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江戸幕府について

お世話様です、私は歴史の事は教科書のうろ覚えしか知らない者です 先日暇なときにふと思いついたのですが、どうして徳川は江戸に幕府を作ったのでしょうか。 元はと言えば江戸は豊臣時代に異動を命じられた場所後には大都市になりますが当時は未開の場所晴れて天下を取った暁にその場所に留まって幕府を開くのは如何な物なのかと疑問に思いました。出身地である三河・所縁の多い尾張・大御所の住んだ駿府・はたまた強引に大阪へ乗り込むという手もあるかもしれませんが徳川は動かずに江戸に幕府を開きます。 江戸に根付つつあるので動きたくなかった、京都から離れるのを良しとした、のちの大都市江戸のインフラから見てここに大都市を作ってやろうと言うフロンテァスピリットにあふれていたなど考えましたが良く解りませんどなたかお詳しい方教えて下さいませ

みんなの回答

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

どうして徳川は江戸に幕府を作ったのでしょうか。 ↓ 守りやすいから。 関ヶ原の戦い以降も、豊臣家が西日本に関してはそれなりの影響力を持っていました。 各大名から誓詞を出させたのは1611年。武家諸法度は豊臣秀頼滅亡後です http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6 徳川家が江戸に移って20年もたったのですから、そこから移るのも大変だ。 1591年から1611年

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.5

<参考>  最近発刊された 「日本史の謎は地形で解ける」竹村公太郎著 PHP文庫 と言う本にはそれなりの回答が出ています。  「日本史の謎は地形で解ける」竹村公太郎著 PHP文庫  「日本史の謎は地形で解ける」文明・文化編 竹村公太郎著 PHP文庫  「日本史の謎は地形で解ける」環境・民族編 竹村公太郎著 PHP文庫  著者は元建設省の治水技術者で、家康が関東地方の可能性(利根川の付け替えなど大土木工事をすれば、長期的な発展が期待出来る。)を予見していたとの見立てです。  

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11136/34652)
回答No.4

最近はあまり使わないそうですが、四大文明というのがありまして、共通しているのは「大河川沿いに発展した」ということです。実は最初の文明どころか、ロンドンはテムズ川、パリはセーヌ川、ニューヨークでさえハドソン川沿いにあり、大都市で河川沿いにあるところは枚挙に暇がありません。 なぜ都市は河川沿いに作られるのか。主な理由はみっつです。 ひとつめは、外敵を防ぐ天然の堀としての役割です。 ふたつめは、飲料水としての役割です。大都市にはそれだけ多くの人口を支える飲料水が必要ですからね。 みっつめは、船が使えるという点です。船は一度に大量の物資を低コストで運ぶことができます。乱暴にいって、船を使うことの輸送コストは、陸上輸送の1%で済むといわれています。これは中東から原油をトラックで日本まで運んだらガソリン代がどれだけ高くなりそうかを想像すれば分かると思います。 都市はそこで食糧を自給できないので、外部から輸送する必要があります。大都市ともなれば必要となる食料も膨大になりますから、船で物資を運び込めることはとても重要なのです。 ですから、大都市の理想の場所は「河川があって、海にも近い場所」です。海を使った海上輸送も利用できるからです。その一例がエジプトのカイロでしょうね。現在のカイロ市街はナイル川から少し離れていますが、エジプト文明時代にはナイル川にほど近くて、遡上すればビクトリア湖まで、少し下れば地中海に出て北アフリカからパレスチナ、トルコに至るまで幅広く移動できます。さらに、紅海に近いナイル川沿いと紅海の間だけ陸路を使うことで紅海も交易ルートとして利用でき、アラビア海方面にも交通することができました。こういう交通の利便性もエジプト文明繁栄の要因です。 さて話を日本に戻します。家康は東海地方を秀吉に取られて関東に追いやられてしまったわけですが、そこで根拠地を作らねばなりません。 元々関東地方を支配していた後北条氏が根拠地としていたのは小田原で、当時としては日本最大の城塞都市だったので防衛上も有利ではありました。しかし、小田原に行ったことがあるなら分かるでしょうが、小田原はすぐ近くまで山が迫っていて都市としての発展性がありません。かつて幕府の地があった鎌倉に至っては論外です。決して経済の中心地にはなれません。 そこで関東地方をつぶさに調べると、江戸は周辺が湿地帯ばかりですが拓けた土地があり、南北は利根川(今の荒川)で群馬県まで連絡ができ、西部には多摩川があります。利根川と多摩川は外郭の堀代わりにも使えます。さらに東京湾に接していて海上交通も使える。 で、江戸城(皇居)って結構北側が高くなっているのです。江戸城って平城だと思われがちなんですが、平山城なんです。築城の名人太田道灌が江戸に城を作ったのは伊達ではないんですね。 だから江戸は大都市として必要な条件をすべてそろえているんです。だから東京になっても世界有数の大都市として反映しているんですね。 では他の場所はどうだったのか。 東海地方には「拓けた場所」「交通路として利用できる河川」がありません。だから静岡県は交通の要衝でありながら大都市がないのです。地域の発展性のキャパシティがないのです。 では尾張近辺はどうか。名古屋は現在日本有数の大都市です。木曽三川という大きな川があり、海にも近く、土地も開けています。 ところが当時はこの木曽三川がネックになったのです。この木曽三川は日本を代表する(おそらく日本最大の)暴れ川で、とにかく大雨が降ると洪水になり地域に甚大な被害を与えます。あまりにここは河川が入り組んで交通が大変なので、江戸時代の東海道の正式ルートは宮宿から桑名まで海上ルートを通っているんですね。ほぼ江戸時代を通じてずーっと治水工事が行われていて、明治以降も治水工事で国を作ったともいえるオランダから技術者を呼んでまで大規模な工事をしています。昭和34年の伊勢湾台風では台風災害では史上最悪の5000人を超える死者・行方不明者を出しました。 だからそんな場所にはとてもとても大都市なんか作れません。頑張って作ったところで洪水で壊滅してしまうでしょう。 それならいっそ大阪。大阪城は日本最大の城塞都市で、戦前までは大阪が日本一の経済都市でした。江戸時代も江戸は政治都市でしたが、大阪は経済都市だったんですね。前述の大都市の条件もすべて揃っていますし、瀬戸内海は太平洋(外海)に出なければならない江戸に比べれば内海ですから海上交通ということを考えると大阪のほうが上です。 しかし、その大阪は豊臣秀吉のおひざ元。徳川家にとってはアウェーの地です。今でも大阪市民は秀吉好きの家康嫌いの人が多いです。 家康からすると、京都にも近く外野(公家)の声が近い大阪より、江戸に新都市をゼロから作った方が徳川幕府にとって都合のいい街づくりができると考えたのではないかと思います。もし家康がこのことわざを知っていれば、「新しいワインは、新しい革袋に、だよ」というのではないかなと思います。 実際、江戸時代約200年間の間で徳川幕府の支配体制を揺らがせるような事件は、あえていえばただ一度、桜田門外の変だけだったといってよく、ロンドンやパリも越えて当時世界一の人口を持つ大都市でありながら、治安も世界一安定しているレベルで環境循環社会まで完成していたという「経済的繁栄とエコロジー」という二律背反する要素が両立する(21世紀の都市でさえ達成できていない)世界に類のない大都市となりました。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

「晴れて天下を取った暁に・・・」とされておられますが、征夷大将軍の称号拝命のことでしょうか。 征夷大将軍という称号は、京都の朝廷内の官位としては、あくまでも令外官です。 臨時の官位です。 征夷大将軍なる官位が絶対的な権利の象徴となるのは江戸時代以降のことです。 現に鎌倉時代には、実権を握っていたのは執権である北条氏でした。 征夷大将軍の称号は家名だけで実権を持たない藤原氏の末裔などに預けて知らん顔をしていました。 征夷大将軍 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/征夷大将軍 実力=兵力本位の戦国時代の余燼がくすぶっていた家康の時代には称号を得たからといって天下晴れてという訳にはいきませんでした。 朝廷内での臣下の官位としては最高の関白の子である右大臣秀頼が大阪城に居ました。 朝廷内では藤原氏など摂関家と同格の扱いを受けていました。 秀吉によって取り立てらた武将も大勢ウロウロしていました。 家康もこの豊臣軍団の内部分裂を図るべく四苦八苦しています。 朝廷をバックにして豊臣軍団が一致団結して秀頼を旗頭にして朝敵などという看板を持ち出されたらどうにもならなくなります。 現在結果が分かっていますから、何とでも説明はつきますが、当時の人達にとってはその日その場で判断しなくてはなりません。 インターネットも新聞もない時代です。 何処で誰が何を画策しているか分かりません。 未来の予測など不可能です。 秀吉の命による関東移封も表面上は駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の五カ国150万石から武蔵、伊豆、相模、上野、下野、上総、下総の七カ国250万石に移封されて領地が増えたようにみえますが、徳川一族も家臣団も新たに統治するために多大の労力が必要とされました。 先祖代々の土地から根こそぎ移されてしまいましたから一から始める必要があります。 何分にも戦国時代です。 江戸時代のような訳にはいきません。 敗れたとはいえ北条氏縁故の連中がウロウロしていました。 実態はともあれ関東管領なるものを引き継ぐ上杉もいました。 すぐ隣には伊達も健在です。 他所から突然やってきて年貢を納めろ!とやっても簡単にはいきません。 家康本人が大阪で権力闘争に打ち勝つには、家康軍団としてはまずは足元を固める必要がありました。 これをセッセとやりました。 参考 秀吉から家康へ - Biglobe www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/ieyasu.htm 家康が称号を得てから真っ先にやったのが、お手伝い普請と呼ばれる、江戸の開発事業です。 費用は全て、参加させられた大名の負担です。 つまり、徹底的に財力を削ぐとともに自国領の再建をする余裕を与えないための方策です。 その間に大阪城を攻め落として、豊臣氏を根絶やしにしています。 気が付けば江戸は大阪を超えた一大都市に変身していました。 これを放り出して、大阪や京都へ引っ越すメリットはほぼ皆無の状態になっていました。 西国一帯はそれこそ何代も続いた連中の支配地です。それを追い出して徳川軍団が入り込んで統治するには、またぞろ膨大な労力がかかります。 江戸幕府成立後も西国に芸州浅野、長州毛利、筑前黒田、薩摩島津など有力外様大名が多いのもこのためです。 黒田にせよ藤堂にせよ如何に関ヶ原以降功績があっても外様と位置付けられていたことに注意して下さい。 徳川幕府を倒したのも西国の外様大名の家臣達です。 ということで、京や大阪で覇を唱えるチャンスがなかったということです。 結果オーライの話です。

kazukoba5125
質問者

お礼

ネットに触れる所から長く離れていまいご返事が遅れて申し訳ございません 大変勉強になりました、有難うございます

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.2

その場所しか幕府を置く場所がなかったのです。関ヶ原合戦から3年後に征夷大将軍となり幕府を置くのです。関が原で勝っても豊臣政権が潰れたわけではないのです。豊臣政権を滅ぼした後ならば大阪も可能であったが、それまでは家康は年齢的に待てません。関東で幕府を開いても大丈夫であるとの鎌倉幕府を真似たところもあったでしょう。迂闊に京都に近づくと室町幕府ようになってしまいます。 江戸のインフラが大規模にできたのは幕府を開いたからです。インフラ土木工事のことは計画しており将来を読んでいただろうと思います。江戸の土木工事を外様大名ら命じてさせています。結果的には大正解であり家康の偉大さには恐れ入ります。

回答No.1

理由はヤケクソです 家康が関東に行ったのは小田原攻めの功績ですが これは本当は秀吉が家康を遠ざけるため(表向きは信頼してたが万一家康の謀反に備えてね) ご存知当時の江戸は未開の原野に等しい場所 家康にしてみればこんなところに追いやられて流人のような心境だったはずです しかし彼はこう思いました 「よーし だったらココを大阪以上の大都市にしてやろう」と その反骨精神が江戸の街と幕府を生み出したのです

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