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武士リストラ

江戸幕府後期、幕末は譜代の藩も、大変で仕方なく藩士をリストラしたらしいです 在郷藩士も仕方なくリストラされたかたがいたと思うんですが、リストラされた在郷藩士で屋敷、田んぼを所有していても、浪人ですか?それとも郷士か百姓になるんですか? ご先祖は在郷藩士で何代か世襲してた氏名を後期は名前の部分だけ違うのでリストラされた可能性があります

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回答No.6

No.4です 補足を頂戴しました >それはもし鎮圧出来なかったら、在郷藩士、郷士も罰を受けるんですか? 罰を受けたというような史実がありませんのでよくわかりませんが不手際だったということだけでは罰するようなことはやらなかったでしょう。 そもそも百姓一揆というのは単なる不平分子による騒乱ではなく必ず要求事項を持っていました。 この要求事項を藩が認めるか否かということですので、結果がどうであれ折衝の窓口である人間を処罰するようなことはなかっただろうと思います。 >それとも、罰を受けるのは地域の代官所の代官、手代ですか? 一揆を制圧できたか否かというよりもなぜ一揆が起きるような統治を行っていたかということに対する御役御免などはあったかと思います。 一揆勢の勢いにおそれをなして代官所から逃亡した役人もいたようです。 参考 幕末の上州における一揆 騒動について - 高崎経済大学 www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun6-4/suzuki.pdf 一揆ではありませんでしたが国定忠治のような無法者による騒乱でも代官はお構いなしでした。 代官所だけでは捕縛できなかったことから最終的には江戸から捕縛隊が派遣されました。 現在国定忠治の史実が正確に分かるのは代官が経過をいちいち勘定奉行へ報告していたおかげです。 >珍しい存在だったんですかね そもそも武士階級の人間が全人口の3~5%程度でしたので郷士身分の人達はこれよも少なかったと思われます。 藩によって名称や取り扱いは違っていてもどこの藩にもいましたので人数が少ないだけで珍しいと言うことはなかったでしょう。 蛇足 百姓一揆というのは江戸時代よりも明治に入ってからの方が頻発していました。 江戸時代には藩が幕府から援助金を貰うさいの理由付けに使われることが多々あったようです。 一揆がおきるほど凶作で財政が逼迫していると嘆願していたようです。 酷いのになると上手く補助金を手にした藩の書状をそのまま日付や藩名を変えただけの文書が残っているそうです。 早い話が八百長だったということです。

その他の回答 (5)

  • ithi
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回答No.5

sokoo0823さん、こんばんは。 武士がリストラされたら、帰農して郷士や百姓をするか、商人になるか人様々です。

回答No.4

>リストラされた在郷藩士で屋敷、田んぼを所有していても、浪人ですか? 「ろうにん」と言う用語は牢人、浪人とかき分けられていて当初は別な意味合いの用語でした。 藩主などと主従関係を持たない武士は牢人とされていました。 浪人は浮浪する者という意味の用語でした。(身分とは無関係でした) 島原の乱以降はこの使い分けが曖昧になり一括して浪人と呼ばれるようになりました。 このような意味合いからするとリストラすなわち藩主との主従関係を持たなくなって居るという意味では浪人ということになります。 >それとも郷士か百姓になるんですか? 郷士という身分の定義というか位置づけは極めて巾が広く各藩によって異なっていました。 大雑把に言うと在郷武士という概念です。 薩摩藩などの例を除いて大半の藩では藩士は城下町に在住することが義務付けられていました。 郷方役人、代官など役職上城下町の外に仕事がある場合は例外として城下町外に居住することが認められていました。 郷士とされる者は江戸徳川家(幕府)をはじめ大半の藩では身分としては百姓とされていました。 つまり郷士が百姓になるのではありません。 多くの藩では戦になった際に郷士は藩主の下知に従って戦闘員として働くことが求められました。 戦が途絶えた江戸時代中期以降はこの義務を果たすことが要求されるような事態は起きませんでした。 万が一百姓が一揆を起こした際には鎮圧側になることが求められました。 百姓側も郷士を一揆に引き入れることはありませんでした。 >ご先祖は在郷藩士で何代か世襲してた氏名を後期は名前の部分だけ違うのでリストラされた可能性があります。 代々受け継いでいた名前を受け継がなかったご先祖がおられても藩主との主従関係が途絶えたためだとは断言できません。 各藩で藩の財政負担を軽減するために藩士の帰農を促した際に自力で収入の道があった郷士が真っ先に対象になりました。 なお藩士の帰農政策は寛政の改革期に盛んに行われたようですが、実際に帰農に応じた藩士は極めて少なかったようです。 結果として郷士身分の人達が多かったようです。

sokoo0823
質問者

補足

百姓が一揆になった場合、鎮圧する側にとありますが、それはもし鎮圧出来なかったら、在郷藩士、郷士も罰を受けるんですか? それとも、罰を受けるのは地域の代官所の代官、手代ですか? 私の、ご先祖の地域も江戸時代に、いくつか一揆がありました、在郷藩士である、ご先祖は一揆を止められたかは分かりませんが、罰を受けた記録はありません 在郷藩士と呼ばれる人はどれくらい、いたかは分かりませんが、珍しい存在だったんですかね

  • jkpawapuro
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回答No.3

まず前提として、一般的には郷士って武士身分が多いのですが、藩によっては農民扱いもあります。個別に見るしかありません。 土佐藩の地下浪人という表現が有名ですね。 郷士というのは一般的にはもともと半農の武士です。ですから藩からの禄(給料)を失っても、身分は武士であり浪人という形になります。そしてもともと半農ですので、禄を失っても身分は武士のまま農民のように自分の田畑で生計を立てるということになります。町を歩くときは一応竹光を腰に差して歩くものの、普段は肥え桶しょって田畑を耕してるわけですね。 >氏名を後期は名前の部分だけ違う これはどういう意味でしょうか?たとえば代々鈴木伊右衛門を名乗っていたのが、ある代から鈴木半兵衛とかに変わったということでしょうか? 話しがよくわかりませんが養子を取り郷士株を売ったような形跡はありませんか?

sokoo0823
質問者

補足

鈴木伊右衛門が鈴木半兵衛になった⇦そうです、名字は変わらず名前だけ変わりました、例えば、名前が初三郎とか 郷士株を売った記録はないです

  • stss08n
  • ベストアンサー率16% (454/2764)
回答No.2

●武士のリストラも、そうだけれども人間が生きていく上で、気候の変動と毎年々”天候に左右される収穫高(米他雑穀作り等)と天変地異”地震、雷、竜巻、砂嵐、害虫退治、冷夏とか激熱な四季の変動と機械化したくても”機械化知識が無いし、相応しい学校も無いし武士達は”只、年貢取り立てだけに汲々してるものでしょう。 ●何より、金属類”不要な鉄(てつ)等は、持つと罪な時代です。●不要な持っていれば、TV・新聞等ナイ時代は庄屋:地主:村の長(おさ)だけ頼り”貧窮刻苦時代でしょう。 ●正しく”卓見で時代現実感溢れた内容に何とも敬服しています、ご尤もですが。 ●”封建社会=身分社会では”苗字姓名等、武士だけ特権階級な事なのでしょう。 ●畑仕事を”したくても”草狩り用の釜(カマ)・くわ・防水用”履物だって”無いから ●武士は、田植えとか畑仕事、農作業全般”何も出来ないし”只、ボーッと見てるだけなもので”まるで、役立たずなものでは、”無かろうか”想像を絶する、息苦しくて、何とも凄くケバケバシキ悲惨な状況で、大変な時代なものでしょう。

回答No.1

平和が維持され、戦闘などの職務の出る幕がなくなるとそうなりますね。 小説でも”お土居下十七人衆”っていうのがありますね。 悲惨でした。

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