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外様大名が幕府の要職に。
外様大名は幕政に一切関与できなかった、という説をネットではよく見かけますが、これは正しいですか。 間違いとする説もあります。 事実、老中になった大名もいます。 脇坂安董 http://kotobank.jp/word/%E8%84%87%E5%9D%82%E5%AE%89%E8%91%A3 他にも大番頭、奏者番、若年寄に就任した例がありますが、wikiでも外様は要職に就くことができない、とされていますがなぜでしょうか。 wikiは信頼できないと言えばそれまでですが。 よろしくお願いします。
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譜代・願い譜代は幕府内での席次の事であり、大名の当主本人の出自が譜代出身であろうと外様大名の後を継げばそれは外様大名です。 それで幕府の要職は幕末の一時期以外譜代ではないと就けないのは事実ですが、外様であっても譜代扱いに格上げすることができます(願い譜代)。 他の例としては京極高久が若年寄になってますね。ほかにもあると思います。 京極高久 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E4%B9%85 願い譜代 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%96%E8%AD%9C%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E5%90%8D
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No.6・11です わざわざ再度お礼を記入して頂き有難うございます。 お礼の中にお問い合わせがありましたので説明させて頂きます。 >一関藩初代藩主田村建顕の例はどうですか。公家社会と付き合いできる教養があって奏者番に任ぜられています。 田村建顕を重用したのは綱吉です。 徳川家はあくまで令外官です。 朝廷の軍事部門の長としては律令に定められた近衛大将という正式の官位があります。 公家が任官しています。 江戸城内での席次等を決める重要な要素は家格です。 家格を決める上で重要なのは朝廷から貰う、従四位、従五位などという朝臣としての序列です。 家格の序列は基本的にはこれに従って決められました。 綱吉は、母親である桂昌院に従一位という官位を下賜してもらうために猛烈な運動をしています。 朝廷との交渉に当たり公家の文化に憧憬の深い者を重用するのは極自然のことです。 >しかし、変わり者の綱吉が登用した外様も例外とすれば「外様大名は一切関与できませんでした」ですむことかもしれません。 と、ご指摘になれておられますが田村建顕は該当するのではありませんでしょうか。 余談ですが、播州赤穂浅野長矩を田村家の庭先で切腹させて現在までも非難されているのは建顕です。 この処置を大名である浅野家にたいする単なる配慮不足だったとだけお考えになられますか。 綱吉の元では荻原 重秀という御家人が切米150俵からスタートして3,200石まで昇進昇格していますが、家宣の代になって勘定奉行を罷免された上に700石に減俸されています。 もし言われるように優秀であることのみが幕閣としての登用の理由であるならば、将軍の代替わりで幕府内での取り扱いが激変することはないのではないのでしょうか。 江戸時代には旗本は約5200家 200石以下の御家人は約17300家ありました。 300年の間に優秀な人間は一人しかいなかったとお考えになられますか。 幕府というのは、現在の中央官庁とは全く性格の異なる組織です。 藩幕制度下にあっては、藩は現在の独立国と同じで、幕府といえども内政には直接関与できません。 平たく言えば、幕府というのは藩の中で最大の軍事力を持った徳川家が大名を統制するための組織です。 令外官である征夷大将軍という官位を朝廷から下賜されることによって認められた権利です。 このような仕組みですから、明治維新の際に大政奉還という儀式が執り行われました。 大政を奉還したからと言って徳川家が潰れた訳ではありません。 上記のような性格の組織である幕閣に必要なのは大名を管理する能力です。 徳川家の領地であった、江戸や大坂の統治も幕府の官僚である町奉行などがが併せて行ったいただけです。 幕閣への昇格は能力主義でもなければ、外様、譜代などという100年も200年も前に習慣的に分けられた区分だけで決められていた訳ではありません。 但し、前例を重要視する時代であった当時の社会的価値観からすれば、一度外様とレッテルを張られた家から幕閣を選ぶのは相当な抵抗があったでしょう。 江戸城内で着席する席次一つに目の色を変えいた時代であったということもお考え願います。 なお、綱吉は、 林信篤を重用し湯島聖堂を創建しています。
お礼
何度も回答して下さってありがとうございます。 私の疑問の核心は、「外様大名は幕政に一切関与できなかった」と言えますか、ということです。 ただそれだけです。 私が調べたところ、そのように断定できないのではないか、と疑問に思って質問しただけです。その例として綱吉に登用された外様大名を採りあげました。 この核心部以外の事柄に関心はありません。
- jkpawapuro
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私の推測ですが、考え方が譜代外様という言葉に振り回されて後先になってるのかもしれませんね。 江戸幕府は先例主義の官僚機構みたいなもので、そういう意味では結構堅苦しくかちこちの序列で動いてます。 そのルール上大事なのは、外様か譜代かという出自の事実というよりむしろそのときの席次、伺候席でどこの部屋に詰められるかというのに尽きるのではないでしょうか? 家光までの時代は譜代であるという事実が大事にしても、それ以降になるとおそらく幕閣になるためには帝鑑間に詰める必要がある、帝鑑間に入れるのは原則譜代であるが中には認められた外様大名も願い出て帝鑑間に詰めたケースがある、あるいは家康に認められて代々帝鑑間に詰めていた大名も居る、その程度のものだったのではと思っています。 おそらく官僚社会では帝鑑間に詰めていたという事実、式典でならぶときに立席する場所みたいなもの(形式的に目に見える序列)こそ大事で、100年あるいは200年も前の事はだんだん二の次になっていったのではと思っています。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 >帝鑑間に入れるのは原則譜代であるが中には認められた外様大名も願い出て帝鑑間に詰めたケースがある 「中には認められた外様大名も願い出て帝鑑間に詰めた」とありますが、具体的には何家でしょうか。 また、出自が認められたということでしょうか。 ご存知でしたら教えて下さい。
No.6です わざわざお礼を記入して頂き有難うございます。 ご質問の御主旨は良く分かりました。蛇足ながら追加で説明をさせて頂きます。 >疑問の発端は、外様はいくら優秀であっても幕閣に入れないのか、という疑問です。 藩幕体制というのは、基本的には軍事組織です。 戦時下であれば、戦功という具体的な成果に基づいて昇進昇格を簡単に決めることができます。 軍事組織のままで、平和な時代に昇進昇格を決めるのは至難の業です。 中国は科挙という試験制度でこの問題に対応しましたが、江戸幕府はこのような手段は一切取りませんでした。 「優秀な」と一言で仰られておられますが、その基準に何をお考えでしょうか。 誰がその優劣を判断するとお考えになられておられますでしょうか。 政治的権力を持つ組織での人選というのは簡単なものではありません。 関係者の欲と思惑が激突します。 現在でも学閥闘争派閥闘争というのはどこの企業でも日常的にやっています。 政党の運営はこれをいかにさばくかの一言です。 >綱吉の時代に外様からもかなり幕閣に入れています。 綱吉が将軍になるまでの経緯を御存知でしょうか。 綱吉は自分の権威を獲得保持するために、二代将軍秀忠に次ぐ数の大名改易を行っています。 家門6家 譜代22家 外様17家と先代から続く身内の連中を徹底的に潰しています。 在任中も老中職を遠ざけ側用人に過ぎない柳沢吉保を重用しています。 江戸時代というのは人治が優先された時代です。 最高権力者である将軍の性格次第で幕府の運営が変わってきますので注意をして下さい。 江戸時代を考える際の面倒くささの原因の一つです 江戸時代の諸制度の運用や文化を考える場合には300年を一括りにすると混乱します。 初期・中期・末期と大まかに分けて御覧になられると宜しいかと思います。 ややこしいのは、諸制度の骨格が初期に作れられ、それがそのまま明治維新まで続いてしまったことです。 外様・譜代の区分も関ヶ原の戦後処理と幕府の基盤作りの過程から生まれてきた区分です。 初期には、幕府の基盤構築に当たり、戦後処理で残った外様の大大名家との間で積極的に婚姻関係を結び、いわば徳川家の姻戚化を図っています。 中期以降は、将軍の子供の落ち着き先として、大名家との婚姻関係を結んでいます。 島津も毛利も正式には徳川の姻戚である松平という苗字を使用しています。 つまり家臣である譜代よりも身近な存在ということになります。 中期以降は外様・譜代の区分は形骸化しています。 幕府の役職も中期以降は職業化されて、役人化しています。 末期には、権益の獲得手段化しています。 幕府に仕えている人間であればだれもが昇進昇格を望んでいたとお考えでしょうか。 幕府というのは、組織としては元来軍事組織ですから、役務遂行に必要な経費、人員は全て自己負担です。 手勢を引き連れて参陣するのと同じ考え方です。 俸禄が上がるということは、同時にそれに見合った生活様式をすることが求められました。 登城の際の供ぞろえから、冠婚葬祭の慶弔儀礼、日常的なお付き合い服装など全てが習慣として定められていました。 形式格式体裁が最重要視されていた時代です。 参勤交代の行列が幕府の度重なる節約令にかかわず、年々派手になっていったのもこの為です。 役職手当を多少貰っても採算にあいません。 財政が欠乏し始めた中期以降は、役職の返上辞退がごく普通に行われていました。 大名家の重臣たちにすれば、江戸城でセッセと働くことよりも、家臣団の明日の飯を心配してくれる殿様の方が名君です。 飢饉、風水害、地震などの自然災害の度に領民が生活に苦しみ逃散だの一揆だのが起きたらどうにもなりません。 江戸幕府については下記の書籍に一度目を通されることをお薦めします。 江戸幕府役職集成 笠間良彦 雄山閣
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 疑問の発端は、外様はいくら優秀であっても幕閣に入れないのか、という疑問です。 こんな疑問を思いついたのは、私の質問に寄せられたある回答(下記)です。 大名家にも大きく分けて二通りあります。 いわゆる土着大名と官僚型大名です。 外様大名のように、先祖代々の領地を保有し続けた大名と、幕府の命に従って領国を転々と変えていった大名です。 “幕政に関与できるのは譜代大名か家門大名のみです。外様大名は一切関与できませんでした。” 譜代大名や家門大名は江戸城内ではあくまでも一官僚です。 「幕政に関与できるのは譜代大名か家門大名のみです。外様大名は一切関与できませんでした」と断定されているので、ホントかなと思いました。 親切に回答して下さったのに、回答の言葉尻を捉えて、そして例外を探して反論しようとは思っていません。 幕府の要職に就いた外様大名ですが、宋家(対馬)、松前家、長崎奉行などは、特別な事情があるので、例外とするのは当然です。 また、幕末、国難の時代に阿部正弘が外様の有力大名に意見を求めていますが、これも例外の範疇だと思います。 しかし、「外様が幕府の要職に」で検索すると簡単に見つかります。 数人程度でしかも下っ端の役職なら“例外”とすればよいでしょう。 そんなとき、小川恭一翁の柳営談を再読して“枚挙にいとまがない”と語っていることに気付きました。 しかし、変わり者の綱吉が登用した外様も例外とすれば「外様大名は一切関与できませんでした」ですむことかもしれません。 今回のご回答に「中期以降は外様・譜代の区分は形骸化しています」とありますが、形骸化してもなお外様だけは幕政に関与させないようにしたということですね。 >「優秀な」と一言で仰られておられますが、その基準に何をお考えでしょうか。 そこまで考えずに書きましたが、 一関藩初代藩主田村建顕の例はどうですか。 公家社会と付き合いできる教養があって奏者番に任ぜられています。
- 0fool0
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PENPENMAKKY様へ。 ・・・え・・っと・・・。 私は阿部正弘が外様だなどとは言っていないのです。 阿部正弘が老中首座の時代に、初めて外様雄藩(大身外様)が幕政に発言をした事を言っているのです。 私の書き込み方が判り難かったのならば、申し訳ありません、謝罪します。 ついでに補足 江戸期を通じた幕政の基本方針は、幕政は石高(兵力)の少ない物に任せ、石高の多い家には関らせないと言う物です。 豊臣政権下の五大老への反省ですかね?w 例外が会津松平家と井伊家でしょうか。
- PENPENMAKKY
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0fool0様 阿部正弘は戦国時代から三河徳川家のバリバリの譜代ですが… 初代・阿部正勝は家康が竹千代時代から労苦を共にし、今川の人質の際には用心棒として同行し、その後の徳川家の合戦全てに参加した忠臣ですけど… 江戸時代に入り、毛利を監視する為に備後福山に城を構えていたんですけど…
- あずき なな(@azuki-7)
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別に禁止されていた訳ではない 幕府が親藩・譜代を優先・重用していたのは当然であり 外様ってのはかつて敵だった大名家です
お礼
ご回答ありがとうございます。
- ithi
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kouki-koureisyaさん、こんにちわ。 比較的に石高の小さい10万石以下の外様の大名は幕府の役職に就くことがありました。願い譜代とか、准譜代と言われた家格を持つ大名です。 真田氏も老中を出しています。しかし、江戸時代250年余りの間にそんな実例はホンの少数例であり、原則として外様大名は幕府の要職に就き、幕政に参与される例はないというのが本当でしょう。幕末のころ、島津斉彬、山内豊信といった外様雄藩が幕府に対して意見を言うようになりますが、それが結果的に幕藩体制の崩壊を招いたことからも禁止していた理由があきらかなはずです。 准譜代大名 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%98%E3%81%84%E8%AD%9C%E4%BB%A3 真田氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F
お礼
ご回答ありがとうございます。 >原則として外様大名は幕府の要職に就き、幕政に参与される例はないというのが本当でしょう。 そうだと思います。 「原則として」という一言があれば、例外もあるのだろうと推定できますから納得できます。 小川恭一翁の「柳営談」では 「外様でも1万~2万石クラスの大名で幕府の大番頭、大坂城番、奏者番、若年寄などに就任した例は“枚挙にいとまがありません”」 と語っています。 これをヒントに「外様が幕府の要職に」のフレーズで検索し、確かめてから質問しました。 小川恭一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%81%AD%E4%B8%80 「願御譜代」の制度があるということは、優秀な外様を譜代扱いにして幕閣の要職に就かせるためという一面も考えられるのではないでしょうか。 質問が拙かったですが、幕末は国難の時代ですから、外様、譜代と言っている場合ではないので、幕末を除くと書くべきでした。
>wikiでも外様は要職に就くことができない、とされていますがなぜでしょうか。 最後まで良くお読みください。 以下ののように記載されています。 「就けない」と断定してはいません。 ○外様大名は一般に老中などの幕閣の要職には就けないとされていたが、対馬国の宗氏は伝統的に朝鮮との外交に重きを成し、また江戸後期になると松前氏のように要職へ就く外様大名も現れた。また、藤堂氏は徳川氏の先鋒とされ軍事的には譜代筆頭の井伊氏と同格であり、池田輝政は親藩と同格とされ大坂の陣の総大将を勤める予定だったといわれる。 また、同じ外様大名でも比較的早い時期から徳川家と友好関係があった池田氏・黒田氏・細川氏などと関ヶ原の戦い後に臣従した毛利氏・島津氏・上杉氏などでは扱いが違ったとの説もある。 なお、血縁関係や功績などにより譜代に準ずる扱いを受けている外様大名について、便宜的に準譜代大名と呼ぶこともある。松平の名字を授与されることもあった。また、外様大名の分家・別家で1万石以下の旗本から累進して諸侯に成った場合、菊間縁頬の詰席を与えられ、譜代大名として扱われた。 譜代として扱われるというのは、役職に就くことが可能な者として扱われるという意味です。 徳川一門、譜代大名、旗本が目白押しになっているのに、敢えて登用するほど有能な外様大名がめったにはいなかったということでしょう。 さらに、幕府というのは、徳川家が大名を統制するための組織ですから、牽制管理すべき外様から登用する積極的な理由を見つけるのは相当に難しかったでしょう。 譜代と外様の違いで一番大きいのは、譜代は幕命一つで領国を点々と移動する転勤族です。 (宇都宮藩や川越藩の藩史を御覧下さい) 外様は懲罰とし転封される以外は、江戸時代開闢以来明治迄領国に留まり続けました。 譜代であれば、幕府の役職が上がればそれ相応の石高の領国へ移動させられますが、外様は簡単に移動させることが出来ませんでした。 結果として、外様が原則的に幕閣になれないというのは、制度というよりも習慣法であったと考えたほうが判り易いかと思います。 >これは正しいですか 上記しましたように、正しくもあり間違っているとも言えるかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 疑問の発端は、外様はいくら優秀であっても幕閣に入れないのか、という疑問です。 柳間席の大名(外様)は、最幕末に72家あったそうですから、藩政で実績を上げ評判のよい大名もいたはずです。 譜代より能力があった外様もいたはずです。 綱吉の時代に外様からもかなり幕閣に入れています。 三河以来という親の七光りで譜代席でのほほんとしている大名よりも、実力を見込んで外様を登用したのでしょう。 出世コースの登竜門である奏者番の定員は20-30名だそうです。 全員を譜代、旗本で固めることができたのか、疑問でした。 質問が拙かったのでお許しください。 「他にも大番頭、奏者番、若年寄に就任した例がありますが、wikiでも外様は要職に就くことができない、とされていますがなぜでしょうか」と書きました。 これは、大番頭、奏者番、若年寄など(他に大坂城代)のwiki を見ると、全て「譜代」でした。 なぜ「外様が就任した例もある」としないのだろうという疑問です。 Wiki にとやかく言っても仕方がないですが。 #7の方のお礼欄にも書きましたが、 小川恭一翁の「柳営談」では 「外様でも1万~2万石クラスの大名で幕府の大番頭、大坂城番、奏者番、若年寄などに就任した例は “枚挙にいとまがありません” 」 と語っています。
- 0fool0
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PENPENMAKKYさん、良く読んでください。 阿部正弘老中時代という意味です。 この時代のみ、薩摩島津家、佐賀鍋島家、筑前黒田家、宇和島伊達家が阿部正弘の後見?で江戸城内で発言をしています。 更に言えば、大関増裕は譜代大名の遠江横須賀藩主・西尾忠善の孫で、大関家に養子として入ったものです。 更に西尾忠善の母は松平乗祐の娘です。 力いっぱい譜代です。
- PENPENMAKKY
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すいませんが阿部正弘は譜代ですが… 外様で幕府要職に就いた人物としては黒羽藩の大関増裕がいます 講武所奉行・陸軍奉行・海軍奉行を歴任の後に若年寄 江戸城に乗馬したまま入る事を許され、幕府に断髪を容認させた大名
お礼
ご回答ありがとうございます。 Wikiには「外様の小藩ながら幕末には15代大関増裕が海軍奉行や若年寄など幕府要職を歴任」とありますね。 参考になりました。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 京極高久はすごいですね。 wiki には 「大坂青屋口の加番や大番頭を勤めた後の天明8年(1788年)、若年寄に任じられて寛政の改革期の幕政に参与した」とあります。 幕府の大番頭とは、wikiには 「武家における番頭とは、主に江戸幕府にあっては大番頭と呼ばれ、平時は江戸城大手門をはじめ、江戸城の警備隊長として、また有時及び行軍に際しては幕府軍の備並びに騎馬隊指揮官(侍大将)として、番方(武官)で最高の格式を誇った。5000石以上の旗本または、1万石クラスの譜代大名から複数が任じられた」とあります。 たいへん参考になりました。