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無冠詞とゼロ冠詞について
- 英語の無冠詞とゼロ冠詞についての独自見解について説明します。
- 数えられるものと数えられないものの区別があり、限定詞が使われます。
- 抽象概念や固有名詞の取り扱いについても考察します。
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(その3) @<「意味機能の総計」をSとし、「内包」をCとし、「外延」をDとし、「補集合」をS'とし、「空」をφで表すことにします。そうすると、これらの要素の関係は《S=C⋃D、C=D、S'=φ》という等式で表すことができます。つまり、John Smithの意味機能(概念)については、内包と外延が同じ内容と大きさを持ち、両者がダブって、ピッタリ重なっている構造を読み取ることが可能です。> ⇒例えば、bookとbooksの違いは単なる数の違いですが、John Smith(固有名詞)とa John Smithや John Smiths(普通名詞)の違いにはそれ以上のものがあります。一般にはこれらの固有名詞と普通名詞が一緒に扱われることがよくありますが、こと意味機能(概念)の考察分析に際してはよく峻別して、特に「固有名詞の意味世界は特異な独立閉鎖空間」として扱うことが必要です。ということで、ゆめゆめ固有名詞と普通名詞を混同しないように、これらをごっちゃにして扱うととんでもない勘違いが起こる、ということをカッコよく表現したつもりでした。しかし、確かに、ちょっと、いや、かなりお粗末でしたし、間違いもあったと思います。恥ずかしながら、この段に関しては前言を取り下げさせていただきたく思います。どうも失礼しました。 @固有名詞の問題を考えるにあたって必須だと思えるのは言語行為論的な考え方だと思います。名づけという行為においては、例えば、John Smithについて言うと、John Smithという語全体が実物との間で直接的な結びつき(1対1対応)を得ます。ですから、John とSmithに分解し、Smithがfamily nameとして概念を持つというふうな分析は無効です。 Nakayさんが示された構造解析ですが、これは名づけ後に単独で客体的に取り出されたJohn Smithについての分析です。John Smithは実物結びついているものなので、それだけを切り離して解析するといったことが固有名詞の考察に資するところがあるのかなと少し疑問に思います。 ⇒お言葉ですが、私はJohn SmithをJohn とSmithに分解したり、Smithがfamily nameとして概念を持つという風に考えたりしようとしたことなど全くありません。構造解析も、名づけ後に単独で客体的に取り出されたJohn Smithについての分析をする意識も毛頭ありあません。むしろその逆で、"John Smith"と発話された場合の、発話者が意図した意味を分析したつもりです。その際特に警戒すべきは、固有名詞と普通名詞を混同したりまぜこぜにしたりする誤謬に陥らないように配慮することでした。 There are two John Smiths in this class. におけるJohn Smithsは、固有名詞のJohn Smithの複数形ではありません。それはむしろ a bookをtwo booksとしたのと同じ扱いをすべき普通名詞の複数形です。普通名詞としてのJohn Smithsには、複数の外延があり、それらの共通項である内包を持ちます。他方、固有名詞としてのJohn Smithにも複数の外延があり、それらの共通項である内包を持ちますが、特にその外延は(あるにはありますが)わずかで、多様性に欠けるとは言えるでしょう。 @解析の対象が普通名詞であれば、実物とは直接的な結びつきを持たない(概念を通してしか結びつきを持たない)ので解析は有効だと思います。それに、解析にあたって、(「内包」をCとしています)すでに内包が間違いなく存在することが前提されているのではありませんか。そもそも内包がないものの場合は、構造解析においては内包Cが存在しないモデルを採用すべきなのではないでしょうか。名づけ行為としてとらえるなら、John Smithに関するいかなる分析も無効ということになります。もちろん、固有名詞を論ずるにあたってもっとも有益なのは名づけ行為としてとらえること(私だけが採用している考えではありませんが)だとするのは、一つの考えでしかありません。このように語用論的な発想ですべて推し進めてよいものか断定はできません。考え方の違いは、John Smithを指示対象と直接的な結びつきを持つものととらえるか、John Smithを名づけ行為が終わった後の、1個の客体物としてとらえるかということだと思います。だからこそ、いまだに固有名詞が内包を持つかどうかで論争が続いているのだと思います。 ⇒ぶしつけな言い方ですみませんが、私はこの問題の考察に「名づけ行為」の類を持ち込むことには全くなじめません。固有名詞の概念を考えるのに名づけ行為を持ち込むのは、おそらく哲学的言語学や認識論などの手法であって、言語体系や文法を考える際にはまったく関知しない事柄だと思います。共時言語学内の文法論としては、現有言語状況を如何に矛盾なく体系化できるか、ということが最重要課題のはずですから。 @結局は、我々一人一人がどういうスタンスを持つかということで決まることだと思います。ですから、Nakayさんのおっしゃることも尊重したいと思います。今回は、Nakayさんとの間で考えが大きく異なりましたが、それはそれでいいと思います。Nakayのコメントを頂いた上で、このthreadをクローズするかどうかを決めたいと思います。今回もご意見ありがとうございました。 ⇒お互いの意見交換は楽しいのですが、同じようなことを考えていても、今回もまた使う用語の関係で誤解が起こりやすいことを実感しました。feedersさんがおもにparadigmをコーパスとする哲学的言語学の手法を駆使なさるのに、私はパロール的なsyntagmをコーパスとする言語体系論的語用論に漬かっているので、feedersさんの発想に追いつけない面があったかも知れません。この点、お詫び申しあげます。 有名なフロイトとユングは同じような精神分析に携わりながら、お互いの話はあまり噛み合わなかったそうですね。後になって分かったことらしいですが、フロイトは神経症に、ユングは分裂症にそれぞれ強い親近感を抱いていたから、というのがその理由だったそうです。偉人たちに並ぶつもりではありませんが、ちょっと似通った状況があるのかな、と思いました。ともあれ、今回もいろいろ刺激を与えていただき、よい勉強ができました。どうもありがとうございました。
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- Nakay702
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再三の補足をありがとうございました。 @内包を持たない固有名がどのようにして対象を指示することができるのかということと関係して 命名行為がクローズアップされるわけですが、その考えも相当に批判にさらされているようです。調べたところ、随分と議論が進展(?)していました。新たな理論も登場しています。 ⇒Nomenclatureをめぐる考察は、通常の記述文法とはあまり関係しないとは思いますが、それだからといって、「名づけ行為」問題について考察することに意味がないわけでは決してありませんからね。おっしゃるように存在論や認識論哲学にとっては重要な検討課題でしょうし、議論百出で、なかなか結論や定説にたどりつかないかも知れませんが、それはそれでよしとしなければならないことでしょう。結論を出すことよりむしろ、議論のプロセスに大きな意味がある、と言えるかも知れませんね。 @John Smithの持つ内包の核をなすものがperson named John Smithであって、その他の性質は内包の周縁部分だと言えばいいのでしょうか。 ⇒John Smithの持つ内包の核は、発話者の意図した「John Smithという名の特定人物」で、それ以外のこと、すなわち、「個人名+姓、男性名、英語圏の人、ラテン語のJohannesに当たるもの…」などはすべてその外延である、ということではないでしょうか。 @John Smithの普通名詞用法についても触れさせて頂きます。a person named John Smithがa John Smithの意味のすべてであると言ってよいのでしょうか。つまり、意味の核がa person named John Smithであって、意味の周縁部は存在しないということでしょうか。 ⇒よく分かりませんが、a person named John Smithがa John Smithの意味の「すべて」であるとは言えないかも知れません。ある機会にa John Smithという語句が発せられたとすればそれは、a person named John Smithのほかに、例えば、 one of John Smiths / one of the persons called John Smith (例:Today one of John Smiths is absent.) a person who calls oneself John Smith / who has the name of John Smith (例:A John Smith came to see you.) a person like John Smith (例:I want to be a John Smith / an Abraham Lincoln.) an artistic piece / a product of John Smith (例:I have a John Smith / a Picasso / a Benz.) などの意味を表す可能性がありますよね。ただ、すみませんが、どれが中核的な意味でどれが周縁的な意味かは分かりません。 @ところで、ゼロ冠詞/ナル冠詞という表記ですが、とりあえず、今後は不可視の冠詞または単に無冠詞という言い方を採用することにします。 ⇒そうですね、ゼロ冠詞・ナル冠詞の峻別自体がやや曖昧ですから、今のところは暫定的に単に不可視の冠詞または無冠詞と呼んでおくのが無難かも知れませんね。そして、中味を2つに分ける必要性に直面した場合に過去のデータを紐解き、新たな考察・分析に着手することにしてもいいわけですから。 @Nakayさんの長文の回答に対して重ねて感謝の意を表明します。 ⇒こちらこそ、有意義な対話の数々をご提供してくださったことに対し、感謝申しあげます。いろいろありがとうございました。
お礼
--今回は大変お世話になりました。感謝しております。 次回の質問は<概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合について>です。差し支えなければ、またよろしくお願いします。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12512)
(その2) @ゼロ冠詞の考え方が他の人たちと異なるようですね。<羊が複数の場合の(…)、sheepの前にφを置いてThere areφsheep …と分析します。この場合のφを冠詞の異形態(不定冠詞複数形相当)すなわちゼロ冠詞と見なします。>-ということは、ゼロ冠詞は複数名詞に対してのみ限定詞の代りにつけられるということでしょうか。 ⇒相補分布の観点から、「冠詞(の異形態)があるはず」と見られる場合、そこにゼロ冠詞を想定します。ということで、仰せのとおり、ゼロ冠詞は複数名詞に対して限定詞の代りにつけられると見ますが、それだけかどうかは明らかではありません。例えば、Say hello to φMr. Smith. のように、人名を表す固有名詞に敬称をつけ、しかも呼びかけでなく第三者として扱う場合、ゼロ冠詞が想定されるかも知れませんが、断定はできません。少なくとも言えることは、上述のとおり、ゼロ冠詞は言語体系に素因がある、すなわち、言語体系のひずみがある場合にそれを補おうとする「自然治癒の手当て」を要請するもの(という解釈)ですので、いずれ言語体系内に、例えば新しい不定冠詞複数形が出現するという可能性がある、そういう推測が成り立つ、と言えるかも知れません。 @ただ一人に限定されるJohn Smithがなぜ意味だと言えるのでしょうか。(…)ただ一人に限定されるのはそれが唯一存在する実物だからだと思います。唯一存在する実物がなぜ意味なのでしょうか。私にはJohn Smithは単なる符丁(音と文字だけを持つもの)のようにしか思えません。 ⇒「John Smithは単なる符丁」と仰せですが、それを言うなら、「言葉はすべて符丁(記号)」でしょう。また、「音と文字だけを持つもの」と仰せですが、例えば、My cousin John Smith comes soon.のJohn Smith(普通名詞でなく固有名詞)は音と文字しか持たない、つまり、無意味なシミのようなものでしょうか。 ソシュールは、概念と聴覚映像との結合を記号と呼び、概念と聴覚映像はそれぞれ所記(signifié)、能記(signifiant)と言い換えられると言いました。記号は、能記すなわち、書かれたもの・発せられたものと、所記すなわち、表象されたこととを結びつけます。つまり、記号は単独で何らかの概念・意味を宿し得るということでしょう。例えば、(He is) John Smith. と聞いたとき、その中のJohn SmithについてイメージすることそのものがJohn Smithの意味だと言えます。人によって様々なイメージ(外延的聴覚映像)を抱くかも知れませんが、その最大公約数(すなわち、共通する内包的聴覚映像)がJohn Smithの意味です。早い話、John Smithと聞いて誰もがイメージすることがJohn Smithの意味と言えます。例えば、「それは個人名+姓だろう。男性名だろう。英語圏の人のものだろう。ラテン語のJohannesに当たるものだろう…」等々、これらの全てがJohn Smithの意味(外延)だと言えると思います。意味をもたない「シミ」は記号でも符丁でも、ましてや語でもありません。「外延を比較したとき、個体概念(individual concept)と一般概念(general concept)に分けられるが、John Smithのような固有名詞の意味(外延)は前者である。これは1つの事物にしか適用されえない概念で、単独概念(single concept)とも言う」(『哲学辞典』参照)。 @内容がはっきり決められているというのはどういうことでしょうか。John Smithにどのような内容があるのでしょうか。(内容は意味を表すものです) John Smithは唯一の実物を示すただの符丁に過ぎないと思います。John Smithは何ら属性を示すものではないと考えます。 ⇒岩波『国語辞典』からの引用ですので、断言はできませんが、「内容がはっきり決められている」とは、John Smithの内容(意味)が、上述のような「英語圏の人の個人名+姓、男性名など」の言辞をもって「決められる」ということではないかと思います。さらに、「無変化名詞として、呼格・主格・目的格・補語のいずれにもなる」というようなことも内容の一部と言えるでしょう。〔その点、例えばラテン語では、固有名詞Johannesは主格で、対格(目的格)はJohannemとなりますので、Johnの場合とは違う内容が想起されることでしょう〕。いずれにせよ、この固有名詞John Smithは、paradigm(連合体、語彙一覧中の一要素)でなく、syntagm(統合体、構文中の一要素)と見ることを忘れてはならないと思います。 @John Smithはそれがどのような性質と特徴を備えた人間であるかを一切語っていないと思います。前後の文脈なしで使われた場合、John Smithは人名かも知れませんし、船や店の名前かも知れません。それが何の名前であるかがわかるのは、文脈を添えられたり、Mr. がつけられたりしてのことです。 John Smithが属性を持つとすればこういう場合だと思います。 ⇒「前後の文脈なしで使われた場合、John Smithは人名かも知れませんし、船や店の名前かも知れない」ことは確かですが、しかし、それはparadigm上で考えた場合で、実際は、それが人名であれ船や店の名前であれ、ある時ある人が発したsyntagmのJohn Smithとしては、特定のJohn Smithが意図されているわけでしょう。だとしたらそれは、明らかに特定の性質や特徴を備えた人間または船や店のことを指していることは明らかです。paradigm上のJohn Smithは超時空的で抽象的ですが、syntagm上のJohn Smithは時空限定的で具体的です。何ら修飾限定語句が添えられなくても、単独で自前の属性を伴っています。言葉は何より伝達の具であることに鑑みれば、いかに微妙な冠詞問題といえども、意味との関連で分析考察するにしくはないと思います。 @John Smithと知り合いのある人が、ある時、別の同名のJohn Smithの出会ったとすると、この時、This John Smith is quite different from the John Smith I know. と言えます。つまり、この文ではJohn Smithは普通名詞化しています。This John Smithとthe John Smith I knowとは共通の属性と相異なる属性を持っていることになります。この場合においてのみ、John Smithは内包を持ちます。ただし、もともとの知り合いのJohn Smithと新たに知り合ったJohn Smithは別個の固有名詞ですから内包を持ちません。 ⇒普通名詞化したJohn Smithが内包を持つことは今更云々するまでもありませんが、すでに見たとおり、固有名詞のJohn Smithも(語彙一覧中のでなく発話体中のJohn Smithとしては)自前の内包を持つと言えます。すなわちそれが、既述の個体概念(単独概念)と言われるものに相当すると考えます。「もともとの知り合いのJohn Smithと新たに知り合ったJohn Smithは別個の固有名詞」ですから、まさにそれゆえに、発話者の心中では別個の内包を持つので、それが当人のJohn Smithなる言葉の陰に添えられていることになるのではないでしょうか。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12512)
再々度の補足を拝見しました。以下のとおりお答えします。 回答の全文が8000字を越えます。字数制限の関係で3つに分けてお答えします。 (その1) @Nakayさんの考えも私の考えもそれなりに合理的な整合性があれば、それで問題はないと思います。ゼロ冠詞とナル冠詞のどちらを選択しても、所詮は冠詞のない状態を表現できるわけですから。 ⇒はい、私も合理的な整合性があれば問題はないと思います。そして、その考え方が包括的で(疎漏がなく)、かつ経済的な(無駄がない)説明であればさらに問題は少なくなって、理想形により近づきます。その意味で、このような論争は有益ですね。 @Water is a clear pure liquid. という文においては、カテゴリーを表すものであって実体ではありません。概念は文中でカテゴリーを表す場合に限って、(限定詞なしで)そのまま語彙として使われる資格を与えられていると考えるしかありません。ただし、概念には必ず限定詞をつけるべきだという考えを採用する時、不可視な冠詞がついていると考えるしかありません。そういう考えに沿ってつけられたのがゼロ冠詞だと思います。 ⇒仰せの定義づけ、分かります。ということは、お互い「カテゴリー(部類)とするか内包(質)とするか」、「ゼロ冠詞の範疇とするかナル冠詞の範疇とするか」という区分方法の違いがあるだけで、同じことを同じように扱っている、少なくとも取組姿勢は同じ、ということでしょうね。 ただ、「カテゴリー/質を表す場合にゼロ冠詞(ナル冠詞)を使う」と言う時のカテゴリーと質を比べると、手前味噌ながら質の方が汎用性は高いと思います。なぜなら、質(人・物がそれとして存在するもと)はいかなる名詞にも適用され得ますが、カテゴリーは適用できない場合がある(例えば、固有名詞には適用できない)と思われるからです。また、逆からも言えるかというと、カテゴリーには制約があると思われます(必ずしも「カテゴリーを表す場合、無冠詞になる」とは言えない)が、質には制約がかからない(「質を表す場合は無冠詞になる」と言える)からです。 @名前の場合、その指示対象が唯一のものであるということが冠詞を取らないということによって反映されているのが普通であるが、「冠詞を取らない」ということは「ゼロ冠詞」と同じことではないという点は十分に理解しておく必要がある。 (…)I like Freda. と I like music. とでは二つの名詞はいずれも冠詞を伴っていない点で似ているように見えるが、これは見せかけにすぎない。前者には冠詞がないが、後者にはゼロの冠詞がある…。 ⇒I like Freda. とI like music. について、「Fredaには冠詞がないが、musicにはゼロの冠詞がある」との説明は納得しにくいです。では、I like music.(質)がI like the music.(総称)と同じだと言うのでしょうか。私の考えでは、どちらの場合も言語使用者が発話の際に自分の知る音楽の「質」を抽出するために敢えて冠詞を排除しているのだと解釈します。よって、Fredaもmusicもナル冠詞のつく例だと思います。そして、Fredaは常にナル冠詞つきで、musicは時にナル冠詞つきで用いられる、と言えると思います。 @Chesterman (1991) はFido likes cheese. において、Fidoとcheeseのどちらにもゼロ冠詞が使われているが、 Fidoが定表現であるのに対してcheeseは不定表現である。ゼロ冠詞が定表現と不定表現の両方につくのはおかしいと主張し、固有名などと共起できる冠詞をnull冠詞だとしました。彼はクワークと同様に量状名詞と複数名詞につくのはゼロ冠詞だとしています。 ⇒定表現であるか不定表現であるかによって、ゼロ冠詞・ナル冠詞の振り分けをする…、つまり、冠詞がつく「名詞の内部差」によって無冠詞の区分をすることになりますね。用法の違いでなく、共起する語の「出自」の違いによって無冠詞の篩い分けしているように感じます。これにどれほどの意義があるのか、私には分かりません。ほとんど前項で述べたことの反復ですが、ここで問題とすべきは、意味の内包や外延に関連することであると考えます。Fido likes cheese. なる表現と並んで、例えば、Fido likes John. とも言うし、Cheese is the best for Fido. とも言えます。ということはやはり、Fidoもcheeseも「質」を表すために冠詞を排除している。ゆえにこれも、固有名詞・普通名詞の別に関係なく、ナル冠詞のつく例である、というのが私の解釈です。 @冠詞のない状態が2種類あることについては他にも指摘する人がいます。ただし、go to churchやby trainにおける無冠詞状態がどちらの無冠詞なのかについては意見が分かれているようでした(…)。私としては、go to churchやby trainといった内包用法はゼロ冠詞の働きだと思うのですが、ともあれ、ゼロ冠詞とナル冠詞を区別すべきだという点では彼らと同感です。 ⇒ゼロ冠詞とナル冠詞を区別すべきだという点では私も共感しますが、Water is a clear pure liquid.のWater をカテゴリーと呼ぶなら、Fido likes cheese のcheeseもカテゴリーではありませんか? 私は、しつこくて済みませんが、Water、Fido、cheeseもchurch、trainも、すべて「質」を表すために限定詞を拒絶していることを表す場面なので、これらのすべてにナル冠詞が充当されると考えます。ところで、見かけたことがありませんので、学習・研究用文法書の解説として「無冠詞の意味」というような1項が欲しいですね。 @このような区別をする際に、わざわざナル冠詞などという名称を作り出さなければならばならないのかという疑問を抱いたので、(…)意見を伺いたいと思ったわけです。ところが、Nakayさんの独自の考えに出会って、どう考えてものかよくわからなくなりました。もちろん、ナル冠詞やゼロ冠詞について独自の考えがあってもいいはずです。 ⇒上で縷々述べましたように、クワークらの主張に基づく基準では、ゼロ冠詞・ナル冠詞の2本立ては文法論としてはあまり有用ではないように思います。少なくとも、区分や定義は再考を要すると思います。冠詞の働きの違いを論ずるために、それが付けられる側の違いを云々して、その違いで冠詞を区分することなどがそれほど意味あることかという疑念が付きまといます。その点、自画自賛で恐縮ですが、私の区分、すなわちゼロ冠詞(=異形態素)やナル冠詞(=冠詞拒絶素)は有用であると自負しています。なぜなら、「ゼロ冠詞は冠詞を要求し、ナル冠詞は冠詞を排除するためのマークである」と説明することができるからです。ゼロ冠詞とナル冠詞の区分のための補助的基準としてはさらに、「冠詞があってもなくても意味に大差が生じない場合はゼロ冠詞、冠詞があるのとないのとでは意味が大きく変わる場合はナル冠詞である。そして、冠詞の欠落している原因が、誘因である(=言語体系に素因がある)場合はゼロ冠詞に、動因である(=言語使用者に素因がある)場合はナル冠詞に対応する」と見ることもできるかと思います。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12512)
補足を拝見しました。 @オルテガの生または生命についての思索は、「生の哲学」の源流であるディルタイ哲学からの影響が大きいと思われますがベルグソンからも影響があったと思われます。現象学に関してはたしかフッサールの教室に講義を聞きに行ったのではないかと思いますが、ハイデッガーの教室に出入りしたことはわかっています。 ⇒哲学関連のご教示ありがとうございました。このように詳しい識見を伺うにつけ、質問者と回答者の立場が逆ではないかという思いに捕われます。その意味では、私ごときが本件に回答するのはおこがましいかも知れませんが、乗り出した船ですから一応先へ進めます。 @Water is a clear pure liquid.におけるwaterも内包のみを表していますから、ナル冠詞がつくということでしょうか。(…)私としては、内包のみを表す場合にゼロ冠詞を使うというふうに考えています。可算名詞複数形の場合は、たとえば I bought potatoes at the store. におけるpotatoesは外延でありながら非常に内包に近い用法です。これもゼロ冠詞が使われる例だと思います。ところが、固有名詞の場合、デフォルト用法の場合、概念(内包)を持たないのでゼロ冠詞を使うわけにはいきません。そこでゼロ冠詞とは別の冠詞が必要とされる。それがナル冠詞である(…)。 ⇒I bought potatoes at the store.におけるpotatoesにゼロ冠詞が使われ、固有名詞にナル冠詞が使われるとする点ではお互いほぼ共通かも知れません。違うのは、私がWater is a clear pure liquid.におけるWaterもナル冠詞がつく例だとしている点でしょう。ここで問題となるのはナル冠詞の定義ですが、まずはその2つの無冠詞、すなわちゼロ冠詞とナル冠詞の区別を明確にしておきましょう。 ゼロ冠詞:これは、私の解釈では異形態(Allomorph)の1つで、「anはaの異形態である」というのと同じように「φは冠詞の異形態である」と考えます。例えば、There is a sheep on the rock.で、羊が複数の場合の表言はThere are sheep on the rock.となりますが、sheepの前にφを置いてThere areφsheep …と分析します。この場合のφを冠詞の異形態(不定冠詞複数形相当)すなわちゼロ冠詞と見なします。 ナル冠詞:これは「冠詞を拒絶するマーカー」のようなものと考えます。例えば、Water is a clear pure liquid./He is John Smith.という時のWaterやJohn Smithは、それぞれ「質」のみを表しています。それぞれの語が質(=内包)を示すために、それ以外のいかなる限定要素(冠詞類)も拒絶する」という表現構造になっていると解釈し、「それぞれνû Water/νû John Smithという形のナル冠詞をつけて、冠詞排斥のための無形の形態的意義素を可視化する」わけです。 @<人→職業人→教師→英語教師>は概念を持つことは自明ですが、John Smithが概念を持つことは不明です。今まさに本当にそうなのかが問われている状況です。よって、上の考えは成り立たないように思うのですがいかがでしょうか。 ⇒私はJespersenの発想とは全く異なる考え方をしているようです。私にとっては、この「John Smithの概念*」については何も悩むような問題があるとは考えられません。ちなみに、概念の辞書的定義を確認してみましょう。 *概念:(イ)同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象。(ロ)対象について、内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な、語の意味。(イ)では共通性の抽象に、(ロ)では明確な限定に、それぞれ力点がある。 ということで、固有名詞John Smithは、少なくとも(ロ)の意味の概念を持つ。その概念は、即内包である。同類のない単体なので、同時にそれは外延でもある。そして用法上の枠組みを広げると、{ John Smith, a John Smith, --- }の、少なくとも2つ以上の外延を持つと考え得る。明確に異なる点の要は、「John Smithなる固有名詞の固有名詞的用法は、単独で概念すなわち1つの内包であると同時に、1つの外延でもある」と考えることです。 集合論の考え方を利用してその構造解析を試みます。「意味機能の総計」をSとし、「内包」をCとし、「外延」をDとし、「補集合」をS'とし、「空」をφで表すことにします。そうすると、これらの要素の関係は《S=C⋃D、C=D、S'=φ》という等式で表すことができます。つまり、John Smithの意味機能(概念)については、内包と外延が同じ内容と大きさを持ち、両者がダブって、ピッタリ重なっている構造を読み取ることが可能です。 @この問題を考えるにあたって必須だと思えるのは言語行為論的な考え方だと思います。(…)1対1対応を行うのは固有名詞以外に、Room 45とかRoute 66というふうに名づけられたものや呼びかけ語("Mother, hurry up.")や呼びかけ語から転じたと思われる近親者名("Mother came home just now.") なども該当すると思います。(…)私としては、今挙げたような名詞にナル冠詞がつくのではないかと考えています。 ⇒ナル冠詞がつく語句の例については大方同感ですが、John Smithが概念を持つものであることをいかにして示せばよいか、という点については見解が異なるようです。私は、(上述のことと関連させて、それに続けて言えば)こう考えます。例えば、ある人が知人のJohn Smithについて何かを言ったとすれば、その人にとって(発話で意図したJohn Smithは)ただ一人に限定されるわけで、それがJohn Smithの意味であり、概念(=ただ1つの内包)であり、ただ1つの外延であるということです。なぜなら、シンタクティックな言葉の意味は、発話にかかって初めて決まり、それだけが唯一無二の意味なのですから。 @もし、固有名詞John Smithに概念があると考えるなら、固有名詞John Smithは普通名詞a John Smithの拡張用法として理解すべきものではないかと考えます。 ⇒「固有名詞John Smithが普通名詞a John Smithの拡張用法として理解すべきもの」と仰せですか、逆ではありませんか。つまり、実態は、「普通名詞a John Smithが固有名詞John Smithの拡張用法としてある」のではありませんか。私の解釈では、固有名詞John Smithは、{ John Smith, a John Smith, --- }の、少なくとも2つ以上の外延を持つと考えます。つまり、上で見たとおり、固有名詞用法のJohn Smithは(内包であると同時に)1つの外延でもありますが、それ以外に普通名詞用法a John Smithなども1つの外延として持つ、と言えます。ということは、もし拡張用法を除外して固有名詞用法のみに枠を絞れば、それは、既述のとおり《S=C⋃D、C=D、S'=φ》という等式によって、John Smithの意味機能(概念)は、「内包」と「外延」を加えたもの(和集合)であるが、かけ合わせたもの(積集合)でもある、と解釈できます。すなわちこれは、「内包・外延、和集合・積集合のすべてが等値になるという稀有な閾値で、物理学でいう特異点、数学でいう極限値のような局面である、ということになります。 @ラネカーは固有名詞は普通名詞と同じくカテゴリー(…)を表し、成員(実例)を一つだけ持つと言っています。ということは、John Smithはa person named John Smithというカテゴリーを表し、その唯一の実例としてJohn Smithが存在することになります。(…)では、普通名詞用法はどうなるのかということですが、そのケースを考慮に入れて、ラネカーは固有名詞の用法を2つに分けています。デフォルトの固有名詞用法と拡張用法としての普通名詞用法です。彼によれば、後者の用法においてはJohn Smithは概念(内包)を持ち、その外延は{a John Smith, a John Smith, a John Smith---}ということになります。 ⇒ラネカーの言うことについては、固有名詞の用法を固有名詞用法と拡張用法としての普通名詞用法の2つに分けることをはじめ、大方異存はありません。ただ、外延の枠組みについてはやはり違いがあると思います。この点は強調したいところですので、要点を繰り返します。《固有名詞John Smithは、1つの概念(内包)を持つが、同類のない単体なので同時にそれは外延である。固有名詞John Smithは、用法上の枠組みを広げると、{ John Smith, a John Smith, --- }の、少なくとも2つ以上の外延を持つと考え得る。忘れてならないのは、John Smithなる固有名詞用法は、概念すなわち1つの内包であると同時に1つの外延でもある》ということです。
お礼
残りです。 <概念の辞書的定義を確認してみましょう。 *概念:(イ)同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象。(ロ)対象について、内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な、語の意味。----- ---ということで、固有名詞John Smithは、少なくとも(ロ)の意味の概念を持つ。> -適用範囲が明確であることは認めます。固有名詞は定表現ですから。ただし、内容がはっきり決められているというのはどういうことでしょうか。John Smithにどのような内容があるのでしょうか。(内容は意味を表すものです) John Smithは唯一の実物を示すただの符丁に過ぎないと思います。John Smithは何ら属性を示すものではないと考えます。John Smithはそれがどのような性質と特徴を備えた人間であるかを一切語っていないと思います。前後の文脈なしで使われた場合、John Smithは人名かも知れませんし、船や店の名前かも知れません。それが何の名前であるかがわかるのは、文脈を添えられたり、Mr. がつけられたりしてのことです。 John Smithが属性を持つとすればこういう場合だと思います。 John Smithと知り合いのある人が、ある時、別の同名のJohn Smithの出会ったとすると、この時、 This John Smith is quite different from the John Smith I know. と言えます。つまり、この文ではJohn Smithは普通名詞化しています。This John Smithとthe John Smith I knowとは共通の属性と相異なる属性を持っていることになります。この場合においてのみ、John Smithは内包を持ちます。ただし、もともとの知り合いのJohn Smithと新たに知り合ったJohn Smithは別個の固有名詞ですから内包を持ちません。 <集合論の考え方を利用してその構造解析を試みます。「意味機能の総計」をSとし、「内包」をCとし、「外延」をDとし、「補集合」をS'とし、「空」をφで表すことにします。そうすると、これらの要素の関係は《S=C⋃D、C=D、S'=φ》という等式で表すことができます。つまり、John Smithの意味機能(概念)については、内包と外延が同じ内容と大きさを持ち、両者がダブって、ピッタリ重なっている構造を読み取ることが可能です。> -固有名詞の問題を考えるにあたって必須だと思えるのは言語行為論的な考え方だと思います。名づけという行為においては、例えば、John Smithについて言うと、John Smithという語全体が実物との間で直接的な結びつき(1対1対応)を得ます。ですから、John とSmithに分解し、Smithがfamily nameとして概念を持つというふうな分析は無効です。 Nakayさんが示された構造解析ですが、これは名づけ後に単独で客体的に取り出されたJohn Smithについての分析です。John Smithは実物結びついているものなので、それだけを切り離して解析するといったことが固有名詞の考察に資するところがあるのかなと少し疑問に思います。解析の対象が普通名詞であれば、実物とは直接的な結びつきを持たない(概念を通してしか結びつきを持たない)ので解析は有効だと思います。それに、解析にあたって、(「内包」をCとしています)すでに内包が間違いなく存在することが前提されているのではありませんか。そもそも内包がないものの場合は、構造解析においては内包Cが存在しないモデルを採用すべきなのではないでしょうか。 名づけ行為としてとらえるなら、John Smithに関するいかなる分析も無効ということになります。もちろん、固有名詞を論ずるにあたってもっとも有益なのは名づけ行為としてとらえること(私だけが採用している考えではありませんが)だとするのは、一つの考えでしかありません。このように語用論的な発想ですべて推し進めてよいものか断定はできません。 考え方の違いは、John Smithを指示対象と直接的な結びつきを持つものととらえるか、John Smithを名づけ行為が終わった後の、1個の客体物としてとらえるかということだと思います。だからこそ、いまだに固有名詞が内包を持つかどうかで論争が続いているのだと思います。 結局は、我々一人一人がどういうスタンスを持つかということで決まることだと思います。ですから、Nakayさんのおっしゃることも尊重したいと思います。 今回は、Nakayさんとの間で考えが大きく異なりましたが、それはそれでいいと思います。Nakayのコメントを頂いた上で、このthreadをクローズするかどうかを決めたいと思います。今回もご意見ありがとうございました。
補足
再々度の回答ありがとうございました。 <違うのは、私がWater is a clear pure liquid.におけるWaterもナル冠詞がつく例だとしている点でしょう。> --とのことですが、この相違は大きな相違ですね。ゼロ冠詞とナル冠詞の考え方も大きく異なるようです。Nakayさんの考えも私の考えもそれなりに合理的な整合性があれば、それで問題はないと思います。ゼロ冠詞とナル冠詞のどちらを選択しても、所詮は冠詞のない状態を表現できるわけですから。でも、せっかくご意見をいただく機会を頂いたわけですから、もう少しこの問題を追究させて頂きたいと思います。 Water is a clear pure liquid. という文においては、カテゴリーを表すものであって実体ではありません。概念は文中でカテゴリーを表す場合に限って、(限定詞なしで)そのまま語彙として使われる資格を与えられていると考えるしかありません。ただし、概念には必ず限定詞をつけるべきだという考えを採用する時、不可視な冠詞がついていると考えるしかありません。そういう考えに沿ってつけられたのがゼロ冠詞だと思います。その場合、結果的に考えると、概念は文中でカテゴリーを表す場合に限って、つまり内包を表す場合に限ってゼロ冠詞がつけられると言うことになります。ゼロ冠詞というのは冠詞がないことを言い表したものですから、ゼロ冠詞の代わりにナル冠詞でもよかったわけです。どちらも同じ意味ですから。 ここでクワーク(現代英語文法大学編1995)のあげているゼロ冠詞の例を紹介します。いろいろあるのですが、私があげたWater is a clear pure liquid. と雰囲気的に近いものを紹介します。Velvet is an excellent materials for curtains. / Coffee is a common stimulant. 彼は冠詞がついていない状態に対して、ゼロ冠詞がついているのだと言いますが、このようにも述べています。 ---名前の場合、その指示対象が唯一のものであるということが冠詞を取らないということによって反映されているのが普通であるが、「冠詞を取らない」ということは「ゼロ冠詞」と同じことではないという点は十分に理解しておく必要がある。--- 別の個所でこうも述べています。 I like Freda. とI like music. とでは二つの名詞はいずれも冠詞を伴っていない点で似ているように見えるが、これは見せかけにすぎない。前者には冠詞がないが、後者にはゼロの冠詞があるのであって、------ 私の知るところでは、ゼロ冠詞と冠詞がそもそもつかないケースとを区別する人がクワーク以外にも結構いるようです。Chesterman (1991) はFido likes cheese. において、Fidoとcheeseのどちらにもゼロ冠詞が使われているが、 Fidoが定表現であるのに対してcheeseは不定表現である。ゼロ冠詞が定表現と不定表現の両方につくのはおかしいと主張し、固有名などと共起できる冠詞をnull冠詞だとしました。彼はクワークと同様に量状名詞と複数名詞につくのはゼロ冠詞だとしています。冠詞のない状態が2種類あることについては他にも指摘する人がいます。ただし、go to churchやby trainにおける無冠詞状態がどちらの無冠詞なのかについては意見が分かれているようでした(20年前に私が調べた時点では)。私としては、go to churchやby trainといった内包用法はゼロ冠詞の働きだと思うのですが、ともあれ、ゼロ冠詞とナル冠詞を区別すべきだという点では彼らと同感です。 ただ、私としてはこのような区別をする際に、わざわざナル冠詞などという名称を作り出さなければならばならないのかという疑問を抱いたので、そこで他の英語指導者の方々はどのように太守しているのか意見を伺いたいと思ったわけです。 ところが、Nakayさんの独自の考えに出会って、どう考えてものかよくわからなくなりました。もちろん、ナル冠詞やゼロ冠詞について独自の考えがあってもいいはずです。要は論理的な整合性が取れていて、かつ指導上有益なものであればいいと思います。私だって、The Browns go to the sea for vacation in the summer. におけるthe summerがsummersの一般化だとするネイティブ達の意見を誤りだとして独自の見解を掲げたわけですから。 今回、Nakayさんが示してくれた考えもそれなりに一貫したもののように思えるので、尊重したいと思います。 <Water is a clear pure liquid./He is John Smith.という時のWaterやJohn Smithは、それぞれ「質」のみを表しています。> -ということですが、John Smithが概念つまり内包を持つものだとすれば、その通りだと思います。上の文のwaterには通常はゼロ冠詞をつける人が多いのですが、代わりにナル冠詞をつけるとしてもつじつまは合います。ただJohn Smithが本当に概念つまり内包を持つのかという問題が残ります。その件は後述します。 <それぞれの語が質(=内包)を示すために、それ以外のいかなる限定要素(冠詞類)も拒絶する」という表現構造になっていると解釈し、「それぞれνû Water/νû John Smithという形のナル冠詞をつけて、冠詞排斥のための無形の形態的意義素を可視化する」わけです。> -たしかにその通りだと思います。 ただし、ゼロ冠詞の考え方が他の人たちと異なるようですね。今では、学習参考書でも0の冠詞という名称を使う人が現れています。その中での例文を紹介します。Blood is thicker than water. というわけで、私の指導上の立場としてはクワークをはじめとする学者達の見解を採用するしかありません。ただ、私としては、先ほども言ったとおりNakayさんのご意見も尊重したいと思います。そこで、もう少し確認しておきたいと思います。 <ゼロ冠詞:これは、私の解釈では異形態(Allomorph)の1つで、「anはaの異形態である」というのと同じように「φは冠詞の異形態である」と考えます。例えば、There is a sheep on the rock.で、羊が複数の場合の表言はThere are sheep on the rock.となりますが、sheepの前にφを置いてThere areφsheep …と分析します。この場合のφを冠詞の異形態(不定冠詞複数形相当)すなわちゼロ冠詞と見なします。> --ということは、ゼロ冠詞は複数名詞に対してのみ限定詞の代わりにつけられるということでしょうか。Nakayさんの文面からはそのように読み取れます。 では、<ゼロ冠詞かナル冠詞か>という問題から離れてJohn Smithが概念かどうかの話に移ります。 <⇒「固有名詞John Smithが普通名詞a John Smithの拡張用法として理解すべきもの」と仰せですか、逆ではありませんか。つまり、実態は、「普通名詞a John Smithが固有名詞John Smithの拡張用法としてある」のではありませんか。> -全くその通りです。普段からそのように考えています。 -私はこう言いました。<固有名詞John Smithに概念があると考えるなら、固有名詞John Smithは普通名詞a John Smithの拡張用法として理解すべきものではないかと考えます。> 私は、固有名詞John Smithに概念があると考えないので、(概念を持つ)普通名詞a John Smithは固有名詞John Smithの拡張用法だと考えます。前回は回りくどい言い方をしてしまいました。以後、気をつけます。 <例えば、ある人が知人のJohn Smithについて何かを言ったとすれば、その人にとって(発話で意図したJohn Smithは)ただ一人に限定されるわけで、それがJohn Smithの意味であり、概念(=ただ1つの内包)であり、---> -ただ一人に限定されるJohn Smithが意味だとすれば、それはたしかに概念(=ただ1つの内包)でもありますが、そもそも、ただ一人に限定されるJohn Smithがなぜ意味だと言えるのでしょうか。よくわかりません。ただ一人に限定されるのはそれが唯一存在する実物だからだと思います。唯一存在する実物がなぜ意味なのでしょうか。私にはJohn Smithは単なる符丁(音と文字だけを持つもの)のようにしか思えません。 普通の考え方だと概念をもって意味とするところでしょう。(ただし、認知文法では意味は概念ではなく、概念化だとします。この方が客体的な見方を拒否しているという点で好感が持てます。) つまり、John Smithが概念であることがはっきりした時点で(はっきりするようなことが、もしあれば)、その概念がJohn Smithの意味であるという考えが主流のようです。 全部は入りきらないので、残りをお礼の方に入れます。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12512)
「補足」を拝見しました。 @英文科の授業で一番退屈だったのがチョムスキーの講読でした。たしかSyntactic Structures だったと思います。先生の講義を聞きながら(?)たいてい眠っていました。後に、彼の言論活動を知るようになり、若き日の非礼を後悔しひそかに謝意を表明しました。 ⇒私も、Syntactic Structures の数年後に出たAspects of the Theory of Syntaxをかじったことがありました。それまでの音韻論や形態論を中心とした方法論に比べ、Competence / Performanceという切り口からのアプローチ、普遍文法の構築などに目新しさを感じたものです。言葉で明示されてはいないものの、ITとの関連、機械翻訳などの時代的趨勢に呼応しているらしいという印象を受けました。しかし、深層構造/表層構造、変形/生成などに関連する膨大な数の規則の設定手法に、何かしら生体を脇に置いた死体解剖に取りかかることにも似た感蝕があって、あまり馴染めませんでした。もちろん死体解剖はそれなりに重要であることは認めますが、個人的な好みとしては、有機的な生きた命の方により高い関心が向いていたため、それに没入できなかったような気がします。ただ、「チョムスキーの言語学的業績より、言論活動の方に惹かれる」のは私としても同感です。 @一般に認知(認識)は知覚作業が主体になりますが、情動・情感の働きを常に伴っています。情感的な認知が必ず行われているはずです。なのに、これまで哲学者はその事実を無視してきました。デカルトはそのことを知っていましたが、知覚現象を正確に記述するために邪魔な情動・情感の存在を脇にどけてしまいました。でも情念論という著作をちゃんと著しています。カントも同様です。純粋理性批判の名が示すとおり、知覚を理性的な相だけに絞りたかったわけですが、情動・情感については別の著作で触れています。チョムスキーとラネカーには情動・情感について全く関心がないように見受けられます。 おそらく、情動・情感の働きを認知活動に含めて認知の有り様を根本から考え直すことが必要だと思います。 ⇒正直、認知文法はよく存じませんが、その精神は分かるような気がします。「人間学」をしっかり根底に据えようとする心的態度を感じます。それにつけても、feedersさんはやはり哲学にご造詣が深く、「哲学科以上に哲学科的」だと思いました。私もその昔一通りデカルト、カント、ヘーゲルなどをのぞき、特に「神の支配」に対する人間精神の勝利を画し、合理主義精神の凱歌をもたらしたデカルトには大いに感銘を受けましたが、それに続く風潮が理性一辺倒に傾いていったような状況に一抹の不安を感じた記憶があります。 目下、私が最も傾倒できるのは、オルテガ(生-理性主義)であるとの思いに至りました。ちなみに、「生-理性主義」の所説をごく大ざっぱに見れば、《理性は生の一形式、一機能に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。"Cogito ergo sum."でなく、"Cogito quio vivo."「我思う、生くるがために」なのだと主張する。生を非合理的な混沌の支配に委ねる発想を論難する一方、生に対する理性の優位性・絶対性を主張する理性主義を批判し、純粋理性は「生きた理性」にその席を譲らねばならない、とする。「生-理性」の立場の体系としては、存在論として環境の理論を傘下に持ち、認識論として遠近法主義を理論武装の道具として持つ。神が人間を通して見せる「絶対的真理」の把握がその課題であると自覚する。(J. Ortega y Gasset, "Tema de nuestro tiempo", Alianza Editorial,1923. 井上正訳『現代の課題』白水社、1970年。高橋徹編著『マンハイム オルテガ』中央公論社、昭和54年 参照)。》 @今回、もう一つだけお聞きしたいことがあります。 zero articleという考え方を導入して、冠詞を統一的に指導すべきなのか、それとも、カテゴリーを表す場合の不可算名詞は限定詞なしでフリーパスで文中で使うことができるとすべきなのか、と言うことに関して、Nakayさんは<「フリーパス」のタイプでした。そして、特に関心をもって質問などがあった場合のみ、「φ冠詞」について触れるようにしていました>とのことでした。 では、固有名詞(の本来の用法)の場合はどう説明されますか。固有名詞は実体そのものなので、問題なく文中で使えます。限定詞を必要としません。もちろんゼロ冠詞も必要としません。だから冠詞なしで使うわけですが、カテゴリーを表すwaterに冠詞がつかないのとはわけが違います。 Nakayさんなら、例えば生徒からなぜ固有名詞に冠詞がつかないのかと聞かれた時、どうされますか。null冠詞という考え方があることを言いますか。それとも、ゼロ冠詞とは異なる用法だと言ってそれでよしとしますか。実は、私の立場としてはすでに言ったとおり、ゼロ冠詞とnull冠詞 を分ける必要はありません。ただ、大学の英語学科などで指導する場合はどうされるのかなと興味があったわけです。差し支えなければ意見をお聞かせ下さい。 ⇒私の勝手な解釈ですが、いわゆる無冠詞には2種類ある。その1つが「ゼロ冠詞」で、「弱い意味機能はあるが、形がない」。例えば、「φ+可算名詞複数形」は「some+可算名詞複数形」に似ているが、それよりは限定能が弱い。それは「a+可算名詞単数形」と「one+可算名詞単数形」の対応関係と似ている。もう1つの無冠詞は「ナル冠詞」で、「形のないことによって、あり得るいかなる限定も拒絶し、その語の内包のみを示す」と見なす。例えば、「νû+単数名詞」はいかなる限定辞がつくことも否定し、その名詞の内包のみを表す。それゆえ、例えばgo to school, be at homeのschool, homeはそれぞれ「学ぶところ、住んでいるところ」という意味であって、これすなわち内包(=質)の意味するところと同じでありことを示している。 ところで、feedersさんは、「固有名詞を冠詞なしで使うのは、waterに冠詞がつかないのとはわけが違う」と仰せですが、私はこれを同一視しています。「同一カテゴリーに属するものは、内包を共有するもの」と置き換えることができる(例えば、「学校」というテゴリーに属するものが共有する「質」は、「学ぶところ」である)と考えるからです。ということで、私は、固有名詞に冠詞がつかないのは、そこに「ナル冠詞」があるからだ、と考える次第です。固有名詞は、特定個人を指すのだから、それは最大の限定であると言えますが、まさにそのことによって、さらなる限定をかぶせる必要がなく、その個人・個物の「質」(≒アイデンティー)のみが表わされる、ということになるのではないでしょうか。 そこでお尋ねの件ですが、高校の場合はさておき、大学の英語学の授業では、余談として、あるいは質問に際して、以上のようなタッチで無冠詞について触れてもいいと思います。なお、あまり深く検討したわけではありません(つまり、思いつきです)が、2つの無冠詞、「ゼロ冠詞」と「ナル冠詞」とは、それぞれ別名「弱冠詞」、「非冠詞」のような別称を考えたり、問いかけたりしながら「息抜き」を図るのも悪くないかも知れないと考えますが、いかがでしょう。
お礼
投稿文の残りです。 では、認知文法ではどのように言ってるかというと、ラネカーは固有名詞は普通名詞と同じくカテゴリー(クラス/タイプ---ラネカーはtypeと呼んでいます)を表し、成員(実例)を一つだけ持つと言っています。ということは、John Smithはa person named John Smithというカテゴリーを表し、その唯一の実例としてJohn Smithが存在することになります。このように言ってるように私には読み取れました。 では、普通名詞用法はどうなるのかということですが、そのケースを考慮に入れて、ラネカーは固有名詞の用法を2つに分けています。デフォルトの固有名詞用法と拡張用法としての普通名詞用法です。彼によれば、後者の用法においてはJohn Smithは概念(内包)を持ち、その外延は{a John Smith, a John Smith, a John Smith---}ということになります。もちろんa person named John Smithというカテゴリーを表します。 いかがでしょうか? ※ ところで、前回の質問 <すべての可算名詞はtheを使った総称表現に使えるか>の中で 取り上げた例文にミスがありました。 When it comes to tools for developing culture, enlightening people and bringing entertainment to life, the book is more easily accessible one than the play and the cinema. ですが、形容詞つきのoneは支柱語として普通名詞と同じ働きをするので、上の文からoneを取るか、a をmoreの前に入れなければなりません。凡ミスです。たぶん、教室でもこのようなことを知らぬ間にやっているんだろうなと思います。生徒達には普段からTo err is human. と言ってはありますが、とにかく油断大敵です。失礼しました。
補足
再度の回答ありがとうございました。 <目下、私が最も傾倒できるのは、オルテガ(生-理性主義)であるとの思いに至りました。> とのことですが、久しぶりに懐かしい名前を耳に、いや目にしました。彼の著作はだいぶん昔ですが、2、3冊読みました。「大衆の反逆」と「反文明的考察」ともう一つは忘れました。「大衆の反逆」は昨年2月にNHKテレビの「100分 de 名著」に取り上げられたそうです(私は見ませんでした)。日本では西部邁くらしか取り上げる人がいないのかと淋しく思っていただけに、ちゃんとテレビで取り上げる人がいるんだと感心しました。 オルテガはハイデッガーと同じような考え方を持っている人ですが(一時期、ハイデッガーの教室で聴講していたそうです)、ハイデッガー以上に激しい人だという印象を受けたことを覚えています。著作の内容がどのようなものだったかは覚えていませんが、少なくともいわゆる科学者達の根も葉もない薄っぺらな言いぐさ(彼らの頭には有効性の観念しかないように思えます)より、はるかにまともな読み物だったと記憶しております。 ただ、生または生命について語る時、客体的な分析によるのでは所詮カントふうの、あるいは科学ふうの傍観者的な記述にしかなりませんから、内観法(内省法)によるしかありません。そうなると、今度は独善に陥ることを防がなければなりません。そこで採用されるのが現象学の方法です。 オルテガの生または生命についての思索は、「生の哲学」の源流であるディルタイ哲学からの影響が大きいと思われますがベルグソンからも影響があったと思われます。現象学に関してはたしかフッサールの教室に講義を聞きに行ったのではないかと思いますが、ハイデッガーの教室に出入りしたことはわかっています。 ディルタイ哲学と現象学を統合させてもっとも成功した哲学者がハイデッガーです。「存在と時間」はそうした成果を著したものです。<世界内存在>は生または生命について正しい内観法(内省法)による思索を展開して得られたものです。人間の存在体勢、または生のあり方の基盤とも言うべきものが提示されています。相当読みにくい本ですがそれでもおすすめしたいです。この本の後半に多くなる<時間>についての記述は(私が思うに)特に読む必要があるとは思えません。 そうですか、オルテガですか。これまでの私の議論の中の、概念的なものに対して話者が持つ実感とか、今回の議論のなかの<知覚経験に情動・情感が伴われる>とかいった話に全く反発がなかったことなども、これで納得がいきました。普通の研究者の方ならそのような話題には関わりたくないはずですから。 閑話休題、本題に入ります。 <もう1つの無冠詞は「ナル冠詞」で、「形のないことによって、あり得るいかなる限定も拒絶し、その語の内包のみを示す」と見なす。例えば、「νû+単数名詞」はいかなる限定辞がつくことも否定し、その名詞の内包のみを表す。それゆえ、例えばgo to school, be at homeのschool, homeはそれぞれ「学ぶところ、住んでいるところ」という意味であって、これすなわち内包(=質)の意味するところと同じでありことを示している。> -ということは、Water is a clear pure liquid. におけるwaterも内包のみを表していますから、ナル冠詞がつくということでしょうか。 私の考えとは異なるようですね。私としては、内包のみを表す場合にゼロ冠詞を使うというふうに考えています。可算名詞複数形の場合は、たとえば I bought potatoes at the store. におけるpotatoesは外延でありながら非常に内包に近い用法です。これもゼロ冠詞が使われる例だと思います。 ところが、固有名詞の場合、デフォルト用法の場合(普通名詞として使われるのではない場合) 、概念(内包)を持たないのでゼロ冠詞を使うわけにはいきません。そこでゼロ冠詞とは別の冠詞が必要とされる。それがナル冠詞である、というふうに考えれば、一応首尾一貫しています。 <固有名詞は、特定個人を指すのだから、それは最大の限定であると言えますが、まさにそのことによって、さらなる限定をかぶせる必要がなく、その個人・個物の「質」(≒アイデンティー)のみが表わされる> -とのことですが、その個人・個物の「質」は内包という言葉で置き換えられるものだと理解しておきます。ということは、このようにお考えなのですか。例えば、ここに英語教師のJohn Smithがいたとします。 人→職業人→教師→英語教師→John Smith 上のような経路をたどって内包と外延がどう変化してゆくかを見た場合、右に行くほど外延が減り 内包が大きくなっていきます。一番右のJohn Smithにおいては内包が最大になります。この時外延は(0と言うべきか1つと言うべきかよくわかりませんが)、私は1つだけあると思います。実は、Jespersenも同様の説明を行っています。'---proper names connote the greatest number of attributes---"とのことです。このように考えないと、固有名詞と普通名詞が相互に移行する現象を説明できないと言っています。<このように考えること>は固有名詞に概念があることの直接の証左ではありません。固有名詞と普通名詞が相互に移行する現象を説明するために要請されるものであるにすぎないと思います。 では、一番右のJohn Smithにおいては内包が最大になるという考えは本当に正しいものなのでしょうか。この考えは形式論理学的な発想によるものだと思われますが、それが成り立つための前提条件として必要なことは<人→職業人→教師→英語教師→John Smith>のすべてが概念をもつものであるということです。John Smithが概念を持つものと前提し、<人→職業人→教師→英語教師→John Smith>への移行(操作)において、その内包と外延がどのような変化を受けるかを観察したものにすぎません。こうした考えそのものによってJohn Smithが概念を持つことが根拠づけられることはありません。 <人→職業人→教師→英語教師>は概念を持つことは自明ですが、John Smithが概念を持つことは不明です。今まさに本当にそうなのかが問われている状況です。よって、上の考えは成り立たないように思うのですがいかがでしょうか。 では、John Smithが概念を持つものであることをいかにして示せばよいのでしょうか。あるいは、そもそも概念を持つものなのかはっきりさせなければなりません、 歴史的に俯瞰すると、J・S・Millは固有名詞は対象物のみを言い表すとしています。それに対して、JespersenとSweetが内包説を唱えて反論したわけです。その後、ヴィトゲンシュタインとクリプキは対象物のみを言い表すとする立場に立ちました。それに対する反論も出ています。でも、これ以上は止めておきます。きりがありませんから。 この問題を考えるにあたって必須だと思えるのは言語行為論的な考え方だと思います。すなわち名づけ行為です。固有名詞と対象物との1対1対応を保証するものは社会的な命名の手続きと承認だろうと思います。そうした観点からすると、1対1対応を行うのは固有名詞以外に、Room 45とかRoute 66というふうに名づけられたものや呼びかけ語("Mother, hurry up.")や呼びかけ語から転じたと思われる近親者名("Mother came home just now.") なども該当すると思います。(呼びかけも命名に準じると考えられます)。私としては、今挙げたような名詞にナル冠詞がつくのではないかと考えています。 ところで、John Smithが概念を持つと考えた場合、それは複数のあるいはたくさんのJohn Smithsの持つ共通の性質を取りだしたものであるはずです。ところが、そうした操作は行われなかったはずです。複数のJohn Smithsが存在するようになる前に、最初のJohn Smithが名付けられます。ついで、次のJohn Smithが名付けられる。このようにして、実物のJohn Smithと名付けられた人が次々に増えていったと考えられます。どこまで行っても実物が増えるだけです。もし、固有名詞John Smithに概念があると考えるなら、固有名詞John Smithは普通名詞a John Smithの拡張用法として理解すべきものではないかと考えます。 ついでに傍証として言えることがあります。例えば、Washingtonという固有名詞が何を表すのかこれだけでは不明です。Mr. をつければ人名だとわかります。Cityを後続させれば都市名だとわかります。つまり、固有名詞は意味を表さない、ということは概念を持たないということではないかと思います。では、George Washingtonはどうかというとやはり意味を表しません。アメリカの航空母艦で同名のものがあります。人名を表すには肩書きをつけなければ意味が確定しません。 字数が足りなくなりました。残りを<お礼>に入れます。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10004/12512)
以下のとおりお答えします。 大方、お説に賛同するばかりで、何ら反論や批判めいたことは書けませんでした。 @例えばここに、無色・無臭の透明な液体(水)があったとして、それを概念化してwaterと名づけたとします。概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われます。ということは、名づけられた時点で概念は文中で語彙として使われる資格を与えられたのだとしか考えようがありません。 ⇒言葉が先か実用(指示)が先かといった歴史的な事実は、確かに証明の仕様もありませんので不問にするとして、「あらゆる、と言ってまずければ、ほとんどすべてのnomenclature(命名)の行為は、それを伝達の具として用いるためである」ということは言を待たない真理と言えるでしょう。つまり、お説の趣旨は、まったく批判の余地なく了解できます。 @数えられるものはもちろんのこと、数えられなくても五感でとらえられるもの(物質名詞)だけでなく、気分や情感としてとらえられるもの(抽象名詞)も実体として扱うことが可能になります。そもそも、何かを認知することは五感で(知覚器官によって)とらえられるだけでなく気分や情感によってとらえることでもあると思うのです。というわけで、I feal (→feel) some fear. においてはfearは実体を表すということで論を進めます。 ⇒「なるほど!」と膝を打ちました。お説のほど、よく分かります。ご趣旨はしかと納得しましたので、記憶に留めておこうと思います。さすがに、哲学ご専攻(?)のfeedersさん、あざやかな分析・洞察ぶりに敬服申しあげます。 @私が問題にするのは、zero articleまたは<無冠詞>という考え方を導入して、冠詞を統一的に指導すべきなのか、それとも、カテゴリーを表す場合の不可算名詞は限定詞なしでフリーパスで文中で使うことができるとすべきなのか、どちらの考え方がよいのかということです。自分はこういうふうに説明することにしていると決めておられる方がいらしゃればご意見を聞かせて頂ければありがたいです。 ⇒院生時代に数年間某都立高で教えた経験しかありませんので、この問いに答える資格はないかも知れませんが、私の場合はもっぱら、「フリーパス」のタイプでした。そして、特に関心をもって質問などがあった場合のみ、「φ冠詞」について触れるようにしていました。 @私としては大学入試レベルの英作文で冠詞の選択(a名詞 / the名詞 / 冠詞がつかない名詞)が生徒によって確実に行われるかどうかが問題なので、ゼロ冠詞とかnull冠詞とかを導入する必要はないのですが、そのこととは別に自分なりのスタンスを持っていたいと思うのです。ご意見を伺いたいと思います。 ⇒「自分なりのスタンスを持っていたい」というお考えには大いに賛同申しあげます。私も折りに触れてそうしたいという思うことがよくありました。それはまた、ある種の「貯め」として保持することでもあり、好奇心のなせる業でもありました。さかのぼって、自分が生徒であったころ、何となくそういうバックボーンをもっていそうな先生に近づいていったものです。実際、そう見込んだ先生からはいろいろ面白い話が聞けたなあ、という楽しい経験があります。 今回もまた、私としては新しい刺激を受けて面白かったのですが、同時にfeedersさんの研学ぶりに感服するばかりで、肝心な回答としては何ら反論の余地もなく、新しい知見も情報も提示することはできませんでした。ということで、ほとんどお役に立てず、申し訳ありません。 ちょっとお話が逸れます。 冒頭で、「概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われます」というくだりを目にしたとき、とっさに頭をよぎったことがありました。お説の主題からかなり逸れるので、その場では控えていましたが、ここでそれをひと言付け足させていただきます。 ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....." と何度も何度も叫ぶのでした。「私の唇の動きを感じて、これがwaterというものであることを知りなさい! そして言ってみなさい! 発音してみなさい!言ってみなさい!!」と、無言のうちに(言葉を発しても聞こえないのですから)行動だけで訴えかけるサリバン先生の胸中が痛いほどに伝わってきて、思わず目が潤んでしまったことを覚えています。
お礼
ありがとうございました。
補足
回答ありがとうございました。 ほぼ全面的に賛同頂いたので安心しております。私の独断的な考えではなかったということですね。 ちなみに、私は哲学専攻ではありません。英文科です。在籍中に専攻学科の勉強がおもしろくなくなって哲学を独自に勉強し始め、哲学科の先生方には親しく接して頂きました。英文科の授業で一番退屈だったのがチョムスキーの講読でした。たしかSyntactic Structures だったと思います。先生の講義を聞きながら(?)たいてい眠っていました。後に、彼の言論活動を知るようになり、若き日の非礼を後悔しひそかに謝意を表明しました。でも、もう一度Syntactic Structuresを読もうという気にはなりませんでした。 後年、生成文法の解説書を読み直しましたが、すでにカント哲学の概要を知り、生成文法の哲学的基盤を了解した上でのことでしたから、反発や退屈さを覚えることもありませんでした。でも、私としてはチョムスキーの業績より彼の言論活動の方に惹かれます。 私の卒業後、大学では生成文法がすたれ気味になり、代わりに認知文法や語法研究が主流になっていったようですが、かといって完全に認知文法に取って代わられるといったことにはなりませんでしたね。最近、HPSG理論なるものがあると知りましたが、教室で初めて変形ルールを教わった時からすると隔世の感があります。 認知文法も一応解説書を読んでみました。私が在学中にはまだ認知文法の講座はありませんでしたので、全くの初めてだったのですが、すでにフッサールやメルロポンチやハイデッガーといった人たちの著作を読んでいたので、認知文法の考え方もすんなり入っていけました。 生成文法の樹形図や素性分析よりイメージスキーマの方がましかというと、そうも言えないような気がします。メタファーの研究成果を考慮すると、その文だけ認知文法に肩入れしたくなりますが、私としてはどちらとも距離を置いています。というのは、チョムスキーとラネカーに自分の文法理論の正しさを証明してみろ、あるいはその基盤を示せと言ったら、二人とも当惑するでしょうからね。それとも、そのようなものはなくても、ちゃんと科学で、特にcomputer scienceで有効に働いているではないかと反論するかも知れませんね。それはそれで一つの考えだとは思うのですが、私としては客体的なものの見方では真実をつかむことが絶対にできない、せいぜい科学で使われる程度の妥当性しか得られないと思うので、双方に対して距離を保つことはあるべき姿だと思っています。両者共に、その基盤の部分で客体的な見方から逃れられないようです。 認知文法の場合、一見すると客体的な見方を排除しているかに見えますが、(認知文法の初期に頃レイコフとラネカーは盛んに脱客体化を唱えたにもかかわらず)結局、不徹底に終わりました。その理由は、認知文法がその哲学的基盤としたメルロポンチの考え方に欠陥があって、その欠陥をそのまま引き継いでいるためです。 <@数えられるものはもちろんのこと、数えられなくても五感でとらえられるもの(物質名詞)だけでなく、気分や情感としてとらえられるもの(抽象名詞)も実体として扱うことが可能になります。そもそも、何かを認知することは五感で(知覚器官によって)とらえられるだけでなく気分や情感によってとらえることでもあると思うのです。> --- この考えには賛同頂けたわけですね。ありがとうございます。 一般に認知(認識)は知覚作業が主体になりますが、情動・情感の働きを常に伴っています。情感的な認知が必ず行われているはずです。なのに、これまで哲学者はその事実を無視してきました。デカルトはそのことを知っていましたが、知覚現象を正確に記述するために邪魔な情動・情感の存在を脇にどけてしまいました。でも情念論という著作をちゃんと著しています。カントも同様です。純粋理性批判の名が示すとおり、知覚を理性的な相だけに絞りたかったわけですが、情動・情感については別の著作で触れています。チョムスキーとラネカーには情動・情感について全く関心がないように見受けられます。 おそらく、情動・情感の働きを認知活動に含めて認知の有り様を根本から考え直すことが必要だと思います。ところが、現実には科学的であろうとすること、コンピューター関連の分野で応用されることが優先されて、肝心なことがお留守になっているように思います。 ついでに言うと、言語の問題を数学的に処理することについてですが、コーパスなどで統計的処理をすることには異存はありありませんが、パラメーターを関数に組み込んで値を出すといった発想とは無縁でいたいと思います。客体化の最たるものです。 <ヘレン・ケラーに、初めてwaterと言うときの唇の動きと現物の水との対応を教えようとしたサリバン先生のことが脳裡に浮かんだのです。きっとご存知と思いますが、ヘレンの頭から井戸水をザアザアかけながらサリバン先生がヘレンの手の指を自分の唇に当てて、"Water! Water, water, water! Water, water, waterrr!! ....." と何度も何度も叫ぶのでした。「私の唇の動きを感じて、これ---> ---私もそのシーンが心に焼きついています。 先ほど、情動・情感の働きを含めた認知の有り様を根本から考え直すことを提唱しましたが、鍵を握るのはもちろん概念です。特に、ヘレンの"Water!"にあると思います。 実は、次回の質問予定は<概念がカテゴリーだけでなく、同時に実体をも表す場合について>なのです。(今回の質問文の末尾に、There is frost in the garden. とI feel fear now. を挙げておきました)。その節はよろしくお願いします。 今回、もう一つだけお聞きしたいことがあります。 zero articleという考え方を導入して、冠詞を統一的に指導すべきなのか、それとも、カテゴリーを表す場合の不可算名詞は限定詞なしでフリーパスで文中で使うことができるとすべきなのか、と言うことに関して、Nakayさんは<「フリーパス」のタイプでした。そして、特に関心をもって質問などがあった場合のみ、「φ冠詞」について触れるようにしていました>とのことでした。 では、固有名詞(の本来の用法)の場合はどう説明されますか。固有名詞は実体そのものなので、問題なく文中で使えます。限定詞を必要としません。もちろんゼロ冠詞も必要としません。だから冠詞なしで使うわけですが、カテゴリーを表すwaterに冠詞がつかないのとはわけが違います。 Nakayさんなら、例えば生徒からなぜ固有名詞に冠詞がつかないのかと聞かれた時、どうされますか。null冠詞という考え方があることを言いますか。それとも、ゼロ冠詞とは異なる用法だと言ってそれでよしとしますか。実は、私の立場としてはすでに言ったとおり、ゼロ冠詞とnull冠詞 を分ける必要はありません。ただ、大学の英語学科などで指導する場合はどうされるのかなと興味があったわけです。差し支えなければ意見をお聞かせ下さい。
お礼
ありがとうございました。
補足
再々再度の回答ありがとうございます。8000字を超える回答に驚きました。これだけの労力をさいて頂いたこと、大変感謝しております。 結論として言えることですが、名づけ行為を文法解釈の場に持ち込むことの妥当性がありやなしやということになるのだと思います。ここで言っておかなければならないことがあります。これまでも言語学や哲学において固有名に意味があるかないかについての議論がなされてきたことは存じておりますが、私はといえば、クリプキの考えの概略を知ったのを最後として、その後の展開についてはあまりよく知らないのです。いずれ時間を見て勉強しなければとは思ったものの、多忙にかまけてほったらかしにしてきました。(私自身はもともと存在論哲学の方に関心が強いのでそちらの方面での勉強がメインになるのです) と言うわけで半分知ったかぶりの中途半端な議論をしてしまいました。申し訳ありません。 <私はこの問題の考察に「名づけ行為」の類を持ち込むことには全くなじめません。> -内包を持たない固有名がどのようにして対象を指示することができるのかということと関係して 命名行為がクローズアップされるわけですが、その考えも相当に批判にさらされているようです。調べたところ、随分と議論が進展(?)していました。新たな理論も登場しています。私としては折を見て一から勉強し直さなければなりません。 とはいうものの、せっかくNakayさんに長文の回答をいただいたわけですから、今の私にできる程度のコメントだけでも述べさせて頂こうと思います。 <⇒「John Smithは単なる符丁」と仰せですが、それを言うなら、「言葉はすべて符丁(記号)」でしょう。また、「音と文字だけを持つもの」と仰せですが、例えば、My cousin John Smith comes soon.のJohn Smith(普通名詞でなく固有名詞)は音と文字しか持たない、つまり、無意味なシミのようなものでしょうか。 ソシュールは、概念と聴覚映像との結合を記号と呼び、概念と聴覚映像はそれぞれ所記(signifie)、能記(signifiant)と言い換えられると言いました。記号は、能記すなわち、書かれたもの・発せられたものと、所記すなわち、表象されたこととを結びつけます。つまり、記号は単独で何らかの概念・意味を宿し得るということでしょう。例えば、(He is) John Smith. と聞いたとき、その中のJohn SmithについてイメージすることそのものがJohn Smithの意味だと言えます。人によって様々なイメージ(外延的聴覚映像)を抱くかも知れませんが、その最大公約数(すなわち、共通する内包的聴覚映像)がJohn Smithの意味です。早い話、John Smithと聞いて誰もがイメージすることがJohn Smithの意味と言えます。例えば、「それは個人名+姓だろう。男性名だろう。英語圏の人のものだろう。ラテン語のJohannesに当たるものだろう…」等々、これらの全てがJohn Smithの意味(外延)だと言えると思います。意味をもたない「シミ」は記号でも符丁でも、ま してや語でもありません。> --「John Smithは単なる符丁」は言い過ぎでした。 <それを言うなら、「言葉はすべて符丁(記号)」でしょう。>とのことですが、実際そういう主張をする人もいます。もちろん、それは成り立ちませんが詳しい説明は省きます。 それにしても、My cousin John Smith--- はわかりやすい実例ですね。My cousin is John Smith. でもいいわけですね。この場合、名詞句として叙述的に使われるわけだから意味を持たないとは言えませんね。ですから、少なくともJohn Smithが「John Smithと呼ばれる人」という意味を持つことは確かです。でも、意味がそれだけだとすると普通名詞との差別化が図れなくなります。「~と呼ばれるもの」はすべての普通名詞が持つ意味だとも言えますから。 だとすると、Nakayさんの言うように、John Smithが「個人名+姓。男性名。英語圏の人。ラテン語のJohannesに当たるもの」を意味として持っていると言うしかないのでしょうね。私はこれまで、John Smithが英語圏の男性だと聞き手によって判断されるのは、聞き手の側の常識や社会慣習によるものだ(John Smithという名前が内包するものではない)と思っていたのですが、私の思いこみにすぎなかったのでしょうね。John Smithという名がそうした社会常識的な判断を促すのであれば、そうした性質も内包を構成すると言うしかないように思います。 だとすれば、John Smithの持つ内包の核をなすものがperson named John Smithであって、その他の性質は内包の周縁部分だと言えばいいのでしょうか。 <「外延を比較したとき、個体概念(individual concept)と一般概念(general concept)に分けられるが、John Smithのような固有名詞の意味(外延)は前者である。これは1つの事物にしか適用されえない概念で、単独概念(single concept)とも言う」(『哲学辞典』参照)。> -個体概念については聞いたことはあったのですが、論理的な要請によって想定されたものにすぎないだろうと思ってこれまで真剣に考えたことがありませんでした。というのは、一般概念と違って、ただ一つの事例から概念を抽象化することなどできませんから。概念の成り立ちをそういうふうにしか考えられなかったのです。 Nakayさんはこうおっしゃっておられました。 <例えば、(He is) John Smith. と聞いたとき、その中のJohn SmithについてイメージすることそのものがJohn Smithの意味だと言えます。人によって様々なイメージ(外延的聴覚映像)を抱くかも知れませんが、その最大公約数(すなわち、共通する内包的聴覚映像)がJohn Smithの意味です。早い話、John Smithと聞いて誰もがイメージすることがJohn Smithの意味と言えます。> なるほど、John Smithの存在論的基盤と言うべきものが理解できたような気がします。基盤は実物との直接的な結びつきにあったわけではないということですね。 前回の私の発言(固有名が意味を持たないという考え)は撤回させて頂きます。失礼しました。 ついでにJohn Smithの普通名詞用法についても触れさせて頂きます。a person named John Smithがa John Smithの意味のすべてであると言ってよいのでしょうか。つまり、意味の核がa person named John Smithであって、意味の周縁部は存在しないということでしょうか。 生半可な知識でもって、(前回の発言に対する反省を含む)コメントをしたためましたが、おかしな発言や間違った個所があればご指摘をお願いします。 ところで、ゼロ冠詞/ナル冠詞という表記ですが、とりあえず、今後は不可視の冠詞または単に無冠詞という言い方を採用することにします。 Nakayさんの長文の回答に対して重ねて感謝の意を表明します。