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十津川郷士

wikipedia,を見ると大坂の陣により免訴となっていますが、 この地域は豊臣政権なり徳川政権の検地は入っていたのでしょうか? 生産力の把握はなされていたのでしょうか? 郷士と呼ばれるからには一応は下級武士であり、人別帳の作成等は行われているのでしょうか?動員がかかれば五條代官所に出向くのでしょうか?

みんなの回答

  • fumkum
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回答No.2

「wikipedia,を見ると大坂の陣により免訴となっていますが、 この地域は豊臣政権なり徳川政権の検地は入っていたのでしょうか? 生産力の把握はなされていたのでしょうか?」の質問部分は、 Wikiの『十津川郷士』の、「太閤検地時にも年貢が赦免された。大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、」の記述についてのことだと思います。 十津川郷の太閤検地は、天正15年10月に大和郡山城主豊臣秀長の命で実施され、検地奉行小堀正次の元、郷中1000石の高となったとされます。この時の検地帳が現在九ケ村分残っています。この太閤検地の時に、郷中1000石の年貢は赦免となっていますが、検地を実施し、石高を定めた上の赦免でした。 江戸幕府になると十津川郷は天領(五条代官所管下)になり、年貢赦免は認められますが、北山郷の材木輸送の筏役を課しています。 この背景には、大坂冬の陣に十津川四人衆が奈良奉行中坊秀政に従い軍功を立て、豊臣方に呼応して北山一揆が蜂起すると、大津代官小野宗左衛門の指揮下に十津川郷民千余人が北山郷に攻め入り、一揆の鎮圧にあたった。その功績により郷民の代表四十五人に鑓役米(扶持米)七十八石七斗五升が下されることになり、これが十津川郷士の始まりとされます(以上主に『国史大事典』の記述)。また、寛文郷帳、元禄郷帳、天保郷帳などにも記載があるので、江戸時代にも検地があり、生産力の把握(石高に一部変化があるので)がなされたと考えられます。 ただ、『旧高旧領取調帳』の記述だけは特殊です。『旧高旧領取調帳』は、明治政府が明治時代の初め、多くは明治元年頃の全国の石高・領有の実態を調査した台帳で、江戸時代最末期の状況を把握するための全国調査の結果です。十津川郷のある大和国の調査は、明治元年とされています。この『旧高旧領取調帳』の十津川郷に関する記載は、次のようになっています。 大和国/吉野郡/十津川郷・長殿村/とつかわごう・ながどの/空欄/空欄/0,000000/無高 (旧国名/旧郡名/旧村名/ふりがな/旧領名/旧県名/旧高(1)/旧高(2)) 「無高」、「(旧高)0,000000」ということは、年貢算定の基礎となる石高・村高がないこと、つまり年貢がないことを表します。十津川郷は『旧高旧領取調帳』に記載されている村数で全部で59村ありますが、全て無高です。 これと同じように『旧高旧領取調帳』に記載があり、年貢がない土地には、「除地」というものがあります。例えば、同じく大和国の吉野郡には、次のような例があります。 大和国/吉野郡/川合村/かわあい/八坂神社除地無高/五條県/0,000000/378坪 他の国では、次のような記載例があります。 遠江国/榛原郡/金谷宿/かなやしゅく/長光寺除地/浜松県管下/0,663000/0,663 「除地」は、「じょち」「のけち」と読みますが、特別な由緒、由来がある土地で、年貢を免除される土地のことです。朱印地・黒印地下付以外の年貢免除の土地です。多くの除地は太閤検地、江戸時代初期の検地では、検地を実施しませんでしたが、次第に検地を実施したのち、検地帳に「除地」と記載されるようになります。大和国の川合村のように坪数を記載し、石高0石としたり、遠江国の金谷宿のように石高を0,663石と記載するなりしています。 これに対して十津川郷の場合、『旧高旧領取調帳』で見る限りこのような記載もなく、無高としています。これは、明治2年6月の、十津川郷を兵部省軍務官の管轄に置くことを決定したことに関連すると考えられます。軍務官の管轄になる以前にも、文久3年には中川宮に願い出て、禁裏守護を命ぜられ、天誅組の乱への一時加担があったものの、以降も禁裏守護にあたり、さらに戊辰戦争の大総督軍の御親兵として活躍に対する恩典であったものと考えられます。明治元年と現在考えられている大和国の『旧高旧領取調帳』の調査段階でも、十津川郷は実質朝廷直轄と考えられており、以前の検地の結果も記載せず、このような「無高」とされたと考えられます。 旧高旧領取調帳データベース https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 「郷士と呼ばれるからには一応は下級武士であり、人別帳の作成等は行われているのでしょうか?」 「郷士と呼ばれるからには一応は下級武士であり」の部分が問題で、郷士については、地域、藩などにより扱いが変わり、調べてみると農民身分である郷士も多く存在します。幕府の郷士として有名な八王子千人同心も、現在では基本的には農民身分であったとの説が有力になっています。それも、同心役に付いている時は武士扱い、同心役を離れれば農民身分に戻るということから、中間、若党などと同等の武家奉公人との有力説があります。これと同様な職に代官所の手代、書役があります。手代には御家人身分の者もいますが、農民身分から手代に取り立てられた者もおり、そのような者は手代の職を退くと、農民身分に戻ります(基本身分は農民)。 横道に逸れましたが、八王子千人同心の千人頭(旗本)は200石から500石、組頭は30俵1人扶持、平同心が十(十三俵説も)俵一人扶持という扶持米を取っていても、武家奉公人扱い(基本身分は農民)となると、十津川郷士の四十五人に鑓役米(扶持米)七十八石七斗五升という話も、扶持米があるからと言って武士身分だったとは言えないことになります。『国史大事典』には、「明治四年、郷士はもとより全郷民が士族に列せられた」とありますが、十津川郷士の江戸時代の身分が本当のところはどうだったのか手持ちの資料では分かりません。また、人別帳の作成に関しても分かりません。ただ、八王子千人同心に比べると待遇が格段に落ちる点から考えると、農民身分で、人別にも記載されていたのではないかと思います。 ところで、十津川郷の範囲には、現在では神社しかありませんが、これは朝廷直属と言ってもいい十津川郷は、明治の廃仏毀釈を徹底して実施した結果で、それ以前は当然寺があったということです。 「動員がかかれば五條代官所に出向くのでしょうか?」 上に書いた十津川郷士の成立事情の時点では五条代官所はまだ成立(豊臣氏滅亡直後の元和2年‐1616‐)していないので、奈良奉行・大津代官の指揮下に軍事動員に応じているようですが、五条代官所が成立すると、十津川郷は五条代官所支配地にあるので、基本的には動員命令は五条代官より発せられると考えられます。その場合の集合場所については軍事動員なので臨機応変の場所に命じられ、集まることになると思います。特に、大津代官の命により北山郷に攻め入った時には、北山郷は十津川郷の東に隣接する地域なので、十津川郷に集まり、援軍を待ったとしても、十津川郷内から北山郷に進軍しただろうと考えられます。十津川郷の主要道は、現在の国道168号線を北上する道(天誅組の進軍路)なので、そのまま北上すると五条に至るので、一般的には五条代官所に集合(着到)するのではないでしょうか。 ただ、幕末の文久3(1863)年には、十津川郷士より中川宮朝彦親王に禁裏守護を願い出て令旨により禁裏守護を命じられ、8月に精鋭100名で上洛します。皮肉なことに残存郷民は天誅組の乱に約1000名が巻き込まれ、天誅組に加担させられますが、中川宮の令旨を受けて、天誅組を離脱します。これ以降朝廷の命の下、禁裏守護、戊辰戦争の大総督軍の御親兵として朝廷の命を受けて活動します。この場合は、京都御所に出向くことになると思います。 外にいるので、史料が少なく、類推の部分が多く、冗長な文章になり申し訳ありません。以上、参考まで。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます、資料抜きにこれだけのものを書けることにまず感服します。 >幕府の郷士として有名な八王子千人同心も、現在では基本的には農民身分であったとの説が有力になっています。 うーんこれは不勉強をさらしてしまいました、史実が曖昧だったんだろうに追求するとめんどくさそうなことになりそうです。 >集合場所については軍事動員なので臨機応変の場所に命じられ、集まることになると思います。 まあ現実問題としてはそうなりますね。

  • oska2
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回答No.1

>wikipedia,を見ると大坂の陣により免訴となっています ここは、本当の事も誤った事も色々書いているので有名ですよね。 誰も「記述内容に責任を負わない」ので、信じるか信じないかは、質問者さま次第です。^^; ただ、大阪の陣よりも「古くから、南朝を支持」していた事が大きいのです。 江戸時代でも、(幕府直轄)五条代官の了承を受けて禁裏警備に度々出かけています。 >この地域は豊臣政権なり徳川政権の検地は入っていたのでしょうか? もちろん、検地が入っています。 豊臣政権でも徳川政権でも「隠し田」は、大きな犯罪ですからね。 確か、寛政7年の記録では「7万石」となっています。 >郷士と呼ばれるからには一応は下級武士 下級武士と言いながら、普段は農林業を生業としていました。 >人別帳の作成等は行われているのでしょうか? 人別帳と言うか否かは、分かりませんが・・・。 幕末の天誅組の乱では、郷士の素性が確定していますね。 ですから、何らかの名簿があったのでしよう。 >動員がかかれば五條代官所に出向くのでしょうか? その通りです。 郷士は、幕府・五条代官所からの命で出向きます。 常に、郷士と代官とは上司・部下の関係だった様です。 幕末、中川宮(明治天皇の祖父)から「禁裏守護」の命が届いた時。 郷士は、禁裏に行く事を希望したが「郷士の家族は、不安な情勢下では反対」。 そこで、郷士は代官・鈴木源内と相談。 代官は「名誉の誉れ」として、郷士に禁裏御用を命じています。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >そこで、郷士は代官・鈴木源内と相談。 代官は「名誉の誉れ」として、郷士に禁裏御用を命じています。 図らずも一番面白い回答が聞けました、代官が勝手に?許可を出してたんですね。こいつら幕領郷士のくせに好き勝手して何者かよって思ってました。

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