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概念と実体の関係について
- 概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合について説明します。
- 質問文章における水と恐怖心、宝石の例を用いて、概念と実体の関係の表現方法について考察します。
- 限定詞の有無によって、カテゴリーと実体をどう表現するかが変わることを示します。
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「質問者からの補足」を拝見しました。 些事に紛れたり、考えあぐねたりしていまして、お返事が遅れ、申し訳ありません。 誠に恐縮ですが、浅学のゆえ今回のお尋ねには歯切れよくお答えできる自信がありません。認知文法に関する背景が何もない者の悲しさで、お説を拝見すると、ほぼ仰せのとおりと思えることなのに、断言できるほどの裏づけがありません。 @1)summerは不可算名詞なのでカテゴリーではなく、実体の意味だけで使うことが常に可能なはずです。だとすると、some summerという使い方ができるはずなのに実際にはそうした使い方はありません。(他にも、例えば some night, some east, some left, some front, some futureなどにもありません。some deathとかsome birthにもありません) @2)1年を4分割して取り出されたものは時間単位ではなく4 seasonsです。それらに名をつけたものがspring, summer, autumn, winterです。固有名と同じような働きを行います。だとすれば部分を表すことは不可能なのでsomeはつかないということになりますが、この考えはいかがでしょうか。 ⇒以上のお説、ほぼ納得できそうに思われるのですが、確信までは行かないのです。それなら、と異論を立てるほどまでの自信もありません。そういったただし書きのもとで申しあげます。特に前半、「summerなどは固有名と同じような働きをするので、部分を表すことは不可能」については、「summerが可算名詞として用いられる例もなくはない」と思われます。例えば、I have been to Hawaii in some summers.というような場合です。この伝でいくと、some nightsなどもありそうですね。しかし、その他、つまり、some east, some left, some front, some future, some death, some birthなどは、確かにあり得そうもないですし、見たことも聞いたこともありません。 ということで、恐れながら申しあげます。もしも、上のsome summersのような表現があり得るとするなら、「summerが可算名詞として用いられる例は《ほとんど》ない」くらいの表現が無難かも知れない、と考える次第です。つまり、そうしたsummerを可算名詞として用いる使い方は見られないことを、「多くの場合」などの限定つきで、あるいは、「例外はあるが」というような条件つきで説明するようになさることをご提案いたします。 @3)<fearだけでなく、hopeやjusticeなど心の中でうごめくものは量的なものと見なされてsomeをつけることができます> 心の中でうごめくものはメタファー的にwaterのような流動物と見なされるのではないかと思います。だとすれば、部分を表現することができる(分割可能である)と言えるように思います。また、流動物であれば量でもって表すことが可能です。その意味でもsomeが使えると言えそうです。 ⇒最後の、「心の中でうごめくものは、部分を表現することができ、その意味でsomeが使えると言えそう」のくだりについては、大いに妥当な見解と拝察しました。それで、"Do you think there is any justice in what he says?" ― "Yes, I think there is some justice and hope in what he testifies." というような表現もできるのだと思います。 ところで、メタファーは、分節表現しかできない宿命を背負った言語を「あやす」のによい方法と言えるかも知れませんね。ちなみに、抽象名詞はmetaphoric expressionの好材料になりますね。またそれは、言語表現の限界を突き破り、複雑難解な分野での豊富な表現の拡大を可能にできる数少ない方法の1つと言えるのかも知れません。それゆえにか否か、哲学者はよくメタファーを使いますね。オルテガはこんな内容のことを言っています。「メタファーは、真理の狩人が持つ銃砲だ」と。 ということで、@1)、@2)についてはただし書きを添えることを提案させていただき、@3)については全面的に共感申しあげます。以上の趣旨をもって、今回の返信とさせていただきます。
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- Nakay702
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「概念と実体の関係」について以下のとおりお答えします。 @A: Water is a clear pure liquid. B: I drank some water a few minutes ago. C: I'd like water, not wine tonight. D: Waiter, bring me water, quick! @認知対象に空間的制約を与える必要がないと感じられる場合は、カテゴリーであろうと実体であろうと限定詞は不要である。Dのwaterは実体であるが量を意識しない表現だということになります。一方、認知対象に空間的制約を与える必要があると思われる場合はsomeを含む数量詞を使う。この場合はもちろん実体のみを表すことになります。Bのsomeはそのような発想で使われる限定詞です。付言すると、waterは分割されることが想定されない水を、some waterは分割可能な水だということになります。 ⇒確かに、「waterは分割されることが想定されない水、some waterは分割を前提とする水」を表している、と言えると思います。(前回までの用語で言えば、前者はナル冠詞が、後者はゼロ冠詞がつく例と解釈できますね。)some waterは水全体のうちの「一部を表す」という意味で、例えばフランス語では、いわゆる「部分冠詞」がつく例ということになるでしょう。ところで、これは(空想の域を出ない)私の願望ですが、不定形容詞someを可算名詞複数形や不可算名詞にもつく不定冠詞に「昇格させる」ないし「就任させる」ことを考えてもよいかも知れませんね。そうすると、辞書項目上のsomeは、不定形容詞・代名詞などのほか不定冠詞(≒部分冠詞)の項目下の説明を追加することが必要になりますが。 @瀕死の重傷を負った人は丁寧な物言いをする余裕がないのではなくて、量を意識する余裕がないのではないかと思います。impoliteだとする説はたぶんに語用論的なものというか、少なくとも文法的には無視できるものであるような気がします。 @カテゴリーの全体ではなく部分を表す時、そのものはカテゴリーであると同時に実体でもあることも表しているわけですが、表現の重点がどちらに置かれるかは文脈(特に話者の気持ち)に依存するのではないかと思います。 ⇒お説のご趣旨、だいたい分かります。waterなどの物質名詞が、「カテゴリーの全体を表すか部分を表すかが話者の気持ちに依存する」ことは大いにあり得そうですね。そのほか、物質名詞は通常「(a cup ofなどの)容器などによって量を表現しますが、緊急の場合はそれを省略することがある」、という説明を加えてもいいかも知れませんね。ということで、無冠詞のwaterが実体を表すこともあると見る場合、次のような説明ができるかも知れません。 #無冠詞のwaterが実体量とか部分を表すこともあると見る場合の解釈法: (1)無冠詞のwater自体が、カテゴリーと実体の両方の意味を表す機能があると見なす。 (2)無冠詞のwaterが実体を表す場合は、不可視のゼロ冠詞(部分冠詞)がついていると見なす。 (3)waterの前についているはずのsome / a glass ofといった限定詞(計量詞)が省略されていると見なす。 @同じことは抽象名詞の場合にも言えます。 E: Fear is the feeling that you have when you are frightened. F: I feel some fear now. G: I feel fear now, not anxiety. H: I feel fear now. I'm so scared. Eではfearの概念が、カテゴリーとして表現されています。 カテゴリーとして表現されるときはそのまま語彙として、限定詞なしで文中で使われます。@Fではfearという概念に対する外延のすべてではなく一部分のfearが表されています。fearだけでなく、hopeやjusticeなど心の中でうごめくものは量的なものと見なされてsomeをつけることができます。Gのfearは概念を表しているのでカテゴリーのすべてにあてはまるものです。ただし、現実に恐怖心を感じているわけだから実体としてのfearを感じてもいます。ただし、量的なものではあっても、具体的な量を意識したものではないので限定詞がつかないと言ってよさそうです。 ややこしいのはHです。文の内容を考えるに現実のfearをひしひしと感じているようです。実体としてのfearを表しています。Gと同じく、具体的な量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。 ⇒なるほど、初耳の事柄ですが、所説は大方納得できます。 ところで、英語と類縁関係にある印欧語の多く(古典ギリシャ語、フランス語・ドイツ語・スペイン語など。ただし、古典ラテン語、ロシア語を除く)が冠詞を持っています。そして、冠詞を持つ言語は共通に文法解説中に「無冠詞」または「冠詞の省略」という独立項目があります。そこでは、ほぼ一様に「物質名詞および抽象名詞は通常無冠詞で用いられる」と解説されています。単独の抽象名詞が、カテゴリーとともに、具体的な量を表すことがあるのは、これらの西欧語も英語と同様です。 #抽象名詞が具体的な量・実体を表すこともあると見る場合の解釈法: (1)単独の抽象名詞自体が、カテゴリーと実体の両方の意味を表す機能があると見なす。 (2)抽象名詞が実体を表す場合は、不可視のゼロ冠詞がついていると見なす。 (3)抽象名詞の前についているはずのlittle / some / muchなどの限定詞(計量詞)が省略されていると見なす。 @複数名詞の場合にも言及しておきます。I: Jewels are sold at the jewelry store. J:I bought some jewels at the jewelry store. K: Bring me jewels, not money. L: Bring me jewels. Be quick. @IのJewelsは概念に非常に近いものを表しています。(…)。Jでは、カテゴリーの一部を表されています。実物を表すので限定詞のsomeが使われています。KとLでは宝石強盗が店に押し入った場面を想定しています。KではIと同じくカテゴリーを表しているはずですが、現実には宝石店の宝石なのでカテゴリーの一部が表されているにすぎません。また、文脈から実物が要求されていると考えられますが限定詞はついていません。具体的な数量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。Lでは明らかに実体としての宝石が話題になっています。具体的な数量を意識したものではないので限定詞がつかないと言えそうです。 @この問題は、前回の質問に対する回答者の方のご意見とも関わっています。(…)<認知対象に空間的制約(例えば量の表現)を与える必要がないと感じられる場合は、カテゴリーであろうと実体であろうと限定詞は不要である。>という考えに依拠するとき、waterには限定詞は不必要です。いかがでしょうか? ⇒この項もなるほどのご見解と感服しました。先行の項を含め、全体を通して了解できました。新しい見方、新しい切り口でのご示唆をいただきました。 ちょっとそれますが、用語について考えてみました。(箇条書きが多くてすみません。) #「カテゴリー」や具体的な「実体」を表す用語について: (1)物質名詞の「カテゴリー」に相当する語は「カテゴリー/質」、その対称語としては、はそれぞれ「部分/実物」とすることができるかも知れません。 (2)抽象名詞の「カテゴリー」に相当する語は「概念/内包」、その対称語としては、それぞれ「具象/外延」と呼ぶことができるかも知れません。 (3)複数名詞の場合は、「カテゴリー」に相当する語は「部類/全体」、その対称語としては、それぞれ「個物/一部」と表すことができるかも知れません。どの用語も大差はないかも知れませんが、お勧めの留意事項としては、対称性が掴みやすい語と語を対にして用いることができればよりよいと思います。 この度のお説・ご意見はすべて新鮮な感覚をもって拝読させていただきました。斬新なお説を全体的に了解できました。普段こういう見方をしていませんでしたので、ある種の開眼を促していただいたように思います。ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。
補足
今回の議論と関連して、もう一つ質問したいことがあります。 M: Summer is the hottest season in the year. N: Summer has come. / Summer is coming soon. Mにおいてはsummerはカテゴリーを表しています。ところが、Nでは、「やってきた」とか「やってきつつある」とか言ってるくらいだから、やってくるのはカテゴリーではなく実体だと考えられます。「暑い時期がやってきた」という意味だと思われます。 ただし、Mのような定義文ではないので、カテゴリーを表す可能性はゼロではないと思います。例えば、"Winter has come? Wow! Here in Sidney summer has come." というふうな文が作れそうな気がします(ネイティブチェックは受けていません)。 さて、summerが実体を表すのであれば時間(と空間)の制約を受けるはずですが、今回の議論をふまえて考えると、Nにおけるsummerはカテゴリーを表し同時に実体を表すものと考えられます(表現の比重は実体の方に置かれていると思いますが)。だから無冠詞で使うということで問題はないと思います。 ところが、summerは不可算名詞なのでカテゴリーではなく、実体の意味だけで使うことが常に可能なはずです。だとすると、some summerという使い方ができるはずなのに実際にはそうした使い方はありません。 (他にも、例えば some night, some east, some left, some front, some futureなどにもありません。some deathとかsome birthにもありません) これは、summerが一つの全体的なまとまりとしてイメージされていて、その中の一定の部分を取り出せない。つまり、分割できないものだからだと思います。summerやnightやeastやfutureとかは、そもそも1年や1日や方位や時間を人為的に分割して得られたものであって、これ以上の分割は想定されていないのではないかと思います。deathやbirthも当然分割できません。(物質名詞の場合はおそらくすべて分割可能でsomeをつけることができると思います) というわけで、概念がカテゴリーではなく実体を表すものであるのに、そのものが実体として分割できない(部分を表すことができない)場合はsomeを使うことができないと考えてよいのでしょうか。 このことでもう一つ考え方があります。1年を12分割して取り出されて名づけられたのが時間単位のmonthです。monthがさらに約30に分割されて名づけられたのがdayです。year, month, week, day は普通名詞です。 ところが、1年を4分割して取り出されたものは時間単位ではなく4 seasonsです。それらに名をつけたものがspring, summer, autumn, winterです。固有名と同じような働きを行います。だとすれば部分を表すことは不可能なのでsomeはつかないということになりますが、この考えはいかがでしょうか。 では、抽象名詞のうち情感や気分を表すものの場合になぜsomeをつけることが可能なのでしょうか。Fの説明の際にこう述べました。 <fearだけでなく、hopeやjusticeなど心の中でうごめくものは量的なものと見なされてsomeをつけることができます> 心の中でうごめくものはメタファー的にwaterのような流動物と見なされるのではないかと思います。だとすれば、部分を表現することができる(分割可能である)と言えるように思います。また、流動物であれば量でもって表すことが可能です。その意味でもsomeが使えると言えそうです。 いかがでしょうか。
お礼
ありがとうございました。
補足
再度の回答、ありがとうございました。 最初に言っておかなければならないことがあります。今回の議論はこれまでの議論と同じく認知文法とは関係ありません。私自身は現象学という哲学の手法にある程度なじんでいるので、認知文法が提唱する反客体化という一点において賛同しています(それゆえ生成文法よりは比較的信頼が置けるように思います)。 でも、それ以外の点については深入りするつもりはありません。反客体化ということでさえ、認知文法のやり方は不徹底なので、私としては認知文法に対してかなり批判的です。ただ、メタファーの研究と議論においては大いに参考にさせてもらおうという姿勢を取っています。それと、ラネカーの考えにはおもしろい点があるので、それもつまみ食い的に参考にさせてもらっています。 今回の議論といい、概念をめぐる議論は言語と言うより哲学的な色彩の濃いものだという気がします。(私の議論には限定詞がかんでくるので、やはり言語の問題なのでしょうね)でも、私としては哲学的に考えるというより、文法にしっかりした基盤をすえたいというふうに考えているだけなのです。 本題に入ります。 <「summerが可算名詞として用いられる例もなくはない」と思われます。例えば、I have been to Hawaii in some summers.というような場合です。この伝でいくと、some nightsなどもありそうですね。> -可算名詞として用いられる例はもちろんあります。summerは毎年、nightは毎日やってくるわけですから。summer A, summer B, summer C ---はa summer, a summer, a summer --- です。 some summers, some nightsはinをつけるとin some hoursと同じ使い方として使えます。ただし、ネイティブは、その言い方はまちがいではないが、通常はin some years. in some daysの方が使われるとのことです。in ではなくlaterを続けることもできます。 つまりsummerやnightには抽象名詞と普通名詞の2用法があるわけです。morningもそうです。 <それで、"Do you think there is any justice in what he says?" ― "Yes, I think there is some justice and hope in what he testifies." というような表現もできるのだと思います。> ---ぴったりの例文ですね。ありがとうございました。 <ところで、メタファーは、分節表現しかできない宿命を背負った言語を「あやす」のによい方法と言えるかも知れませんね。ちなみに、抽象名詞はmetaphoric expressionの好材料になりますね。またそれは、言語表現の限界を突き破り、複雑難解な分野での豊富な表現の拡大を可能にできる数少ない方法の1つと言えるのかも知れません。それゆえにか否か、哲学者はよくメタファーを使いますね。オルテガはこんな内容のことを言っています。「メタファーは、真理の狩人が持つ銃砲だ」と。> ---そうですか。オルテガがそのようなことを言っていましたか。メタファーについては私はまだまだ勉強不足なので今後この分野での勉強に励まねばと思っています。認知文法から知恵を借りるのも一法だろうと思います。 今回もありがとうございました。 次回は、<概念が情感を喚起することがあるか>というタイトルで投稿します。以前、少しだけ話題になったヘレンケラーの話も出ます。年の暮れなので何かとお忙しいと思いますが、よろしければご意見を聞かせてください。