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大阪の陣で上杉

歴史素人です 最近 歴史が好きになってきました 関ヶ原で西軍につき東軍の徳川に敵対した上杉家 ところが大阪の陣では徳川軍につき 豊臣軍と戦いました 私はガッカリしました 関ヶ原のキッカケになった直江状を徳川に送りつけた上杉が 大阪の陣では今度は徳川の手先になって豊臣と戦ったからです 私の感覚では関ヶ原で西軍につき東軍と戦った 真田幸村や宇喜多軍にいた明石全登や毛利勝永、長宗我部盛親 などは一本スジが通っていて 破れはしましたが 人間として尊敬出来ると思いました 考えが一貫してるからです なぜ大阪の陣で上杉は豊臣につかず徳川についたのですか? 単に徳川幕府の家臣になったからですか? この辺の事 判る方教えてくれませんか? 徳川にビビったのですか?なぜ徳川に尻尾を振ったのでしょうか? 関ヶ原の時の上杉家の心意気は何処にいったのでしょうか?

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.4

#2です。#3さんの回答を見て「上杉越後奪回説」というのがあったのを思い出しました。 そもそも上杉征伐が起きたのは、上杉景勝(と直江兼続)が越後の奪回を執拗に狙ったからだというものです。石田三成との密約があったわけではなく、三成は上杉征伐でみんなの意識が東国の奥の米沢にいっているのに便乗して今がチャンスだと挙兵したのではないかという説ですね。 米沢に転封された上杉家では、越後のことを「本国越後」と呼んでいたそうです。「本国はあくまで越後」という意識だったのです。 そして関ヶ原戦役のときも、越後では親上杉派による一揆があちこちで起こっています。これは当時越後を支配していた堀家への反発とも、直江兼続の陰謀ともいわれていますが、私は陰謀説のほうを支持します・笑。 これを考えると「なぜ上杉軍は山形に向かったのか」の辻褄は合うんじゃないかなと思います。 元々当時の上杉家には今の庄内地方のあたりに飛び地があったので、山形を占領すれば一帯が繋がるというのがありました。これが直接的な理由だと思います。 そして米沢から越後を奪回するとすれば、越後米沢街道を通ることになりますが、ここは「十三峠」と呼ばれるほど険しい山道が続いており、大軍の行動には向きません。そうなると、庄内地方から日本海沿いに越後に侵攻するのがメインルートになります。 そして上杉家には謙信公の代からの重臣で猛将として知られた本庄繁長が庄内地方にいました。彼は上杉謙信に従って川中島や関東地方も転戦した歴戦の武将だったので、庄内地方から越後へのルートは土地勘もある地元道でもあるわけです。 なので、上杉景勝と直江兼続が関東からやってくる軍勢を険しい地形で食い止めている間に本庄繁長の別動隊が越後になだれ込んで越後を奪回する、というのが上杉景勝(と直江兼続)の戦略だったのではないかなと思います。 #3さんもいうように、上杉景勝(と直江兼続)は越後にしか興味がなかったと思います。まあなんというか、悪い意味での典型的な田舎者だったと思います。 それをいえば伊達政宗も百万石と元々は自分の生まれた場所である米沢の奪回に汲々としていましたし、毛利輝元も御輿に担がれているだけで主体的なことはほとんど何もできなかったですし、島津家は内紛状態で(といってもこの家は戦国時代から幕末までほぼずーっと内紛とお家騒動ばかりやってましたけど)主体的な行動は何もできませんでした。「天下を取る」という野望を持って戦略的に動いていたのは家康だけだったかもしれません。

tennine7
質問者

お礼

そういう説があったとは 知りませんでした 有り難うございます

  • makaay10
  • ベストアンサー率26% (249/953)
回答No.3

関ヶ原の上杉に興味があるなら堀家とのいざこざを調べると面白いかもしれません。会津に転封する際に通例を無視して越後の租税を全て持っていくって事を上杉がしたんで堀家と激しく対立。他にも上杉は色いろとやらかします これが関ヶ原の遠因って説もありますが少なくとも上杉がいう義ではない行動ですし、上杉景勝は良くも悪くも普通の戦国大名なんでしょう。越後が欲しかっただけの景勝が豊臣に殉ずるなんて事をするはずがないって回答者は思います

tennine7
質問者

お礼

堀家との いざこざ 知らなかったです 有り難うございます

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.2

私も直江状のエピソードは大好きですが、あれは後世の創作らしいというのが最近の主流になっているようです。なので大河ドラマを始めカットされることが多くなっていますね。 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62031 直江状が存在しなかったとすると(もしあったとしても我々が知っているあの挑発的な文章ではなかったとすると)上杉征伐の原因が判明しないことになります。 そもそも仮に直江状が事実だとしても、なぜ上杉景勝と直江兼続は反乱を起こそうとしたのか、石田三成と密約があったならなぜ戦略的に連動した動きをしなかったのかがよく分かりません。 そして上杉景勝は関ヶ原戦役の発端を作った存在なのに、終戦後に家康に降伏すると大幅な減封をしたものの、取り潰しはしませんでした。 ここ重要。だって、もうひとりの首謀者であったはずの石田三成はどうなってます?石田三成は処刑されたのに、上杉景勝は切腹をさせられていないって不自然に思いませんか。そもそもは「上杉征伐」で始まったんですよ。なぜ上杉を征伐(取り潰し)にしないのでしょう? 関ヶ原戦役の後始末って、なかなかに政治的なんですよ。石田三成はご存知の通り処刑されましたが、切腹ではなくて斬首というのは小さいといえど大名に対して最大限の侮辱的な刑罰なんですよ。切腹だと名誉は保たれますから。でも三成本人に対してそれだけ苛烈な処罰をしておいて、長男は出家、次男は津軽藩の家臣になったのです。普通は後世に禍根を残さないためにも一族皆殺しですよね。このあたりにも政治的な匂いをいろいろ感じます。 もっというと、関ヶ原でただ何もしなかっただけの長宗我部盛親が改易されています。上杉は減封で済んでるのに、長宗我部は改易。 毛利輝元も西軍の総大将を勤めた手前もあり、本来改易されて毛利を裏切って家康に内通した吉川広家にその分の領地を与えるはずだったのを(そういう仕置きをするあたり家康の真骨頂ですね・笑)広家が助命嘆願をして広家に与えられるはずだった領地を輝元に与えるという体で減封となりました。 そもそも戦役のきっかけになっている上杉が減封で済んでるあたりがいろいろと勘繰るところでありますね。 >なぜ大阪の陣で上杉は豊臣につかず徳川についたのですか? 大阪の陣で豊臣方についた大名は誰もいないですよ。それこそ福島正則だって豊臣と運命を共にはしませんでした。 そりゃ当たり前の話で、自分には自分の家臣がいます。しょうもない個人のプライドのために、家臣とその家族、それに領民たちを殺すわけにはいかないですよ。もはや勝敗は決しているのに。 もし「個人の筋を通したことが素晴らしい」なら、自分の筋を通して大塚家具を事実上の破産状態に追い込んだ大塚久美子氏は「筋を通して素晴らしい」ってことになってしまいますよ。 真田信繫(幸村)は大阪の陣当時に浪人で、年齢もアラフィフあたりであったといわれています。当時は50歳が寿命と考えられていたので、「人生最後に大阪で派手に暴れてやろう」という気持ちだったと思いますよ。

tennine7
質問者

お礼

直江状 創作だったのですか 色々と勉強になりました 有り難うございます

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (415/1290)
回答No.1

関ヶ原合戦後、120万石を15万石にされ、出羽国米沢藩に、減封 されました。 その時、家臣団をリストラする事無く、連れて行きました。 当然、藩の財政は火の車です、家臣団は貰う石高が激減して、 生活は困窮しますが、耐え忍んで、居たのです。 その家臣団を守る為には、徳川家に従うしか、無かったのです。

tennine7
質問者

お礼

そういう事情があったのですね 有り難うございます

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