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同じ苗字、同じ家紋
江戸時代に私の母の先祖の隣村に二つの村を開拓に成功し、名主になった家があります その名主の菩提寺には目立つ所に名主の階段、囲いつきの巨大なお墓、名主と同じ苗字、同じ家紋のお墓が10数の家それぞれあります(他の苗字の家のお墓もある) 隣村のうちの先祖にも、その名主と同じ苗字、家紋がありますが、親戚ですか? なにかのいい伝えでは、その名主の家が隣村である私の先祖の村にきて名主になったというけど、苗字は同じだけど名前が違うんで違うと思います 村に名主になれる人がいないからといってわざわざ引越してくる意味が分からないですから それともう一つ私の先祖にも本家、分家があり、本家が名主という説があります
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No.5です 補足を頂戴しました。 追加の説明をさせて下さい。 >ご先祖様のお寺は、その名主の菩提寺のお寺から少し離れた(2キロぐらい)とこにあります. 問題はいずれのお寺さんも過去に引っ越したことがあったかどうかです。 お寺というのは建物が大きいことから臨時に多数の人間を宿泊させることができます。 この為に領主(大名)はお寺を出城や防塁の代わりにしていました。 江戸時代には一国一城の制度で城郭の建築が制限されていましたのでお寺がよく使われていました。 この結果領主(大名)の意向でお寺はしばしば引っ越しをさせられていました。 この引っ越しの際にはご本尊などは持っていきましたがお墓は放り出していきました。 墓石も使えそうなものだけを持って行き、後は更地にしてオシマイでした。 更に最近は檀家が減り無縁墓が増えてきています。 このためにお寺としては墓地を整理して新しい墓地用の土地を確保することをやっています。 墓地を整理して古い墓石を取り除くことは古くから行われてきていました。 古いお寺さんへ行くと古い墓石を積み上げてあることがよくあります。 つまりご先祖を探す際には菩提寺さんの来歴を確認しておく必要があるということです。 >名主とは直系じゃなくても傍系の子孫とか言われたことも、ありますが 下記のサイトにありますようにお墓の位置関係でも分かることがあります。 参考 先祖の墓石から分かること htttp://uguisu.skr.jp/history/haka.html とは言えお墓が下記のような状態だと難しいかも知れません。 お墓のある風景 http://1st.geocities.jp/edenno2/hakanofuukei.html ご先祖をお捜しのようですが下記のようなサイトがあります。 参考 先祖探し http://1st.geocities.jp/edenno2/ 要領が詳しく掲載されています。 但し、家紋の継承についてはやや違いますのでご注意下さい。 投稿者が関西の方のようですので関西の風習をそのまま掲載していますが、関東では全く異なります。 参考 [母系紋] 女紋 -きものトータルケア 大宮華紋森本- - 染色補正森本 http://www.omiyakamon.co.jp/onna-mon/03-1.html 抜粋 江戸中期から発生したとされる女紋は、各地によって異なった習慣が定着していった。 この母系紋の習慣は尾張から西に発生したとされ、現在もなお瀬戸内海沿岸を中心とした西日本に定着している。 >因みに、ご先祖様は、江戸時代は経済的に力があったそうです おそらく広い田畑をお持ちだったのでしょう。 敗戦直後に農地解放という政策が行われました。 参考 RIETI - 農地改革の真相-忘れられた戦後経済復興の最大の功労者 ... http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html 抜粋 在地主の所有地の全ておよび在村地主の5ha(大臣の案は1.5ha、農林省当局の説得により3ha、5回も行われた閣議での松本国務相の執拗な反対により5ha、このとき松村農相は涙したといわれる)の保有限度を超える農地を地主と小作人の直接交渉によって小作人に買い取らせる。 地主が土地を解放する際地主と小作人との間で協議させ、まとまらない時は知事が'裁定'により農地の所有権を移す。 この結果、質問者さんのご先祖に残されたのは5haだった思われますが、耕作する小作人がいませんので次々と手放して行ったかと思います。 更に民法の改正で兄弟が等分に分割相続するようになりましたので、現在質問者さんがお持ちの土地がかろうじて残ったということでしょう。
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- ichikawa2017
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>階段、囲いつきの巨大なお墓 周りの土地よりも高くして石垣などで支え柵を巡らせたお墓は累代墓と呼ばれ全国にあります。 高くなった墓域には複数の墓石があります。 >名主と同じ苗字、同じ家紋のお墓が10数の家それぞれあります(他の苗字の家のお墓もある) 上記の墓域の中でしょうか。 菩提寺の墓地全体でのお話でしょうか。 墓域の中であれば家代々の方のお墓です。 >隣村のうちの先祖にも、その名主と同じ苗字、家紋がありますが、親戚ですか? 苗字と家紋だけでは何とも言えませんが親戚であった可能性はあります。 >苗字は同じだけど名前が違うんで違うと思います 江戸時代の人は一生の間に頻繁に名前を変えていましたので何とも言えません。 >村に名主になれる人がいないからといってわざわざ引越してくる意味が分からない 名主(庄屋)という役職の継承の仕方は村やその時の情勢などで変わります。 (1)代々同じ家が就任するケース (2)一年ごとに交代するケース (3)本百姓による「入札」(いれふだ)と呼ばれる選挙が実施されるケース などがありました。 (1)(2)のケースのときに継承すべき名主の家に適任者がいなかった場合は婿養子を迎えて形式上世襲名主や輪番名主とすることがあり得ます。 (3)のケースであれば、村内に適任者がいなければ、村内の村役人の家に婿養子を迎えて入れ札で承認することが可能です。 名主(庄屋)という役職は村の百姓の代表であるだけではなく領主側からは末端官僚として働くことが求められていました。 村人どうしで争い事があると調停役を務める必要もありました。 これらの仕事をこなすだけの才覚と知識が必用でると同時に経済的な負担に耐えるだけの財力も必要でした。 気も使えば金も使わせられる役職でした。 誰にでも務まる役職ではありませんので村外の近隣に適任者がいれば招聘することは充分あり得ます。 当時の婚姻は当人どうしの意向よりも「家」どうしの意向が優先されました。 さらに「家」の格が同じであることが優先されました。 つまり村の名主(庄屋)の家が近隣の名主(庄屋)の家と姻戚関係にあるということは珍しいことではありませんでした。 蛇足 江戸時代の百姓階級は小作人を使うほど広い田畑を持った本百姓、一家が暮らしていくだけで精一杯の狭い田畑を持つ小前百姓、本百姓に雇われている小作、田畑を持たずに借りている水呑百姓と階層化していました。 本百姓は年貢を納めるだけではなく堤防工事や道普請などに必要な賦役という労働力の提供がもとめられました。 本百姓はこれを全て小作人や田畑を貸し付けている水呑百姓に負担させていました。 江戸時代の農民一揆というのは、この本百姓クラスと水呑百姓などの弱小百姓との間で起きた紛争が大半でした。 領主を相手どった百姓一揆は極めて稀でした。 この一揆をおさめるのに当たり本百姓は名主(庄屋)を通じて領主が持つ武力に頼りました。 領主は名主(庄屋)がおさめるように下命しました。 名主(庄屋)は完全に板挟みになります。 このような事態に至らないように日常的に村内を走り回ることが名主(庄屋)の責務でした。
- SPS700
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#2です。補足です。 >> お墓は全て明治以降に建てられた新しいものですね。私の先祖は神社に数百坪を寄進し、近所に住む本家と言われる家を金銭的に助けたこともあるらしいですそれと昔の家を建て替えるとき、古い掛け軸がたくさん出てきたらしいですが、興味がなく全て燃やしてしまったらしいです江戸時代は豪農だったと思われます。明治以降は広い田んぼも数百坪の畑を残し、どうしてか無くなってますその地域に伝わる文章の中に、神社に土地〇〇〇坪を寄進したものは、名主、〇〇〇〇だとあります 江戸時代は300年、1世代を30年とすれば、10世代。農家は労働手段の補充から少なめに見ても子供3人あったのではないかと思います。 そうすると3の10乗で、江戸初期は2人でも、江戸末期には9万に近くなり、その半数が男子で同じ名字だとすれば親戚の可能性は高いと思われます。
- fujic-1990
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> 親戚ですか? うーん、親戚かどうかは、その名主さんの家に言って「我が家はお宅の分家ですか?」とお聞きになるしかないと思います。 昔、「熊沢天皇事件」というものがありました。戦後、名古屋の熊沢某さんが、古文書をたくさん示して「私が南朝の正当な子孫である」と名乗り出たのですが、物笑いの種にしかなりませんでした。 我が家の例で言えば、本家から分家して150年くらい、本家は総本家から分家してどれくらいなのか聞いたことがありませんが、合計で2~300年前くらい経っているものと思います。 分家時には水呑百姓の我が家ですし、我が家からの分家もあるわけですが、それでもみんな総本家(有数の資産家)から一族(遠いながら親戚)扱いしてもらっていますよ。もちろん、なにかある場合は、ですが。 平家の落人のような、氏素性を隠す家柄でないなら、300年くらい前でも語り継がれて覚えていますよ。 その名主の家が「オマエなんか知らない」と言うのであれば、根拠に姓や家紋を出しても、古文書を提出した熊沢さんのごとく嘲笑されてしまうのがオチだと思いますので、ぜひ、名主さん宅を訪ねられることをお勧めします。 もう1つのほうの、名主が他の村を管理するために引っ越す件ですが、1例を知るのみですが、珍しいことではなかったと思います。 江戸時代は、名主様も農民支配の官僚ですから、優秀であれば。 私の住む所の名主様も、もともとは(当時としては)かなり遠くの旧村にいたのですが新田地(新開地)の村も管轄することになり、旧村にいると新田地の様子がわからないからと言って、余所からひっこして来た家だったと記憶しています。 で、ここらを含む数か村を担当したいたように聞いています(子供のころ聞いた話なので自信はあまりありませんが)。 ちなみに、その家と分家は姓が違います。 「名誉ある姓を分家にはやれない」と判断して変えられたとか・・・ でもそのこと(姓が違うことの経緯)は村史にも書いてあることらしいので、真実なのでしょう。もちろん、何軒かあるB姓の家がA(名主)さんの分家(一族)であることは、村内みんなの周知の事実です。
補足
地元の史料に載ってる私の先祖の村の名主の名前が、その隣村の名主と名前が違いますね。苗字は同じです 流石にその名主だったお宅にいって聞けないですね。たぶん全く関係ないんですかね
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
隣村のうちの先祖にも、その名主と同じ苗字、家紋がありますが、親戚ですか? その可能性はあると思います。 家紋や苗字は、明治の初めに名主や地域の著名人に倣って、お寺さんなどに頼んで大量に作ったものもあり、血統の証明としては弱いと思います。
補足
お墓は全て明治以降に建てられた新しいものですね。私の先祖は神社に数百坪を寄進し、近所に住む本家と言われる家を金銭的に助けたこともあるらしいです それと昔の家を建て替えるとき、古い掛け軸がたくさん出てきたらしいですが、興味がなく全て燃やしてしまったらしいです 江戸時代は豪農だったと思われます。明治以降は広い田んぼも数百坪の畑を残し、どうしてか無くなってます その地域に伝わる文章の中に、神社に土地〇〇〇坪を寄進したものは、名主、〇〇〇〇だとあります
- 中京区 桑原町(@l4330)
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名字を表す紋章が家紋です。 だから名字が同じなら家紋も同じ可能性は高い。 家紋は3000~4000種と言われてますが、苗字は30万種あるそうです。 そうなれば一つの家紋に100種の名字がある計算になる
補足
ご先祖様のお寺は、その名主の菩提寺のお寺から少し離れた(2キロぐらい)とこにあります 名主とは直系じゃなくても傍系の子孫とか言われたことも、ありますが、やっぱり家紋と苗字くらいじゃ分からないですよね お寺も違いますし 因みに、ご先祖様は、江戸時代は経済的に力があったそうです