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部位カテゴリー間の限定についての疑問
- 質問文章では、部位カテゴリーの限定に関する疑問が提起されています。
- 具体的には、A,B,Cの文中での定冠詞や部位の表現についての違いについての理由を述べています。
- また、文中での限定の強さや指示対象への拘束力についても考察しているようです。
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「質問者からの補足」を拝見しました。 @<二項対立の二項の各要素は、互に相手と組み合わさってはじめて本来的な意味での存在が可能となり、相手がなければ十全な存在性を発揮できない「片割れ」のようなものです。そして、これが自然界のキラル的存在の基本的パターンと言えるように思います。/そう考えると、より整然と体系づけられるような気がします。一見鼎立しているように見えるものでも、その本質をよく考えると、やはり二項対立の連続になっていると解釈できる場合もあります。> <chiralityがいわゆる「二項対立」の、ひいては自然存在や生成変化現象の原理とも言えるように思える> ---とのことですが、そういえばそういう気がしますね。私は、これまで「二項対立」の源はソクラテスひいてはプラトンやアリストテレスの提唱する対話術から(あるいは人間がもともと両性具有だったとする神話から)きているものと思っていました。 ⇒自然界で起こる対生成は、通常、当該粒子のエネルギー準位の移行に伴って崩壊が起こる際に、へテロの形で1対の下位粒子に分裂するので、そのへテロな対の各々が互に二項対立状況を呈するようなのです。そして、その対立する対に何らかのエネルギーが加えられて衝突すると、合体して元へ戻る(対消滅する)という機序のようです。 ところで、「人間がもともと両性具有だった」というのも、ある意味真実のようで、生物が誕生に向かう受胎の最初の頃、つまり卵割が始まるときは両性具有していて、それが胎児の時代にどちらかが優勢となり、嬰児の時代以後その違いが明確に分かれていくわけですから。それでも、例えばヒトの女性器特有のバルトリン腺などは、その名残りが大人の男性器に残っているとか言われますね。(それにしても、易経の「太極図」はうまく出来ていますね。目の部分だけが体の部分と違う色、つまり、相手と同じ色で、それを通じて相手との交換・共感・合体・交替…などが可能となる…という想定かなと想像されます。) @ところで、「対立」という現象を見て取るのは認識主体である人間です。人間が対立という現象をどこまで確実なものとして把握できるかという問題があります。すなわち、集合の要素が多ければ対立関係を把握するのは不可能です。また、複数の要素が共通の上位概念を持っていなければ対立を認識することはありません。 ⇒当然ながら、「対立」という現象を見て取るのは認識主体である人間をおいてほかにありませんね。このとき、人間はいわゆる「人間原理」に立って見ていることになりますね。「人間の人間による人間のための」「自己中心的特殊規定」というとこですか。 多項対立がすべて「二項対立」に還元され得ることも確かでしょうね。さらに付け足せばこの「二項対立」の図式化は、まさに「人間の思考パターンの基本構造」ではないかと思います。例えば、「今日はステイホームしようか、友人に会いに出かけようか、映画を見に行こうか」というようには考えないものですよね。「今日はステイホームしようか、出かけようか」をまず考えて、出かけようと決心した場合には、しかる後に「友人に会いに行くか映画を見に行くか」を考えますよね。こういう考え方の手順は、いわば「2進法」であって、その意味では、我々の脳細胞(の思考様式)も原理的にはパソコンの基本構造と同じ、ということなのかも知れませんね。 @多項対立がすべて「二項対立」に還元されるのではないかと考えたこともありました。 例えば、{north, south, east, west}のそれぞれが対立するなどということはなく、実際にはeastとwestが、northとsouthが対立しているにすぎないと思います。では、{morning, afternoon, evening}の場合はどう考えればいいのかということですが、もともとはbefore-noonとafter-noonがあったのであって、その後after-noonがafternoonとeveningに分化したのではないかと考えたりしたことがありました。/「二項対立」という考え方は、人間の生活における非常に実践的なあり方だという気がします。実際、欧米の人たちは議論を進める時にこの図式を採用することが多いようですね。人間の思考を安定させるだけでなくよりよい発展を促すものでもあると思います。 ⇒確かに、「{north, south, east, west}のそれぞれが対立するのではなく、実際にはeastとwestが、northとsouthが対立しているにすぎない」という見方も、一理あると思います。他方、このようなシンメトリックな構造は、二項の各項の下位がフラクタル構造となり、対立する二項の下位項はそれぞれ相似形となる、というやや特殊な「連続図」を想定する、という解釈も可能かも知れません。例えば、その方位です。画像でないと図表化できないのが辛いところですが、強いて表せば、こんな格好です。《【{南:〔南東(…):南西(…)〕}:{北:〔北東(…):北西(…)〕}】:【{東:〔東南(…):東北(…)〕}:{西:〔西南(…):西北(…)〕}】。なお、(…)は「南南東:南東南」などを省略したことを意味する。》 「{morning, afternoon, evening}の場合は、もともとbefore-noonとafter-noonがあって、その後after-noonがafternoonとeveningに分化したのではないか」についても、大いに、一理あると思います。また、一方、こんな解釈もあります。すなわち、人称:〔第1人称:非1人称(第2人称:第3人称)〕と同じように、day:〔morning:non- morning(afternoon:evening)〕のような「二項対立の連続」と見る方法です。ただし、上の方位同様、これも定説があるわけではありませんので、どちらがより正しいか分かりません。 @<限定詞の体系を二項対立の連続として整理してみたいと思います。> -うまく整理されましたね。よくわかりました。ありがとうございました。 実は、もう一つ聞きたいことがあります。C: He looked me in the eye. において、複数のeyesも使えるというネイティブがかなりいます。そうした記述が冠詞の解説書の一部にも見られます。たしかに相手の顔を見る時は、普通は目を見るでしょうし、普通は両目を見るでしょうね。でも両目となると実物の眼を表す(外延-カテゴリーの成員を表す)ことになるので、Cでは使えないと思います。A, B, Cの構文は部位を表現するためのものであって、実物を表現するためのものではないと思うのです。いかがでしょうか。 ⇒仰せのとおりと思います。つまり、このときの「-s」は、dualであることを示すために付されただけで、複数化するためにつけたものではないと考えられるからです。この場合の-sの付加は、強いて言えば、「同一部位の亜種であることを表現するため」とでも見なして差し支えない、と考えてよいのではないでしょうか。 @He took me by the right arm. というような文を見かけます。 take a person by the Xの形なのでXは部位だと思うのですが、この場合、right armはarmという部位に対する下位レベルの部位と解釈すればいいのでしょうか。(うまく言えません) the right armはthe armの外延でもあり、かつ自らがカテゴリーを表しているかの見えます。ちょうどarmがbodyの外延でもあるし、同時にカテゴリーでもあるのと同じだと思うのです。もしそうであるならHe took me by the right arm. は部位を表す文として的確だということになります。いかがでしょうか。 ⇒これも上記と同じ「部位の亜種」(「下位レベルの部位」も大差ないと思います)と見なしていいと思います。すなわち、arm, arms; the right arm, the left armはすべてarmの部位的亜種であり、さらには、finger, fingers; thumb, index finger, middle finger, ring finger, little fingerなどもすべてfingerの部位的亜種である。言い換えれば、「それぞれが環境に応じて互に相補分布する異形態素同士である」と言えるだろう、と考えます。 @以前の投稿<原形動詞はカテゴリーか実体か>において<基盤>についてお話ししましたが、その際に記述を間違えた個所がありますので訂正しておきます。 <同様に、経験論的な説明方法の場合は、<世界(環境)にもともと備わっている理性的秩序が働く>ことが基盤だと言えます。そのおかげで、自然法則の一切がどの場所においても、どの時点においても成り立つわけです。ヒュームは斉一性と呼んでいました。> ヒュームではなく、J. S. ミルです。失礼しました。 ⇒ご丁寧な訂正のご報告、痛み入ります。委細了解しました。半世紀ほど前にハットンという人も地質学分野で「斉一性」を主張していたようですね。ともあれ、いわゆる「外挿部」に対する推測・洞察が可能になるのも、ひとえにこの「斉一性仮説」あってのことですよね。 この術語に限らず、また、今回の「部位カテゴリー間の限定は弱い限定か」に限らず、いつもいろいろな観点から刺激を与えてくださり、ありがとうございます。感謝申しあげます。
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- Nakay702
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「部位カテゴリー間の限定は弱い限定か」+α(逸脱)+β(まとめ) について、以下のとおりお答えします。 @以前から問題意識を持っている英文で次のようなものがあります。 A: He took me by the arm. B: He patted me on the shoulder. C: He looked me in the eye. A,B,Cのそれぞれにおいて、場所を表す前置詞の後に定冠詞と部位の表現が続いています。ところが、armもshoulderもeyeももともと二つ存在するものなのにaがついていません。また、二つ存在するうちの一方が特定される場面でもないのにtheがついています。これはどういうわけでしょうか。私の説明を提示します。おかしいと思うことがあればご指摘下さい。説明の際は、話を簡単にするためにAだけを取り上げます。 ⇒「arm, shoulder, eyeなどは、もともと二つずつ存在するものなのにaがつかない。また、二つ存在するうちの一方が特定される場面でもないのにtheがついている」は、実におっしゃるとおりですね。そこで、これをちょっと展開して周辺を見ると、arms, shoulders, eyesは通常複数形とさますが、こだわって区別すれば、これらはpluralでなくdualですね。その証拠に、「両~」と言うとき、例えばsome armsとは言わずに、both armsと言います。これに対して、例えば、some fingersはあり得ます。この違いはarmsがdualでfingersがpluralである、ということに他ならない、ということでしょう。「部位カテゴリー間の限定は弱い限定か」と関わりあることか否かは分かりませんが、ちらと頭をかすめましたので付記しました。 @おそらく暗黙の前提として、armには不可視のof the bodyという限定がかかっていると思います。bodyはmind又はsoulとセットになって枠組みを構成するものですが、文中で使われる時はtheがつきます(枠組みを構成するデフォルト要素だから、あるいはもう一つの要素との対立関係から特定化されるため)。bodyを上位概念としたときの下位概念として存在するのが部位だと思います。部位は通常はA,B,Cなどのような文において、場所を表す前置詞(in, on, byなど)と共に使われることが多いようです。それ以外の位置でも使われます。Aにおいてはarmが部位としてとらえられていて、実物(右肩と左肩)の存在は考慮に入れられていません。聞き手にとってどの部位なのかがわかればいいのであって、部位のうちのどちら側かは関心の対象にならないためにAのような構文が使われたとのだと思います。/部位という概念的な言い方を避けてカテゴリーの成員(実物・外延)を文中で表そうとすれば、場所を表す前置詞句以外の語句内で使われるようです。例えば、A: He took me by the arm. はHe took my arm(s). と言えます。 次に定冠詞が使われる理由を挙げます。可視化されないof the bodyは下位概念であるarmというカテゴリーを限定することはあっても、armというカテゴリーの成員(実物)を直接限定することはないと思います。各部位はof the bodyによる限定によって一つに決まるので定冠詞がつきます。 部位は、head, shoulder, arm, hand, neck, foot, leg, など----内蔵器官も含めるとたくさんありますが、部位の集合要素のうちでarmはデフォルト要素として特定のものであるからという理由でtheがつくとも言えそうですが、これは<各部位はof the bodyによる限定によって一つに決まる>を言いかえたものにすぎません。 ⇒head, shoulder, arm, hand, neck, foot, legなどをbodyの下位概念として見るほかに、カテゴリーの成員としてみることもできるわけですね。了解です。またまた、列挙なさったこれらの成員をよく見ると、eye, shoulder, arm, hand, foot, legのように「対をなす」ものが多いですね。これらの+s 形は、pluralというよりむしろdualであると上述しましたが、関連してさらに深入りしますと、これらはすべて「キラル系」*であることに気づきます。我々は普段無意識のうちに、例えば、右手と左手は同じものだと思っています。しかし、ほんの少し突っ込んで考えると、そこには自然認識の変更を迫る(かも知れない)ような要素があることに気づかされます。 *まとめと関連しますので、最後でまた取りあげます。 @Aのthe armは可視化されないof the bodyによって限定されています。この時の限定は、the (right) arm he broke last yearにおける関係詞節による限定より弱いと言えそうな気がしますがどうなのでしょうか。関係詞節による限定は外延(部位というカテゴリーの成員)に対するものです。of the bodyによる限定は部位(カテゴリー)に対するものです。つまり、限定の強さは、カテゴリーの成員に対する時の方が、カテゴリーそのものに対する時より大きいと言えるのかというのが私が知ろうとしていることです(もしかしたら限定の強さというより、限定の深さあるいは指示対象に対する拘束力の強さと言うべきなのかも知れません)。もしかすると、部位(カテゴリー)に対するof the bodyによる限定とカテゴリー成員に対する(関係詞節などによる)限定はそもそも位相の異なるものなので、両者の限定力の強さを比べることにそもそも意味がないのでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。 ⇒お説のとおりと存じます。つまり、of the bodyによる限定は「部位限定」あるいは「潜在的限定」、すなわち、語彙選択に伴う限定であり、いわば「誘因」の類ですよね。それに対し、関係詞節による限定は「カテゴリー限定」あるいは「作為的限定」、すなわち、構文決定に伴う限定であり、いわば「動因」の類ですね。ということで、有り体に自然の状況から言って、前者は「弱いけれども安定して持続する限定能」を持ち、後者は「強いけれども常に(発話ごとに)変動する一時的な限定能」を持つ、と解釈するに不都合はないと思います。以下では別の観点からまとめます。 先にちょっと触れましたが「キラル」とは何でしょう。 「キラル」(chiral):字義的には、「実像と鏡像が重ね合わせられない性質」をいい、eye, shoulder, arm, hand, foot, legなどはすべてキラルな実体を持つ。実像と鏡像とが重ね合わせられないので、例えば、右手の鏡像は右手としては写らず、左手のように見える。反意語は、アキラル(achiral)で、face, head, neckその他内臓、また体の部位に限らず多くの事物はアキラルである、と言えます。 私がなぜこんなことにこだわるかといいますと、このchiralityがいわゆる「二項対立」の、ひいては自然存在や生成変化現象の原理とも言えるように思えるからです。宇宙の特定域(ブラックホール近傍など)で盛んに起こる「クオークと反クオークの対生成と衝突による対消滅」、「超粒子のparityの非保存」(ヤン教授のノーベル賞)はすべて、「+と-」、「ヘテロ」という二項対立の雛形のように見えます。この二項対立の二項の各要素は、互に相手と組み合わさってはじめて本来的な意味での存在が可能となり、相手がなければ十全な存在性を発揮できない「片割れ」のようなものです。そして、これが自然界のキラル的存在の基本的パターンと言えるように思います。 言語の分野では、以前ちょっと触れましたように、名詞の性や数、冠詞や指示詞、接辞の体系など幾つかの現象は、二項対立(とその連続)がその基本となって成り立っているように見えます。そして、そう考えると、より整然と体系づけられるような気がします。一見鼎立しているように見えるものでも、その本質をよく考えると、やはり二項対立の連続になっていると解釈できる場合もあります。自然界には、おそらく、鼎立しているものはなく、鼎立していると見えるものがあるとすれば、それは非自然ないし人工物で、例えば、その代表がヘーゲルの『精神現象論』などです。 さて、以上は私の好みと気まぐれによる脱線でした。ようやくここで本件との関わりに触れますが、限定詞の体系を二項対立の連続として整理してみたいと思います。まず、大限定詞があって、その中で「φ」と「限定詞」が対立、この後者の中で「冠詞」と「冠詞以外の限定語」が対立、この後者の中で「指示詞などの限定形容詞」と「一般の形容詞」が対立、この後者の中で「語句による限定」と「節による限定」が対立する、という解釈です。それを「二項対立の連続式」に表せば、《大限定詞:【φ限定:限定詞{冠詞:冠詞以外の限定語〔指示詞などの限定形容詞:一般の形容詞(語句による限定:節による限定)〕}】》という格好になります。ここで、私の結論です。それは、「この式の、後ろの方の要素ほど限定する力が強くなることを示す」ということです。もしそうだとすれば、これをもって、「部位の限定は、関係詞節による限定より弱いと言えそうな気がします」というお説を支援できる、と考えた次第です。
お礼
ありがとうございました。
補足
回答ありがとうございました。 pluralでなくdualだとのことですが、確かにその言い方の方が正確ですね。 <of the bodyによる限定は「部位限定」あるいは「潜在的限定」、すなわち、語彙選択に伴う限定であり、いわば「誘因」の類ですよね。それに対し、関係詞節による限定は「カテゴリー限定」あるいは「作為的限定」、すなわち、構文決定に伴う限定であり、いわば「動因」の類ですね。ということで、有り体に自然の状況から言って、前者は「弱いけれども安定して持続する限定能」を持ち、後者は「強いけれども常に(発話ごとに)変動する一時的な限定能」を持つ、と解釈するに不都合はないと思います。> -納得です。 <二項対立の二項の各要素は、互に相手と組み合わさってはじめて本来的な意味での存在が可能となり、相手がなければ十全な存在性を発揮できない「片割れ」のようなものです。そして、これが自然界のキラル的存在の基本的パターンと言えるように思います。 言語の分野では、以前ちょっと触れましたように、名詞の性や数、冠詞や指示詞、接辞の体系など幾つかの現象は、二項対立(とその連続)がその基本となって成り立っているように見えます。そして、そう考えると、より整然と体系づけられるような気がします。一見鼎立しているように見えるものでも、その本質をよく考えると、やはり二項対立の連続になっていると解釈できる場合もあります。自然界には、おそらく、鼎立しているものはなく、鼎立していると見えるものがあるとすれば、それは非自然ないし人工物で、--> <chiralityがいわゆる「二項対立」の、ひいては自然存在や生成変化現象の原理とも言えるように思える> ---とのことですが、そういえばそういう気がしますね。私は、これまで「二項対立」の源はソクラテスひいてはプラトンやアリストテレスの提唱する対話術から(あるいは人間がもともと両性具有だったとする神話から)きているものと思っていました。新たな知見を授かり感謝しています。 -私は以前から二項対立という現象に興味を持っているので、上記に記された御卓説は大いに参考にさせて頂きます。 ところで、「対立」という現象を見て取るのは認識主体である人間です。人間が対立という現象をどこまで確実なものとして把握できるかという問題があります。すなわち、集合の要素が多ければ対立関係を把握するのは不可能です。また、複数の要素が共通の上位概念を持っていなければ対立を認識することはありません。 ですから、共通の上位概念を抱く下位概念の数が少ない時に対立が認定されるのだと思いますが、「二項対立」がもっとも明白な対立関係であることは言うまでもないことです。ですから、多項対立がすべて「二項対立」に還元されるのではないかと考えたこともありました。 例えば、{north, south, east, west}のそれぞれが対立するなどとということはなく、実際にはeastとwestが、northとsouthが対立しているにすぎないと思います。では、{morning, afternoon, evening}の場合はどう考えればいいのかということですが、もともとはbefore-noonとafter-noonがあったのであって、その後after-noonがafternoonとeveningに分化したのではないかと考えたりしたことがありました。もちろん、実証的な検証手段を持たないので、このような発想にうつつを抜かすことはやめてしまいました。 でも、「二項対立」という考え方は、人間の生活における非常に実践的なあり方だという気がします。実際、欧米の人たちは議論を進める時にこの図式を採用することが多いようですね。人間の思考を安定させるだけでなくよりよい発展を促すものでもあると思います。 <限定詞の体系を二項対立の連続として整理してみたいと思います。> -うまく整理されましたね。よくわかりました。ありがとうございました。 実は、もう一つ聞きたいことがあります。C: He looked me in the eye. において、複数のeyesも使えるというネイティブがかなりいます。そうした記述が冠詞の解説書の一部にも見られます。たしかに相手の顔を見る時は、普通は目を見るでしょうし、普通は両目を見るでしょうね。でも両目となると実物の眼を表す(外延-カテゴリーの成員を表す)ことになるので、Cでは使えないと思います。A, B, Cの構文は部位を表現するためのものであって、実物を表現するためのものではないと思うのです。いかがでしょうか。 もう一つあります。He took me by the right arm. というような文を見かけます。 take a person by the Xの形なのでXは部位だと思うのですが、この場合、right armはarmという部位に対する下位レベルの部位と解釈すればいいのでしょうか。(うまく言えません) the right armはthe armの外延でもあり、かつ自らがカテゴリーを表しているかの見えます。ちょうどarmがbodyの外延でもあるし、同時にカテゴリーでもあるのと同じだと思うのです。もしそうであるならHe took me by the right arm. は部位を表す文として的確だということになります。 いかがでしょうか。 さらにもう一つ。以前の投稿<原形動詞はカテゴリーか実体か>において<基盤>についてお話ししましたが、その際に記述を間違えた個所がありますので訂正しておきます。 <同様に、経験論的な説明方法の場合は、<世界(環境)にもともと備わっている理性的秩序が働く>ことが基盤だと言えます。そのおかげで、自然法則の一切がどの場所においても、どの時点においても成り立つわけです。ヒュームは斉一性と呼んでいました。> ヒュームではなく、J. S. ミルです。失礼しました。
お礼
再度の回答ありがとうございました。 <多項対立がすべて「二項対立」に還元され得ることも確かでしょうね。さらに付け足せばこの「二項対立」の図式化は、まさに「人間の思考パターンの基本構造」ではないかと思います。例えば、「今日はステイホームしようか、友人に会いに出かけようか、映画を見に行こうか」というようには考えないものですよね。「今日はステイホームしようか、出かけようか」をまず考えて、出かけようと決心した場合には、しかる後に「友人に会いに行くか映画を見に行くか」を考えますよね。こういう考え方の手順は、いわば「2進法」であって、その意味では、我々の脳細胞(の思考様式)も原理的にはパソコンの基本構造と同じ、ということなのかも知れませんね。> 全く同感です。「二項対立」が「2進法」に相通じることもその通りだと思います。どちらもbinaryという語が使われますよね。 その他の「二項対立」のお話も大変勉強になりました。 「部位の亜種」についても納得しました。 なお、「二項対立」とかかわることで質問したいことがいろいろあるのですが、それはもっと先に延ばすことにして、「二項対立」と少しだけ関わっているかもしれないことを次回の質問テーマにするつもりです。 例えば、The boy was made to stand, as punishment, in a / the corner of the classroom. において、aはもちろん文法的にOKですが、theの方もOKでこの方が使用頻度が高いのですが、なぜそうなのかという質問です。部位の問題とパラレルに扱えそうな気がしたので、これを次回の質問投稿とします。よろしければ、また回答をお願いします。 どうもありがとうございました。