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上士郷士の差別は土佐藩だけなの?
司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」には、関ヶ原の戦い後に 土佐藩を支配した山内侍は、それまでの支配者長曽我部侍 を郷士とし身分差別したとし、これは他藩にはなく土佐藩 独自のものであったと書かれてます。 ただ、関ヶ原の戦いで改易になった大名家はたくさん存在し、 勝者がその領地に乗り込んだのは土佐だけではなかったはず。 大名家が滅んだところ、あるいは縮小、移封などの場合の 地侍はどんあったのですか?ちりちりばらばら、あるいは上杉 氏のように全員転居した? 土佐藩のような事例は他藩にもあったように思えるのですが。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>上士郷士の差別は土佐藩だけなの? お答えから先に述べますと、 土佐藩だけではありません。 ただ、土佐藩は「極端に」「上士」「郷士」の差別をし、 足袋や下駄、日傘は上士だけしか許されませんでした。 有名なところでは、奈良県の十津川郷士がいます。 (1)古くは、地域の住民は朝廷の下働きを命ぜられ、朝廷の雑務をしていました。 (2)壬申の乱には、村から出兵。 (3)平治の乱でも出兵しました。 (4)これらの功績により、土地が山中にあり、米の収穫も少なかったことから、租税免除をされています。この租税免除は、明治まで続きました。 (5)太閤検地でも山間部で米の収穫が希少のため、年貢を免除されていました。 (6)大坂冬の陣では、十津川郷士1,000人が徳川方として参戦し、豊臣方の鎮圧に尽力したため、大和の国の五條代官所の管轄に入り、天領地として、租税免除を受けています。 (7)そして、家康より「永大にわたり郷士と名乗る」ことを許されています。 また、郷士は、 (1)下級武士が、その低い身分ゆえに城下で家禄のみでは生活できず、城下郊外または農村で農業を営むことを許された者。 (2)特別な所以がある場合。 を、基本としています。 (1)の例は、明和年間に赤字財政の米沢藩の改革を実行しようとした上杉鷹山の家臣で「北沢五郎兵衛」は、配下の「五十騎組」と共に小野川の畔の荒れ地の開墾を申し出て、小野川の畔に生活基盤を移しました。鷹山は「士分」を捨てることは許さなかったものの、ほぼ、「郷士」に近い状態でした。 (2)の例は、先に述べた十津川郷士などです。 あなたのお役に立てば・・・。
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- tadagenji
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土佐藩=山ノ内家は4万石から24万国と6倍も一気にデカくなったので旧長宗我部の侍を取り込まなくてはならなくなったので上士郷士という身分制度を導入したのです。 他の藩では、藩の異動のある無しに関らず、上士下士の区分が元からあったところに元領主の侍を雇用したのがほとんどです。 他は、藩からは放逐されたので関ヶ原後に発生した大坂冬・夏の陣で多数の浪人が大坂城に集まり、その後、幕府の諸藩取り潰しによる浪人の増加圧力によって由比正雪の事件や島原の乱などに繋がっていく。