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代官所、陣屋の勤務について
幕府領、藩など城下から離れた所に陣屋を置き代官と手付、手代といるわけですが 手代は名主は次男、三男、郷士、農民は長男が選抜されたみたいですが 規模の大きくない小~中規模の陣屋では手代屋敷はなく自宅から通勤することが結構多かったみたいですが、それは本当ですか?
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>規模の大きくない小~中規模の陣屋では手代屋敷はなく自宅から通勤することが結構多かったみたいですが、それは本当ですか? 本当というかケースバイケースです。 「陣屋」という用語は極めて広く使われいた言葉です。 陣屋大名という言葉があるように大名が政務を執る建物からご質問のように代官所の出先機関のようなものに対してまで使われました。 小~中規模と言われますが、これも考え方次第で実質的な規模が変わります。 江戸幕府(徳川家)では大名というのは1万石以上の領地を拝領している人を指しましたが、加賀前田家のように前田家の家臣でありながら1万石以上ときには5万石の領地を持つ者もいました。 下手な大名よりも石高が高い家臣がいたということです。 当然これに応じて代官所や出先機関の陣屋の規模も変わってきます。 お尋ねの陣屋に勤務する役人がどこに居住していたのかということもこれに応じて変わってきてしまいますので一般論では難しいということです。 極大雑把に言いますと、代官所は設置当初から専用の建物が領主である大名や幕府によって設けらていました。 代官所の出先機関である陣屋は拝命した責任者の私邸が使われました。 私邸内に公的な事務を行う部屋や建物を設けることが出来る人というのはそれなりに裕福な人だった言えます。 この私邸の土地に余裕があれば陣屋で公的な業務に携わる人が暮らす建物を設けることもありました。 代官所の手代の大半は村役人の子弟でした。 村役人というのは屋敷や広大な田畑を持つ本百姓と呼ばれる階級の人が就任していました。 このような階級の人達の子弟ですので居住する住宅には不自由しませんでした。 陣屋内の建物に居住する必要性がありませんでした。 つまり通っていたということです。 自宅と陣屋が遠距離であれば陣屋内で寝泊りしていた人もいたものと考えられます。 考え方として面倒なのが陣屋を拝命した人の家に仕えている人達です。 元来は個人的な雇用関係ですが、有能な使用人であればこの人に陣屋としての業務をさせることがありました。 この場合は元々陣屋を拝命した人の使用人ですので私邸内で暮らしていました。 陣屋内で暮らしていたとも言えます。 蛇足 農耕に従事する百姓身分の人達の中には階級がありました。 広大な耕作地(田畑)と屋敷を持つ本百姓。 本百姓は家族だけでは全ての耕作地を耕作できませんので耕作を専門とする使用人=小作人を雇用していました。 小作人は本百姓の敷地内で暮らしていました。 人を雇う程の耕作地を持たない小前百姓がいました。 耕作地を借りて貧弱ながら家族が暮らす家を持っていた水呑百姓がいました。 水呑は蔑称ではなく正式な呼称です。 村落に課せられた年貢を負担していたのは本百姓でした。 この本百姓階級の人達だけが村役人に就任することができました。 現代風に言いますと村政に関与できる市民権を持っていたのは本百姓だけでした。 歴史史料などで大名や幕府が百姓とするのはこの本百姓のことです。
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- stss08n
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●・・・本当でしょうか。?:本当でしょう年貢徴収するには、”地元名主・長者 いわゆる、地元の名士農家を”年貢徴収方に、引き入れておかなければ”国・在所の人民管理も農作物含めて何事も円滑に人民統治全般ができないから、年貢取り立てこそが”唯一の農政手段+管理手段でしょう。 当時”年貢(コメ)の徴収には、厳然とした”掟(おきて)を採用しなければ、何処の 農民も”課税(田畑から得られる作物:年貢納税をシブり又は、農地耕畜せず”逃げ出し)て他国・他所へ逃亡するのが、常套手段でしょう。・・・