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人は知らない。ただからだが知っている
- 思想の内容が使用価値としてあるか無いかが問題なのではない。問われているものはそれが交換されるかどうかなのだ。
- ただの愚痴と御ふざけから成る意識の排せつ物が市場に出回り、売れるからだ。ひとはこの事実を知らないが、からだで知っていておこないに移す。自己表現は交換価値の追い求めとその流通にある。
- 箸にも棒にもかからない文章が金に成り、人びとはこの商品にひざまづく。意識の排泄物も豊かな飲み物になる。ひとびとはからだが狂喜乱舞しているのであろう。
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ニーチェ『悲劇の誕生』の最初の章では、アポロン的夢幻とディオニュソス的陶酔とは何であるか、その用語解説がなされてゐるのであつて、ベートーベン『よろこび』がディオニュソス的であるかどうかが論じられてゐるわけではありません。ディオニュソス的が何なのかわからない状態において、それは、『よろこび』のやうなものですよ、とニーチェは語ります。ディオニュソス的はこれだ、と決めておいたあとに、『よろこび』が合致するかどうかを論考してゐるのでありません。『よろこび』こそがディオニュソス的の意味なのです、と説明してゐるだけです。 「ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、人間と人間とのあいだのつながりがふたたび結びあわされるだけではない。疎外され、敵視され、あるいは圧服されてきた自然も、その家出息子である人間とふたたび和解の宴を祝うのである。」 (『悲劇の誕生』秋山英夫訳 岩波文庫35ページ) 『よろこび』の記述の直前に、ニーチェ自身がこのやうに記述して、その意図を明らかにしてゐます。 アポロン的とディオニュソス的の対比は、「造形」と「非造形」の相違であることを、冒頭で記載してゐますが、アッティカ悲劇をひきあひにだして、決して二元論(二項対立)ではないことも明確化してゐます。私が思ひうかべるのは、別質問に書きましたが、アポロン的な代表は『オイディプス王』で、ディオニュソス的な代表は『蛙』、そして入り混じつたものは『バッコスの信女』です。 私はワーグナーはあまり聴きませんし、ショーペンハウアーは1冊も読んでゐません。『悲劇の誕生』は、30年ほど前に、アリストテレス『詩学』との比較において読んだだけで、さほど印象に残つてはゐません。いづれにせよ、西洋の著作を語るうへで、ギリシャローマの古典は欠かせません。読者にその知識があることを前提にして、文章が書かれてゐます。聖書の影響力についてはこのサイトでもしばしば論じられますが、ホメロス、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネス、ウェルギリウス、ホラティウス、ユウェナリスなどについて目にしないのは寂しく感じます。ヘレニズムとヘブライズムの両者の観点から書かれたものとしては、エラスムスがニーチェの表現方法に近いのではないでせうか。ニーチェは古典文献学の専門家といへる人ですので、この視点を抜きにしては語れません。
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回答番号1,2のplapotiです。コメントの意味がわかりかねるのですが、ニーチェの書いてゐるとほりに読めばいいのではありませんか。後の著作とは異なり、かなり素直な文章です。(だからおもしろみに欠けるのですけれど。)ねこさんのやうに、ワーグナーを聴きこんでゐる人には興味深い内容なのでせうが、私はギリシャ古典への批評として読んだだけで、物足りなさを感じました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ですが レトリックとして俯瞰法を用いるというのは もっとも悪く解釈すれば 全体主義のやり方だということになります。 その保守のための ゲシュタポの機能を果たしている。 それが ニーチェという商品の擁護・弁明にあたっている。 そのために俯瞰の絵図が動員されている。 これが わたしの率直な受け留めです。 主題についての問い求め 互いに自由な実存を求めつつ対話を推し進めること そのような心つもりは 見られない。こういう意味です。 たぶん 資本主義の――と言いますか 資本主義は むしろもっともっとあたらしい思想をも積極的に受け容れる動きなのですが したがって《商品》崇拝の・つまり何ものをも商品として価値を持たせこの仕組みを保守するという商品の論理を身をもって現わすところの資本主義の――いわゆる物象化の姿なのだと考えます。すでに刷り込まれているものと見ます。 人間が・その心が・その知性が 《商品の流通という物象と化したすがた》 その姿としてのみ自己表現をおこなっている。 こういううたがいです。
回答番号1のplapotiです。コメント拝見いたしました。 >この自己批判だけでは足りない。つまり 絶版にするか。マチガイを正しておくか。 私もさう思ひます。若いころ『悲劇の誕生』を読んだとき、おもしろくありませんでした。笑ひが足りません。ニーチェはやはり『ツァラトゥストラ』です。ただし二元論(二項対立)は表現上のものにすぎない、などといつた基本姿勢を知るうへでは重要な書物であると思つてゐます。 >その入り混じった作品について 検証してみてください。 ニーチェの頭の中には、たとへばこのやうな作品があつたのではないかと推測するだけで、検証するほどの材料があるわけではありません。ソポクレスの悲劇では、アポロンの定めによつて、人間の善意の行動がすべて裏目にでて、破滅へと、規律ただしく進行してゆきます。アリストパネスは、笑ひによつて何でも容認してしまひます。エウリピデスのバッコスは、優しさと恐ろしさを兼ねた神です。 >ほんとうは《屍色がかって幽霊じみたものに見える》はずだとニーチェに言われてしまう《健全》の側にある。 これは反対ではありませんか。ディオニュソス的なものを非難する人たちが、みづからは「健全だ」と主張してゐるだけに読めます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 修辞学は 哲学の誇りとするところではないと考えます。 白黒をつけないことと 字面で白黒をつけないかたちで表現しつつ みづからの持論や前からの意見を少しも変えないこととは 別です。後者の手口が見て取れます。これは 修辞学の問題のみとして対話がおこなわれていることを表わしています。 だから 《商品の論理》が身と心とに染みわたっているのではないかという問いになります。 さて: ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 質問者の提起する問題は ベートーベンの《歓喜》は じつは・ほんとうは《屍色がかって幽霊じみたものに見える》はずだとニーチェに言われてしまう《健全》の側にある。はずだ。というものです。 早い話が 《魔力によって》人びとの人間性とその互いの絆が回復されたことは 果たして健全なのか? です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これに答えておられるとは到底思えません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >ほんとうは《屍色がかって幽霊じみたものに見える》はずだとニーチェに言われてしまう《健全》の側にある。 これは反対ではありませんか。ディオニュソス的なものを非難する人たちが、みづからは「健全だ」と主張してゐるだけに読めます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 中世の村でおこなわれたディオニュソス風の祭を《民衆病》だとしてあわれんだふつうの人びとの《健全》の側に ベートーベンの《歓喜》がある。なぜなら 一見《そのようなディオニュソス風の祭をとおして人間性を取り戻し互いの絆を回復したと思われるのは あくまで〈魔力によって〉である》と考えられるからである。 つまりこれだけでは話が不案内だとすれば それゆえ《恐怖と恍惚感と陶酔》といった要素を取り上げて質問をしてます。それらの要素を持つディオニュソス的なるものが 第九の歓喜と共通であるのか? と。 もし それでも結果として《人間性やまたその自然のあり方が取り戻される》というとすれば それは ディオニュソスの問題ではなくアポロンのほうだと問題提起しています。ですから ディオニュソスはお呼びではないのだと。 ディオニュソスの要素があったからアポロンによる対立物の総合があったというのも 噴飯ものです。要らないのです 恐怖と恍惚感と陶酔は。そういう契機が 人生にはあるというだけの問題なのです。 ★ ソポクレスの悲劇では、アポロンの定めによつて、人間の善意の行動がすべて裏目にでて、破滅へと、規律ただしく進行してゆきます。 ☆ ですから アポロンには 考えられる要素のぜんぶがあると申し上げています。 そして ★ ただし二元論(二項対立)は表現上のものにすぎない、などといつた基本姿勢を知るうへでは重要な書物であると思つてゐます。 ☆ というその相い対立する二項を ディオニュソスはその一項として成さないという問題です。 もっと議論を継ぐなら 推理小説の題材にはなるかも知れません。その狂気と狂喜がです。 けれども 考えてみてください。現代ではそのようなディチュランボスは けっきょく例外だとされています。つまり 生活のどこかにあってもらわなければならない要素であるのではなく あってもらっては困るものであり 要らないものなのです。昔にどこかの谷川にでも流して来たものです。 その例外なる要素が引き金になって 事件が起きたとします。それを 推理小説が扱うといういまの話ですが けれども現代人は――ノンフィクションと言えども 虚構作品として書きドラマ化するわけだからでもありますが――けっきょく何とか《ふつうの健全な心と生活態度を踏まえてその上で 魔が差したとか辛い体験を味わったことから来るその反動が行き過ぎたのだとかといった情状酌量の調味料をふりかけて表現するようになっています。 そういう意味において《例外》です。要らないものです。ディオニュソス的なるものは まだ《わたしがわたしであること》を知らない昔の人間の話です。《わたし》が自覚されても マチガイは起きますし そのマチガイを起こす原始心性がまったく無くなったわけではありません。ありませんが その取り扱い方が 違って来ています。 たとえば 機械ないし器械に名前をつけてあたかも自然の生き者であるかのようにあつかう態度 このようなところにその原始心性は 《生き延びて》いると言えばそうであるのではないでしょうか? けれどもその要素は すでに(あるいは元から) 言ってみれば《アポロン》の中にそなわったものです。 《トンスル》を飲み《試し腹》なる習俗をもしいまも保ちおこなっているとすれば 或る意味でディオニュソス的なるものでしょう。それが 現実にあるということに確かになります。しかも それらは 生活のひとつの要素だとはわれわれは 見ないのです。三途の川に捨てて来たものであり その亡霊が出ても 意に介しません。(実害が出れば それとして対処しますし それだけのことです)。 議論の中身は一向に放っておいて ただただレトリックで話をすすめておられる。(今回の手は 《俯瞰図を描く》という奥の手であるようにお見受けします。俯瞰するその視点に立てば まだまだネバレルと思ってのことでしょうか?)。 何かと紛糾したように見えると その夢幻境にのがれて行かれる。のではないですか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ディオニュソス的はこれだ、と決めておいたあとに、『よろこび』が合致するかどうかを論考してゐるのでありません。『よろこび』こそがディオニュソス的の意味なのです、と説明してゐるだけです。 ☆ はっきりしませんね。 ベートーベンを持ち出していることと その第九の歓喜によってディオニュソス的なるものが少しは理解できるであろうと言っていること これらは確実だと思われます。 そのことが当たっているかどうかを問うています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、人間と人間とのあいだのつながりがふたたび結びあわされるだけではない。疎外され、敵視され、あるいは圧服されてきた自然も、その家出息子である人間とふたたび和解の宴を祝うのである。」 (『悲劇の誕生』秋山英夫訳 岩波文庫35ページ) 『よろこび』の記述の直前に、ニーチェ自身がこのやうに記述して、その意図を明らかにしてゐます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この引用されたくだりの直前には こうあります。 ▲ (ディオニュソス的なるもの) ~~~~~~~~~ 世には経験不足か 鈍感のせいか こうした現象(* つまり《恐怖と恍惚感と陶酔》の中にあって《群衆が歌いながら踊りながら村から村へと波打って行った》ところの・中世における聖ヨハネ祭や聖ファイト祭)をさも《民衆病》とでもあざけり笑ったり気の毒がったりしながら顔をそむける人々がいる。こんなあわれな人々は ディオニュソス的熱狂者群の燃えさかる生命が彼らのかたわらをどよもし過ぎるとき ほかでもない この彼らの《健全》が どれほど屍色がかって幽霊じみたものにみえるかに もちろんいっこうに気がついていない。 (『悲劇の誕生』 西尾幹二訳 〈1〉) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 質問者の提起する問題は ベートーベンの《歓喜》は じつは・ほんとうは《屍色がかって幽霊じみたものに見える》はずだとニーチェに言われてしまう《健全》の側にある。はずだ。というものです。 早い話が 《魔力によって》人びとの人間性とその互いの絆が回復されたことは 果たして健全なのか? です。まだ結着はついていませんね。 ★ アポロン的とディオニュソス的の対比は、「造形」と「非造形」の相違であることを、冒頭で記載してゐますが、アッティカ悲劇をひきあひにだして、決して二元論(二項対立)ではないことも明確化してゐます。 ☆ これは 重要な論点ですね。 けっきょく一度言っていることは ねらいが《アポロン的とディオニュソス的との――かんたんに言うと――弁証法的な総合》だと見ることにあるらしい。(〈1〉の初めから第三パラグラフ。《最終的に ディオニュソス的でもありアポロ的でもある芸術作品 アッチカ悲劇を産み落とすことになる》と)。 そうしてわたしは アポロンひとりの内にそれら二つの要素もそれ以外のものもふくまれているはずだと見ています。いえ というよりは ディオニュソス的なるものが狂気による狂喜であれば それはよほどの例外として捉えておくに過ぎないとも見ます。 つまり早い話は ベートーベンの第九は いまの意味でアポロン芸術であると見ます。 ディオニュソスは お呼びでないという見方です。 質問は 専門家の見解をおしえて欲しいということでしたが いまは 質問者のいだく見解について問うかたちとしました。 ★ アポロン的な代表は『オイディプス王』で、ディオニュソス的な代表は『蛙』、そして入り混じつたものは『バッコスの信女』です。 ☆ よろしかったら その入り混じった作品について 検証してみてください。 ★ ニーチェは古典文献学の専門家といへる人ですので ☆ その文献学としての著述にはなっていませんね。勝手に羽根を生やして飛んで行ってしまっているとしか考えられません。 ▲ (ニーチェ:自己批判の試み) ~~~~~~~~~ しかし 当時 私の青春の血気と猜疑心とを発散させたこの書物――このなんともありうべからざる書物が これほどまでに青春にそむいた課題のなかから生まれざるをえなかったとは! ことごとく時機尚早の青二才の自己体験から築き上げられた書物。[・・・] 要するに ことばのいかなる悪い意味においても処女作であり その老人じみた問題意識にもかかわらず 青春のあらゆる欠陥 とりわけ 青春に特有の《冗長さ》と《疾風怒濤》とにつきまとわれている書物である。 (書物の末尾にそえられている《自己批判の試み》のくだり) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり この自己批判だけでは足りない。つまり 絶版にするか。マチガイを正しておくか。しなければいけない。――という意味での・いまにおける批判です。