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竜馬と十津川郷士、竜馬と松代藩士の関係。

竜馬が暗殺された近江屋事件で襲撃者側は、竜馬に応接を求める手段として、自分は十津川郷士(説によっては松代藩士)と名乗ったそうです。 このような身分を告げると、竜馬に通じると思って名乗ったのでしょう。 ということは、竜馬は、十津川郷士や松代藩士と何かつながりがあったのでしょうか。 教えてください。 よろしくお願いいたします。

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  • oska2
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回答No.1

>このような身分を告げると、竜馬に通じると思って名乗ったのでしょう。 十津川村の村民・郷士は、南北朝時代から「南朝支持派で、勤皇」なんですね。 江戸時代を通じても、御所の警備・清掃・雑用などで村民・郷士がボランティアを行っていました。 皇室・公家との関係も、代々深かったのです。 ですから、幕末の一大テロ事件である「天誅組の乱」も十津川村一帯 で起きています。 後の明治天皇(裕宮)の実母の弟(中山忠光)が、三条実朝ら倒幕派の陰謀で「孝明天皇の勅命を受けないで、倒幕を開始」したのです。 お公家さんは、武力が無い+戦闘知識が無いので「土佐藩脱藩浪士(那須慎吾・吉村虎太郎など)」と共に十津川村に行き「皇軍の為に、戦え」と十津川村住民に激を飛ばしたのです。 確か、15歳以上の男は強制的に徴兵しています。 従わなかった者は「朝敵」として、その場で首を刎ねています。 この情報は、当然御所にも伝わりますよね。 孝明天皇は怒り、三条実美一派を「朝敵・国賊として、幕府に追討令」を出します。 ※三条実美ら7卿は、長州へ都落ち。 十津川村でテロを起こした首班・中山忠光一派に対しても、朝敵として追討令が出ます。 当然、御所の警護を行っていた十津川村住民・郷士にも事件が伝わります。 御所から二派に分かれて、中山卿(忠光の実父)の手紙を持って村に戻ります。 ここで初めて、テロ事件である事+忠光派に参加すれば朝敵として村民・郷士は討伐される事が分かったのです。 この様に、南北朝時代から皇室との繋がりが深いのが十津川なんです。 竜馬も、那須慎吾・吉村虎太郎など(幼馴染の)土佐藩脱藩郷士が十津川村に居る事を知っていたのでしようね。 ですから、「十津川のモンです」と訪問があれば「同志が来た」と考え油断します。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 「天誅組の乱」に土佐脱藩者が大きく関わっていたとは知りませんでした。 京都見廻組の今井 信郎は、松代藩士を名乗ったと後年証言していますが、 これについて何かご存じであれば教えてください。