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真田信之、沼田城主時の立場
真田信之は北条征伐後沼田城主となりましたが、彼はれっきとした豊臣大名として父昌幸と並んだのでしょうか?真田の分家なので真田の与力なのでしょうか? それとも徳川の与力?
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jkpawapuroさん、こんばんは。 天正17(1589)年、小松姫をめとった際では徳川家の与力大名の嫡子です。 天正18(1590)年、秀吉によって戦功により、沼田城主になった時点で父昌幸と並んで大名になりますが、結局は昌幸の支配を受けながら、沼田城領を管理していたと思います。ただ、この時点で、豊臣大名であると同時に徳川与力大名ということになります。だから、分家ということになり、本家は昌幸、信繁(幸村)の上田家です。 文禄3(1594)年、豊臣姓と従五位下伊豆守に叙任される。 慶長5(1600)年、関ヶ原の戦い、昌幸の遺領を信之が相続、上田城主となる。 詳細は下記のURLを参照ください。 真田信之 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B 真田昌幸 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
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- oska2
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>真田信之は北条征伐後沼田城主となりました その通りですね。 徳川の与力から、元の領主になりました。 >彼はれっきとした豊臣大名として父昌幸と並んだのでしょうか? 家督相続が正式に済んでいるので、豊臣大名として父親昌幸と同じ地位につきましたね。 ただ、父親も権力を手放した訳ではないので「形式上」と見做す事も出来ます。 例えば、秀忠に将軍職を譲った家康が「大御所」として君臨した様に・・・。 例えば、息子が社長に就任した父親が「会長」として君臨した様に・・・。 まぁ。昌幸としては「家督を譲ったので、自分の行動は沼田真田家とは無関係」としたかったのでしようね。 >真田の分家なので真田の与力なのでしょうか? 家督相続を行っていますから、真田の分家ではありません。 戦国時代・江戸初期は、「長男が相続する」という規則はありません。 >それとも徳川の与力? 秀吉の命によって、真田は「徳川の与力」になりました。 が、北条滅亡の後は「秀吉の命によって、徳川の与力を解任」となっています。 ですから、ここで豊臣方真田家誕生です。 関ヶ原では、嫁さんの影響と父親昌幸の命によって徳川方となりますがね。
お礼
ご回答ありがとうございます、すいません私の調査不足でした。 wikipedliaの信之ではなく父昌幸のページに ”なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立した[48]。” とありました。
- あずき なな(@azuki-7)
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真田昌幸が関ヶ原後に九度山へ追放されるまで 実質真田家の当主は昌幸だったので(家督は譲っていましたが) 父と並んだのはむしろ 後年だと思います
お礼
ご回答ありがとうございます、すいません私の調査不足でした。 wikipedliaの信之ではなく父昌幸のページに ”なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立した[48]。” とありました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 どうでしょう?逆に現代の真田家や昌幸のイメージが強すぎて”昌幸の支配を受けながら、”となっているだけで、あえて対立してたわけではないでしょうが実際支配は受けてなかったのかもしれません。 たまたま今回箕輪町誌をもう一度チェックしたのですが、 最初の沼田裁定で沼田の家臣が替え地伊那に移封される宛行状が信之名義で発光されていて、私が思ってるより真田家中で信之の力も強かったのかもしれません。
補足
失礼、信之→信幸ですね、宛行状持ち出して信之と書くのはあまりに雑でした。