕府は攻勢に転じ、安政の大獄を朝廷内にも持ち込み、多くの公家を処分に追い込みます。しかし、桜田門外の変を契機として、幕府は宥和政策に転じ、「公武合体」の象徴として、将軍家茂への和宮の降嫁を望みます。その結果、文久2(1862)年に婚儀は実現します。巷間降嫁は、幕府の強要とされますが、天皇の意思でもありました。上記のように、天皇は攘夷論ではありますが、公武合体論者でもありました。後述。 話が寄道しましたが、各国と修好通商条約を結び、貿易が始まるとともに、在郷商人が都市の問屋を通さず輸出品を貿易港に直送したため、五品江戸廻送令に見られるように、日本の流通網が混乱し、品物が減少した都市部を中心に物価は高騰した。さらに貿易初期は生糸を中心に輸出が多かったが、その後輸入超過に転じ、特に機械生産による安価な木綿織物の大量輸入は、農民層のみならず織物業界にも大きな打撃となった。さらに、日本と欧米の金銀比率の違いによる金貨の流出に対して、金貨の金含有率を大幅に落とす改鋳を行ったために、貨幣価値は大幅に下落し、物価は暴騰するというインフレーションを引き起こし、庶民の生活を圧迫し、開国・貿易に対する反発が高まり、日本各地に尊皇攘夷論が急激に広まった。幕末の尊皇攘夷論を考えるときに、対外危機感からの攘夷論だけでなく、開国・貿易の開始による物価の大幅上昇・生活の圧迫という実態に基づく攘夷論にも目を向けるべきだと思います。 このような騒然たる国内情勢の中で、朝廷が修好条約の勅許を認めなかったこと(実際は事後承認)により権威が高まり、勅許問題時からの攘夷派のみならず、攘夷主張する者が公家層に説諭し、尊皇攘夷思想を公家社会に蔓延させつつあった。このような情勢の中で、公家社会の攘夷派の動きに対応して、文久2年5月には国事を審議するための国事御用書記掛を設け、12月にはそれを発展的に解消改組して国事御用掛(最終的に41名が任命される)を設けます。この設置の目的は、天皇の意思-公武合体による再度の鎖国-朝廷内に広め、公家の軽挙妄動を抑え、御用掛以外の意見を上申するためのものであったが、摂家などの上級公家の攘夷慎重論・公武合体論に対して、三条実美以下の急進尊攘派の激突の場となり、急進尊攘派が主導権を握るようになります。その結果、攘夷派で追放された者の復権がはかられ、一部反対派が追放され、文久3年2月には国事参政・国事寄人を設けて急進尊攘派が就任し、攘夷の親征を進め(大和行幸など)、幕府を威圧する政策を強行しようとし、攘夷慎重論・公武合体論者と激しく対立します。5月には下関沖を通過中のアメリカ・フランス・オランダの艦船に対して長州藩は攘夷決行として砲撃を加えるまでに至ります。7月にはイギリス軍艦が生麦事件の報復として鹿児島を砲撃し、薩摩との間に薩英戦争が起こります。このような情勢の中、急進尊攘派の勢力が朝廷内で極点に達し、実権を掌握する中、文久3年8月18日に攘夷慎重論・公武合体論者、会津藩、薩摩藩などによる八月十八日の政変が起こり。急進尊攘派が追放され、七卿落ちにつながります。 では孝明天皇の考えはどうであったかというと、上記したように、「公武合体(と大政委任)による再鎖国」という考え方でした。孝明天皇は多くの宸翰(天皇自筆の文書・書簡)を公家・武家に出され、100通以上に上ります(多く「孝明天皇紀」に収録)。これを見ると、天皇の意思は「公武合体による再鎖国」にあり、三条実美以下の急進尊攘派は天皇を圧迫し、自己に都合のよい勅命を出していたことが分かります。天皇はこれを「下より出る叡慮のみ、朕の存意貫徹せず」「すべて下威盛ん」「毛頭予(天皇自身)好まず候えども、とても申し条立たざる故、この上はふんふんという外致し方これ無く候」と表現しています。 『日本の歴史18 開国と幕末変革』に次のような一文があります。「考えておく必要があるのは、天皇を執ったり(*ママ)、抑えたり、果ては幽閉したりと、天皇に対して乱暴に見えるが、武家にとっては、これも間違いなく「尊王」だったということである。今日のいわゆる皇室崇拝とは様相が違う、私たちには異文化の「尊王」なのである。」としていますが、武家だけでなく、公家も実態として同じといえます。 ただ、尊攘派が何を目指したかということも考えなければならないと思います。確かに多くの尊攘派は純粋に攘夷・尊皇であったのだろうと思いますが、修好通商条約勅許問題の列参時に、参加した公家の中から「王政復古」の声が一部上がったとの記録があります。公武合体派として、和宮降嫁に尽力し、追放された岩倉具視は復帰後倒幕派として活動していますが、尊攘派・公武合体派に限らず、朝権の伸張、王政復古が本来の目標で、尊攘、公武合体は手段と考える公家もいただろうと思います。少なくとも岩倉は。 「政局に影響(混乱させることも含めて)を及ぼすことの出来る公家というのは、下記のサイトにある26人と理解して良いでしょうか?」ですが、このような当時の状況からは、26名だけではないと言わざるを得ないと思います。 (2) この26人は、孝明天皇と直接、政局やその方針などについて奏上することの出来る立場だったのでしょうか?それとも孝明天皇への奏上は、特定の公家が担っていたのでしょうか? 26人のほとんど全てが公卿となる資格を持つ、堂上家であり、国事御用掛に家格に関係なく任命されていますので、孝明天皇に直接、政局やその方針などについて奏上すること、御前で議論することは可能だったと思います。 「朝廷は江戸時代のほぼ全期間という長い間、政治活動を禁じられてきた。その為、上級公家には人材が払底していたが、長い間貧乏な暮しをして来た下級公家には燃える情熱と才能を持った者が多く出た。但し、彼らの多くは用心棒兼参謀の様な志士を雇っており、彼らの事績の何処までが彼らの才能による物かは断定出来ない。」 『岩波講座 日本歴史 第12巻 近世3』の「近世の公家社会」に次のような一文があります。「一方、尾藤(*正英)は、(禁中並公家諸法度)第一条の条文のほとんどが天皇としての心構えを記した『禁秘抄』からの引用であることや、帝王学のテキストである『貞観政要』『群書治要』などの書名が見られることに注目し、同条は天皇を非政治化することを狙ったものではないとする。-中略-天皇に日本の君主としての「役」を期待し、それに相応しい教養を修めることを求めたものであると論じた。」と記述しています。ただし、「近世の公家社会」の筆者は、天皇の政治性を否定しようとしたものではない点には賛意を示しつつも、天皇は朝廷・公家社会の君主としての期待されていたとしています。ともかくも、天皇の政治性を認める考え方があることには注目せざるを得ません。『岩波講座』でも記載されていますが、近世の天皇・朝廷・公家社会については、本格的な研究が始まって50年ほどで、歴史の浅い研究分野で、徐々に解明されてきています。しかし、ペリー来航以来の激動の期間は、明治以降の政体にとっては英雄的な期間であり、様様な伝説と、自己正統性を付与するような物語に彩られ、実態とかけ離れたお話が多く見られます。坂本竜馬の大政奉還論は有名ですが、上記したように大政委任論の当然の帰着であり、慶喜以前に、14代将軍の徳川家茂も一時大政を奉還し、一大名に戻り、江戸に割拠しようとしたことがあるほどです。 また、「上級公家には人材が払底していた」ということですが、摂家などを見ると、縁辺の大名などを通じて情報をつかんでおり、急進的な攘夷が国の安全に重大な危機をもたらすことを分かっていたともいえます。つまり、欧米は大国・強国であり、日本は小国・弱国であり、現状で戦えば、幕府の崩壊のみならず、日本全体の重大な危難をもたらすと考えていたことは確かであると考えられます。それが、幕府・大名の説得であっても。 孝明天皇も、即位当初より列強艦船の日本接近には関心を持ち、即位年の弘化3(1846)年8月29日に幕府に勅書を下し、海岸防備の充実と、最近の異国船渡来状況を知らせよと命じています。これは、文化4(1807)年に幕府が蝦夷地におけるロシアとの紛争状況をまとめて報告したことを根拠とし、「神州(日本国)の瑕瑾(かきん-恥)」とならないようにとしています。そのため、幕府は報告を上げ、さらにペリー来航時には、大統領国書の訳文を報告、ハリスが下田に着任するとハリス演説書を報告するなど、外交に関する資料を送っています。
お礼
「公武合体にて何分早く良策を廻らし、……御猶予の御事に候」……天皇の素直なお気持ちと理解して良いのでしょうね。 幕末の尊皇攘夷論を考えるときに、対外危機感からの攘夷論だけでなく、開国・貿易の開始による物価の大幅上昇・生活の圧迫という実態に基づく攘夷論にも目を向けるべきだと思います。……尊皇攘夷も幕末・維新を動かしたエネルギーだろうと認識していましたが、それは、あくまでも「思想」と理解していました。開国に伴う経済の動きとも連動していたのですね。 八月十八日の政変に至るまでの朝廷内部のことがおぼろげながら描けました。 「ペリー来航以来の激動の期間は、……伝説と、自己正統性を付与するような物語に彩られ、実態とかけ離れたお話が多く見られます。……多少の読書くらいでは、当時のことを正確に理解するのは難しいということを肝に銘じます。
- fumkum
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前回の質問も含め、気が付いたことを長くなりますが。 8月18日の政変(七卿落ち)のことを読んで、ふと、幕末の頃、公家というのは何人いたのだろうかという疑問が生じました。それで公家について、ネットで調べたのですが、当時、政局に影響(混乱させることも含めて)を及ぼすことの出来る公家というのは、下記のサイトにある26人と理解して良いでしょうか? 幕末には堂上家が、137家、地下官人が1090名という数字が残っています。堂上家は、天皇の居間というべき昼間の活動空間である御所の清涼殿の殿上間に、入室を許された者をさしますが、後に家格化し、*公卿になることができる家柄を指すようになります。地下は殿上間に入ることができない身分の者を指します。地下官人は堂上家以外の朝廷に仕える者(官位を持っている)ということになります。 参議以上、中納言・大納言・内大臣・右大臣・左大臣・太政大臣までの現任公卿と、三位以上の位階の位階を持つ者の総称。 さて、公家ですが広い意味では堂上家・地下家を含めていいますが、一般(狭義)には堂上家のみを指します。堂上家ですが、家格の上から、摂家(5家)・清華家(9家)・大臣家(3家)・*羽林家(66家)・*名家(28家)・*半家(26家)の合計137家を指します。狭義では羽林家以下を指し、この場合、羽林家以下を平堂上とも言います。 *羽林家=一般に武官である近衛府の少将・中将を兼任して大納言まで昇進できる家柄。 *名家=一般に侍従・弁官などの文官系の役職を経て、大納言まで昇進できる家柄。羽林家と同格。 *半家=堂上家で最下位の家柄。大納言まで昇進できる点は羽林・名家と同じだが、実際は現任公卿にはほとんど任命されない。 地下官人は3階級に分かれます。最上位が催(もよおし)官人と呼ばれ、壬生家(官方=局務)・押小路家(外記方=官務)・平田家(蔵人方=出納)の三家(三催‐さんもよおし)で、三催を地下官人の棟梁と呼ばれます。次は並(なみ)官人と呼ばれ、上記三催のいずれかに属し(例外があり、堂上家と家礼関係を結ぶ者もあり)、その指示により仕事をこなします。催・並官人ともに世襲制です。これに対して最下位の下(げ)官人は朝廷の雑務を担い、一応世襲制ですが、京都および周辺の農民・町人などが、株を買って(養子の形式で)なる例が多く見られます。 ところで、江戸時代の朝廷は、一部の執行部の堂上と、儀式を執行・参加するほとんどの堂上とに別れます。執行部とは、関白・三公(左大臣・右大臣・内大臣の3人)・武家伝奏(2名)・議奏(4名)を言います。このうち、武家伝奏・議奏を両役と称します。ただし、三公は除く場合もあります。禁中並公家諸法度の11条では、「関白・(武家)伝奏並びに奉行職事などが申し渡すの儀、堂上地下のやから相背くに於いては、流罪たるべし」とあり、関白・武家伝奏の絶対性が保障されています。 ここに、隠れた仕組みがあって、近衛・鷹司・九条・一条・二条家の摂家に力が集中するようになっています。その一つが、上位官職の独占です。関白はもちろんのことですが、三公であっても摂家以外が就任することはまれで、清華家・大臣家から内大臣に就任しても、数ヶ月で辞任することが多くあり、実質摂家の独占状態でした。さらに、堂上家のほぼ9割が、いずれかの摂家と、摂家を主、堂上家を従(家礼《けれい=家来》)とする門流という名の主従関係を結んでいました。この関係は強固で、主たる摂家に反することはできませんでした。また、上記の禁中並公家諸法度の11条の規定もあり、さらに、第4条・5条の摂関の任命の規定、10条の諸家の昇進の規定に家格の墨守と、その中での能力主義(実質的に親幕姿勢)によって、関白および摂家の優位は確定し、摂家に力が集中するようになっています。江戸時代の朝廷では、天皇よりも摂家、特に関白のほうが力を持っていました。特に、ペリー来航・日米和親条約締結時の関白鷹司政通は、関白職を37年間務めたという大実力者で、孝明天皇も満足に話すことができないような状態でした。ですから、和親条約の締結については事後報告であったのにもかかわらず、鷹司関白主導の朝廷は、何の問題もなく、承認を与えています。 このような状況でしたから、天皇も江戸時代を通じて重要事項について摂家に相談することにもなります。また、逆に関白はじめ摂家は、天皇に換言する、言い換えれば天皇が暴走したときに、諫止することを幕府により義務付けられていたともいえます。当然、その見返りはあり、これは武家伝奏も同じでした。関白は役料500石、藤原氏の氏長者を兼ねるのでそれでも500石の合計1000石。武家伝奏は200石(500俵)が役料でしたし、それ以外にも役職に付随する収入や、叙位任官や勅許などの際に幕府・大名が落とす礼金・工作費などもありました。 さて、摂家をはじめ上級公家を中心に将軍・大名と家格相応の婚姻関係を結び、近衛家と島津家のように重層する関係を持つこともまれではありませんでした。大名からはお手伝い金という名の援助を受けるのが一般的でしたが、大名から来るのは金だけではなく、情報も来ていました。近衛家が島津家から「オランダ風説書」(基本的には幕府有司以外は部外秘とされている)や、アヘン戦争の結果についての「オランダ別段風説書」(部外秘)を送られたことがはっきりしています。また、前関白鷹司政通には縁戚の水戸徳川斉昭から、秘密文書とされていたペリー来航を知らせる「オランダ風説書」送られたこともはっきりとしています。現在では摂家などの上級公家は、縁戚の大名を通じて、内外の情勢と、日本の国力・戦力について認識しており、攘夷が危険であることも理解していたとされます。また、摂家はお互いに情報を交し合っています(「オランダ風説書」以降は『日本の歴史18 開国と幕末変革』のまとめ)。 オランダ風説書 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E9%A2%A8%E8%AA%AC%E6%9B%B8 「政局に影響(混乱させることも含めて)を及ぼすことの出来る公家というのは、下記のサイトにある26人と理解して良いでしょうか?」 政局に影響をということですが、「列参(れっさん・れつざ)」という言葉があります。他の言葉で言うと「強訴」・「一揆」です。公家(平堂上)が御所に当番日でないのに集まって(安政の大獄の原因となった不時登城と同じ)座り込み、気勢を上げることです。日米修好通商条約の勅許に関して、三公・両役では意見が割れ、天皇の指示で、現任公卿から意見を聴取しており、その後、老中の堀田などの巻き返し、一橋派の大名も縁戚の上級公家を通じ説得に努めていた。関白が幕府寄り(幕府一任に近い内容)の勅答案を出したのに対して、反対のために列参に及んだ公家88名が示威行動をとり、最終的に勅許は下りないことになります。これを考えると、数を頼んでということはありますが、平堂上以上も、影響があったとも考えられます。なお、地下官人も三催以下93名が集まり、意見書を提出し、賀茂神社・稲荷神社などの神職から出て、無位無官で御所の雑用を勤めた非蔵人(ひぅろうど)55名も意見書を関白・武家伝奏邸に押しかけて提出しています。堂上(他に地下官人・非蔵人)という公家による一揆が行われ、執行部、特に鷹司政通ら関白・摂家の意見は撤回に追い込まれます。一面では、摂家支配への反抗であり、摂家を飛び越えて天皇に直接結びつくための行動である側面が見られます。また、天皇も現任公卿の意見聴取を命じ、攘夷に対する強固な意志を貫こうとしています。 このような天皇、朝廷の動きは勅許問題が最初ではなく、幕初を除くと、寛政3(1791)年の、光格天皇による実父である閑院宮典仁親王への太上天皇の尊号を贈ろうとした事件の尊号一件(尊号事件)でもあり、「群議」と称され、現任公卿と、同官待遇者41名に勅問を下したことがあります。勅問は通常摂家に対して下されるもので、ここにも、摂家支配のほころびと、天皇と、朝政から遠ざけられていた一般の公家層とが結びつこうとする動きが見られます。結局は、幕府の反対で尊号は贈られず、武家伝奏・議奏各1名を罷免する結果となります。 ただ重要なのは、尊号一件のときに老中首座の松平定信は、「大政委任論」=天皇・朝廷が国土・人民の支配・政治を将軍・幕府に委任しているとの説を唱え、これが幕末の公武合体、大政奉還などの思想的背景を持ち、尊王論・攘夷論などと並ぶ幕末の政治思潮となります。「大政委任論」は松平定信だけが主張しているのではなく、本居宣長なども主張し、幕府支配を天皇・朝廷の権威により正当付けています。その反面、天皇・朝廷が将軍・幕府より上位であり、支配の正統性を保障する権威であることが明確になり、本来の支配権は朝廷にあるであるから、「征夷」大将軍でありながら「攘夷」のできない将軍・幕府は、天皇・朝廷に政権委任を返上すべきであるとの考え方に転換し、尊王論・攘夷論も絡み、将軍・幕府を苦しめるようになります。
お礼
大変懇切丁寧なご回答、恐縮しております。「5摂家」という言葉は記憶にはあったのですが、その意味が理解できました。幕末期の公家の世界の骨格が分かりましたが、同時に、「堂上家のほぼ9割が、いずれかの摂家と、摂家を主、堂上家を従とする門流という名の主従関係を結んでいました。」、「天皇よりも摂家、特に関白のほうが力を持っていました。」などは、極めて複雑面妖で、ますます分からなくなりました。(*^_^*) 最下位の下(げ)官人は朝廷の雑務を担い、一応世襲制ですが、京都および周辺の農民・町人などが、株を買って(養子の形式で)なる例が多く見られます。……現在で言えば、宮内庁で働く下っ端公務員という感じですかねぇ。 攘夷が危険であることも理解していたとされます。……そうなのですか。朝廷の動きも、また複雑ですね。情報を活かせていない、というか、朝廷や公家は、幕末・維新にいたずらに混乱を招いたという印象を持っています。 江戸時代の公家というのは、非常に貧乏していたとのことですが、役料とか、礼金・工作費とか、お手伝い金のような副収入……あるいは主収入だったかも知れませんが……が生活を支えていたのでしょうね。 数を頼んでということはありますが、……解釈の仕方によっては、民主的とも言えると思います。私は、天皇の独裁的色彩が強いのか?と考えていました。 朝廷内部、朝廷と幕府との関係など、大変参考になるご回答ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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私たちから見たら薩摩はその程度の事 でしょうが 薩摩藩はずーっと幕府を倒す機会を窺がってました ほんの些細な事を250年も根に持った島津家は女々しいと思うかも知れませんが だからこそ明治維新のきっかけとなったと思えば それもまた一興だと思います
お礼
もう締め切ろうと思い、開いてみたら、azuki-7さんのご回答がありました。再度のご回答ありがとうございます。私の「お礼」の内容が気に障ったのでしょうか?それであれば、申し訳ありません。<(_ _)> 私も、鹿児島県人とは、過去に数人とお付き合いありましたから、鹿児島県人の気風は知っているつもりです。「女々しい」という気風はありませんでしたし、私も、そのような印象を持っているわけではありません。しかし、関ヶ原にしても、幕末にしても、あの「動き」は一体何だろう?「家康を倒そう、幕府を倒そう」に向かって一直線ではないですよね。薩摩なるがゆえの独特の「気風」があるのでは?と、むしろそれが知りたいという気持ちです。 歴史の事実は、この瞬間にも数多く積み重なっていきますし、それをどう評価するかは、個人の自由です。azuki-7さんのご回答を否定しているものでもありません。ただ、「女々しい」ということではなくて、「250年も、恨みを持ち続ける源泉は一体何なんだろうか?、単に伏見騒動ですか?、原因のひとつであったかも知れませんが、それが幕末・維新のエネルギーになり得たのでしょうか?そんなことが薩摩を動かすエネルギーだったのでしょうか?」という疑問です。そんなことが原因であり、エネルギーであったとすれば、むしろ薩摩を辱めるような気が、私にはします。
- nigifukuro01
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アヘン戦争などで他国を侵略してくる異敵を排除する「攘夷」は、日本民族の 集合的無意識ととらえる事が出来ます。平穏な時は、無意識の底で眠っている んですね。
お礼
ありがとうございました。 集合的無意識……???
土佐藩の場合は、上士と郷士の身分差が激しく、郷士の抑圧されたエネルギーが維新に発揮されたといわれています。
お礼
「郷士の抑圧されたエネルギー」……私には、このような視点がありませんでしたが、他のご回答にもありました。考えてみます。 ありがとうございました。
- mm058114
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ある意味、偶然の産物ではないでしょうか? たまたま、薩長土肥の思惑が重なった。 そういう事が起きた。 一言でいうなら、 只のクラッシュ&ビルドでは、ないでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございました。 すべてが「偶然の産物」とは思えませんが、私の質問にもあるように、「たまたまの結果に過ぎなかった」というようなこともあったと思います。 薩長土肥の思惑……重なったこともあるし、同床異夢だったこともあると思います。
- kngyk
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ちょうど、今そのあたりを開設している司馬遼太郎さんの本を読んでいます。 「歴史と風土」です。 日本がどのようにしてできてきたか、なるほどと思えるところがあります。
お礼
書店に行って、立ち読みしてきます。
- あずき なな(@azuki-7)
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幕府の政治が行き詰まっていたのにも関わらず徳川家は打開策を見出さなかった事が原因でしょうか それまで日本しか知らなかった薩長の志士たちはアメリカやイギリスに渡り 国王や大統領が国を率いる制度に衝撃を受けたのです 江戸幕府確立当初から幕府を倒すことを考えていたのは薩摩藩です もし関ヶ原の伏見騒動が無ければ薩摩が倒幕に乗る事は無かったと思います
お礼
ご回答ありがとうございました。 「幕府の政治が行き詰まっていたのにも関わらず徳川家は打開策を見出さなかった事が原因でしょうか。」……他の方のご回答からしても、ご回答は大きな要因だと思います。ただ、上手く文章で説明できないのですが、原因はいろいろあると思います。そのこともさりながら、さらに推し進めていこうとするエネルギーは、抵抗しようとするエネルギーは何だったのか、これは「原因」だけを理解できても、分からないような気がしました。 「伏見騒動」なんてあったんですね。全く知らなかったので調べてみましたが、私の「薩摩は関ヶ原にしても、幕末・維新にしても、どうも動きが怪しい」という疑問が、ますます確信に変わってきました。(*^_^*)おそらく、戦上手で、しかも策士である家康に乗せられたのではないですか?直感的ですが。「薩摩隼人」とか、え~と、刀の流派、「示現流」でしたっけ?……そんな質実剛健なイメージと合わないのですね。 それまで日本しか知らなかった薩長の志士たちはアメリカやイギリスに渡り国王や大統領が国を率いる制度に衝撃を受けたのです……高杉晋作が上海だかに行って刺激を受けたということは、ご回答の中にもありましたが、欧米に行ったというのは、薩英戦争、馬関戦争の後でしょ?痛い目にあって、はじめて勉強するのは、人間として仕方ないことですが、私の質問にもあるように、明治草創期の薩長を考えると、薩長の志士が、本当にエネルギーになり得たのかというのは極めて疑問でした。 もし関ヶ原の伏見騒動が無ければ薩摩が倒幕に乗る事は無かったと思います ……でしょうか?長州流に喩えると、 殿:伏見のことは忘れておるまいな。 家老:しかと、心得ております。 という程度のことではないですかねぇ(*^_^*)
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お礼
4節に渡り、丁寧なご回答ありがとうございました。私は、皆様からいただいたご回答を別途コピペ、ファイルにして、読み返すことにしているのですが、fumkumさんのご回答、A4版でなんと8ページにも及びました。朝廷を中心とした当時の様子、幕末・維新の動きなど、8ページに凝縮されていましたし、私にとりましては、これまでの認識とは異なった新たな知見なども多く含まれており、「認識を新たにした」ということもありますが、むしろ「歴史の見方」の複雑さに悩まされそうな感じです。(*^_^*)結局は、歴史の事実をしっかりと認識し、後は、それをどう理解するかは、本人次第ということでしょうかねぇ。 fumkumさんからいただいたご回答を、当然のことながら、すべてを理解できたわけではありませんが、今後手がかり、足がかりにしながら、「日本史」、「幕末・維新史」をたしなんでいきたいと考えております。機会がありましたら、またご回答をお願いいたします。 ありがとうございました。