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「コペルニクス的転回」の再転回の必要性について考える
- カントの「コペルニクス的転回」について、経験的認識よりも超越論的認識の方が優位であり、人間の外よりも内が優位とされたが、これはフッサールやハイデガーの考えとは逆であると言える。
- また、日本近代文学における「内部」という概念は、明治の言語改革によって作られたものであると柄谷行人は指摘し、近代文学の終焉を意味する。
- したがって、「内部」と「コペルニクス的転回」の優位性は戦争終結によって失われ、経験的認識の優位に戻る必要があると考えられる。
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回答でなくて申し訳ありません。ご存知とされていますが、確認させてください。確認しないと回答が難しいと思われます。 カントのコペルニクス的転回を質問本文第1段落より下記とします。 ・超越論的認識は外界の刺激を必要としない。 ・自己触発があれば十分。 ・認識は私の表象にしたがう。 確認したいのは、下記6点です。 ・外界の刺激と自己触発は関連しないと、カントは言ったとお考えですか? ・外界の刺激と自己触発が区別できると、カントは言ったとお考えですか? ・外界の刺激のすべてが除外できて、自己触発だけにできると、カントは言ったとお考えですか? ・私の表象とありますが、その私の表象は、外界の刺激ですか?それとも自己触発ですか? ・認識は私の表象に従うとありますが、その認識は経験的認識ですか?それとも、超越論的認識ですか? ・経験的認識と、超越論的認識は区別できますか? 確認によっては、質問本文第2段落以下、認識は外にあるものを受容するのではなく、からがつながらなくなります。 無理やり先に進みます。 私の表象が、外界の刺激なら、その認識は、経験的認識です。 私の表象が、自己触発なら、その認識は、超越論的認識です。 もし、私の表象が、何かを声に出して言ったとする。 「ここに、コップがある。」 言った音声は、外界の刺激です。 外界の刺激に従う認識は、経験的認識です。 もし、私の表象が、何かを声に出さずに言ったとする。 (ここに、コップがある。) 言ったことは、自己触発です。 自己触発に従う認識は、超越論的認識です。 ここに、コップがある。という認識は、経験的認識と超越論的認識で同じです。 間を飛ばして、質問本文最後の段落で、「内部」「内面」がなくなったとすれば、と仮定していて、自己触発も、超越論的認識もなくなってしまうような印象を受けます。さかのぼって、質問本文第5段落、そもそも人間の~からつながりがおかしいです。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★(No.4補足欄) で、あなたの反論はすでに予想していたことですので、ここでいちいち、再反論するのは控えさせていただき、 ☆ ≪再反論≫ということは すでにわたしは反論をいただいているということでしょうか? ★ ・・・言葉と対象のつながりには自然性がある、有縁性がある、という思想の解説書があることを上げておきます。 ☆ ≪有縁性≫は 派生語の問題です。わたしの仮説は そういう内容の立論ではないと申し述べます。 ≪自然性≫は ≪論理的な絆≫の論理性とともに ソシュールが否定して退けている性質です。つまりわたしは その逆の語例を示して反証しています。シニフィアンとシニフィエとの間には 自然で論理的な絆が じつはあるという仮説です。 そういう内容をないがしろにしておられる。 ★ その他のことはすでに私が申し上げたことに付け加えることはありません。あしからず。 ☆ ぢゃあ おそらくわたしは こちらが間違っているのにそのところを見落としているということなのでしょう。例示を出してもらえると助かります。 もうおそらくお耳には届かないのでしょうが。
- sunabo
- ベストアンサー率35% (24/67)
質問本文が5つの場合があるように読めます。 1.超越論的認識のみ。カント、デカルト。 2.経験的認識のみ。フッサール、ハイデガー、柄谷行人、戦後、国民国家の後、近代文学の後 3.経験的認識が、超越論的認識に優位 4.経験的認識と、超越論的認識が同じくらい 5.経験的認識より、超越論的認識が優位 でも、転回なので、表と裏のように、1.超越論的認識のみ、と2.経験的認識のみ、の対立のようにも読めます。それで、no.2の回答では混乱していたのでした。no.2のお礼コメントをいただいて、3,4,5は除外ということが分かりました。 どっちかが優位にこだわらす、どっちなんだ?という問いです。 回答としては、no.2で、具体的に、自分の認識を使って試してみたときは、 経験的認識と、超越論的認識が区別できなかったです。また、抽象的に、借りて使えるほかの知識は無いかと考えましたが思い浮かびませんでした。 結局分かりませんでした。降参です。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.3です。 ★ ・・・言語はそれだけでは、何の意味もない、語と対象とのつながりには必然性がない、恣意的である、という考えにつながります。 ☆ 言葉には 確かに辞書に載せていない〔と言うだけでは精確ではありませんが〕音の連鎖があり得ます。しかし それを除けば つねに何らかの意味を持ちます。 最近では ニンドスハッカッカー、ヒジリキホッキョッキョーという語をあらためて知りました。韻を踏んでいてリズム感も出ていて 何らかのかたちと意味とで その一定の情況や問題を捉えてそれにひとまづ応えている。といった意味を帯びていましょう。 言語記号の恣意性については すでにいくらかこの場でわたしは触れて来ていますが このあと少しとしてでも述べます。批判する立ち場です。 ★ 「てんぷら」 ☆ は ≪よい加減に〔揚げる〕≫という意味ではありませんでしたっけ。 ★ クワインは「根源的翻訳は不可能」といいました。ある言葉を発したとして、それが何を指すかは分からない、ということ。 ☆ そんな事態は 派生的なこととしての問題でしょう。 また ≪根源的翻訳(ないし 同じひとつの言語の内では 解釈)≫は 必要ないでしょう。必要があるなら それとして哲学において取り上げ論じればよいのですから。 さて ソシュールですが まづ: ★ ソシュールは音声・シニフィアンと概念・シニフィエの結びつきは密接不離、引き離すことはできないと言いました ☆ これについては その通りです。シーニュとしての言葉(語)が nindos hakkakkaa hijiriki hokkyokkyoo という音韻(聴覚像)とそしてその意味(相手の発言をいなすための言葉)という組み合わせは 一体となっています。 言葉が時につれて変化することはあっても シニフィエとシニフィアンとのつながりということ自体は つねにシーニュにおいて成り立っており変わることはありません。 ★ ラカン / バルト ☆ は――詳しくなく―― パスします。 ★ ~~~~~~~~~ カントのいう「コペルニクス的転回」・・・はシニフィエを必要としない、認識にはシニフィアンがあれば十分と言ったものです。 つまり世界という対象を必要としない、自分の「表象」だけあれば十分である、というもの。 ~~~~~~~~~~ ☆ 意味が取れません。≪表象≫は 音韻(文字でもあり得ますが)としてのシニフィアンについても そして意味内容としてのシニフィエについても 成り立ちます。 ≪認識≫には 音韻についての知覚像(聴覚像や文字なら視覚像や触覚像)は まだ悟性をとおしていないとすれば 入らないのでしょう。つまり 意味内容としてのシニフィエについての認識ということなのでしょう。 けれども そうならば ≪シニフィエを必要としない≫とは これいかに? よく分かりません。 ★ そしてアメリカのプラグマティズムの創始者であるパースは、デカルトが人間の内と外を区別し、分離したことを激しく非難し、人間には「内なる」ものなど存在しない、と言い、デカルト・ロック・ヒューム・カントなど、一連の西欧哲学のものの考え方を一切否定しました。 ☆ わたしは 世界ないし意識が われの≪内と外≫とに分かれしかも同時一体であると言っています。つまり 内と外とが一応区別されるとは言っています。 ですから 答責性を負いますが こちらからは保留します。 ★ デカルト以来の近代哲学は人間には自我がある、意識・自己意識がある、人間の外には物体からなる世界があり、人間の内には、そのような自我・意識があると言ってきたが、それはみんなフィクションにしか過ぎないと言いました。 ☆ ≪自我≫とは ≪わたし あるいは わたしなるもの≫を言いますが・だから≪押しが強い≫という意味での自我は 勝手な用い方に過ぎないと考えますが 物体がわれの外にあって認識やその意識としてはわれの内にある。 こういった単純な事実をも否定するとは考えられません。 ★ 同じプラグマティズムのジェイムズは、主体もなく、客体もなく、ただ「純粋経験」があるだけと言って、一元論を唱えましたが、これを受けて日本の西田幾多郎は「善の研究」で、同じように主体・客体などない、「純粋経験」だけがあると言いました。 ☆ ≪主体もなく 客体もなく≫と言っているあなたは 主体ではないですか? と問い返します。 ★ 私たちは西田の「純粋経験」を主客未分の考えだと理解していて、続いて主客分離が続くのではないか、考えましたが、それは誤解でした。 主もなければ、客もない、ということを述べたものです。 ☆ ≪主もなければ 客もない≫と述べているのは ≪主≫ではないのですか? と。 ★ たとえば西欧文法では、主語が不可欠です。ところが日本語は主語が要らない。 ☆ 精確には 印欧語では 用言の活用に主格〔の標識〕が示されている。コギターレ→コギト。 そして 日本語では 論述用言(考える)に対応する主格〔語句〕(われ)は とうぜん表現されるものである。ただし それが――用言の活用にも標識を示さずに―― 省略され得る。というだけの話です。 ★ 西欧では「I love you」という所を日本語では、「愛している」で済みます。主語もいらなければ、対象もいらない。動詞だけあればいい。 ☆ 昔の人は ≪月がきれいだね≫だけでその同じ意味を表わすのだと言ったとか。 つまり 主格〔語句〕は 論述用言の述格が表わされたところには必ずすでに示されています。ただし 省略することができる。相手の存在が文脈においてすでに前提となり互いに暗黙の了解となっているからです。 決して――この主格(S)‐述格(V)‐対格(O)の意味連絡をめぐって―― 文法が違うのではありません。まったく同一です。 ★ これを日本語は主語・対象を省略しているだけだ、という人がいますが、それは西欧文法を基準にして考えるから、そう考えるので、もともと日本語は主語を必要としていない。 ☆ これは 半分もしくは三分の一は当たっている。あるいはつまり 文の初源的な生成の段階に関する限りでは ただしい。 大和の山々を見て ≪はし≫というのではなく たとえば ≪やまやま≫と言う場合があります。あるいは ≪あを(青)≫とか ≪わがふるさと≫とか言って その心のうるわしさを表わすことが できますし ふつうは初源のかたちは そうであったろうと考えられるからです。 ただし けっきょく・とどのつまりとしては ≪文≫が生成したあとでは 必ず≪S-V-O(主・述・対格)≫の意味連絡は 表わされることになります。≪主格(S)‐述格(V)≫のない文はありません。 (超文条件=間投詞だけの文が 例外でしょう。命令文は 明らかに主格の語句は省略されているだけです)。 ★ ~~~~~~~~ 西田は、言葉は主体があって発せられるのではなく、「場所」があって発せられるのだと言います。しかもその「場所」は「無の場所である」と。 「無の場所」とは、根源がない、根拠がない、「無底」である、ということ。 言い代えると、世界は根拠なしに、理由なしに、存在する、ということ。 ~~~~~~~~~~ ☆ その発想が 例のデカルトのコギトの主語(レス・コギタンス)の問題です。デカルト自身が コギトは アウグスティヌスの二番煎じではないかと批判されたとき いや そうではなくおれの言う≪考える主体≫とは 非物質的・非形態的なものだと――何とか神父に当てた手紙で――言ったようです。 つまりは これを捉え承け継ぐかたちで ドイツの何とか言う科学者は こう言った模様です。つまり コギトは 一人称で表わしているが じつは 三人称で≪ Es denkt.(それが考える)≫という意味なのだと。 これが 取りも直さず≪霊≫の問題です。西田は ≪無の場所≫ですか。つまりは ≪非知 あるいは 非思考の庭≫と言っても同じようなのでしょう。 つまりは そのときには コギトとは 例の≪ヒラメキ≫の問題になります。 【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8966152.html これを挙げときます。Nakay702 さんとのやり取りです。
補足
再度ご回答いただき、恐縮です。 で、あなたの反論はすでに予想していたことですので、ここでいちいち、再反論するのは控えさせていただき、いくつか、簡単に述べさせていただきます。 まず言語の恣意性については、たぶんあなたはウンベルト・エーコの「記号論」に基づいて、言葉と対象とのつながりには有縁性がある、と仰っているのだと思いますが、私の場合はフランス現代思想のラカン・バルト・デリダのシニィフィアンとシニフィエを切り離した思想を基に述べているので、互いの知的背景が異なり、それではいくら議論しても平行線をたどるだけですので、参考までに古代から近代までの言語と対象のつながりについての歴史を述べたロイ・ハリス「言語論のランドマーク」と、ジュネットの「ミモロジック」という古代ギリシャのプラトンの対話編「クラチュロス」の言葉と対象のつながりには自然性がある、有縁性がある、という思想の解説書があることを上げておきます。 その他のことはすでに私が申し上げたことに付け加えることはありません。 あしからず。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。――と考えます。 内・外はない。もしくは 内と外とを同時に一体として 我れないしその心は つつんでいると。 あるいは われなるミクロコスモスと世界なるマクロモスモスとは 同時に生成する。 例証として コトバの生成について想像した仮説なるタトヘをかかげます。 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが HA..... と音? 声? を発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずである。 HA.....SI。 というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。これは 音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。 HASI . / はし。 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。 ――愛(は)し。 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で ’u = う。 'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。 と作って これを添えれば うる‐はし。(心愛し・麗しい) とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。 つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり やまと(山‐処)‐は うるはし。 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。 やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。 と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。 * すなわち 仮説のねらいとしては うたのヌシとその心と周りの山々なる環境とは 言葉の生成をめぐって 同時一体である。にあります。 人間の認識が先行するというもの(そういう一面のみ)ではなく また 環境が人間をつくるといった一面のみではない。基本は すべての存在や現象が 同時一体である。 ものごとは ≪場≫にあって・≪部分的な場≫としてそう言ってよければ量子現象として励起されるし 存在は・つまり特に人間は 知性(ないし精神 つまりは 記憶・知解・意志の行為能力の一体)をともなってそのユラギが励起されるようになる。 ユラギは もともと 世界すべてにわたる場として・そのモノないしコトとして 同時一体である。 ≪超越論的認識≫が もしその源泉があらぬところから来ているヒラメキのことであるとすれば このあたかも非思考なる領域を――内と外とをひっくるめた経験世界をさらに超えて――想定してもよい。とは考えます。
補足
ありがとうございます。 あなたの仰ることは、いつも難しくて私のようなものにはなかなか理解しがたいところがありますが、たぶん仰っているのは、このようなものだと思います。 「言葉が違えば、世界の見方が違う」と言われており、これはアメリカの人類学者・言語学者のベンジャミン・ウォーフの言語相対主義の考えですが、言語はそれだけでは、何の意味もない、語と対象とのつながりには必然性がない、恣意的である、という考えにつながります。 たとえば、ポルトガル人が長崎に来て、「テンポーラ」とよく喋っているのを聞いて、日本人はそれを魚や野菜に小麦粉をつけて揚げた食品を指すのかと思って、それを「てんぷら」と言うようになりましたが、「テンポーラ」とは、「テンプル」のことで、寺院の意味でした。 また、私たちが「それを取って」と言ったとして、日本語を良く知らない外国人は「それ」を指示代名詞ではなく、名詞と考えて、「それ」という物体を探すかもしれません。 このような事例を指してクワインは「根源的翻訳は不可能」といいました。 ある言葉を発したとして、それが何を指すかは分からない、ということ。 ソシュールは音声・シニフィアンと概念・シニフィエの結びつきは密接不離、引き離すことはできないと言いましたが、ラカンはそれを引き離し、シニフィアンが戯れることで、パラノイア・スキゾフレイニア、という妄想とか分裂病を説明しました。 また、バルトは「テクストの快楽」で、文学作品はどう解釈しても良いのだと言って、それを快楽と言いました。 カントのいう「コペルニクス的転回」です。 「コペルニクス的転回」はシニフィエを必要としない、認識にはシニフィアンがあれば十分と言ったものです。 つまり世界という対象を必要としない、自分の「表象」だけあれば十分である、というもの。 そしてアメリカのプラグマティズムの創始者であるパースは、デカルトが人間の内と外を区別し、分離したことを激しく非難し、人間には「内なる」ものなど存在しない、と言い、デカルト・ロック・ヒューム・カントなど、一連の西欧哲学のものの考え方を一切否定しました。 デカルト以来の近代哲学は人間には自我がある、意識・自己意識がある、人間の外には物体からなる世界があり、人間の内には、そのような自我・意識があると言ってきたが、それはみんなフィクションにしか過ぎないと言いました。 同じプラグマティズムのジェイムズは、主体もなく、客体もなく、ただ「純粋経験」があるだけと言って、一元論を唱えましたが、これを受けて日本の西田幾多郎は「善の研究」で、同じように主体・客体などない、「純粋経験」だけがあると言いました。 私たちは西田の「純粋経験」を主客未分の考えだと理解していて、続いて主客分離が続くのではないか、考えましたが、それは誤解でした。 主もなければ、客もない、ということを述べたものです。 たとえば西欧文法では、主語が不可欠です。 ところが日本語は主語が要らない。 西欧では「I love you」という所を日本語では、「愛している」で済みます。 主語もいらなければ、対象もいらない。 動詞だけあればいい。 これを日本語は主語・対象を省略しているだけだ、という人がいますが、それは西欧文法を基準にして考えるから、そう考えるので、もともと日本語は主語を必要としていない。 西田は、言葉は主体があって発せられるのではなく、「場所」があって発せられるのだと言います。 しかもその「場所」は「無の場所である」と。 「無の場所」とは、根源がない、根拠がない、「無底」である、ということ。 言い代えると、世界は根拠なしに、理由なしに、存在する、ということ。 ・・・・・あなたの仰ることから、とんでもない所に脱線しました。 あなたの回答に対する返信ではありませんが、了承してください。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
それまでの地球(自分たち)が宇宙の中心で、 天体は周囲を回っている(天動説)から、 地球は太陽の周りを回り、太陽は銀河系を 回りという具合に、中心から追い払われた のかコペ転。 さらに、全宇宙は自分(観察者)を中心に 半径138億光年広がっている、あるいは 現在(自分=感受表面の量子相互作用= 光速)から過去(記憶=過去=超光速)と 未来(予測=未来=光速下)が、対発生し ている、宇宙(有限な存在性)は認識され る事で派生している、という人間原理 において、コペ転のコペ転(今回の「コペ」 はコペルニクスではなく、コペンハーゲン 解釈の「コペ」)は起きる。
補足
それは17世紀のコペルニクスの「天球の回転について」で述べられている話です。 カントはそれを「メタファー・比喩」として使い、それまでの哲学の考え方、認識というのは物体があって、それを私たちの内部に映し出すことにより認識が出来上がるという考えをひっくり返し、私たちの内部にあるものを表象することで認識が出来上がると言いました。 それがカントのいう「コペルニクス的転回」です。 天文学者コペルニクスの説から、「メタファー・比喩」として借りてきて言ったもの。 「メタファー・比喩」ですから、それをあなたのように文字通り解釈すべきではありません。 天文学の話とはまったく関係ありません。 認識論の話です。
補足
ありがとうございます。 私の言いたいことは、デカルトが人間の内と外を分離し、内に自我・意識があり、外に物体がある、という二元論を唱えたのは、15世紀のグーテンベルグの活版印刷の発明による、人間の「内面」というものが作られ、その「グーテンベルグの銀河系」の流れにあったのではないか、そしてカントの「コペルニクス的転回」はそのデカルトの人間の内と外の分離を引き継いで、認識というものを外界の反映と考えるのではなく、私の表象だと考えたのではないかという疑問にあります。 つまり人間の内と外を区別、あるいは分離したのは間違いではなかったか、ということです。 私たちは人間には「内面」というものがあるのを自明と思っていますが、そんなものはないのではないか、ということ。 このようなことを背景にして、あなたの疑問にお答えすると、カントは「純粋理性批判」の序文で「コペル二クス的転回」の説明している箇所がありますが、そこで、(1)超越論的認識には外界の刺激を必要としない、(2)自己触発があれば十分、(3)認識は私の表象に従う・・・・・と述べております。 これはデカルトと同じです。 したがって、外界の刺激と自己触発は当然関連しません。 また、外界の刺激と自己触発は区別できるのも当然で、カントは経験的認識と超越論的認識を区別しております。 また、超越論的認識にあたって、外界を必要としない、と考えていたので、外界の刺激を排除して、自己触発だけあれば、認識にとって十分と考えていました。 これもデカルトと同じです。 私の「表象」という場合の「表象」とは私の内部にあるものを「表出」することですから、当然、外界の刺激を必要としません。外界そのものを必要としません。 カントは外界を「物自体」と言って、認識から除外しております。 したがって、 「私の表象が自己触発ならその認識は超越論的認識」です。 まあ、当然ですが…・ 「ここにコップがある」という表象は「表出」ですから、何かを声に出していうことは、外界の刺激を必要としません。 コップが目の前になくても、私は「ここにコップがある」と声に出していうことができます。 他人が、「え?どこに?」という場合があるとしても。 声に出しても、声に出さなくても、「ここにコップがある」と言えます。 カントの自己触発も超越論的認識も、人間に「内部」「内面」があることが自明である、という前提があればこそです。 そして「内部」とか、「内面」が、人間に生まれつき有するものでなく、「グーテンベルグの銀河系」に連なるものだったら、つまり活版印刷によるものだったら、今は映像の時代で、活字の時代ではなく、したがって人間の「内面」はなくなったのですから、カントのいう「コペルニクス的転回」も終わったのではないか、というのが私の質問の趣旨です。