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代官所の規模

先祖の地元の村、近くの村に同じ藩の三箇所代官所がありました その三箇所のうち、一つの代官所だけ他二箇所より倍以上の建物の大きさ、部屋数があり代官の他に手代が6人いました 他の小さい代官所二箇所も同じく手代が6人だったそうです 代官所の規模の大小によって、手代の人数が決まってたわけじゃないんですか? それと、手代だけで手付はいませんし、小さい代官所二箇所は江戸幕末には人員整理などを繰り返し代官がいない状態で手代6人だけで運営してたみたいです 手代だけの代官所は珍しいですよね?

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回答No.1

>先祖の地元の村、近くの村に同じ藩の三箇所代官所がありました 大名領(藩)の体制(組織、身分、所掌範囲、権限)は各大名それぞれでした。 結果として一般論は非常に難しいのが現実です。 以下は超大雑把な説明になりますことをお含みおき願います。 従いまして、質問者さんのご先祖様の地元に該当しないかも知れません。 >一つの代官所だけ他二箇所より倍以上の建物の大きさ、部屋数があり代官の他に手代が6人いました。 個々の代官所の歴史的な経緯の違いかと思います。 江戸時代の役所というのは代官所に限らず拝命した人の私邸が使われるのが大半でした。 大名の家臣は土地や屋敷が支給されていました。 大きな代官所というのは代官を拝命した人が建物ごと支給されていたのではないかと思われます。 >代官所の規模の大小によって、手代の人数が決まってたわけじゃないんですか? 代官所の規模というよりも支配地域の大小によって違っていました。 一つの村を支配するのか複数の村を支配するのかの違いです。 更にその時々の事情で欠員が出たり過剰だったりすることがあります。 >手代だけで手付はいません 手付は大名の家臣が拝命していました。 手代は就任中は武士と同様の扱いをされていましたが、厳密には武家奉公人扱いで身分は百姓でした。 多くは村役人の中から選ばれていました。 >小さい代官所二箇所は江戸幕末には人員整理などを繰り返し代官がいない状態で手代6人だけで運営してたみたいです 手代だけの代官所は珍しいですよね? 大名家の家臣は城下町に居住することが義務付けられていましたので、代官を拝命した人は城下町内にあった私邸を代官所として届け出て任地での実務は手付、手代などに一任していて任地に居住しない人が多々いました。 どこの大名も財政が苦しく半知借上などと称して家臣の俸給を削減していました。 手付を拝命していた家臣は元々俸給(禄高)が少ない人達でしたので忽ち生活が苦しくなります。 内職仕事などない農村よりも商業が発達していた城下町暮らしを望みます。 手代は元々地元の裕福な本百姓ですので大名からの俸給にたよることなく生活ができました。 そんなこんなで代官も手付も常駐していない代官所というのは特別珍しいものではありませんでした。 蛇足 江戸時代の大名というのは幕命一つで領地を転々と移動していました。 結果的に「地頭は当座のもの百姓は末代のもの」などという言葉が生まれました。 大名が誰であれ村を実質的に統治していたのは村役人でした。 課税である年貢も村単位でした。 この村に課せられた年貢を誰がどれだけ負担するかを決めていたのが村役人でした。 大名の家臣である代官はこの村単位の年貢を村役人の代表に下命して命令通り納められたか否かを確認するだけでした。 この村役人と代官の間に入って実務を執り行っていたのが手代でした。 年貢も米や作物などの現物だけではなく領内の治山治水工事に携わる夫役というものがありこれを村内の誰がやるのかなどと極めて煩雑な業務があり地元の事情に詳しいことが必須でした。この地元の事情に詳しい人が地方巧者などと呼ばれ手代に就任していました。 つまり地元の実情に疎い代官は地元にいてもいなくてもよかったということです。 逆に、代々代官職を努めていた人の中には下手な地方巧者よりも詳しい人がいて名実ともに支配していた人もいました。

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