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明治維新と戊辰戦争における町人の役割
- 明治維新や戊辰戦争における町人の役割とは?
- 町人の参加や新政府への登用について
- 佐幕藩出身者の扱いについて
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基本的に日本の軍隊というのは「逆らった相手」だけが攻撃目標なのであって、民百姓は攻撃しません。つまり、全てを荒らしてしまったら反発が強くなってあとで支配するのに苦労するからです。 とはいってもそれはあくまでも表向きです。巻き添えを食った人も多いはずで、街中など火の海になったりしていますが、大半の町民はほとんど財産など持っていないので、戦場になったら身一つでその時は逃げるのです。略奪、レイプなどは厳しく取り締まられていましたが、参加したのは必ずしもまっとうな人間ばかりではないのでなかにはあったことでしょう。記録に残っていないだけです。当時の記録には敵を攻めるときにこういうことを厳しく禁じていたことが書かれていたりしますが、裏を返せば後を絶たなかったということでもあります。
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- PENPENMAKKY
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当時の軍隊の構造を話す必要があります 日本に西洋式軍隊が持ち込まれた時、消耗を強いられる事が解ったのです 侍はプライドが高すぎるのと役人業をやってる侍は訓練を受ける暇がありません そこでどこの藩でも息子に訓練をさせていったのです でも数が追いつきません 西洋式軍隊には最低700人位人が必要だったんです そこで考えたのが町人・農民から志願者を募って兵隊にするという方法です 奇兵隊もその一つです 奇兵隊も含め任期満了後は士族待遇にしてくれるというものが大半でした 苗字帯刀が許されるんですから息子を志願させようという人が出ました 一方でヤクザ者も職にありつけると参加しました 西洋式軍隊を導入した藩はほとんど農民・町人兵を持っています 戊辰戦争勃発後どうなったのか? 町人や農民は戦場から疎開しています 新政府だろうが会津だろうがならず者がいますので彼らは掠奪・強姦事件を起こしています 特に会津と幕府歩兵は酷かったようです 会津の領民が一番敵視したのは会津藩士でした 戦後、会津から出て行け!と、なり 新政府が移動先として考えた猪苗代は領民が反会津一揆を起こして受け入れ拒否をしました 会津の悪政はあまりにも有名だったんです
- kurikuricyan
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長州、薩摩藩に襲われた会津の町民は、彼らによって 財産を奪われたり(商売人が貯めていた小金とか)、婦女子は、家族の前でレイプされ、 強姦した後は、娘や妻を切り刻まれた、、、というのも多かったそうです。 会津藩は教育が高かったので、明治新政府にとっては、会津の頭脳は欲しかったみたいで 多くの会津藩士を新政府に登用していますが、立場的には、 会津藩士は、見下されていたようです。 長州、薩摩は、驕っていたようですね。 しかし、会津藩の者としては、きちんとした給料が貰えるのは、 やはり魅力的で自分達の置かれた立場に不満を持ちながらも 新政府に仕えていたようです。 東北の北の斗南では、厳しい寒さと環境の下、暮らしていけなかったから、新政府に仕えるのは 苦渋の選択だったのでしょう。 西南戦争で薩摩を成敗するとき、多くの羅卒(警察官)の募集をしましたが、 申し込んだのは会津藩士や、会津の町人が多かったそうです。 「戊辰の復讐!!」を掛け声に薩摩藩に向かっていったそうです。 15代将軍 徳川慶喜は「長州は、もともと、反幕だったから恨みはない。が、薩摩藩は、最初は、味方 だったのに、途中で掌を返して裏切った!! だから薩摩は許せない!」と亡くなるまで 薩摩を心よく思ってなかったそうです。