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和歌山城
テレビで頼宣公の和歌山の城作りや権現社を見てると、どうにも大藩とはいえ1藩でやるには壮大すぎに思えます。天下普請でもあるまいし名古屋より規模がでかいような。これは総構えが無いから案外金がかかってないということなのでしょうか? 何か頼宣に巨大資金源があったのでしょうか? あとふと疑問に思ったのですが、尾張家の附家老に比べて、紀州の附家老は妙に新宮と田辺という紀州藩の経済的に一番おいしいところをぶっこ抜いてるように思えます。 これは家康と秀忠でなにか藩の成立経緯に違いがあるのでしょうか? たんに附家老にふさわしい城(江戸時代の用語で言えば陣屋?)が他の地になかったのでしょうか?
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なるほど、和歌山城は巨大に思えましたかぁ。 異を唱えるようで申し訳ありませんが、私は和歌山城へは2度登ったことがあります。が、残念ながら権現社には一度も行っていません。そのせいか、それほど壮大とは思えませんでした。 その上で、首里城焼失の後、あわてて名古屋城の再建御殿を見に名古屋城へ行って来ました。 城地を隅から隅まで歩き回って、天守閣はもちろん御殿の壮麗さ、城地の広さに「さすがは天下普請」、「御三家筆頭」と感心してきました。 > 何か頼宣に巨大資金源があったのでしょうか? ノンフィクションはもちろん、小説的にも「頼宣に巨大資金源があった」と書いたものは読んだことがありません。 加えて、吉宗が紀伊の太守になる以前から、紀伊徳川家の財政は火の車。それを建て直したのが認められての将軍就位のようです。資金源があれば、そこまで財政難になりはしなかっただろうと思います。 ただ、家康が彼の剛毅さを愛でたのと、駿河(50万石)という縁の深い土地を離れて「難治の地」和歌山(55万石)に移らせるのをかわいそうに思って、金銭的な補助をたくさんくれたようではありますが。 ものの本によると、1619年紀伊へ来て、1621年に和歌山城の大改修をしたようですね。 > 新宮と田辺・・・ 新宮は水野重仲、田辺は安藤直次ですが、安藤は前任が「老中」(遠州掛川2万石)だったようですから、直臣の老中が「陪臣」になるわけですので、すごい格下げです。 それをなだめるためにも、良い土地をたくさん(田辺38,000石)などを与える必要があったのではないでしょうか。
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- g27anato
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あまり詳しい事は知らないんだけど、 元々が秀吉が自ら土地を選んで弟秀長に建てさせたものだから、 既にその時点で、それなりの規模だった筈。 その後も何代か城主が代わる度に増築され、 徳川の代になって頼宣が御三家として継いだ時の経済規模は、石数で比較したら秀吉当時の10倍くらいだったみたいだから相当にデカくなってたと言えるんじやないかな。 そこにもってきて兄貴の2代目将軍秀忠が資金を出して大天守を建てさせたらしいから、そりゃあ将軍の弟として恥ずかしくないものを建てさせたのは間違いないだろうね。 後の大火災で天守を失った時も、御三家ということで特別に再建を認めたそうだから、やはり立派なものをと考えたんじゃないかな。 紀州といえば文左衛門の伝説があるように、確かに経済は潤っていたと思うけど。 新宮と田辺には紀州の3割ほどの所領全てではなく、その半分程度の石数を与えていたようだけど、それはそれで大変なものだったろうね。 ま、稼いでくれてるから報酬の意味も大きかったと言えるのかな。 紀州家の気にいられなきゃ、将軍の命で転藩もできただろうとは思うけど。
お礼
ご回答ありがとうございます、お礼が送れ失礼しました。やはりあの城を建てた(資金を出した)のは秀忠ということなんでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます、お礼が遅れ失礼しました。 >家康が~金銭的な補助をたくさんくれたようではありますが。 やはり幕府資金なのでしょうね。 >安藤は前任が「老中」 晩年の家康がかわいい末っ子に最側近を送り込む背景ですね。 しかしなんというかよく1635年まで加増に見合うよう働きぬいたものです。