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秀吉対家康プラン
- 豊臣政権は秀吉死後、家康に簒奪されるが、秀吉は家康を敵視しており、対策を練っていた
- 対家康プランとして、三河から関東に移封し、徳川領周辺に徳川に敵対する大名を配置
- 婚姻政策ではお江を従兄弟の正室とし、関係を築くことで外交ルートを確保しようとしたが効果は薄かった
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>何がまずくて、 何が足りなかったのでしょうか? 日本史上空前にしておそらく絶後であろう不世出の成り上がり者であった豊臣政権は、そもそも権力が永続できるような政権ではなかったのです。 まず秀吉には譜代の家臣というものがいませんでした。徳川四天王のような鉄の結束を持つ家臣団がいなかった。確かに加藤清正や福島正則、石田三成のような家臣はいました。彼らの忠誠心はものすごい篤いものでした。しかし、その忠誠心はあくまで「秀吉個人」に対するものであって、徳川家の家臣のような「徳川家そのものに対する忠誠心」ではなかったのです。 またブレーンの質と量も違いました。優れた野戦指揮官であった本多忠勝のような人物から、実は政治家として優れた調整能力を持っていた井伊直政、陰謀に長けていた本多正信、謎の和尚天海など、武人から胡散臭いのまで多士済々です・笑。 何より秀吉の弱かったところが、あまりに一族に人材がいなかったということです。親戚筋はみんないかにも農民という政治家として無能な人たちばかりでしたし、女さえいなかった。家康との講和で家康に側室を入れることになりましたが、その手持ちの駒さえなく、40過ぎで元はといえば農家の奥さんだった女性を朝日姫などと仰々しい名前を付けて、しかも夫と無理やり離縁させて嫁がせたのですから。自分の娘や血族の娘などをばら撒いて一族衆に取り込むことさえできませんでした。ただ一人、豊臣秀長という傑物だった弟が一人いただけです。 豊臣政権の文字通りの扇の要だったのは、秀長です。彼がすべてだったといってもいいのです。秀長が家臣団を締めていたからこそ清正や正則らと三成たちとの対立も表面化せずに済みましたし、千利休もやりたいようにできていたのです。 豊臣秀長が死んだわずか1ヶ月後に千利休が切腹、その後朝鮮出兵、秀次事件と豊臣政権は坂道を転がり落ちるように弱体化していきます。 秀吉が秀長が元気なうちに先に死に、秀次でも秀頼でもどっちでもいいのですが後継ぎがスムースに決まり、その後見人として秀長が睨みを利かせていて、秀長より先に家康が死んだら豊臣政権は安定したかもしれません。 しかしどちらにせよ、豊臣政権というのは、秀吉という不世出のカリスマがいたからこそのものだったのです。それはダイエーと同じだったといえるでしょう。ダイエーも中内功というカリスマが老いてしまったら勢いを失い、何度も再建策が模索されながら結局遂にダイエーの名前がなくなることになりました。日本マクドナルドも藤田田氏がすべてでしたね。予言しますが、孫正義なきあとのソフトバンク、柳井正なきあとのユニクロ、鈴木敏文なきあとのセブン&アイも同じ道をたどる可能性があると思います。特にユニクロは柳井氏がダメになったらまっさかさまだと思います。 徳川政権というのは、自民党と同じなんですよ。誰がやっても上手く回るような官僚システムを作り上げたんですね。それは必ずしも家康だけの功績とはいえず、保科正之の功績も大きいのですが、とにかく「どんなバカな君主でも最大多数の最大幸福が与えられる」という組織を作れたことが徳川二百年の安泰に繋がったのだと思います。 豊臣政権なら、これはもう予測は不可能ですが、秀吉と家康が先に死んで秀長によって平和と安定が維持できたとしても、秀長なき後がどうなったかは分からないですね。
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伊達を潰さなかったのも失敗ですね。 東北で上杉の味方がいなかった。
お礼
回答どうも。 たしかに、史実で親徳川で動いた伊達をつぶして 反徳川の誰かを配置できていれば、と思いますね。 誰かといえば、なかなか思い浮かびませんが。 そう考えるとやはり佐竹の中立が痛い。西軍で うごいてくれたらまた違った結果になったかも しれませんが、状況的に西軍になったら、東軍に 瞬殺されていたでしょうか。
- titelist1
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秀吉が徳川家を滅ぼせなかったのは徳川の軍事力が強大であったからです。言いがかりをつけて合戦をすると豊臣政権の崩壊につながったと思います。暗殺することも考えたと思いますが、家康が用心深かったのでしょう。 千利休の映画にもあったように利休に暗殺を命じたが利休がそれに従わなかったのかもしれません。利休が切腹さされた後に妻も娘も殺されています。大徳寺山門の不敬だけでは説明できません。口封じではないかと思われます。 家康に朝鮮出兵を命じていないのです。朝鮮の戦いに紛れて暗殺も出来たはずですが、それをさせられない力が家康にはあったのです。小牧・長久手の戦いで秀吉が家康に敗北しているからです。
お礼
回答どうも。 利休切腹の真相ですか。
- titelist1
- ベストアンサー率25% (712/2750)
秀頼が秀吉の本当の子でないことが、豊臣家臣団の忠誠心を弱めたと思います。秀吉にたくさんの子が居たら豊臣家は滅んでいなかったと思います。秀頼の父親は大野治長と言われています。秀吉は淀君が懐妊したとの知らせに本当に自分の子がと疑いの手紙を書いています。秀吉は九州・名護屋城に居て心当たりが無かったのです。近臣の家臣も日記で淀君の懐妊を疑っていました。ちまたでも噂になり張本人を処刑しています。成人した秀頼は背が高く、秀吉に似ていないのです。徳川家が大奥を作り側室を管理したのはそのためです。 秀吉の正室が淀君との確執で家康側についてことも関ヶ原の敗北につながった。秀頼が秀吉の本当の子であれば正室は秀頼を盛り立てたはずです。正室が養子として育てた武将が関ヶ原の東軍に味方したのは正室の意向が関係していたと言われています。 家康は合戦がしたくて、上杉討伐の前に前田家に疑いを掛けたがまんまと逃げられ、次は細川を生け贄にしようとしたがこれも失敗し、純朴な上杉家がまんまと引っかかったのです。遠方の会津に帰国していたことも原因でした。 関ヶ原の合戦で西軍が敗北すると豊臣に勝ち目はない。それでも豊臣を滅ぼすのに15年も経過している。二条城での家康と秀頼との謁見がきっかけとも言われる。立派で凛々しい秀頼を見て禍根を絶とうと思ったのでしょう。
お礼
回答どうも。
- lv48
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十分な考察だと思います。 プラスするなら小早川秀包の処遇。 秀秋に追い出された、この偉丈夫な英傑を厚遇すればよかった。 http://94979272.at.webry.info/201204/article_28.html 小早川秀包と立花宗茂がキーマンになれたかもしれない。 http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3affa311dc5168640d2c1f124c06eb9e 関ヶ原が1日で終わらなければ、上杉、真田、黒田がもっと活躍出来たでしょう。 秀秋は、秀次と一緒に切腹させてしまえばよかった。
お礼
回答どうも。 やはり、それ以上は無しですか。
補足
失礼、お礼のコメントは 小早川秀包と立花宗茂が抜けてますね。
- jkpawapuro
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対外的な政策としては封じ込め策はきちんと行っています、最上のレベルだと思います。 単に豊臣家の内紛問題です。 秀次・ねねによる後継体制から秀頼・茶々・三成後継体制に切り替えたがために、豊臣家の主力たる福島加藤黒田といった豊臣恩顧が家康にのっとられたのが豊臣政権が覆された致命的な要因です。何が悪かったかはいろいろあるでしょうが、まあ当時の一般的な武家にならうならば秀頼を茶々から切りは無し確かなモリヤク(利家?)なり正室ねねの下で養育しなかったのが家が割れた一番の原因といえるでしょう。 あと家康に”「秀頼のこと、お頼み申す、秀頼のこと、お頼み申す」と涙ながらの哀願をした”云々のあたりは、もはや秀吉が正気を保っていたか惚けていたか怪しい時期ですので、深く考えても無駄かもしれません。
お礼
回答どうも。 対家康としてはそれ以上やることはなく、 豊臣家中の問題ということですね。 ここで質問するのもなんですが、 秀頼が元服するまであまりにも豊臣家が 不安定で何か対応策は考えなかったのでしょうか。 それが秀次で前田利家で家康だったのでしょうが。
- あずき なな(@azuki-7)
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と言うより 策謀において家康のほうが一枚上手であり 忍耐勝ちと言うところでしょう 秀吉が死ねば跡取りの秀頼が幼少である以上 天下がおぼつかないのは誰の目にも明らかだった 多分どんな施策をとっても家康は天下を奪ったと思いますよ 秀吉が天下を安定にする唯一の方法は 征夷大将軍となって幕府を開き 家康のように子沢山である事 これ以外に豊臣の天下を守れる方法は無かったように思います それに 家康は豊臣家を滅ぼすつもりは無かった 秀頼が河内に国替えをすれば最終的に摂津65万石を安堵するつもりでした しかし淀が応じなかったため 結局は反逆者として滅ぼしてしまったわけです(徳川が将軍である以上従わない豊臣は逆臣となる) まぁ 天下に家康と対等の実力者が居なかったと言うのも大きい 武田信玄 上杉謙信 毛利元就…彼らがその時代に生きていたら家康はかなわなかったでしょう その後を継いだ いわゆる「2代目」は大した人物ではなかったのも大きい
お礼
回答どうも。 それ以上の策は無しですか。
お礼
回答どうも。 利家が早かったよりも秀長が早かったほうが 影響が大きかった、と。たしかにそんな感じが します。秀長の代わりを用意できなかった のかと思いますが、かわりになりえた秀次を粛清 してしまってますよね。 対家康としてはあれ以上やることはなくて、 あとは豊臣家中の問題だけど、やはり、史実以上に できることはなかったということでしょうか? ひどい表現ですが、秀吉としては、願わくば、 自分の死後であっても、秀頼にとって、都合のいい順番で 有力大名たちが亡くなってくれ、というかなり危険な 賭けにかけ、いろいろと策をこらしたけど、その賭け 以上のことはできなかったということでしょうか?