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観念の放射線について
あるいは 意識の排泄について 問います。 煮詰めたところ いまの究極の問いはこうです。 (α) こののっぺらぼうの涎(よだれ)の如き垂れ流しに対して われわれは あたかも(つまりただの文学的な表現ですが)悪魔と手を組んだかたちででも 対処すべきなのでしょうか? 理性的なひとつの対処法としては (β) わたしたちの発言について――たとえばここでの投稿について―― 索引をきちんとつくり つくるだけではなく ちゃんと活用する。そうすれば 自己矛盾を明らかにし得て その乗り越えを提案していける。 たぶん この合理的な方策は どうも日本人には通用しないでしょう。のっぺらぼうだからです。何でもありだからです。 先の非合理的な方策(α)というのはさらに具体的には――なおも文学的な比喩の表現ですが―― その意識の排泄者に対してとことん相手になってやるという意味です。去る者も追うという意味です。ともに地獄に到ろうとも その相手が 自己矛盾の乗り越えを果たすまで同道するということになります。 いわば放射されてくる観念の政治学に対して こちらはそのデーモン作用をも飲み込んだかたちで悪魔と手をたづさえてでも そのような精神の政治学においてどこまでも相手になってつきあうという行き方です。 この日本のブラックホールは どうにかならないでしょうかねぇ。
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- owlsjp
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訂正: 従って、9であれば8以下、8であれば7以下、7であれば6以下が解るのみでしょう。 ⇒従って、9であれば9以下、8であれば8以下、7であれば7以下が解るのみでしょう。 それにしても、総理が結構しつこくまだ頑張っているのは、もう見栄と体裁によるものでしょう、私が刺激し過ぎているのが悪いのかもしれませんが、その原因は、質問者が煽るからです、私のせいではありません(笑) なお、嗅覚は7、8、9の段階に在る人でも、正常に作用します。そうでない場合も例外としてあるかもしれませんが。 結論として、No.26の補足と、質問自体がお粗末ですので、質問を却下します。 ◇終了。
オコリザルです。 個人的な定番の見解です。 (またしても)犬には(動物には)感情が無い。 この命題。 答えは簡単。 情動と言う言葉が語る通り、感情が無ければ行動が出来ない。 生物的に原始的でも大脳を備えていれば必ずそうです。 この命題の起源はヨーロッパでの信仰です。 キリスト教会では動物に感情が無いと主張していますが、欧米で犬の血統を守るブリーダーは性格の良い犬の子孫を積極的に育てようとして、実際にそのように成功しています。 感情は無いと言いながら性格は認めるへんてこりんな文化です。 そんな中で何故犬に感情が無いと思いこまなければならないのでしょう。 日本人には無縁な欧米の文化に過ぎません。 ところがどこで聞いたかもわからないまま、犬に感情が無いことが、常識として思い込まされている。 わかってしまえば、自らの考えで無かったことが解り、晴れ晴れとするのが「犬に感情が無い」とする命題です。馬鹿なことに悩んだなーと吹っ切れます。 そこで思い込みの働く事に「常識」「人知」に基づく人類共通の了解が働いています。 その観念世界をイデア界としたのが哲学の発祥です。 観念世界とのつながりは孤独を感じる一個のヒトであっても必ずあります。そこでつながっているんです。 私の伝心現象の証言もそこに由来します。 ここまでが定番メニュー。 ここからは特別コース。 9次元におわす高次元の霊体様ならば自由自在に私の「うんち」のにおいを嗅ぎにお越しいただくことが可能です。今回は茶化して誰かさん向けに言っていますが、この高次元の霊体と名乗る「やつら」は本来は「さまよえるオランダ人」と名が付いています。散々戦いました。やつらの武器は人知を牛耳っていることです。
お礼
★ キリスト教会では動物に感情が無いと主張していますが、 ☆ この点 ずっと分からなかったことだったのですが これは ★ 感情な無い ☆ ではなく ○ 意志が無い ☆ のことではないでしょうか? と今回思いました。それなら そういうことだと思います。 わたしの認識では ★ イデア ☆ という言葉は――それが ヰ゛デオと同じ言葉であるように――《見られたもの》というほどの意味だと思います。 誰かが怒っているとします。その表情をわたしは知覚します。そうして《怒り》という言葉を想起します。ここで 《怒り》ということの内容を《表象する》ことになります。 《象(かたち)に表わした》わけです。過去の経験の記憶から《怒り》にかんする描像なりその概念なりを引き出して来ます。概念としてなら 《自分の思うようにならない状態をいやだと思っている》ことであろうし さらにはその状態において《見境なく おのれがおのれの感情そのものになっていく状態》だとかこうとかいうわけです。 《心の目に見られたもの=イデア》というわけです。概念であり それ自体を現実の事象から切り離して捉えるなら 《観念》だというわけです。 要するに 《ことば》のことです。 現実とその生活が 第一位に来ます。 どうでしょう?
- owlsjp
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世間一般で霊能者がもてはやされているのは、ゴキブリを信仰するようなものです。 ⇒世間一般で言うところの「霊能者」がもてはやされているのは、ゴキブリを信仰するようなものです。 結論として、「日本のブラックホール」とは、自分の「ゴキブリ度」を自覚することなく慢心、勘違いする能力者と、それらを勘違いして崇める無能力者双方によって成り立つものです。 こういったことで理解できる、逆転し「過ぎた」(逆から見たら順転、第三者から見たら一方の極に過ぎない)認識による、更なる膨張、細分化が起こる社会と言えますね。要は、バランスなのです。
お礼
なるほど。 ★ 結論として、「日本のブラックホール」とは、自分の「ゴキブリ度」を自覚することなく慢心、勘違いする能力者と、それらを勘違いして崇める無能力者双方によって成り立つものです。 ☆ つまり 直前のやり取りで ☆☆ (No.30お礼欄) ○ 仮りに霊能力によって得た言葉に関しては それをあらためて現実の次元において解釈しなければならない。 ☆ と書きましたが この現実への戻しがなければ すべて ★ 勘違い ☆ だと言っていいのではないでしょうか。たとえ現実にとっての深い洞察を秘めていたとしても それが分かるように解釈しないままに放っておくのなら 勘違いと言われてもしょうがないように考えます。たとえホワイトホールであったとしても そのように――解釈によって――外に出てきて初めて〔ブラックホールではなかったと〕言えるわけであろうと思います。 ★ 「ゴキブリ度」 ☆ は《異言》と言われていますね。人に向かっては話していない異言だと言われています。 ということは 世界は一様にブラックホールだと唱える人びとが もはや歯止めも効かずに デーモン電波を放射しあいながら 空中戦を繰り広げている。なんか目に見えない蜘蛛の巣のようなものが 世間中に張り巡らされているのですかね。 ★ こういったことで理解できる、逆転し「過ぎた」(逆から見たら順転、第三者から見たら一方の極に過ぎない)認識による、更なる膨張、細分化が起こる社会と言えますね。 ☆ ただしわたしは必ずしも ★ 要は、バランスなのです。 ☆ とは考えません。あるいは同じ《バランス》の問題だとしても 前回からの比喩で言えばこうです。 ○ 蜘蛛の巣やブラックホールが ワ゛ージョンアップして来たなら こちらもその《極》をさらに突き抜けて あたかもさらにワ゛ージョンアップした姿を――それはまぼろしであって構わないのですが――相手には見えるようにする。 ☆ あえておかしな言い方をすれば ○ こちらの《ゴキブリ度》を相手よりもさらに濃くし強くする。そういうまぼろしの姿を見せる。 ☆ ことだと考えます。 どうでしょう。 と言っても すでにこの質問への参加を取りやめられたようですが。
- owlsjp
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定義ですか、そうですね パソコンのソフトウェアで言えば、新しいバージョンであれば、旧バージョンのものを読み取れますが、逆は無理です。従って、9であれば8以下、8であれば7以下、7であれば6以下が解るのみでしょう。 なんとか8くらいまでは解るような気もしますが、それ以上は無理です。9以上は、それらのものが在るだろう。8まであるなら9も在るだろうという思想によるものです。大学院生に講義は無理でしたか、しかし小中学生に言って聞かせ、諭すことは出来ます。 で、義務教育上がりの汚物総理の例の「第六感」ですか、これは1から5までを考えれば、自然と解ると思います。感覚器官によらない、生存本能に基づいたという意味での、言わばゴキブリの触覚を発展させたようなものです。 他者の感情、思惑、腹の中を異常なまでに敏感に探ることが出来る人がいますが、それも生命の存続に対する執着と恐れによる訓練の賜物でしょう。これと、その能力に付随する能力を、一般的に「霊能力」と言う場合も在るようですが、思考洞察悟性の方が上なのは言うまでもありません。察知する能力であれば、ネズミにもゴキブリにもあります。 世間一般で霊能者がもてはやされているのは、ゴキブリを信仰するようなものです。
お礼
owlsjp さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ううーん。ただ人間は コンピュータではないので どうですかねぇ。 ゴキブリでもないですし。 ★(α) 他者の感情、思惑、腹の中を異常なまでに敏感に探ることが出来る人がいますが、それも生命の存続に対する執着と恐れによる訓練の賜物でしょう。 ☆ これと ★(β) 思考洞察悟性 ☆ とを対比させる格好ですが たぶん――前段でおっしゃってもいるように―― 後者(β)に立てば 前者(α)は 同じ心理状態にならないとしても その洞察によって分かることでしょう。そして ★☆(編集) 他者の感情、思惑、腹の中を察知すること ☆ はむしろふつうの知覚と知解によって可能だとわたしは考えます。 ★ 霊能力 ☆ の方面に持っていかなくてもよいのだと考えます。 ★ 世間一般で霊能者がもてはやされているのは、ゴキブリを信仰するようなものです。 ☆ これは比喩として当たっていると思います。言いかえると ○ 仮りに霊能力によって得た言葉に関しては それをあらためて現実の次元において解釈しなければならない。 ☆ という意味においてです。 ですから 望むらくは つねに具体的にどういう事態になっている問題なのかを提示してもらえるなら 話がすすむ。こう思います。 ★ 生命の存続に対する執着と恐れ ☆ これは 広く解釈すれば ふつうの人にも起こるふつうの事態であるとも考えられます。そうではありませんか? ですから つねに議論を現実に戻して欲しいと思っています。どうでしょう?
オコリザルです。 犬は観察の結果、においで思考しているらしいことが解っています。 愛犬家の本でなく、認識や思考に関する初心者向け読みものだったかな? 要するに私だけの意見では無いです。 人間にできても不思議ではないでしょう。 念のため補足でした。
お礼
わたしに関しては ○ 鼻が効くということが 人間に出来ないとは 思っていません。
オコリザルです。 第7感、第8感、第9感までも備える9次元におわす高次元の霊体様に第6感で這いつくばる私のウンチのにおいを是非確かめてほしいです。 どうかわたしをお叱りください。 一般的な補足です。 犬は観察の結果においで思考しているらしいことが解っています。 人間でも「鼻のきく」という表現があり、それが特異な才能にまで発達した人がいます。 犬はさておき、鼻のきく人とは嗅覚による刺激以外のにおいを何らかの形で感じるんでしょう。そこに感性の介在する余地があります。
お礼
★ 鼻が効く ☆ これは その場の情況から相手の表情などなどに到るまで とうぜんそれらを知覚したことがらを基礎として しかも問題点を整理しつつ 推論を繰り広げるということでしょうし さらにそこでは けっきょく ひらめきが ものを言う場合がしばしばなのではないでしょうか?
オコリザルです。 >善性が愛の背くと悪となるのかもしれません。 う~ん。 善性が強固な善として存在に不可分と言いうるならこれは無いです。 でも、子供の狼藉ブリブリを見て、好んで悪をなすかのような仕草を見ると、理解の過程としてこのようにも解釈できます。 また私の昨今の悪態についても第3者からみて同様に受け止められているかもしれません。
お礼
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 これは わたしの観点についてのみの問題ですが――《子供の狼藉ブリブリ》と言われる方面に関しては 首を突っ込むかたちではありませんが―― 問題は ○ 定義の必ずしも定まらない言葉は不用意に使わないほうがよい。 ☆ とわたしが思っているという点にあります。つまり ★ 善 善性 愛 悪 ☆ です。 引き続きつなげていきます。
- owlsjp
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>それでは 反論をどうぞ。 講義ですから、反論するのは、不可能です。 しかし、この質問も含めて、面白くなくない? とにかく、「ああでもない こうでもない」と駄々をこねているコドモ?を相手にするのは面倒です。 あやふや、あいまい と主張するなら、質問文に在るあやふや、あいまいな表現を全て定義付けてからしてください。 はい終了。とっとと締めてください。
お礼
お粗末!
補足
☆☆ 観念の放射線 / 意識の排泄 / デーモン電磁波作用 // それを受けるのは アース ☆ これについて具体的に説明しておきます。 わたし自身の体験を書きます。 まだ小学校五年生にはなっていなかったと記憶している頃のことです。 腕白仲間と遊んでいて そのグループに ある日ある時リーダーが必要だと皆が思うようになっていた。多少学力があったわたしに 視線が集まって来た。つまり 空気です。 仲間たちは その時必ずしも口に出した言葉で わたしに問い掛けてきたのではなかった。暗黙のうちにそれとなく分かったという事態であって そのわたしは どういうわけか同じように 心に念じるようにして 仲間に応じようとします。 おそらく 慣習として こういうときには 暗黙のうちに指名された場合でも 指名されたほうは声に出してよいはずなのですが わたしは 声には出さずに答えようとしていました。そのとき ふと 思い留まりました。 わたしが受けた仲間からの念力のようなものは もしそれが通ったなら わたしと仲間との関係は おかしなものになると 感覚的に悟りました。 なぜ おかしなことになるのか。その理由については そのときは 次のことだけを思っていました。もしこのとき 《わたしにリーダーになって欲しいということなのか?》と 仲間に声に出して尋ね返すなら 何かおかしな雰囲気になるだろうという予感がしたということ これだけです。 ずっとあとになるまで もう 突っ込んでは何も考えなかったのですが けっきょく人の意志表示のないことがらを頼りとして 自分の意志行為をおこなうというその成り立ちが 問題なのだと考えるようになりました。 その後 わたしが そのグループから仲間はずれになったことは 自然の成り行きでした。 ○ 以心伝心 ☆ という言い方でも伝わるのではないでしょうか? ですが この電磁波作用は けっきょく悪い例の場合には いわゆるマインドコントロールにまでたどり着くのではないでしょうか。身分関係や組織上の権限関係によって威力が倍増するでしょう。 そうでない自由で対等な関係においては 勝手に意識を排泄するという事態・つまりいわゆる垂れ流しになるはずです。 むろん人びとは 喜んで進んで この電磁波に対してアースになっているわけではありません。でもこの役割を担う人びともいることでしょう。浄化し活性化するという作用で応じるまでの役割を担っています。 そういう問題です。
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補足:お勉強会ではなく、講義です。 人は「今ここに私が在る」という実感を得て初めて人として存在し始めた と言えるのですが、その次に、「私は誰で、ここは何処で、今はいつなのか」という問いが発生します。 しかし、「今ここに私が在る」とだけ実感できたのなら、まあまあ、そこそこと言えるかもしれません。しかし、第7感、第8感、第9感を働かせている人もいると言うことを知らねばなりません、謙虚にね。 が、それが運命と言うか、宿命としてまずはその段階で留まっている人がいてこそ、この世界が成り立っている とも言えます。学校に生徒がいなくなったら、学校が成り立たなくなりますからね。
お礼
せっかくの論文にけちをつけるようでわるいのですが 全体に対して こう言えるでしょう。 ○ ほかのひととのかかわり これについての見方がまだ述べられていない。 ○ あるいは かかわり(社会的な関係性)は 自然本性として生まれただけでも絶対的にあるとするのですから 実際に 交通(まじわり)するという社会行為の過程についておのれの見方を述べなければ まだ人間論は始まらない。 ☆ コミュニケーションの問題ですね。 わたしから言わせれば このように《ほかのひととの共生》の見地があやふやであるなら あやふやであるからこそ ★ 第7感、第8感、第9感 あるいは 運命・宿命 ☆ というあいまいな中身しか持たない旧い言葉が出てくる。こう思いますが それでは 反論をどうぞ。
- owlsjp
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頭で考えていては、汚物を汚物と 分別区別できませんよ、いつまで経っても。もっとも、その区別をされたら汚物やゴキブリは誅殺されますから、必死です。 くさいかくさくないか、美しいか醜いか、これは難しく考えることではありません。 感じるままに、「お前はやっぱりクサいんだよ」と、言ってもいいのです。それがクサい人間に対しての愛なんです。 「そんなこと言えない」と言うのは、自らの保身(保心)ゆえでしょう。 私でさえ、言えません。特に、面と向かってはね。しかし、態度と表情で示すようにはしています。そして、足早に立ち去ることにしています。 で、嗅覚器官における、比喩ではない実際の「臭さ」は、何を以ってクサイと言うのか、それとも根拠があるのか、ないのか?
お礼
世話の焼けるひとですな。 ひとは その自然本性において 存在として ひとである。 ★☆(編集したかたち) 汚物でもゴキブリでも ☆ ありません。 ○ くそうづ ☆ という言葉で じつは 油のことを呼んでいました。昔は日本でも秋田あたりで採れましたね。つまり ○ くさ(臭)みづ(水) > くさmづ > くさんづ > くさうづ > くそうず ☆ そして ○ くさ の母音交替として くそ つまり 糞 ☆ というらしい。鼻の嗅覚として受けとめた感じが ひとに共通しているゆえ 《くさい》ならくさいが一般的だと捉えられている。 ただし ★ くさいかくさくないか、美しいか醜いか、これは難しく考えることではありません。 ☆ となると ひとによって定義が違う。しかもそのつど 具体的な対象に即して特定した上でその自分の定義に合うか合わないかを それぞれ互いに伝えあわねばならない。その共通の相互理解が出来て初めて 人間の社会的な交通(まじわり)が成るということです。 むろん意見が違ってもいいのだから その異同のどちらをも相互に認識し理解しあっていくというものです。 ★ ゴキブリ ☆ 呼ばわりをしてもいいので もし対話の姿勢を保っているのなら 互いにそれを――その姿勢だけをとってでも――よしとして 分からないところを問い返し合い むろん批判をし合い 互いの見解の中身を理解しあっていく。この過程をすすむようにして初めて実質的に ひとであるでしょう。 ★ 感じるままに、「お前はやっぱりクサいんだよ」と、言ってもいいのです。・・・(中略)・・・しかし、態度と表情で示すようにはしています。そして、足早に立ち去ることにしています。 ☆ これでは まだ鎖国政策に近いでしょう。そういう自覚による政策でさえなくて こどものままの状態にある場合もあるかも知れません。そういう問題を扱っていたのではないのですか? 自覚的にこどもを演じているだけなのですか? 次の回答に移ります。
補足
訂正します。 お礼欄の《くそうづ》について ☆☆ 油 ☆ は 石油とするべきでした。
お礼
ありがとうございました。
補足
そうですね。 わたしのほうからは ★☆ 回答No.30&31でのやり取り ☆ をもう一度見直して あらためて取りやめかどうかの判断をされてはどうですか?とお伝えしておきます。 と言いますか その二つのご回答へのわたしの応答は まだ読まれる前に このNo.33のご投稿があったわけですから。 ★ なお、嗅覚は7、8、9の段階に在る人でも、正常に作用します。そうでない場合も例外としてあるかもしれませんが。 ☆ 言おうとすることは だいたい一般に分かる内容だと考えますが もし応答せよとあれば 二点あります。 すでに述べたことですが ○ 《嗅覚は7、8、9の段階に在る人》に対してなら こちらが――まぼろしの如くにでも――嗅覚が10,11の段階にある姿を見せる。 もうひとつは やはり細かいことを言うならば ★ 嗅覚は7、8、9の段階に在る ないし 第7感、第8感、第9感を働かせている人 ☆ これは比喩ですので 説明が必要なのではないでしょうか? 上にだいたいは一般的に分かると言ったのは けっきょく《思考・推測としての知解》の問題なのだと解釈するからです。現実に当てはめて解釈するからであり この場合 第六感を超えたところの知覚と言えば ひらめきにしろその知解がそのあとに伴なわれるだろうなというかたちで受け取るからです。 そういった現実への引き戻しが肝心ではないでしょうか?