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山内一豊は大名の種類では親藩?それとも譜代?

ドラマも架橋に入った「功名が辻」。 その主人公でもある山内一豊は最終的に土佐の土地をいただく事になりますが、関が原の合戦開始前に徳川に見方をしている事を考えると大名の分類としては親藩に当たるのでしょうか? それとも以前は豊臣秀吉に味方していたと言う事で譜代または外様でしょうか? 土佐と言うと江戸(東京)から遠いので譜代か外様かと思うのですが、合戦前に徳川に付いていますしそうなると親藩に入るのかどちらなのかとふと思いました。 詳しい方、教えてください。

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回答No.1

> 山内一豊は~関が原の合戦開始前に徳川に見方をしている事を考えると大名の分類としては親藩に当たるのでしょうか?  いいえ、『土佐藩』(のちの高知藩)は「外様」でした。  「親藩」とは、徳川家の血筋や分家のいわゆる「家門」のなかから大名になった人を指しますから、山内はまったく関係がありません。 > それとも以前は豊臣秀吉に味方していたと言う事で譜代または外様でしょうか?  歴史教科書に見られる関が原以前以後による大名の分類については、実態から見ると必ずしも絶対ではありません。一応の目安と思ってください。 > ドラマも架橋に入った「功名が辻」。  「架橋」ではなく「佳境」ですね。

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  • merlionXX
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回答No.6

譜代大名とは、もともと「譜代の臣」と言う言葉からもうかがえるように、数代にわたり主家に使え、家政にも関わってきた家臣のことをさします。 「関ケ原以前」とよく言われますが、関ケ原以前とは、天下分け目の関ケ原の戦いの際にはじめて家康側についたという意味ではありません。臣従した時期をさらに細分化して、安城譜代、岡崎譜代、駿河譜代などと称するように、「天下分け目」の選択を突きつけられるもっと以前からという意味です。 したがって、関ケ原で初めて徳川についた山内も細川も藤堂も外様です。

回答No.5

しかし何時頃からでしょうか?下の回答者のような見解が出るようになったのは? 私が勉強した頃には、親藩=徳川家一族であり山内は血縁関係が無いのでその部類ではない。そして「譜代」「外様」は家康に味方した時期が関ケ原以前かどうかで分かれると教わっており、「山内」は「譜代」と理解してはいるものの自身が持てません。 より詳細をご存知の方の回答が、待ち遠しいですね。

  • sumseki
  • ベストアンサー率24% (12/50)
回答No.4

皆さんのおっしゃる通り外様です。山内家をはじめ島津・毛利・伊達・前田家などと大体の有名外様大名は、高禄を得る代わりにいづれも遠方の地へ領地を置かれました。代々徳川の家来だった譜代大名は、10万石未満の大名がほとんでですが、その分江戸の近くに領地を貰い、幕府の要職にも付いていたのです。家康は関ヶ原の合戦のあとの論功行賞で、文句のいいそうな外様大名に沢山の領地をあたえて、できるだけ中央から遠ざけ、代々の家来の譜代へはあまり褒美を与えない代わり、いろいろな権限を与えたものと思います。

noname#231353
noname#231353
回答No.3

親藩は徳川一族。 譜代は家康の三河時代からの家来。 外様はそれ以外。 だかや山内は外様です。

  • yakyutuku
  • ベストアンサー率14% (267/1890)
回答No.2

 歴史教科書を無視し、言葉の意味から冷静に考えると、徳川家の家臣が譜代で、徳川家が幕府を開いたことにより、それまで独立した大名であったものが、幕府の統治機構に従っていったものが外様大名です。  親藩は徳川、もしくは松平を名乗った各大名、譜代は井伊、酒井、本多などを初めとする徳川家に代々使える家臣達、外様は前田、島津、伊達を筆頭とする残りほとんどの大名となります。

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