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明暗を分けた最終決戦?
豊臣家が滅ぼされた大阪夏の陣・冬の陣に真田幸村は参戦しているが、どうして前田慶次は参戦しなかったのか?慶次が参戦していたら一方的に徳川に負ける事は無いし、悠々と徳川幕府は続かなかったと思うのだが?
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>確か前田慶次は長生きをして山形で隠居生活を送り、1650年前後頃に没したと何かで読みましたが 上杉家に残り、米沢で没したのは間違いないと思われますが、その年号に大きな誤解があるように思いますね。加賀藩の史料では1605年、米沢では1612年に没したといわれているようです。いずれにしても冬の陣の1614年よりも前の話です。それでも70歳前後で亡くなったといわれておりますので、当時としては長生きでしょう。天海レベルに長生きして110歳くらいまで生きたというのでしたら1650年前後という話になるんでしょうが、どうにも荒唐無稽に思えます。
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- nosamajin
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大阪夏の陣・冬の陣に前田慶次が参戦するには難しいかと。 というのもその手前の関が原の戦いにおいて豊臣方として東北で戦った上杉軍は西軍敗戦後、徳川方に降伏しています。 この時点で殆どの大名が既に徳川方に恭順しています。 そんな状況で降伏した後に反逆をすればまず勝ち目はありません。 全力で潰されるのは目に見えてますから。 前田慶次は上杉家に仕えていますし、また彼の盟友ともいうべき直江兼続は上杉景勝の重臣です。 前田慶次の一存で豊臣方につけばそれを口実にして家康は上杉を潰すでしょう。 それは同時に世話になってる上杉家や盟友の直江兼続に不義理を働く事になります。 彼の性格(ただし、小説や漫画のイメージによって作られている面も否めませんが。)からすれば、豊臣方に勝手につくという選択は取れなかったと私は考えます。
お礼
徳川家と縁戚関係を結んだ伊達政宗の事を考えると慶次は、反旗を翻す事は出来なかった、そういう事ですか?サンキュー。
- j-mayol
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そもそも前田利益は冬の陣の段階で鬼籍に入っていました。参戦の可能性は0です。 また、この人物が仮に参戦したとしても、大勢に影響があったとは到底思えませんね。小説や漫画などで過剰に武勇の人とのイメージがつけられていますが、実態ははそれほどでもなかったでしょうし・・。
お礼
確か前田慶次は長生きをして山形で隠居生活を送り、1650年前後頃に没したと何かで読みましたが、サンキュー。
お礼
そうでしたか、そうするとその書物は嘘つき作家が書いたという事ですか、それでも豊臣側に付いて活躍したのが真田幸村一派くらいでは焼け石に水にしかならないですな、サンキュー。
補足
天下泰平の江戸時代に生きた人でも、さすがに110歳まで生きるというのは困難きわまりますか、世界長寿国No1のわが国は医学博士に言わせると120歳くらいまでは規則正しい生活をすれば生きていけるそうです。