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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:<原形動詞はカテゴリーか実体か>)

原形動詞はカテゴリーか実体か

このQ&Aのポイント
  • 原形動詞はカテゴリー的行為としても実体化されることがある
  • 法助動詞と原形動詞の組み合わせによって情感が表現される可能性がある
  • モダリティーを表さなくても原形動詞だけでも情感を喚起できる場合がある

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  • Nakay702
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回答No.3

(その2) @言語を操ることは世界(環境)のなかで他者とともに生きることです。環境は自然環境に限らず社会環境でもあります。つまり、言語を操ることは世界内存在として生きることだと言えます。基盤を統一的なものとして見た場合、基盤は理性能力と理性的秩序、および世界内存在と言語能力ですが、これらは相互補完的な働きを行うと言えます。 @この基盤から産み出される外延は無数にありますが(…)、その大半が悲惨な出来事だと言えそうです。そうした事態を何とかするために基盤に付加物が必要でした。道徳や宗教です。ハイデッガーは自分の存在論にある付加物を導入しました。本来性と彼が名づけた概念です。これによって、「存在と時間」は後半部において、(…)プロテスタント神学と仏教哲学に雰囲気的に近接したものになりました。この段階で<事象そのものに語らしめる>というスローガンは放棄されています。 ⇒科学的方法で立証したり推進したりすることはほぼ不可能で、科学の範疇を越える命題とも言えましょうが、かといって放置しておくわけにもいかないものがあります。そのうち、重要なものの1つが、例えば前項で触れた「共生のための規範の契約」で、最悪暫定的に合意することを模索すべき性質の事柄、と言えます。この規範とは、個を基本として、しかも普遍的な人類共通の知恵を結集し、共有する作業と言えるかも知れません。国家・民族・宗教などを単位として交渉がなされる限り、相互理解に限界があることは明白です。共通規範を模索する作業の中で、人類共存のためには民族や宗教を越えた、いわば「個の普遍化」を基軸に据えた相互理解が必要になりますね。ただし、そもそも、理想的な規範などは最初から存在するものではなく、求め続け、状況に応じて協定するほかないものでしょう。それは、地球という共同体の成員が共有すべき「共生パラダイム」の探求であり、求め続けるという過程にこそ意味があるとも言えましょう。  かつて「絶対性」を仮託していた神を人間が殺したのですから、絶対的な倫理的要請を出せる存在に代わって、人間一般に普遍的に妥当する倫理的規範を考案し、それについての合意形成を人為的に図ることがぜひとも必要だと考えるわけです。啓示の主を殺し、人間が事実上の神になってしまった現代にあっては、もはや誰も指針を与えてくれません。地球の運命が自分の手中にあることに対する責任の自覚あるのみで、巨視的・鳥瞰的な判断や行動が求められます。仮に絶対性に関する合意形成が不可能でも、少なくともそこへ志向するための研究は必要です。かかる目的の遂行において、民族や宗教や権力や、さらには経済的利害のみに拘泥することが、いかほどに無意味かつ有害であるかはあまりに明白です。考えるに、人間は「契約」を覚えたからこそ、辛うじてこれまで存続し得たのだと思います。そして、この現代においては、約束し遵守することの重要性は倍旧しています。この精神を忘れるなら、今後の地球は、拳骨でなく原子力などを駆使した「最後の理性」(=超暴力)の支配する星になってしまうことでしょう。今や抜けがけは、地球規模の自爆テロと同値になってしまいました。互いに一触即発状態の中に住む(しかも必然的に他を巻き込む)人類にとって、もはや共通規範の探求を抜きにして、楽園はおろか、単なる生存の継続さえ語れなくなったのであります。  以上から、地球市民としての人間関係のあり方を集約すれば、「異分子を排除するのでなくその存在を相互に承認し合い、互いの論理を受容し、相互関係を考慮して合意形成を図り、個の普遍性という基盤上に共存の姿勢を恒常的に求める」ということになるでしょうか。自己の中に他者を住まわせる姿勢を持ち、遠近法主義(異なる視点から見たものを接合することによって「神の視点」に近づけるとする主張)の立場に立つ心的態度、とも言い換えることができるかも知れません。こういう互恵互助的な個の確立、それは健全な地球市民の共存を希求するからに他なりませんが、そのためのあらゆる活動の中核が「言語に立脚して」なされるわけですね。  おっと、余計なことを加えすぎました。ともあれ、このたびはハイデッガーの存在論のあらましを教えていただき、ありがとうございました。最後の2つの項段落に関連して我田引水をいたしましたが、それは「存在と時間」の後半部で、彼が「事象そのものに語らしめる」というスローガンは放棄し、さらに導入した「本来性」や「プロテスタント神学と仏教哲学に雰囲気的に近接したもの」によって、もしかしたら彼の脳裡に浮かんだかも知れないと(勝手に)推測したことでした。しかし、よい勉強になりました。ありがとうございました。

feeders
質問者

お礼

残りです。 <信奉する宗教や神の如何にかかわらず、人間という共通項に基づいてあらゆる人間同士で契約することができるはずであり、その契約可能な中身は、「共存のための倫理的規範」というべきものであろう、と考える次第です。>    -全く同感です。人間が現実に生きる時、基盤だけで生きるわけではありません。共同存在として他者とともに生きる以上、どうしても倫理面で外延的なものが必要とされます。問題は倫理的規範としてどのようなものを想定するか、また、規定に従わないものにいかに対処するか、というふうなことをどうやって決めるかということです。よく言われるのは<合意>に依るしかないということですが、<合意>がなされたと判定される状況がいかなるものか、あるいは<合意>の意思表示をいかにすべきか、とか様々な問題が噴出します。その問題を解決するために、またもや<合意>に頼らなければならないとしたら、(論理的な手続きだけでことを図ろうとすると)、<合意>の無限背進が生じます。結局、論理プラスアルファとして、問題に取り組もうとする人たちが互いにどれだけの共感を持ち合えるかということになると思います。 <共通規範を模索する作業の中で、人類共存のためには民族や宗教を越えた、いわば「個の普遍化」を基軸に据えた相互理解が必要になりますね。ただし、そもそも、理想的な規範などは最初から存在するものではなく、求め続け、状況に応じて協定するほかないものでしょう。それは、地球という共同体の成員が共有すべき「共生パラダイム」の探求であり、求め続けるという過程にこそ意味があるとも言えましょう。> -全く同感です。<理想的な規範>はアプリオリに存在する基盤を根拠に、人類ができる限りの知恵を振りしばって作り出す外延的な実体物だと思います。仮に今の世で実現できなくても、Nakayさんの言うとおり、求め続けるという過程にこそ意味があると思います。 <啓示の主を殺し、人間が事実上の神になってしまった現代にあっては、もはや誰も指針を与えてくれません。> -啓示の主はキリスト教によって論理上および信仰上要請されるものにすぎません。ハイデッガーはキリスト教に対して(特にカトリック教会に対して)批判的でしたが、<指針>が存在しないとは考えていません。<指針>は「存在と時間」における方向性と同じものだと考えられます。 nakayさんのおっしゃる<自己の中に他者を住まわせる姿勢を持ち、遠近法主義(異なる視点から見たものを接合することによって「神の視点」に近づけるとする主張)の立場に立つ心的態度>とは、おそらく共感という言葉で言いかえられるものだと思います。人類が生き延びるために必要なものはまさにそれだと思います。 ハイデッガーの「存在と時間」ですが、存在論ですから当然のことですが、時間や空間や他者の問題も議論されます。「存在と時間」の後半部で、彼が「事象そのものに語らしめる」というスローガンを放棄したと言いましたが、少し言い過ぎたような気もします。死の分析は現象学的手法できちんと行われています。 今回はNakayさんの共通規範のお話を伺えてよかったです。おそらく、同じようなことを考えている人は多いと思います。まだこの世は捨てたものではないと思っています。長文のご意見ありがとうございました。  -次回は、<protection of natureにtheは不要か>という表題で質問をします。派生名詞にof句が後続する時通常は派生名詞にtheがつきますが、そうでないこともあるようです。よろしければおつきあい下さい。今回は、どうもありがとうございました。

feeders
質問者

補足

再度の回答ありがとうございました。  <⇒分詞構文は、通常主節の主語や時制に応じて限定されますので、実体化されることは明らかですね。独自の主語を持つ独立分詞構文も、他の条件は似たようなものですので大差ないと思います。しかし、それ以外の分詞は、仰せのように文法助動詞を伴わずに名詞や形容詞として機能する場合は内包として働く、つまり無時間的なものかどうか、よく分かりません。根拠はないのですが、これらがすべて実体化されることのない内包としての機能しか持たない、つまり、概念のみを表すのか否かは、断定できないような気もします。> -たしかに断定できないような気がします。というか、ややこしい問題を抱えているように思 います。例えば、形容詞化している場合は、概念として機能していると思われます。 an unexpected event / a surprising fact / I found the applicant well-informed. におけるwell-informed ところが、形容詞用法の分詞の場合、例えばa man walking down the street においてwalking down the streetはwho is walking down the streetに転換可能です。ということは、実体のように思われます。the walking man の場合も同様です。 ただ、分詞の場合はややこしいケースがいろいろあるので、この問題の追及はこれくらいにしておきます。ひとまず所期の目的は達成されましたから。そうそう、受動態について触れるのを忘れていましたが、これまでにしておきます。 世界内存在と基盤の話につきあって頂いて感謝しています。 <経験論的な説明方法の方が合理論的な説明方法よりわずかに実証能力がありそうな気がします。経験論は「事象そのものの語ることを受容する能力がより高い」と思われるからですが、 --->  -私もそう思います。後期のフッサールと、フッサールを継承し、そこから新たな境位を築いたメルロポンチは世界に根ざす主体を心でなく身体に置きました。このことは、私の眼には経験論に若干好意的な態度なのかなという気がしています。認知文法はこの両者(特にメルロポンチ)の哲学に多くを負っているように見えます。認知文法はおそらく現象学の発想を取り入れながらも経験論から軸足を移すことができなかったのではないかと思います。  <⇒「自己中心的特殊規定」(B.ラッセル、Egocentric particular)という観点からすれば、経験論と合理論の説明方法が対立するのは至極自然なことでしょうね。しかし、それは悪いことばかりではなく、むしろ、そのおかげで弁証法的な対話を通じた「止揚」(Aufheben)の結果としての「合」(Synthese)が得られる、という収穫もありましょう。「二つの異なったもののように見える基盤は、実は一つの基盤の二様の現れと考える」のも、そういう過程を経た後での成果と言える面があるのではないでしょうか。>  -私もそう思います。ただし、弁証法的な対話を通じた「止揚」(Aufheben)の結果としての「合」(Synthese)が基盤の発見や基盤の二様の現れの感得につながるというのはヘーゲルではなくプラトンの発想に近いと思います。また、そうした発見や感得をえることを可能にするのは直感の働きだろうと思います。ハイデッガーはそれに対して跳躍(der Sprung)という言葉を使っています。  基盤についてですが、人間の思考が基盤だけを対象にするのであれば、哲学は何と豊かさを減じることか。ただ、私としては、人間が絶対確実にこうだと言えるのが基盤についての言説のみだと示したかっただけのことです。山ほどの不確実なことに囲まれてこそ人生なのだろうと思います。  弁証法的とか「止揚」(Aufheben)とか懐かしい言葉を聞かせて頂きました。ヘーゲルやマルクスが読まれなくなって久しいですね。今では、弁証法的と言うと、二つの事柄の有意的な関係性を表すためにしか用いられないようです。哲学にもその時代相応の流行があってもいいのかもしれませんね。若い頃に、<弁証法とは、二つの事象の関係に与える形式論理の恣意的運用なり>と鬼の首でも取ったように騒いでいたことを思い出しました。こういう言葉が意味を持った時代があったわけですね。基盤以外のものはすべて歴史的に規定されます。クーンのパラダイムシフト説を持ち出すまでもないですね。 自らの説や論が歴史的・相対的なものであることに気づかず、他の説や論を包摂(基礎づけ)しようとする人たちがいます。言語論的展開とかいう言葉が一時期はやりましたね。哲学的思考<世界や人間がどのようなあり方をしているかを探り、それについて語ること>は言語を通じて行われるわけだから、哲学の任務は言語を分析することであると考えた人たちがいました。 これはそれなりに一理あります。  でも、対立する一方が他方を規定しようとすると必ず論理矛盾が起きます。例えば、言語分析をおこなうためには言語を使用しなければなりませんが、言語の使用を可能にするのは言語主体の意識です。だったら意識の在り方を考察しなければなりません。あるいは、言語の使用を可能にするのは言語主体が属する言語共同体です。だったら、言語共同体がどのようなあり方をしているか考察しなければならないことになります。 論理循環が生じるのは関係を客体的にとらえるからです。関係の内部に、循環の中に立てば循環は論理循環ではなくなります。言語分析哲学者でそのことを真摯に考えた人がいました。ヴィトゲンシュタインです。彼の哲学は存在論だと言ってもおかしくはありません。多くの言語哲学者は言語が存在論的に規定されることに気づいていません。言語分析哲学者自身が世界内存在という存在であることに気づくべきです。  <ところで、民族も言語も異なる多様な地球市民が共生するためには、例えば、その二つの基盤が共同する成果の一つたる「契約」のようなものが必要になる、と言えるかも知れませんね。「私は、私と私の環境である」とオルテガは言いました。「神がなくなれば、全てのことは許される」とドストエフスキーは言いました。「全てのことが許された世界」とは何か。それは、例えば無法者の跋扈する地帯、奸計・略奪・殺人などの横行する世界でしょう。神が消えるなら、その神もろとも、当該行為を規制・裁定すべき方法、すなわち規範も消滅するからだと考えられます。「神は死んだ」と言われて久しい今日、その神的機能に代るものが「契約」で、信奉する宗教や神の如何にかかわらず、人間という共通項に基づいてあらゆる人間同士で契約することができるはずであり、その契約可能な中身は、「共存のための倫理的規範」というべきものであろう、と考える次第です。> -大変重い話題になりましたね。「私は、私と私の環境である」はまさに世界内存在を一言で要約したもののように思います。  「神がなくなれば、全てのことは許される」についてですが、そうであってはならないので、神はいるはずだという逆説的な論理(あるいは論理上の要請)だったと記憶しています。ドストエフスキーは敬虔なクリスチャンだったと記憶しています。  「神は死んだ」についてですが、ニーチェはカトリックの神を念頭において発言しているように私には思えました。この世を創造した究極の存在が死んだと言ったわけではないと思います。ヨーロッパの無神論者は二つに分かれます。一つは、キリスト教の神は信じない、でも、神はいると考える人たち。その多くはクリスチャンをやめた(棄教した)人たちです。もう一つは、そもそも神なる存在を信じない人たちです。 前回取り上げた基盤は、どれも(あるいはすべての基盤は)Logosという言葉による置き換えが可能です。Logosは神と同一視されることもありました。基盤は私が示したものだけではないと思います。共感とか愛とかもその一つだと思いますが、ハイデッガーは「存在と時間」では言及しませんでした。彼は、自分の著作の基本方針として世界内存在を根底で支えるものいが時間性であることを主張したかったので、空間性についてはおざなりの議論しかしませんでした。空間性の考察をきちんと推し進めてゆけば共感とか愛とかにたどり着いたはずだと私は思っています。つまりLogosは愛でもあると私は思っています。ただし、無数に存在する外延はその多くは悲惨な出来事のように見えます。 語数制限にかかるのでお礼に残りを入れます。

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  • Nakay702
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回答No.2

「補足とお礼」をありがとうございました。 以下のとおりお答えします。制限字数を越えますので、2つに分けてお送りします。 (その1) @walkingが文法助動詞を伴わずに名詞(動名詞)や形容詞として機能する場合は内包として働く、つまり無時間的なものだということでしょうか。ただ、副詞用法(いわゆる分詞構文)の場合は副詞節に転換可能なので、少しややこしそうです。Having no money, the boy didn't make an offering of money at the shrine.において、Having no moneyはAs he had no moneyに転換可能です。ということは、副詞用法のHavingは実体化されていると見なすべきなのでしょうか? ⇒分詞構文は、通常主節の主語や時制に応じて限定されますので、実体化されることは明らかですね。独自の主語を持つ独立分詞構文も、他の条件は似たようなものですので大差ないと思います。しかし、それ以外の分詞は、仰せのように文法助動詞を伴わずに名詞や形容詞として機能する場合は内包として働く、つまり無時間的なものかどうか、よく分かりません。根拠はないのですが、これらがすべて実体化されることのない内包としての機能しか持たない、つまり、概念のみを表すのか否かは、断定できないような気もします。 @主体(言語主体)が対象物を認識しようとする時の説明に仕方において、主体の側の認識装置に力点を置くか、対象物からやってくる感覚印象に力点を置くか、つまり合理論か経験論かということですが、どちらか一方から他の一方を説明しようとすると必ず論理矛盾(論理循環や無限背進)が起きます。/なぜ矛盾が生じるのかを考えることは、なぜ対象物の認識方法についての説明手段が二つ存在するのかを考えることと同じです。 @合理論的な説明方法と経験論的な説明方法とを外延とするような内包は一体何なのかを考えてみるに、合理論的な説明方法の方は、その内包は<人間が生まれつき持つ理性能力を駆使すること>だと思います。/同様に、経験論的な説明方法の場合は、<世界(環境)にもともと備わっている理性的秩序が働く>ことが基盤だと言えます。そのおかげで、自然法則の一切がどの場所においても、どの時点においても成り立つわけです。/合理論的な説明方法も経験論的な説明方法も、共にそうした相対的なものを含んだまま、他の一方に対して優位に立とうとしたわけです。 ⇒ご説明ありがとうございます。哲学講義を受ける学生の心境ですが、生来の怠惰と浅学、十分理解できているかどうか心もとない限りです。それを承知の上で、一言居士よろしく小感想を述べさせていただきますと、経験論的な説明方法の方が合理論的な説明方法よりわずかに実証能力がありそうな気がします。経験論は「事象そのものの語ることを受容する能力がより高い」と思われるからですが、単なる門外漢の印象に過ぎませんので、裏づけがあってのことではありません。 @そもそもの対立の淵源は二つの基盤が異なるものだということにあります。一方は、人間が生得的に持つ理性能力であり、もう一方は世界(環境)がもともと持つ理性的秩序です。では、対立はどうしようもないものなのかということですが、そんなはずはありません。そのような基盤同士の対立が実際に存在するなら、人間の世界・社会はむちゃくちゃになってしまっているはずです。ということは、対立しているように見えていながら、実際には対立は存在しないはずです。よく考えると、理性能力が力を発揮するのは理性的秩序が存在する場においてです。逆に、理性的秩序も理性能力あってのものです。一方からもう一方を還元しようとするから対立が起きるわけです。理性能力と理性的秩序という基盤レベルではそのような対立は生じません。(二つの異なったもののように見える基盤は、実は一つの基盤の二様の現れと考えればすむことです。すなわち、「理法」(あるいはロゴス)こそが基盤であるとして、それを表明・表現するものが言葉だとすればいいわけです。) ⇒「自己中心的特殊規定」(B.ラッセル、Egocentric particular)という観点からすれば、経験論と合理論の説明方法が対立するのは至極自然なことでしょうね。しかし、それは悪いことばかりではなく、むしろ、そのおかげで弁証法的な対話を通じた「止揚」(Aufheben)の結果としての「合」(Synthese)が得られる、という収穫もありましょう。「二つの異なったもののように見える基盤は、実は一つの基盤の二様の現れと考える」のも、そういう過程を経た後での成果と言える面があるのではないでしょうか。 @昨今では環境問題やいわゆる共生という問題において普通に言いはやされていることですが、主体は世界(環境)の一部であって、その中で主体的に生きてゆく者であると言えるはずです。これが概括的に世界内存在と呼ばれている存在体勢です。この考えは内包であるに留まらず基盤でもあることがわかります。/理性能力と理性的秩序に加えて世界内存在が加わって一つの根源の基盤とも言うべきものが存在することになりますが、その基盤の内容(内包)を表明・表現するのが言語です。(…)理性能力と理性的秩序が世界(環境)内で働くことを保証するのが世界内存在だということになります。 @もう一つ基盤としてあげられるものがあります。言語(の使用)です。言語は人類発生時点から存在しているものではありませんが、人間社会が形成されて以降の時代を考えれば、基盤と言うにふさわしいものだと思います。(…)言語の使用が意味をなすものであるためには理性能力が必要とされるし、また、言語使用が広範な場面においてかつ長きにわたって行われるものであるためには理性的秩序が必要とされます。 ⇒人間が主体的に生き、さらに共生するための基盤は、理性能力、理性的秩序、世界内存在が加わった一つの根源的基盤と、その内容を表現し、調整を図るもう一つの基盤とも言える言語との、二つの基盤であることが分かりました。  ところで、民族も言語も異なる多様な地球市民が共生するためには、例えば、その二つの基盤が共同する成果の一つたる「契約」のようなものが必要になる、と言えるかも知れませんね。「私は、私と私の環境である」とオルテガは言いました。「神がなくなれば、全てのことは許される」とドストエフスキーは言いました。「全てのことが許された世界」とは何か。それは、例えば無法者の跋扈する地帯、奸計・略奪・殺人などの横行する世界でしょう。神が消えるなら、その神もろとも、当該行為を規制・裁定すべき方法、すなわち規範も消滅するからだと考えられます。「神は死んだ」と言われて久しい今日、その神的機能に代るものが「契約」で、信奉する宗教や神の如何にかかわらず、人間という共通項に基づいてあらゆる人間同士で契約することができるはずであり、その契約可能な中身は、「共存のための倫理的規範」というべきものであろう、と考える次第です。

  • Nakay702
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回答No.1

<原形動詞はカテゴリーか実体か>について、以下のとおりお答えします。 @<歩く>という概念が時間と空間という2つの形式によって実体化された時、(実体化というのは時間と空間を持つ、すなわち現実に行われるということです)、概念である原形のwalkに代わって、その外延であるwalk(現在形), walks, walkedやwalkingが使われます。 ⇒あ、そうですね。これまで考えてみたこともありませんが、言われてみれば、まさにそのとおりだと思います。全く異存はありません。概念・内包たる不定詞(infinitive)に対して、定形動詞(finite verbs)には、まさにそれぞれの限定がつくわけですので、外延そのものですね。ただ、分詞は、「(意味機能を《分》かち持つ《詞》(ことば)」とされるだけに微妙です。もしかしたら、両方の意味機能を分かち持つかも知れませんね。 @C: I walk an hour to my office every week day. において、空間的実体はto my officeによって、時間的実体はan hour によって表されています。(…)概念である原形動詞は過去形や現在形を使ったり、推測・可能性や意思を表す助動詞を使ったりすることによって、実際にそうした行為が行われる時の具体的な時間を表現できます。 @概念を表す原形動詞がカテゴリーと実体の両方を表す場合があるように見受けられます。 D: The doctor told her to walk a lot to keep healthy. walkは外延ではなく原形です。原形であればカテゴリーを表すはずですが、ここでは、実体を表す、つまり実際の行為を促しているように読み取れます。(…)では、カテゴリーを表せないのかというと、(…)rather than to use a carが省略されていると考えればカテゴリーを表すと考えることができます。 ⇒仰せのとおり、Dにrather than to use a carを補ってみればカテゴリーを表すことが明確になりますね。他方、Dからa lotを削除しても、同じようにカテゴリーを表していると解釈できると思います。そうすれば、例えば、to swim, to have much vegetable, to go to gym …などからto walkというカテゴリーを指定した、という意味になりますからね。 @限定詞(決定詞)システムと名詞との関係は時制システムと動詞との関係と同じであるという見立てです。 E: You should take a walk every day to keep yourself in good health. において、take a walkは概念を表します。ここでは行為の実体を表しているように見えます。行為はまだ実現していませんが、聞き手に行為の実現を促すものなので、実質的に実体を表していると言えるはずです。 @この文では法助動詞が使われています。法助動詞にはmodalityが存在します。modalityは話し手の主観的態度を表すものです。その中には、懇願とか警告とか勧誘とか依頼とか疑問とかがあります。そうしたものの表明がどういう文法的状況においてなされるかということを鑑みた場合、情感の言語的発露は法助動詞と原形動詞の組み合わせによってなら可能であると言っていいように思います。 ⇒なるほど、限定詞(決定詞)システムと名詞との関係は時制システムと動詞との関係と相同的であるという見立ては面白いですね。これまで意識したことはありませんでしたが、確かに、両者の間には大きな相同性があると思います。なお、Eのように、法助動詞と原形動詞の組み合わせによって実体を表しているという可能性が高まることは確かだと思いますが、法助動詞の補助などを得ずとも、つまり、原形動詞のみでも情感の言語的発露は可能だと思います。(*後で同じことを仰せになっていることが分かりましたが、第1印象ですので、このまま残しておきます。) @命令文やその他のmodalityを表現する構文も法助動詞と同じ働きをすると思います。modalityを表現する構文には例えば次のようなものがあります。F: We advised my daughter that she be more quiet when we are with guests.(…)G: It is surprising that he should say so. (原形は使わないようです) surprising は感情を表す形容詞です。他に、astonishing, sad, regrettable, shocking, curious, queer, strange, embarrassing,などいろいろあります。It is a pity / a shame that ----という構文もあります。 @人間は知覚的相(感覚器官の働きによる)においてモノを観察するが、同時に、情感的相においてモノに心を開いていると言えると思います。(…)"Watch out." とか"Be careful." とか"Let's enjoy playing soccer." と言うとき、モダリティーということで言えば、警告や勧誘が表されていると言えるのでしょうが、さらに心配そうな感じやうれしそうな感じも含まれていると思われます。 ⇒なるほど、周辺部への拡張解釈、拡大適用とでもいいますか、そういう感情を表す形容詞や感嘆文・命令文・勧誘文なども、情感の言語的発露の機能があると言えますね。 @情感はモダリティーを表す表現と原形動詞の組み合わさった時に表出可能なのではないかと言いましたが、私の考えでは、モダリティーを表す表現と共起しなくても原形動詞だけでも(実体とカテゴリーの部分を表現しさえすれば)情感を喚起できるのではないかと思います。その上に、モダリティーが伴えば情感の喚起が促されやすくなるということなのではないかと思います。 D: The doctor told her to walk a lot to keep healthy. において、toldをadvisedに代えればモダリティーが表明されやすくなりますが、toldであっても文脈と状況次第ではモダリティーの表明は可能だと思います。 ⇒確かに、原形動詞だけでも文脈と状況次第ではモダリティーの表明は可能でしょうね。言語の分析においては、このような状況依存度の高い事柄があることは見逃せない要項ですね。なお、このことは、上の「*」で述べたことと同じですので、この段階に来たからには上の「*」の記述を削除させていただきます。 さて、最後に認識の共有と共感の意を込めてお説の骨子をまとめてみます。 1.原形動詞は概念を表し、屈折形は実体を表す。時間や空間の規定が加わるからである。 2.原形動詞は単独で概念と実体を表すことがある。それは各種の状況補語を添加することでより明快になる。 3.限定詞(決定詞)システムと名詞との関係が、時制システムと動詞との関係との間に、カテゴリーや概念と実体や外延に対応する相同的があると言える。 4.述語部に法助動詞が加わると情感の表現が可能となる。同様の効果を添える語句として、命令文・疑問文・感嘆文などの修辞技法によって各種の実体化が可能となる。 5.原形動詞に法助動詞などが伴えば情感を表しやすくなるが、このことは原形動詞のみでは情感を表せない、ということではない。法助動詞の添加で情感の表現がより豊かになる、ということである。 …と、このように整理してみますと、改めて感じるのは、いずれもほぼ絶対自ら着想することはできないと思われるにもかかわらず、言われてみれば全てなるほどと肯けることばかりである、ということです。何ら新しい見方などを付加することもできずお恥ずかしい限りですが、以上の全項目について異論なく賛同申しあげます。

feeders
質問者

お礼

どうもありがとうございました。 残りです。  昨今では環境問題やいわゆる共生という問題において普通に言いはやされていることですが、主体は世界(環境)の一部であって、その中で主体的に生きてゆく者であると言えるはずです。これが概括的に世界内存在と呼ばれている存在体勢です。この考えは内包であるに留まらず基盤でもあることがわかります。この基盤を否定すれば人間は生きてゆけません。この基盤は人間と世界(環境)とのあいだに対立は存在しないことを示しています。  (当然のことですが、外延的出来事である知覚現象においても、認識主体と認識対象とを切り離して考えることはあり得ないことです。) 理性能力と理性的秩序に加えて世界内存在が加わって一つの根源の基盤とも言うべきものが存在することになりますが、その基盤の内容(内包)を表明・表現するのが言語です。 世界内存在は理性能力と理性的秩序を統一的なものにするに留まりません。外延的事象・出来事-例えば認識行為-において認識が行われるためには、そもそも認識する側とされる側が世界(環境)内(空想上の時間空間であっても構いません)に存在していなければなりません。その存在を保証するのが世界内存在という存在体勢です。ということは、理性能力と理性的秩序が世界(環境)内で働くことを保証するのが世界内存在だということになります。 逆に、世界内存在という存在体勢を持つ主体が生きるためには、理性能力と理性的秩序が世界(環境)の中で正しく働かなければなりません。 科学哲学にも分析哲学にもこうした視点が全く抜け落ちています。それらの哲学を存在させるものがなければ、それらの哲学は存在基盤を持っていない、つまりそれらの哲学の言説はすべて無意味(言い過ぎでしょうか)ということになります。ハイデッガー流に言えばそういうことになります。 もう一つ基盤としてあげられるものがあります。言語(の使用)です。言語は人類発生時点から存在しているものではありませんが、人間社会が形成されて以降の時代を考えれば、基盤と言うにふさわしいものだと思います。文明にとっても日常生活においてもなくては困るものです。 理性能力と理性的秩序を表明・表現するのが言語だと先ほど述べましたが、実は、言語の使用が意味をなすものであるためには理性能力が必要とされるし、また、言語使用が広範な場面においてかつ長きにわたって行われるものであるためには理性的秩序が必要とされます。  また、言語主体は他の言語主体との共通の言語共同体に属していますが、言語共同体は世界(環境)の主要部分を構成するものです。言語を操ることは世界(環境)のなかで他者とともに生きることです。環境は自然環境に限らず社会環境でもあります。つまり、言語を操ることは世界内存在として生きることだと言えます。 さて、基盤を統一的なものとして見た場合、基盤は理性能力と理性的秩序、および世界内存在と言語能力ですが、これらは相互補完的な働きを行うと言えます。この基盤は世界(環境)と人間(の心と体)が働きを得るための基盤であるとも言えます。 ところで、この基盤から産み出される外延は無数にありますが(空間的には全世界的規模で、時間的には全歴史を通じて)、その大半が悲惨な出来事だと言えそうです。そうした事態を何とかするために基盤に付加物が必要でした。道徳や宗教です。ハイデッガーは自分の存在論にある付加物を導入しました。本来性と彼が名づけた概念です。これによって、「存在と時間」は後半部において、私の目には(他の識者も指摘するところですが)プロテスタント神学と仏教哲学に雰囲気的に近接したものになりました。この段階で<事象そのものに語らしめる>というスローガンは放棄されています。 「存在と時間」では、早い段階で世界内存在という言葉が登場します。この本の前半では、世界内存在がどのような構造のものか、そこで人間がどのようなあり方をしているのかが詳しく語られます。 なお、「存在と時間」では認識の問題は主たる話題になっていません。<世界からやってくるもの-例えば気分-を主体が受け取り、それを受けて主体がなんらかの反応や意欲を示したり、行為を行ったりする>そうした統一的な現象の一つとして認識(知覚)行為があるにすぎません。 以上が私の独自のハイデッガー理解の概略ですが、正しいかどうかの保証はありません。このような解釈の仕方を読んだことも聞いたこともありませんから。ただ、私がNakayさんと議論するときハイデッガーの名を出す際には、このような解釈で理解した(と思いこんでいる)ハイデッガーを想定しているわけですから、その解釈がどのようなものかを示しておきたいと考えたわけです。 ここはおかしいのではないかと思われる点があればご指摘下さい。

feeders
質問者

補足

回答ありがとうございました。 <最後に認識の共有と共感の意を込めてお説の骨子をまとめてみます。> -丁寧にまとめて頂いてありがとうございました。  <@<歩く>という概念が時間と空間という2つの形式によって実体化された時、(実体化というのは時間と空間を持つ、すなわち現実に行われるということです)、概念である原形のwalkに代わって、その外延であるwalk(現在形), walks, walkedやwalkingが使われます。 ⇒--- まさにそのとおりだと思います。全く異存はありません。概念・内包たる不定詞(infinitive)に対して、定形動詞(finite verbs)には、まさにそれぞれの限定がつくわけですので、外延そのものですね。ただ、分詞は、「(意味機能を《分》かち持つ《詞》(ことば)」とされるだけに微妙です。もしかしたら、両方の意味機能を分かち持つかも知れませんね。> ---たしかに言われてみればその通りですね。うっかりしていました。おっしゃることの趣旨は次のようなことでしょうか。  walkingは(is / are / was / were / have been / has been / had been) walking というふうに文法助動詞を伴った形でなければ実体化されないと言えばいいのでしょうか。walkingが文法助動詞を伴わずに名詞(動名詞)や形容詞として機能する場合は内包として働く、つまり無時間的なものだということでしょうか。 ただ、副詞用法(いわゆる分詞構文)の場合は副詞節に転換可能なので、少しややこしそうです。Having no money, the boy didn't make an offering of money at the shrine. において、Having no moneyはAs he had no moneyに転換可能です。ということは、副詞用法のHavingは実体化されていると見なすべきなのでしょうか?ご意見をお願いします。 --前回と今回との議論で概念と情感発露との関係がほぼ見えたように思います。どうもありがとうございます。実は、当然のことですが、この種の話題には教室では一切触れません。生徒達(高校生または予備校生レベル)には正しい冠詞と正しい時制の選択の仕方さえ習得させればそれでよしとしています。  実体を持たない無冠詞名詞と原形動詞の場合は指導がやりにくくなります。概念について教えるのが面倒だからです。無冠詞名詞はさまざまな使い方があるので指導が大変ですが、原形動詞の場合は使われ方のパターンが多くないので指導は楽です。 実は、これまで限定詞(今回は時制も)のシステムと関わる質問が多かったと思いますが、私自身の勉強をしっかりしたものにするための基礎固めという意味がありました。要するに、概念と関わることが文法システムの中でどのように扱われるかをきちんと確認したかったわけです。でも、文法書(冠詞の解説書も含む)にはそのような観点を抑えたものがない(はっきり言って怠慢だと思います)ので、仕方なく自力で切り開くしかなかったわけです。でも、おかげでいろいろ学習できました。英文法を教えてきた者が文法の基礎を固めていないなどということはあってはならないことだと思います。 ところで、前回<概念が情感を喚起することがあるか>において、私の側の返信の中でハイデッガーの名を出すことがあったにもかかわらず、彼の考えや世界内存在についての説明は中途半端なものでした。私のものの考え方の基盤とも言うべき部分を構成するものなので、少し丁寧に説明させて頂いた方がよいと考えます。でないと、これまで大変な労力を費やしてくれたNakayさんに対して礼を失することになるような気がします。  もちろん、彼の存在論の全容をここで紹介するわけにはいきませんから、ほんのさわりの部分だけ、それも私独自の理解の仕方を紹介するに留めます。これまでも言いましたが、私は哲学を独学で学んだものですから、私の説明が正しいかどうかは保証の限りではありませんが、ともあれ、一応の私なりの説明をさせて頂こうと思います。ハイデッガーの考えだけを説明するより、ある全体の見取り図の中でハイデッガー存在論がどのような位置を占めるかを示すのが一番手っ取り早いと思います。読後、Nakayさんの方でいかようにも判断してください。もちろん、お忙しければ無視して頂いて結構です。では始めます。純粋に哲学の話題です。 認識の問題から始めます。(プラトン以降、認識の問題が哲学的思考において最優先されて以来長い間認識論が幅をきかせてきました。当然、正しい認識がどういうものかについての説明がなされなければなりません。主体(言語主体)が対象物を認識しようとする時の説明に仕方において、主体の側の認識装置に力点を置くか、対象物からやってくる感覚印象に力点を置くか、つまり合理論か経験論かということですが、どちらか一方から他の一方を説明しようとするとに必ず論理矛盾(論理循環や無限背進)が起きます。そのことは詳しく説明するまでもないと思います。二元論的状況においては避けられないことです。  なぜ矛盾が生じるのかを考えることは、なぜ対象物の認識方法についての説明手段が二つ存在するのかを考えることと同じです。 合理論的な説明方法と経験論的な説明方法とを外延とするような内包は一体何なのかを考えてみるに、合理論的な説明方法の方は、その内包は<人間が生まれつき持つ理性能力を駆使すること>だと思います。内包というより、言語主体(人間)が生きてあるための基盤だと言った方がいいように思います。理性能力の存在はもちろん証明できません。基盤は公理と違って、そこから演繹が始まるようなものではありませんから(また、演繹と無関係ということは、基盤(内包)と外延との関係を述べるとき循環が生じても、それは論理循環とは言えません)。  でも、その存在を承認しなければこれまでの人間の歴史上の営みや社会機構や生活習慣などそうしたすべてが人間によって作られ、維持されていることが説明できません。そもそも、対話も成り立たないし、日々の暮らしも成り立ちません。ところが、実際にはそうしたものがちゃんと存在できているわけですから、理性能力が人間の中に存在すると結論を下すしかありません。 同様に、経験論的な説明方法の場合は、<世界(環境)にもともと備わっている理性的秩序が働く>ことが基盤だと言えます。そのおかげで、自然法則の一切がどの場所においても、どの時点においても成り立つわけです。ヒュームは斉一性と呼んでいました。もちろん、そのおかげで、人間の歴史上の営みや社会機構や生活習慣などそうしたすべてが人間によって作られ維持されています。日々の暮らしも成り立ちます。 基盤はこれ以上疑えないものですが、基盤はそこから何かが演繹されるようなものではないので、基盤にさらに何かをつけ加えて考えを述べると、そこに、早速疑いの余地が混入することになります。基盤に対する人為的な不可物は歴史的・相対的なものでしかありません。合理論的な説明方法も経験論的な説明方法も、共にそうした相対的なものを含んだまま、他の一方に対して優位に立とうとしたわけです。基盤から離れずにおとなしくしておけばよいものを、我が身の相対性を無視した傲慢さの果てが、両者の対立だったと私は考えます。 ここでわかることですが、そもそもの対立の淵源は二つの基盤が異なるものだということにあります。一方は、人間が生得的に持つ理性能力であり、もう一方は世界(環境)がもともと持つ理性的秩序です。では、対立はどうしようもないものなのかということですが、そんなはずはありません。そのような基盤同士の対立が実際に存在するなら、人間の世界・社会はむちゃくちゃになってしまっているはずです。ということは、対立しているように見えていながら、実際には対立は存在しないはずです。 よく考えると、理性能力が力を発揮するのは理性的秩序が存在する場においてです。逆に、理性的秩序も理性能力あってのものです。一方からもう一方を還元しようとするから対立が起きるわけです。理性能力と理性的秩序という基盤レベルではそのような対立は生じません。 (二つの異なったもののように見える基盤は、実は一つの基盤の二様の現れと考えればすむことです。すなわち、「理法」(あるいはロゴス)こそが基盤であるとして、それを表明・表現するものが言葉だとすればいいわけです。) では、基盤レベルで対立しないのになぜ外延(現実の事象・出来事)レベルで対立するのかについて考えてみます。おそらく、対立は言語使用者が世界(環境)に対してどのようなあり方をしているかということに還元されると予想されます。  例えば、夏の気温や湿度が高い日に、主体がもし世界(環境)から切り離されている存在であれば蒸し暑さは感じないはずですが、実際は身体はほてってくるし、汗もかくし、うっとおしくもあります。このことは、主体が世界(環境)から切り離されていないことを示します。このことは、他の主体も経験することです。 語数制限に抵触するので残りをお礼の方に入れます。