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郷士
佐竹が秋田転封で多くの家臣が茨城に残留したらしいです つくばの小田も16名佐竹家家臣で残留された人がいたらしいですが、天領で郷士になった人数人、農民になった人がいたみたいですが 郷士になれた人の基準って何ですか? それと徳川の考えかはわかりませんが関東地方は郷士は極端に少ないみたいですが本当ですか?
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栗本元治著「江戸時代」という本には、藩臣の階級として「大名分、諸大夫、年寄・・・ (中略)・・・ 徒士、卒、郷士」の10階級に分けてあるそうです(稲垣史生:時代考証事典からの孫引き)。 つまり、郷士は、諸藩の家臣体系としてはそんなに「珍しい階級ではなかった」と察せられます(江戸幕臣にはいないらしい)。 > 佐竹が秋田転封で多くの家臣が茨城に残留したらしいです 越後でも、上杉家が会津・米沢に移封されたときも、かなりの数の家臣を(意図的に)残したと伝わっています。 秀吉は「家臣は一人も残すな」と命令したにもかかわらず、上杉家が越後にもどる時、内側から火の手をあげるために。 他方、「農民は一人も連れて出るな」という命令だったので、越後に残された家臣は郷士とはならず、(形としては)「武士身分を捨てて帰農した」と言われています。 つまり、郷士と帰農した農民身分差は、新領主に臣従を誓ったかどうか、ではないでしょうか。臣従を誓うのを拒めば、元々は士分でも、帰農するしかなかったと思われます。 > 関東地方は郷士は極端に少ないみたい でしょうね。 推測ですが、関東は徳川譜代です。 譜代の新領主にとっては、前の領主が置いていったような侍を家臣として取り立てるのは危険です。 後代の話ですが「忠臣は二君に事(つか)えず」という言葉が生まれたくらいですから、いつ自分が裏切られるかもしれないという危惧は戦国時代からあったでしょうし、(徳川に刃向かって)減封されたり取り潰された家の家臣を雇ったら徳川家が不快感を示すかもしれないからです。 当然、高知のように、譜代の家臣だけでは人が足りずやっていけなかったり、士分を強制的に捨てさせると反乱を起こしそうな場所でなければ、敵の家臣を新規に採用することは、なかっただろうと思われるのです。 当然、関東で郷士は少ないだろうと思われます。
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- ichikawa2017
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>郷士になれた人の基準って何ですか? 時代や大名領(藩)によって異なり種種雑多でした。 ときには金銭で売買されることもありました。 参考 郷士 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/郷士 >関東地方は郷士は極端に少ないみたいですが本当ですか? 本当かというよりも関東地方いわゆる関八州は他の地方とは異なりますので一概に比較できません。 八王子千人同心のように郷士身分ではあっても郷士という呼称で呼ばれていなかった人達がいました。 参考 八王子千人同心 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/八王子千人同心 関東地方いわゆる関八州は旗本領や勧請奉行直属の代官支配地、大名領が錯綜していて他の地方の大名領(藩)のように纏まった領域がありませんでした。 旗本も下級旗本が多く領地に家臣を派遣する余裕が無く勧請奉行配下の代官に委任していました。 結果的に領地を支配する大名家の家臣でありながら郷(城下町外)に住んで農耕を営んでいた人は稀でした。
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ありがとうございます。少ないかとかは、はっきりは言えないってことですね
お礼
ありがとうございます 新しい領主に従えたかで、決まるんでしょうね