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江戸時代の「くじ引き」
土浦藩の古文書によれば、天保7年以降、 藩祖や、藩祖の主君であった武田勝頼の菩提寺を訪れて、追善供養をし、ついでに名所めぐりをするのが恒例行事となったそうです。 嘉永3(1850)年、土浦藩士3人が「例年通り、江戸藩邸においてくじ引き」で選ばれています。 寺社で行われた「富くじ」は、資料もあって大体分かりますが、武士・商人・農民などが何かを決めるときの普通の「くじ引き」とは、どんなやり方だったのでしょうか。 物語や絵で具体的な仕方は分かりますか。 よろしくお願いいたします。
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江戸時代の四国や東北の田舎の寒村地では、田畑を村の住人で公平に分け合う「くじ地」という方法が行われていました。 これは封建制度&身分制度の江戸時代の最中、現在の様に個人個人が所得税を払うわけでは無く、基本的に "年貢" は「村単位で課せられたモノ」であったため、例え先祖伝来の土地であっても村人の間で余りにも耕作地に格差があると、条件の良くない土地しか持てなかった者はやる気を失い真面目に耕作しなくなり、そうなると村全体では幕府や大名から割り当てられた年貢米が出せなくなるので。これを回避するため、村全体で耕作地を一括管理して個人所有では無く、数年単位で順番に田畑を交換して回し合う方法が執り行われました。 この時に誰がどの田畑を割り当てるかを決めるために「くじ引き」が利用されました。 具体的にはまず、村の耕作地をその土地の良し悪しで等級を付けて「上、中、下」に分けます。それらをパズルの様に組み合わせて何とか名目上は等級での差が付かない様に区分します。こうして名目上は「同じ評価額の土地」になったそれぞれの耕作地群にそれぞれ固有名を付けます(この時に付けられた名前が現在でも古い地名として残ってる場合があります)。こうやって区分けされた「名前付きの土地」の名前を竹の札に書き記し、それを麻袋の中に入れてシャッフルします。そしてこの袋の中から「くじ引き」の要領で1本ずつ竹札を引き、その年の自分の耕作地を選びます。 この時に何よりも重要なのは「人の作為が入り込む余地は無く、全ては神意によって成されている」という点です。くじに使う竹札は霊山に生えているモノが好ましく、それが手に入らなければ寺社の境内に生えているモノが用いられました。使う前に住職や神主が清めたり祈祷したりしました。くじ引きの結果は正に人生が懸かっているため、庄屋や武家などの名主階級者は "上田" を選ぶ事は憚られ、村民全員がくじを引き終わった後で下田のみを選びました。 こうやって何とか「公平に」田畑を分配し終わっても、また次の年に "くじ引き" が行われるのでは、せっかく頑張って耕作に励んでも他人へそれを譲る事になるため、敢えて草取りなどをせずに放棄地としてしまう者が跡を絶たないため。この様な「くじ地」の制度を行った所では最低でも3年以上、5年から10年の長期間のスパンで耕作地の取り替えを行う様にしていました。 ただし封建制度の身分社会ですので現代人の感覚で完全に公平になっている訳では無く。この「くじ地」には「くじ株」というモノが対応して割り当てられていて、村民は土地では無くてそれぞれこの株を個人財産として所有していました。そして「1株に付き1くじ」という風に「くじを引く権利」が割り当てられていて、結局は持ち株の数が多い人間が確率的により良い土地をより多く得られる、ある意味では非常に現代的なシステムでした。 尚、実際に現存している資料では、竹札には番号のみが記されており。別紙に土地名と番号の対応表があったみたいです(高知県宿毛市山奈町芳奈の『浜田文書(1851年頃)』など)。また他にも似たような不動産分配方法として「くじ山」や「くじ池(くじ水)」もありました。 >あみだくじ 浄土真宗本願寺第10代宗主の証如が記した『証如上人日記(天文日記)』の中に「去七日あみだの光をし」と記されています。この「あみだの光」と言うのが現代で言うところの "あみだくじ" の事です。元々は「あみだくじ」では無くて「あみだのひかり」と言う呼び方の方が一般的で、今のように「あみだくじ」と言う様になったのはかなり最近、少なくとも江戸時代後期~幕末以降になってからです。 もうお察しかと思いますが、「あみだくじ」の "あみだ" とは阿弥陀如来の事です。つまり「あみだくじ」は「阿弥陀くじ」なんですね。しかしながら前述の通り元々は「あみだの光」と呼ばれていたモノで、現代日本人がイメージする線を階段格子状に書き連ねたいわゆる「あみだくじ」とは全く別のモノでした(添付画像参照)。 本来、「あみだの光」はその名の通りに「阿弥陀様の後光を模したモノ」でした。つまり江戸時代までの中世日本での「あみだくじ=あみだの光」は、階段格子状では無くて「円形放射状の線」を書いてその各線の先に数字などの「当たり/ハズレ」を記してくじ引きを行いました。そして実際にくじを引く際には、中央部分を審判役の人間が手のひらや茶碗、座布団などで覆い隠して参加者には見えない様にしてからそれぞれの線の末端部分に指を置いて選び、全員が指を置き終わったら覆いを開けて結果を見ました。 少なくとも江戸時代まではこのスタイルでの「あみだの光」がスタンダードでしたが、明治以降は現在の階段格子状に線を書いてそれをなぞって行くスタイルになって行ったみたいです。恐らくはキレイな円形放射状に線を等間隔に書くのは、それなりに絵画センスなどがあってもフリーハンドだと難しいので。特別な定規やコンパス等の器具が無くても、紙と鉛筆さえあればすぐに行える現在の「あみだくじ」の方が簡単便利だったんでしょうね。 P.S. 尚、現代だとこれらのくじ引きで占う?のは「当たり(当選者)」ですが…当時は逆に「ハズレ」の人間を決めるために行われる事がほとんどでした。主に行われたのは、前述の様な「土地の分配」の他に村の寺社仏閣を立て直すための寄進料や、村の寄り合いに収める分担金の金額の多寡を決めるため、「あみだの光」を作って誰がどれだけの金額を納めるべきかを決めていました。 現代人感覚だと公費的なモノなのだから、全体の合計額を参加人数で等分に割るか、或いはそれぞれの懐事情に合わせて大小を決めれば良いのではと思いがちですが…封建制度&身分制度の中世社会においては、現代人の常識などは全く通じないので。それがどんなに理不尽でも「神意」には誰しもが従わざるを得なかったのです。
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- pri_tama
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日本のくじの始まりは、元三大師(良源 912~985年)[第18代天台座主にして、比叡山延暦寺の中興の祖]だとされます。 方式としては、みくじ棒と呼ばれる細長い棒の入った角柱あるいは円柱形の筒状の箱を振り、棒を箱の短辺の小さな穴から一本取り出し、棒の端あるいは中央に記された番号と同じ籤を受け取る事に成ります。 なおここで受け取る籤には、和歌や漢詩等が記載されており、実施者の願い事に対する、神様の答えが記載されているとされます。 ただ、正直和歌や漢詩から神様の答えを読み解くのは、かなりの文学に対する素養が必要ですし、個人の解釈の違いも甚だ大きい為、江戸時代には、各和歌に対しての目安(所謂、大吉~大凶までの評価)と、各願いに対する寸評(金運や恋愛運に対する助言)が記載された本が販売され、これがベストセラーに成ったとの事です。 本来は、巫女の身に神様を降臨させて行う物(邪馬台国の卑弥呼などがその例)だったものが、簡略化されて行って現代に続く「クジ引き」の形に成ったとされます。 (まあ、巫女を使うとどうしても巫女個人の思考バイアスの可能性を拭いきれないと言う面も有ったかと…。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 みくじ棒を思い出しました。 昭和20,30年代ごろ「お宮さん」でひいたことがあります。 神社をお宮さんと呼んでいました。 みくじに「お」を付けて「おみくじ」と呼ぶのは、神様の答えを得るから「お」を付けるのか、と納得しました。
- oska2
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>武田勝頼の菩提寺を訪れて、追善供養をし、ついでに名所めぐりをするのが恒例行事となったそうです。 勝頼といえば、自決したのは影武者だった!という逸話が多く残っていますよね。 有名な場所では、高知県。 「武田勝頼土佐の会」が、官民挙げて活動しています。^^; >武士・商人・農民などが何かを決めるときの普通の「くじ引き」とは、どんなやり方だったのでしょうか。 たぶん、「室町幕府6代将軍を決めるくじ引き」を参考にしていると思いますね。 当時は、「神の祟り」には今では想像できない恐れを抱いていました。 「神の意思は絶対」ですから、神社若しくは邸内の(祭壇)神前でくじを引きます。 土浦藩の場合は、藩邸ですね。 祭壇の前に、当たり外れを記した札を入れた「のし袋」を3通おいて各自が引いた様です。 質問者さまに時間があれば、「くじ引き足利将軍」を調べると詳細が分かると思いますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「くじ引き足利将軍」では、「のし袋」を用いたのですね。 土浦藩の場合も武家の名家ですから、この故事に倣ったのかもしれません。 自分の質問より「武田勝頼土佐の会」の方に興味がわいてきました。 武田勝頼は敗走後、土佐の武将・香宗我部氏を頼って、落ちのびた、という説があるのですね。 香宗我部氏の名は初耳でした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「くじ地」は、具体的でたいへん参考になりました。 また、実際に現存している史料(高知県宿毛市山奈町芳奈の『浜田文書(1851年頃)』など) も教えてくださったので、よく分かりました。 「くじ山」や「くじ池(くじ水)」もあったとのこと、昔の人は、今よりもずっと地域の和を大事にしていたのだな、と思いました。