※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:猥褻物の修正は去勢と同じではないですか?)
猥褻物の修正と去勢の関係について
このQ&Aのポイント
猥褻な表現を修正するのは、性器を去勢するのと同じではないかという疑問があります。
漫画やグラビアには猥褻な表現が含まれている場合、袋とじにしても流通を許されず修正が求められます。
一方で、適切な衣服を着用することで性器を隠すことができ、それでも外出することは許されています。この差異について疑問を持っています。
性器描写や性交時の結合部等の猥褻な表現を含むグラビアや漫画はたとえその部分を袋とじにしてあっても流通を許されず、刑法175条の圧力で修正を余儀なくされますよね。
これっておおよそ性器を有していると思われる全国民を去勢させるのと同じじゃないですか?
我々は下半身に性器を備えていますけど適切な衣服さえ身につければ外を出歩くことを許されますよね。
衣服は着脱可能であり、恋人との情事などで閉鎖的な空間でなら見たい相手には見せることも合法です。
だとしたら、猥褻な表現も、見たくない相手の目には入らないような配慮しているものは、無修正でも合法でないとおかしいと思います。
適法なように修正されてしまったものは、修正前の元の状態には決して復元できないようになっています。
修正可能なモザイクや袋とじで隠すことですら存在を許されない、見たい人も見れない、表現物に対するこのような仕打ちは人間でいえば性器の去勢とまるっきり同じじゃないですか?
時代によってルールは変わることは知っています。今も昔よりは司法的な風当たりが穏やかになっていることもわかっています。
理解できないのはそういうことじゃなくて、なぜ当時の政治は、表現のみを「去勢」するような、矛盾した法律を作ってしまったのかということです。
全国民を去勢したしたところで亡国の一途を辿るだけですから、人間は、医療的処置等を例外を除き去勢の対象にはなり得ませんね。
それなら猥褻物に対する処置もそれに合わせるのが合理的というか道理というものじゃないですか?
当時は袋とじの冊子がなかったから、復元可能な修正なら「この限りではない」と規定するような発想には至らなかった、ということはないでしょう。袋とじ自体は室町時代の書物には見られる相当に伝統的な装丁手法なのですから。
知りたいことは以下の二点に集約されます。
・人間に対する扱いと矛盾、もといダブルスタンダードになることはこの際問題ではなかったのでしょうか?そうだとしたらなぜでしょうか?猥褻物を排除したい人たちの政治力の強さでしょうか?
・それとも、表現物としての猥褻物は、本物の性器よりも、存在すら看過できないほどの、より強い猥褻さを持ちうるという考えがあったのでしょうか?
回答よろしくお願いします。
お礼
そうですね。無意味な質問に付き合ってくださりありがとうございます。