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外様大名が幕府の要職についたのは。
日本史の教科書には、 「役職には原則として数名の譜代大名・旗本らがつき、月番交代で政務を扱った」 とあります。 “原則として”ということです。 では、いつごろから、どのような理由で、外様大名が幕府の要職につくようになったのですか、教えてください。 よろしくお願いします。
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何故願い出たかはケースバイケースで追わないとしょうがないでしょう。 ありがちなことを推測するとまず出世欲、これは当然ありえます。 大名の嫡男は江戸暮らしです。父親が幕府の中の席次で大名間の上下関係が決まるのを見て育ちます。付き合いを持つ友達も江戸勤めの大名同士です。参勤交代の世ですから人生の過半を江戸で暮らすのです。どうしても国許より江戸での席次に興味を持ちがちです。 次に養子として徳川なり譜代の家から外様に入ったケースがありますね。 この場合その養子ってのは一人・・・は大げさにしても数人で完全に他所の家に入ります。当然藩政は家老が牛耳り藩士もみな家老の方を向いています。藩主といえども極めて立場が弱いわけです。そんな中で自分の地位を確立し支配力を獲得しようとすると、幕府の後ろ盾に頼るしかありません。
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- jkpawapuro
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おそらく教科書で意識されているのは願譜代でしょう。 wikipediaを見ればわかるのですが、 いくつかの外様大名が願譜代として願いでて譜代大名扱いを受けています。 私が真っ先に念頭に浮かんだのは信州真田家、伺候席も帝鑑の間に移り真田幸貫が老中に就任しています。基本的には外様大名を幕閣に登用するためのシステムですが、背景として真田本家で血筋が耐え真田幸貫が白河藩から養子として真田家に入ったことが大きいのでしょう、血筋的には尾張水戸より将軍家に近い出自になります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうです。「願譜代」の話です。 譜代と外様との間に姻戚関係ができると、譜代と外様の間の垣根が低くなります。 ここまでは分かるのですが、なぜ、願い出たのでしょうか、という疑問です。 やはり、3―5万石程度の殿様では肩身が狭いので、出世欲でしょうか。 役職手当が目当てでしょうか。 大名それぞれの事情で理由は異なるのでしょうが、真田家の場合はどんな事情だったのでしょう。 小説で読んだのですが、酒井家の何代目かの殿様は、老中はしんどいだけで、しかも金がかかるから、「溜詰」にしてもらうよう働きかけて、そうなったそうです。 また、老中より「溜詰」の方が格上だそうです。
- oska2
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>いつごろから、どのような理由で、外様大名が幕府の要職につくようになったのですか 例外は、対馬藩の「宗家」ですね。 対馬は、高麗国から度々武力攻撃・侵略を受けました。 「男は虐殺され、子供は捕虜として連れ去られ、婦女子は手のひらに穴を開けて数珠つなぎで連れ去られた」 と、高麗記や対馬の古文書に残っています。 ※対馬・壱岐では「そんなに我儘を言うと、高麗軍が来るぞ!」と言えば、子供は泣きやんだそうです。 もちろん、韓国の正しい歴史には一切載っていませんが・・・。 ※この歴史的事実で、韓国では「対馬は、韓国領だ」と叫んでいるのです。^^; この事を知った秀吉が、朝鮮の窓口として対馬の領主である宗家を利用したのです。 この「対朝鮮外交の窓口」は、幕末まで対馬藩が担当しています。 同様に、北の「対ロシア」では松前藩が外交を担当しました。 余談ですが・・・。 幕末には、既に幕府には防衛能力が無かった様ですね。 1860年には、対馬はロシアに占領されました。 何とか、イギリスの応援でロシアを追い出す事が出来た様です。 冷静に考えると討幕派の「尊王攘夷」の掛け声が、情勢知らずで悲しくなります。 実際は、討幕雄藩は明治維新で「攘夷をわすれて、海外へ」向かっていますがね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、例外とはいえ「宗家」の例がありますね 気づきませんでした。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 出世欲と言えば聞こえが悪いが、がんじがらめの家柄社会にあっては、 「どうしても国許より江戸での席次に興味を持ちがち」になるのは、 藩主として当然の考えですよね よく分かりました。 「養子として徳川なり譜代の家から外様に入ったケース」もありますね。 何かの折に調べてみます。