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徳川幕府による外様大名の咎無き転封

不祥事をおこしたわけでも無いのに外様が徳川幕府により先祖伝来の地を追われて転封された例はどういったものがあるのでしょうか? 私は真田信之の例しか思い浮かばないのですが、他にも例がたくさんあるのでしょうか? (関が原後豊臣の名のもとに行われたものは無しでお願いします。)

みんなの回答

回答No.5

細川家は豊前小倉藩から肥後熊本藩に転封しています。 これは加藤家が改易されたことに伴うものでしたので、もちろん細川家に不祥事があったわけではありません。 ちなみに、加藤家が熊本城を明け渡す際には私の先祖も城の受け取りに参加しています。 姫路藩の池田利隆が没したとき、嫡男光政は幼少のため、姫路藩42万石から鳥取藩32万石に転封となりました。 この光政さん、後に叔父の岡山藩主池田忠雄が亡くなったときに、忠雄の嫡男光仲が幼少という理由で、交代という形で岡山藩に転出しています。 この、世継ぎ問題はいろいろなところで頻出しており、大名にとっては大々問題でした。 先述した私の先祖が家老職を勤めていた大名家も末期養子でお家の危機を回避したことがありました。 細かい事例を挙げればまだまだあります。 また外様から願譜代となった大名も含めれば、咎無き転封事例はひょっとしたら三桁に達するかもしれません。

jkpawapuro
質問者

お礼

あー確かに池田家ありましたねえ。しかも温厚篤実が売りの秀忠治世で。幼少ってだけなら付け家老突っ込むなり転封するにしてもなにも派手に減封しないでもいいのに、ずいぶんなことしてますよねえ。安芸福島とりつぶしの後の時代ですからそこまで姫路が要地とも思えないですし。 ご回答ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.4

jkpawapuro さん、こんばんは。 浅野長重はいかがでしょうか?浅野長政の3男です。有名な浅野内匠頭の先祖です。詳細は下記のURLを参照ください。 浅野長重 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E9%87%8D

jkpawapuro
質問者

お礼

ほう外様の血筋で秀忠の小姓から始まり関東に所領を貰い5万石の大名ですか、珍しい経歴ですね。 ただ転封そのものに関してはそもそも徳川から与えられた所領のようです。 ご回答ありがとうございました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34517)
回答No.3

常陸(茨城)に本拠があった佐竹氏が出羽(秋田)に転封されたのは関ヶ原のときに上杉景勝と密約をしていたからだといわれていますが、本当かどうかはわかりませんよね。尤も、密約があったとしても証拠になるようなものを残すバカもいるわけがないですから、あったかなかったかを知るのは関係者のみということになりますね。 また転封ではなく取り潰しですが、福島正則の広島藩を取り潰すときは広島藩が崩れた城の石垣の修理を再三幕府に申し出るも「いやあ、それくらいはいちいち報告するほどではござらんよ」と相手にされず、広島藩も薄々「そういっておいて修復するとイチャモンをつけてくるんじゃないか」と気づいていたようですがどうしても補修をしないといけなかったので取り掛かったら案の定「幕府に届出もせずに城に手を付けるとは不届き千万。謀反の意思是あり」とされて取り潰されてしまいました。 そのときの留守を預かった家臣と引き渡しの際のやりとりはまさに痛快なのですけどね。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#233747
noname#233747
回答No.2

先祖伝来の地を追われた訳ではありませんが、一触即発寸前にまでなった事ならありますね 加賀藩の話なのですが、当時の加賀藩は120万石の石高を持っており 徳川御三家を除けば、一番の石高を誇り、さらには外様大名だった為 徳川家から、常に謀反の疑いを掛けられ続けていました で、有る時に前田家が徳川家に対して謀反を企てていると言った 根も葉もない噂が広まり、前田家と徳川家の間で戦が始まる寸前にまでなった事があります ただ、その際、芳春院(お松の方)が江戸に赴き人質となり 徳川家から徳川秀忠の次女の珠姫様が前田利常の元に嫁ぎ 両家の縁を深める事により事で戦を回避出来ました (その為、お松の方は前田家を救った女性と言われています) しかし、その後も謀反の疑いは持たれ続けました 前田家の家老には本多家の人間がなっていますが この本多家こそ、徳川家が差し向けた監査員で 藩内部から、常に謀反の疑いが無いかを監視し続けれられていた訳です 余談ですが、金沢には多くの伝統文化が今の世に根付いていますが その根源は、加賀藩は工芸、文学に力をいれており 謀反の意は有りませんと言う事を、徳川家に必死にアピールした結果 伝統工芸が発達したと言う説があります (諸説ありますが…)

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.1

真田信之は不祥事じゃないですか? 自身ではありませんが父と弟のせいで旧領を追われて松代藩ですから これも立派な不祥事かと… さすがに十万石以上の大名は理由なしに転封は出来ないと思いますし 無かったと思います 一万石クラスの大名ならしょっちゅう国替えされてましたけど

jkpawapuro
質問者

お礼

うーんまあ咎と言うより強いて言えば恨みですよねw ご回答ありがとうございました。

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