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万葉集の歌の集め方
- 万葉集の庶民の歌の集め方について解説します
- 万葉集の歌の集め方は、様々な方法が考えられます
- 当時の文献によれば、万葉集の歌は庶民の自作や取材によって集められたとされています
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庶民の歌の定義にもよると思いますが、中央の皇族や貴族、地方も含む官人などの著名人以外の者が作った歌と考えることにして、いわゆる「防人歌」と「東歌」について考えてみます。このうち「防人歌」については、どうやって庶民の歌を集めたのかを示す記述が当の万葉集自身にあります。結論から言いますと、国家(兵武省)が公的な企画として防人たちから引率者を通して歌を集めていたことがベースにあり、たまたま万葉集の編纂に深く関わった(編者という説もある)大伴家持が、官僚としてその場に居あわせた属人的な幸運も存在したため、蒐集に厚みが加わったということです。 具体的には、万葉集巻二十の「天平勝宝七歳乙未二月、相替りて筑紫に遣はさるる諸国の防人等の歌」という詞書のあとに遠江国の防人の歌7首(4321から4327)を記載した後で「二月六日、防人部領使(ことりづかひ)遠江国の史生坂本朝臣人上(ひとかみ)が進れる(たてまつれる)歌の数は十八首なり。但し拙劣なる歌十一首あるは取り載せぬのみなり。」とあります。またこの後に相模国の防人の歌を3首(4328から4330)記載した後には「二月七日に相模国の防人部領使守(ことりづかひのかみ)従五位下藤原朝臣宿奈麿(すくなまろ)が進れる(たてまつれる)歌の数は八首なり。但し拙劣なる歌五首のみは取り載せず。」とあります。この遠江・相模のほか駿河、上総、常陸、下野、下総、信濃、上野、武蔵国の防人の歌など合わせて92首が巻二十には掲載されていて、そのそれぞれについて国ごとに報告した日付(すべてこの二月)、報告者の名前、最初に報告した歌の数、「拙劣なる歌」は載せられなかったことが書かれています。 防人部領使(ことりづかひ)というのは、防人を東国から任地である九州への輸送を司どる役割で国司などが務め、防人を引率して難波津で西国へ向かう船に乗せたということです。したがって遠江の史生だった坂本人上さんや相模の国司の藤原宿奈麿さん(この人は藤原広嗣の弟の良継で兄の反逆の影響か田舎の国司を転々としていました。また後年家持と交流があります)が防人から歌を聞き取って文字化し、当局へ報告したということになります。 大伴家持はこの前年に兵部少輔となり、この天平勝宝七年二月には難波津(大阪)に出向いて防人の輸送を監督していますので、このときに防人の歌を集めたと考えられます。ここで誰もが考えるのは、防人から聞き取って報告した部領使や家持が歌に手を加えたか否かということですが、回答者は「拙劣なる歌」を除外した以外は、防人が詠んだそのままではなかったとしても大きな改変はなかったであろうと考えます。それは掲載されている歌が、どれも素朴で技巧的でないうえ、東国の方言だけでなく万葉仮名の用字にも地域性が見られることが指摘されているからです。また巻二十には家持が防人の気持ちになって詠んだ歌が、そのことを明示して載せられていますので、家持の文学的な意欲はそちらに向けられたのではないかとも考えられます。 巻十四のすべてを占める東歌には「○○国の歌」とあるだけで詠み人の名前はないものがほとんどで、選び集めた事情は防人の歌のようには明らかではありません。また歌の内容から民謡のように、集団で歌い継がれたと考えられるものもあり、作者が明確な防人の歌とはおのずから別の方法で集められたと見られます。 家持は天平勝宝七年から19年後の宝亀五年に相模国守となっています。家持が防人の歌を収集した際に東国の民衆歌に興味を持ち、東国の国守となった機会にこの東歌を蒐集したと推量する人もいれば、逆にそれ以前に作られていたこの巻十四を見たことが、巻二十の防人歌を選んだ機縁になったと考える人もいるようです。 また8世紀の初めに元明天皇の詔により、諸国に対して地名の由来や産物、地味地形、伝承などを中央に報告するよう命じ、諸国の「風土記」が作られました。そのなかには万葉集にある歌(例えば巻十六3806)と類似の伝承歌(常陸国風土記筑波郡の条)が存在することも、あるいはヒントになるかもしれません。 なお、万葉集の時代と現代とでは、和歌の社会的位置づけというか社会で果たしている機能が大きく異なることに注意すべきだと考えます。古代では和歌を詠むことは、とりわけ「歌垣」などの場合には集団の中でのコミュニケーションの必須の手段であり、単に個人が文学作品を作ることではありませんでした。文字は知らなくても歌を人並みによめて(音声による表現で)相手に気に入ってもらえなければ、恋人もできないおそれがあります。 こんな切実な動機付けがあれば、当時の(防人を含む)若者は、意思伝達の大切な手段として上手下手は別として懸命に歌を詠もうとしたと想像されます。歌を詠む人の割合は、現代よりずっと高かったと推測され、庶民が詠む歌のレベルも、文字が庶民には普及していなかった古代社会の方が、現代よりずっと高かった可能性があるのではないかと思います。現代の庶民には万葉集に載らなかった「拙劣なる歌」さえ詠めないかもしれません。
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- kzsIV
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防人歌は各国の防人部領使(各県国防兵員担当事務官)が取りまとめ兵部少輔(軍事次官補)の大伴家持から長歌及び反歌を貰ってそれを先頭に置き、お上に進貢したものです。恐らくその上書の控えが家持の元にも残されたのでしょう。それを「歌集」に取り載せるにあたっては、「拙劣な歌は取り載せない」としています。銘記された歌数とそれに対応する「取り載せた」歌数とを勘案すると50%強が拙劣歌として切り捨てられたようです。なお、このルートから採録の防人歌は、作者が銘記されています。 まずは、万葉集を じかに 読んでください。
お礼
お答えどうもありがとうございました。 「防人部領使(各県国防兵員担当事務官)が取りまとめ」家持よりも下の収集者がいたということは,組織的な作業があったのですね。すでに下でいくらかは添削したのではないか----それでもプロが見れば「50%強が拙劣歌として切り捨てられた」----と,ぼくはまだちょっと考えています。ぼくは家持個人の趣味的作業かと思っていましたので,いささか驚きました。
- trytobe
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庶民が詠んでいるはずがなく「地位や名称を失った落ちぶれた人間」が詠んだ句、なので、「詠み人知らず」なじゃないけど「詠み人」の名前は「もう無い」とするための方便。 編纂当時に「なんとかという当時の文献にこう書いてある」なら、時の権力者が「庶民」とも書かせる意味もなく、現在まで「庶民の作」として注釈も無く引き継がれるはずもない。
お礼
お答えありがとうございました。
補足
中学校でも習った記憶がある「防人歌」は,実在の防人の「コトバ」を管轄者の大伴家持が書き留めたものが多いようです。だから,「庶民のコトバ」が元だろうと思いますが,ぼくが最初に書いた「取材班」的に家持がかなり形式を整えたのではないかと個人的には思っています。そんないろいろな例を知りたいです。
お礼
たいへん詳しいお答えをありがとうございました。 「防人部領使遠江国の史生坂本朝臣人上が進れる」は,「兵武省が公的な企画として防人たちから引率者を通して歌を集めていた」という意味だったのですか。半世紀にしてはじめて意味がわかりました(笑)。 「防人が詠んだそのままではなかったとしても大きな改変はなかったであろうと考えます。」について「東国の方言だけでなく万葉仮名の用字にも地域性が見られる」という分析もあるのですね。「巻二十には家持が防人の気持ちになって詠んだ歌が、そのことを明示して載せられています」これがぼくには「贋作疑惑」として残ったのですが,「家持の文学的な意欲はそちらに向けられたのではないかとも考えられます」と言われれば,そうかなと思う次第です。 東歌は,ぼくは「取材班」とふざけて書いたのですが,「こういう事情だ」と明確な証拠はないものの,いくつか可能性は指摘されているのですね。俗謡・民謡の採録は,むかしフォークソング時代に行われた(たとえば赤い鳥「竹田の子守歌」やダ・カーポの採譜活動)ことから,ぼくも漠然とは類推していました。 「古代では和歌を詠むことは、とりわけ「歌垣」などの場合には集団の中でのコミュニケーションの必須の手段」そうか! 歌垣をまったく失念していました。和歌は本来はメロディがついたsongだということも。中国辺境の少数民族の歌垣の映像を見たことがありますが,まったくの農民の青年たちが高所から朗々と歌いかけ,おおぜい村人が集まって聴いていましたから,巧拙評価には厳しいものがあるのでしょう。むかしの識字率もほとんどない日本人もこんなことをやっていて,かなりの素養があったはずですね。