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藩士から見たら郷士も農民?
長島尉信は名主で郷士の家、出身の土浦藩士がいますが、名主ということもあって、農民という目で見られたのか分かりませんが、農村出身ということで、馬鹿にする藩士もいたそうです 名主で郷士なら名字帯刀を許されたわけですが、他の藩の藩士も農村の農民出身という馬鹿にした感じで見るかたもいたのでしょうか?
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No.1です 補足を頂戴しました。 ご意見がありましたので追加の説明をさせてください >長島関連の本にも、名主家出身としか書いてなく郷士とは触れてませんからね 郷士という用語の定義にもよりますが下記のURLにありますように藩に召し抱えられていますので最下層の武士に相当することになるかと思います。 参考 第946号 広報つちうら - 土浦市 www.city.tsuchiura.lg.jp/data/doc/1221630097_doc_58.pdf 抜粋 土浦藩では自藩の人材が他藩に仕えて名を成しているのは藩の面目に関わるとして天保14年(1843)土浦に呼び戻され御代官列、六両三人扶持で地方掛として召し抱えられることになりました。 >郷士は名字帯刀を許された上層農という意見もありますが、どうなんでしょうね 農であるということは当時の身分制度からいけば百姓ということになります。百姓は武士よりも下位に位置づけられていました。 百姓の上層ではあっても武士階級の上層ではありませんのでご注意下さい。
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- ichikawa2017
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>藩士から見たら郷士も農民? 「見たら」ではなく大名領(藩)内の社会制度としての身分として農民に位置づけられていました。 >馬鹿にする藩士もいたそうです。 「馬鹿にする」とはどのようなことでしょうか。 当時は身分社会です。 下位に位置づけられた者は上位に位置づけられた人物に敬意を持って接することが社会常識の時代でした。 上位の者は下位の人物に対して威厳を持って接することが求められました。 下位の者を同格に扱うことは上位者として認められませんでした。 >名主で郷士なら名字帯刀を許されたわけですが 藩士つまり武士層にとっては苗字を名乗り両刀を帯刀しているのは当然のことです。 別段特別なことではありませんでした。 武士は武士階級内で上下に階層化されて扱われていました。 郷士は武士階級内では最下層の階級とされていました。 名主というのはあくまでも百姓あるいは町人階級の自治組織内での役職です。 身分としては百姓あるいは町人であることに変わりはありませんでした。 >他の藩の藩士も農村の農民出身という馬鹿にした感じで見るかたもいたのでしょうか? 農村部に居住していて戦の際に軍役に参加することを義務付けられていた階層の名称は各大名家(藩)で異なっていました。 それに従って身分も取り扱いもお各々異なっていました。 江戸徳川家(幕府)では郷士という呼称は公的には使われていませんでした。 公的な用語としては使われていませんでしたが、幕末に京都の治安維持に当たっていた新撰組はこの階層の人達の集団でした。 土佐山内家では旧長宗我部氏の遺臣を下士としていて郷士という呼称は使われていませんでした。 薩摩島津家では家臣の大半が農村部に分散居住していて城下に居住していて登城して政務に携わっていた武士の方がむしろ少数でした。 いずれにせよ区別、差別は何時の時代でもどこの国でも見受けられる現象ですので極度に卑下蔑視していた人はいたと考えられます。
補足
郷士は武士階級最下層ですが、実際には藩からは農民と位置づけられたわけですか 長島関連の本にも、名主家出身としか書いてなく郷士とは触れてませんからね 郷士は名字帯刀を許された上層農という意見もありますが、どうなんでしょうね