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カインの心の闇とは?
- カインの心の深い闇について、具体的な解釈は読む者に委ねられています。
- カインが怒り、顔を伏せる理由についても、読む者の解釈に任せられています。
- 農民と遊牧民の違いが心のやましさに関わるのかは明確ではありません。
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弟を殺したことがやましかったのでは? 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。
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- Tefu_Tefu
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こんばんは、ブラジェロンさん。 >なぜ へびなのか?< 私は、性的欲求の象徴と考えていましたが。 蛇(serpent) http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.htmlを検索して、 >〔人間のライバル〕 人間と同じく、しかし〈逆の意味で〉、ヘビは、あらゆる動物の種と異なる。人間が発生の長い過程の帰結であるなら、この冷血動物、脚も毛も羽もない動物は、同じ過程の初めに位置させざるを得ない。その意味で、《人間》と《ヘビ》は、対立するもの、補完するもの、〈ライバル〉なのだ。またその意味で、人間の中にヘビが潜む。とくに人間の知力のコントロールが及ばない部分がそうである。ある精神分析学者(JUNH、237)がいった。ヘビは「脊椎動物であって、劣った精神や、隠れた心理現象や、稀で理解不能で神秘的な部分を体現する」。ところがヘビほど月並みで単純なものもありはしない。しかしこの単純さのせいで、ヘビほど精神にとって腹立たしいものもおそらく存在しない< この部分に共感いたしましたので、人の知力が効かないもの感情を表しているとしたいと思います。 また、別の考えとして、>ヘビはイヴの最初の愛人であって、カインの真の父親であるという、ユダヤの律法学者の見解<は面白いと思いました。
お礼
てふてふさん お早うございます。お応えがおそくなりました。ご回答をありがとうございます。 示してくださった《蛇》の百科事典の記事からヒントを得ました。 ただし あなたのご持論にもさからって 《へび》は要らないという見方を提出し それに対する批判をも得て問い求めがすすめばよいと考えます。 ● 人間の中にヘビが潜む。 ☆ だからどうしたという話を展開します。 ○ (参考文献および参照箇所) ~~~~ [ a ] 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets 1983 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html [ b ] 聖書 wikisource (旧約および新約) http://ja.wikisource.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8 [ c ] 無意識=ヰキぺ [ d ] 夜刀神(やとのかみ)=ヰキぺ [ e ] ~~~~~~~~~~~~~ § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的社会的な意味 文献[ a ]によって わたしなりの分類をします。 ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~ (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神 (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ あらぶる者:悪魔 (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。 (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。 (ε) ゆえに エロスを象徴。 ~~~~~~~~~~~~~~ § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。 併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。 この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。 § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。 言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。 こういう見方を持ちます。 § 4 この場合のムイシキは (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》) =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ のことです。 § 5 ムイシキの逆襲 リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになる。 その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。 すなわち その意味にまで還元されたと言いますか低い次元に落とされたと言いますか そのように見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。 § 6 ムイシキは 亡霊なり。 ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。 § 7 聖書におけるヘビの克服物語 イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。 第一のアダムは 神に背いた。つまり おのれの人間として自然本性にそなわった自由意志にめざめた。 第二のアダムは その自由意志によるおのれの心に対する背反――単純に言って ウソ・イツワリ――は 人間つまりその当人じしんが 答責性(説明責任)を負って対処し自己経営するということを指し示した。その素地をつくり力のみなもととなった。すなわち ごめんなさいとあやまるということ。 つまり ヘビなるアクマは どこにもいないと明かした。 § 8 前章の話に理屈をつければ こうです。 アクマは 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという希望を持ち得るけれども アクマなるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして この冥界へと人びとをさそう。 イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまで何ものかに従順であった。ヘビなるアクマなどは 屁の河童であると。ますます怒ったアクマは ついに実際にイエスを死地に追いやり見世物にまでして実行した。ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。 § 9 聖書の関係個所を引きます。 ▲(創世記3:14-15) ~~~~ 主なる神は、蛇に向かって言われた。 「このようなことをしたお前は あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるものとなった。 お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この部分すなわち ▲ ~~~~~~~~~~ 彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」 ~~~~~~~~~~~~~ という箇所が のちのイエスとの闘いだと言われます。 § 10 つづき――蛇との闘いの事例―― ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~ 〔* 民が出エジプトを悔やみ始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 民はモーセのもとに来て言った。 「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、 わたしたちから蛇を取り除いてください。」 モーセは民のために主に祈った。 主はモーセに言われた。 「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ を見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。 ~~~~~~~~~~~~~ § 11 つづき ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~ そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ § 12 もともと ヘビはアクマなりという説は 屁の河童だと誰もが見ているはずである。 けれどもそのような民俗の通念があるなら――つまりあるいは そのようなクウキがあるなら―― 子どもだましのおとぎ話としてでも その実態をあきらかにしなければならない。亡霊は亡霊であると明らかにしなければならない。 ★ また、別の考えとして、>ヘビはイヴの最初の愛人であって、カインの真の父親であるという、ユダヤの律法学者の見解<([ a ]) は面白いと思いました。 ☆ 片や エロスが 人の生きることにともなうことと 片や これをアクマなる観念にまでふくらませてその観念の翼を広げて想像力を駆使することとは 別である。と言わねばならないと考えます。 けれども 《エロース》とは そんなちゃちな性衝動だけを言っていたのだろうか? あるいは ● 人間の中にヘビが潜む。 ☆ というのなら そのヘビもアクマも 《わたし》の一部だと堂々と言って行けばよい。それだけの話である。のではないか? ★ 人の知力が効かないもの感情を表しているとしたいと思います。 ☆ ならば おそらくそのヘビ自身が というよりはその情欲とその発動にかんしての全体であるエロースが 自分の面倒を見てそれなりの秩序のもとに動くようになりましょう。
補足
お礼欄からつづきます。 文献[ a ]は 日本の事例が少ないのでこれをおぎないつつ 身近なかたちで《へび》を生け捕りにしたいと考えます。 ○ (参考文献および参照箇所) ~~~~ [ e ] 谷戸(やと)=ヰキぺ [ f ] 草分け=ヰキぺ [ g ] エロスないし愛欲=【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】その回答No.40 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html [ h ] 大物主=ヰキぺ ~~~~~~~~~~~~ 第二部 日本における民俗としてのヘビのお話 § 13 谷戸の神から夜刀の神へ――総論= § 15までつづく―― ◆ (夜刀神=ヰキぺ[ d ]) 夜刀神(やつのかみ、やとのかみ)は、『常陸国風土記』に登場する日本の神(蛇神)である。 ☆ とその記事は書き始めています。《やと》とは 元は谷戸のことで 谷状の土地を言います。ちなみに このようなかたちの土地を 東では《さは(沢)》と言い 西では《たに》と言って分かれているそうです。すなわち ◆ (谷戸:[ e ]) ~~~ 谷戸(やと)とは、 丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。 また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。 谷(や、やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などとも呼ばれ、主に日本の関東地方および東北地方の丘陵地で多く見られる。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 農耕に利用したというところが 重要です。 § 14 谷戸を開墾し へびに出会った。 上なる世界を《タカ〔ア〕マノハラ(高天原)》と言い 地下を《根の国》と言うとき 中間の陸地を《アシハラ(葦原)の中つ国》と言っていたように そこはまだまだ湿地が多かったようで人びと(縄文人また弥生人)は 山の中腹にまで住むところを求めて行っています。 その初めの開墾のとき 当然のようにヘビが出て来ました。言わば先住者であり これに敬意を表し 《谷戸の神》と言ったものと思われます。 生活上の守護神としては 善なる神であり 《なほびたま(直毘魂)》です。 あらぶる力であれば 悪なる神。《荒魂(あらたま、あらみたま)》です。これとの対比では 前者は《にきたま(和魂)》と呼ぶようです。 へび( § 1)⇒谷戸の神 (α)水の神⇒ 生活・生命のしるし。善なる神。⇒直毘魂・和魂 (β)水の神⇒ あらぶる者。悪なる神。⇒荒魂 ちなみに なほびたま・あらみたまの《び・み》は (1) かなし(悲し)→ かなし・び かなし・み のそれらと同じく動詞化する語尾。または(2) かみ・むす・ひ(神生す霊)や かむ・な・び(神な霊)や やま・つ・み(山つ霊)や わた・つ・み(海つ霊) の《ひ・び・み(いづれも 霊)》のそれです。 § 15 谷戸の神と《草分けの人と家》 『常陸の国風土記』には 谷戸の神と 《打ち殺せ》とまで言って 闘ったとあるそうです([ d ])。境界線を決めてあとは 谷戸の神をうやまってもいると。 そこには別様に ●[ d ] 土地の開墾に際して自然神である山野の神霊から土地を譲り受ける「地もらいの儀礼」と見ることもできるというが ☆ とあって この様子のほうが われわれの祖先のおこないそうなことだとわたしには思えます。 《草分け》すなわち柴を刈り草を切りしてあらたな土地を耕し始めたその事また人を その後に人びとがあつまって出来たムラは大事にする。それと同じように へびさんにも先住者に対するものとしてのウヤマヒの心を忘れなかった。 だから 囲いをしてここはおれの土地だと宣言したら その所有の権利が成るというのとは ちと違う。あとは力づくでもしくは法的手続きによって奪うかどうかになるのとは ちょっと違う。自然状態は 人が人に対して狼である( Homo homini lupus.)だとか 万人の万人に対する闘い( Bellum omnium contra omnis. )だとかと言うのとも すこし違う。 でも谷戸の神を わざわざ《夜刀の神》――つまり 暗闇で足元を襲って来るといったイメージをあてはめたものでしょうか――ともその文字を替えて意味をもあらたにつけ加えている。これは 《たたかい》でもありましょうか? § 16 では 日本人は ヘビをエロースのしるしとして見なかったか? 次のような意味合いを 谷戸の神なるヘビに人びとは見たか? (§ 1) ~~~~ (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。 (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。 (ε) ゆえに エロスを象徴。 (§ 4) ~~~~ (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》) =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ ~~~~~~~~ たぶんそういった民俗事例はいくらでもあることでしょう。ストーンサークルのような遺跡には リンガを思わせるようなかたちもあるわけで その縄文人から始まっているわけです。(たぶんそれは 原始心性であって 歴史知性を持ったあとの扱い方や感覚とは違うものと思われます)。ですが 問題は あまりそのことの特別視は していない。というのが 基調ではないであろうか? たとえばエロスは ブディズムが入って来てから 例の理趣経でしたかの愛欲論を真言宗が 密教の中におさめたもののようです([ g ])。 § 17 リビドーをそれとして受けとめ ムイシキを《わたし》のミクロコスモスの中におさめる。 日本人は このリビドーを ちょうど谷戸の神との共生を図ったように おのれの《わたし》というミクロコスモスの中にそれとしておさめようとしている。のではないだろうか? その例示としては思い浮かばないのであるが たとえば真言密教の中からは 例の立川流が現われている。けれどもこれを特に異端視するとか排除するとかしないで それとして全体としての社会の中におさめている。いわばそういった例示が思い浮かぶ。 これは 《抑圧》であろうか? どうでしょう? そのところを得させ それとしての位置をあたえているということではないであろうか? § 18 オホモノヌシの神は じつは ヘビである。 神々をめぐる日本人の世界観は たとえばこうである。 ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~ モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主) コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主) ↓ ↓ ↓ 自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まづ ヒトコトヌシ(一言主)のカミとは こうです。カミでありつつ現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたというそのくだりで出て来ます。そのとき一言主の神は こう名乗ったという。 《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》 (古事記) オホモノヌシは 三輪山の神ですが じつは 長物(ながもの)と言われ じつは ヘビです。神は 山全体がそうであるのですし その山をも越えて《かみ》を見ようとしてもいるのですが 仮りの姿は じつは ヘビです。 § 19 《へび》なるオホモノヌシの神との結婚 資料[ h ]によれば: ● (オホモノヌシとの結婚) ~~~~~ イクタマヨリビメ〔なる女性〕の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかしイクタマヨリビメはそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、イクタマヨリビメは、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。 父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が三回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ただのナンパ(夜這い?)であると考えられるとともに 神の聖霊によって懐胎した話としても――つまりあたかもイエスの母マリアの事例と似ているというような話としても――捉えられます。 のちにこのイクタマヨリヒメより生まれたオホタタネコは 世の中に疫病がはやったときにそれをしづめるためにオホモノヌシの神をまつる役目に就きます。 § 20 おそらく日本人は 共生の知恵にたけている。 《なほびたま(直び魂)》にしろ《あらみたま》にしろ そのようにヘビを取り扱ったとしたら さらにそこにエロスの領域のことどもをも捉えた場合には すべて《モノはコトである》の世界観(§ 18)またそれとしてのミクロコスモスなる《わたくし》の中におさめて(§ 17) もしそれがモノスゴイことであったとしたら むしろそれをウヤマヒ きよらかなおそれをいだきつつ 共存しようとするのではないだろうか?
- hakobulu
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#25です。 > では このヒラメキは どこからくるのか? いまは 過去の学習経験や思考の蓄積から来るものは 別としています。言いかえると 経験や自分の意志から来るヒラメキではないヒラメキがある。こうわたしは 思っているという意味です。 つまりは それは すでに経験を超えていると見るからには 非経験の場であり これをわが心に受け容れたときには 非思考の庭が成ると見るわけです。 したがって いま扱っているヒラメキは この非思考の庭に起きる。と見ますし ということは 非経験の場なるナゾの何ものかから来ている。と――想定上―― 見るというかたちです。 : ヒラメキというものは否定しませんが、 >過去の学習経験や思考の蓄積から来るもの : があくまで土台になっているはずという認識なので、それを >別としています : というご見解であれば、根本的な認識の相違があるものと解釈したほうが良さそうですね。 > ● ヒラメキは わが心の非思考の庭に 或る日或る時 ふと どこからか確かに啓示のごとく 起きる。 こうなると考えます。 : これは全くそのとおりなのですが(というのは、そう感じられるからこそヒラメキという言葉で表現されるわけですが)、「ふと」と感じるのはあくまで意識上の感覚であって、実は無意識領域においては「ふと」ではなく、「なぜなら」という論理的な理由があらかじめ格納済みなわけです。 しかし、無意識である以上「なぜなら」をその時点で感覚することはできず、結果として「ふと」という感覚になるだけです。 脳科学の発展とともに、いずれその脳内メカニズムは解明されるものと考えますが。 重要なのは、 >啓示のごとく : であって、「啓示(と同質)である」ではないという点なのでしょう。 ですから、「啓示のごとく」ヒラメイタというのであれば、それはわかるのです。 しかし、(信仰というものの要素としてですが)それを「啓示である」と解釈してしまう(解釈させようとする)点に問題がありはしませんか。 > したがって ここには いわゆる大自然に対する畏敬の念を生む素地があるでしょうし その心をすでに《非思考の庭》と見るなら そこには《ナゾの何ものかへの きよらかなおそれ》をいだいているという己れの姿を人は見い出すと思います。 : 古代人が神を信じるのはわかります。 「考える」のキャパを超えたものは全て神として崇め、崇めることによって自身に(考えの及ばぬ現象が起きても安心して良いのだと)納得させたわけでしょう。 しかし、今は(たとえばですが)雷の仕組みも解明されていますよね。 「きよらかなおそれ」という表現はどうなんでしょうか。 本気でこのような表現をなさっているのでしょうか。 それと、《非思考の庭》というのは良く言えば無垢、そうでないとすれば無知と言い換えて良さそうですね。 > そのように ただ経験世界に閉じこもるというのでなく そうではなく この世をも超えた世界を想定したならば――つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持ったならば―― その《閉じていない》というところが 《心の明けであり心の伸び》だと見ます。 : 全く論理になっていませんね。 >この世をも超えた世界を想定 : することが、なぜ、 >つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持った : ことになるのでしょうか。因果関係は見出せません。 >《心の明けであり心の伸び》 : という表現で言いたいことはわかるような気がしますが、それは信仰のみがもたらすものではないでしょう。 >そこから 神という言葉があるのを知って この神に――なぜなら 超経験なら 相対の世界を超えているその絶対に――拠り所を見い出す。(あるいは そのとき いや そうではない わたしは けっきょくその超経験の場も それは《無い神》だと思うと言って 無神論という信仰を持つ場合もあると見ます)。 : これは詭弁としか言いようがありません。 神という言葉を前提にすることを一方的に押し付けていますよね。 相対の世界を超えているものがあるぐらい小学生でも感じていますよ。 宇宙の法則と言ってもいいでしょうし、自然の摂理と言ってもいいでしょう。 わざわざ《無い神》などという発想までに及ぶ必要性はありません。 ですから、 > つまり 拠り所であるなら このいまの自分を活かすためであると考えて不都合はないと思います。 : というご見解は、占い師のそれとなんら変わるところがありません。 > ★ それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。 ☆ と一応は言えても この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。 : 「知っている」の主体が何か、ということが大事になるでしょう。 > ☆ ムイシキの領域が特別にあるわけではないという認識が重要だと ここで 成ります。すべての《思いこみ》も《思い》も みな記憶の中に《根を張っている》ことに間違いないからです。 : 《思いこみ》と《思い》の違いの重要性について、若干無頓着のように思われます。 すなわち、 > どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動だとかの見方があるので それに影響を受けて ムイシキを特別視しようとするクセが 人びとについてしまった。ただそれだけだと見ます。 : ということではなくて、 ムイシキとして特別視せざるを得ないような現象が発生するために、 >どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動 : という捉え方をせざるを得ない、ということでしょう。 > ☆ 記憶から過去のいやな思い出をよみがえらせたのですね? と問えば それで済むことです。 : 本当に済みますか? 検証されていますか? >それによって悩んでいるなら その過去の事件をあらためて分析し心に納得ゆくようなまとめを得るようにする。これだけのことです。ムイシキだからこう そうでないからどう といった捉え方は 要らないはずです。 : なぜ「要らない」のですか? >これだけのことです。 : とおっしゃる割には根拠が全く示されていません。 検証されているかなどと野暮なことは申しませんが、せめてアウトラインだけでも示すべきでしょう。 無意識の根拠についてはわたしはすでに何度も申し上げていますのであえて繰り返しませんが。 >納得ゆくようなまとめを得るようにする : ための無意識という概念だとわたしは言っているわけですが、そうではないという根拠はどこにありますか? > ★ 無意識領域という想定が有効になると思います。 ☆ いいえ。記憶とその想起があるだけです。眠っていたものは すべてムイシキだったものだというだけです。 : 繰り返しになると思いますが、『記憶とその想起』を妨げているものがある、という現実を無視しておられるようです。 それが、あるだけ、と言っても何の意味もありません。 > ★ つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。 ☆ だから 他人に対して その人となりなどについてこれこれだと ムイシキ理論を用いて 判断しそのことを言って その中身が かならず当たっているのだぞと言い放っても自由だという意味ですか? 《検証できない根拠にもとづく判断を 他人におしつけても 〈否定する根拠もないから〉 大丈夫だ》という意味ですか? : まあ、お互いに似たようなことをやっているんじゃないですか。 その意味では。 ご自分は常に、検証できる事柄のみを前提にして見解を述べていると思っていらっしゃるのでしょうか。 たとえそうだとしても『件の遣り取りを拝見した範疇においては』お互い様ではないのか、と言っています。 > ★ 神の検証はできるのですか。 ☆ ふたつあります。ひとつは すでに述べて来たように 経験事象との対応を――想定のかぎりでですが――おこなって どこまで経験科学の検証に耐えられるか これを見ようとして来ています。ところが ムイシキ理論は ついぞ行なえないのです。 : 神の検証という難しいところをお答えいただいたと思いますが、全く説得力がありません。 また、ムイシキが(検証されていないとおっしゃるのであれば)なぜ >経験科学の検証に耐えられるか これを見ようと : する対象であってはいけないのか、という根拠も示されておらず、曖昧性に終始したご返答と判断せざるを得ません。 また、一般的な感覚として、無意識の検証があえて必要なほど理解されていないものだとは到底思われません。 >他人に対して当てはめた診断を 言いっ放しであり 押しつけたままになります。これは 人間性が問われなければならない問題です。 : ですから、それは言う側の人間の能力や人間性の問題であるか、または、受けとる側の勘違いや被害妄想にすぎません。 無意識が存在するという事実自体とは何の関係もないことは明白でしょう。 > もうひとつに ムイシキは 経験事象に属するので 神の問題が いわゆる公理として良心・信教の自由にもとづき 信仰として持たれているという現実と異なっていることです。 : 無意識は信仰の問題とは違うと言われればそのとおりですが、 >経験事象に属する : にも拘わらず、経験しているという実感を持てない、という点が無意識というものが想定される根拠になっていると思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ ヒラメキというものは否定しませんが、 >過去の学習経験や思考の蓄積から来るもの : があくまで土台になっているはずという認識なので、それを >別としています : というご見解であれば、根本的な認識の相違があるものと解釈したほうが良さそうですね。 ~~~~~~ ☆ 経験にかかわって起きるヒラメキもある。けれども そうではないとしか考えられないヒラメキもある。それは わが暗き心が 科学の光や人の暖かさによって照らされ明るくなる場合とは違って そうではなく わが心の燈心が・燈心じたいが 灯されるという場合があり この種のヒラメキが いちばん分かりやすいとすでに述べました。次のごとくです。 ☆☆(No.22お礼欄) ~~~ 孤りいるということや 人生のむなしさ・はかなさを身に染みて感じるときの闇のような・わが心の暗い世界を 偉人の英知や人びとのなさけや思いが癒してくれることはありますが そしてその闇に光を投じてくれることもあります。ありますが そのわが心の――もちろん比喩ですが――燈心を点すということ 言わば核反応を起こすかのごとく ひとに力をよみがえらせるそのハタラキ これらの作用は 人間わざではないと捉えるという意味です。 科学による事実認識が世界を照らすこともあり得ますし 人びとの思いが 互いに自分たちの心をやわらがせることもあり得ます。要するに落ち込んだとき その凹みをあたたかくつつむこと これは 人間わざでもありえます。 ところが 心の奥なるまたは底なる場所の燈心に 火をともす これは おそらく 人間わざではない。こう考えます。それゆえ 非経験の場を想定します。さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。 ~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~ 重要なのは、 >啓示のごとく : であって、「啓示(と同質)である」ではないという点なのでしょう。 ~~~~~~ ☆ ここでわたしが《ごとく》というふうに言って直接に《啓示》となぜ言わなかったかと言えば それは 《啓示として》と言えば あまりにも宗教の教義のようであると思い これを避けたからです。要は わが過去の経験の中からだとは思えないヒラメキだというところにあります。啓示と言ってもいいですよ。なぜなら 啓示と見る主観はこの場合 それとしてならふつうのコミュニケーションに出してもいいと 一般に保証されていましょうから。 ★ 「考える」のキャパを超えたものは全て神として崇め ☆ これは 思考能力の限界を 時代とともに どこに置くかの問題だと思われますから 微妙に定義の仕方が違って来ています。そもそもとして 非経験の場を想定するわけですから。この場が わが心に非思考の庭として成るなら それは 《神を崇める》といったこととは まづ初発の状態において違います。 想定した神と言わばわたしは 対面するわけです。想定上ですが。その上で 確かにわたしは この神を受け容れるという場合と いやそうではなく こんなものをおれは受け容れない 無い神として受け容れるという場合とがあります。単純に《あがめる》とか《単に寄り掛かる》というような意味で身をゆだねるのではないわけです。自己を活かすためにあるという心の納得があるものと考えます。それゆえ受け容れようとするのだと。 ★ 《非思考の庭》というのは良く言えば無垢、そうでないとすれば無知と言い換えて良さそうですね。 ☆ 無垢・有垢の問題ではありません。なにしろ非思考であり非経験とのかかわりの庭なのですから。無垢というのは 思考がからんでいます。《無知》というよりは 《非知》でしょうね。 ★ ~~~~ >この世をも超えた世界を想定 : することが、なぜ、 >つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持った : ことになるのでしょうか。因果関係は見出せません。 ~~~~~~~~ ☆ 因果関係の問題ではありません。ふたつは 同じことだと言っています。《言葉として カミやシンジルを持つということは その厳密な意味においては 非経験の場が想定されたということになる》 こういう意味です。 ★ ~~~~ >《心の明けであり心の伸び》 : という表現で言いたいことはわかるような気がしますが、それは信仰のみがもたらすものではないでしょう。 ~~~~~~~ ☆ それは・つまり《信仰のための専一的な用語》というのは 無理です。人間の言葉は つねに比喩などをつうじて別の意味を派生させます。(意味が変化しもします)。 ★ ~~~~ 相対の世界を超えているものがあるぐらい小学生でも感じていますよ。 宇宙の法則と言ってもいいでしょうし、自然の摂理と言ってもいいでしょう。 ~~~~~~ ☆ まづ第一文の内容が聞けて よかったと思います。いままで非経験の場を言っても いったい通じているのかどうか あやふやだったのですから。 ただしこれを《宇宙の法則》とか《自然の摂理》と言いかえるのは 初めの非経験の場から第二次的に派生した言い方になります。 非経験の場〔なるナゾの何ものか〕:絶対・無限・不可変性・永遠 →真理・至高の善・正義・慈愛・全知全能 →〔擬人化〕絶対者 →神(あるいは 無い神) →絶対者たる神=創造主 →宇宙の法則・自然の摂理・宇宙の霊魂(プシュケー・コスムー)・世界霊魂(アニマ・ムンディ) こういった派生的な規定が――想定上 ただし 人間の思考をつうじて――得られます。 ★ わざわざ《無い神》などという発想までに及ぶ必要性はありません。 ☆ 意味が捉えられません。《有る・無い》は 経験世界の規定です。非経験の場ではこれらを超えています。《有る無い》を超えた場を 超えていない人間の言葉で表わそうとすれば 《有る》つまり有神論か 《無い》つまり無神論か いづれかひとつにならざるを得ない。ということです。《有る神》と《無い神》とは 互いに同等であり 名前が違うだけで同一です。 ★ ~~~~~ この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。 : 「知っている」の主体が何か、ということが大事になるでしょう。 ~~~~~~~ ☆ 《わたしは》と言っています。意味が分かりません。 ★ ムイシキとして特別視せざるを得ないような現象が発生するために ☆ ですから 記憶の中に眠っていたものが目覚めたら それはムイシキだったものだと すべてについて言えます。《特別視》はありません。 あるいは 過去の記憶が よい・たのしい思い出であって 心がちからづけられるというようなムイシキの意識化もあり得ます。どうしても 暗い闇のほうへ持って行こうとしていませんか? ★ ~~~ >納得ゆくようなまとめを得るようにする : ための無意識という概念だとわたしは言っているわけですが、そうではないという根拠はどこにありますか? ~~~~~ ☆ 眠っていたものが起きたら それはすべて例外なく《ムイシキだった記憶》のことです。いいことも わるいことも 納得ゆくように総括しまとめて再び記憶へと返します。それだけのことです。 ★ ~~~ 繰り返しになると思いますが、『記憶とその想起』を妨げているものがある、という現実を無視しておられるようです。 それが、あるだけ、と言っても何の意味もありません。 ~~~~ ☆ これが まさしく何もないのに何かあるという――ムイシキ理論の――《思い込み》です。 ★ ご自分は常に、検証できる事柄のみを前提にして見解を述べていると思っていらっしゃるのでしょうか。 ☆ あなたは たとえばコロンをお使いです。これは 深層心理から行けば ふたつの乳房です。よほど乳房に思い入れがお有りのようです。つまりはもっと単純に言えば マザコンのことです。――と言われて あなたが それを そんなことはありません。特別にそんなことになっていることはありません。と答え返したとすると こう返答が来ます。そうでしょう。そのように否定なさるところが まさにムイシキ理論のセオリどおりなのですから やはり意識では分からなくても ムイシキにおいては 実相なのですよ。と。 こんなことは わたしは言いません。 《検証できない内容にもとづく理論を振りかざして 相手に応用してしまい その診断結果を おしつける。あとは いくら違うと言っても 耳を貸さない。ほかの人にも言いふらす》 そういう問題です。筋が違います。 ★ ~~~~ >経験事象に属する : にも拘わらず、経験しているという実感を持てない、という点が無意識というものが想定される根拠になっていると思います。 ~~~~~ ☆ これを 山師と言います。ペテン師のことです。自分ひとりの仮説を超えてほかの人に当てはめるなら そうなります。
- hakobulu
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#23です。 些細な表現に拘って建設的方向性を見失ってもなんですから要点を絞りたいと思います。 >非思考というのは ヒラメキになれば 知覚をともないますから それにつれて心理作用も帯びて来ますが 心理などというのは大海の波風であるに過ぎません。心ないし精神が 大海です。そこに知覚もおこります。その前にイメージのごとき混沌としたヒラメキが起こり得ます。 : ヒラメキは非思考の庭から突如天啓のごとく生じる、ということでしょうか。 > ですが 人間存在という拠り所は けっきょく果敢無くうつろいゆくものであると知っている人間は 《考える》という言葉では表わし得ない人の《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知ってそれを 《信じる》と呼んだのです。 : 「《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知って」と言う場合ですが、 この「知って」という状態になるための契機といったものはあるものでしょうか。 >人間存在の拠り所を 非経験の場に置くことは 人間存在としての自己を活かすためであり その自己に立って 信じるのです。めちゃくちゃです。 : 「人間存在の拠り所を 非経験の場に置くこと」が「人間存在としての自己を活かすため」であることの根拠はなんでしょうか。 >人からさとられないように隠すということですか? だったら さとられないようにするというハカラヒ(計らひ)があります。これを隠す。なら 記憶に残るのは必然です。 つまり その隠す場所が どこであるか そんなことは どうでもよいはずです。記憶の中に残ることは 変わりないのです。どこであろうと 関係ないはずです。まさか 隠し場所を脳にわたしが指示して どこそこに仕舞っておいてくれと言うのでしょうか? めちゃくちゃです。 : 人から悟られないようにではなくて、自分自身に悟られないように、です。 隠すというのはいわゆる抑圧のことで、これは自我の防衛機制の代表格ですね。 また、場所や領域という表現にあまり拘る必要はありません。 記憶の中に残るが、しかし、なかなか意識に浮上してこないもの、これを無意識と呼ぶだけです。 それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。 > ★ 完治しないというのは無能な医者の言い訳にすぎないでしょう。 ☆ だとしたら この《根を張っている》ということは 事実ではないということになります。それで《思い込み》と規定しているとも言えるのですが それだけでは話が済みません。《思い込み》も《根を張っている》ということも すべて錯覚であり幻想である。こう明言しなければならないはずです。 : 実際問題として、思い込んでいる人に、錯覚だ幻想だと言っても納得しないでしょう。 まず、なんらかの思いに苦しむ人がいる、ということが前提的事実としてあるわけです。 それは「思い」ではなく「思い込み」であり、なぜそのように思い込むのかといえば、その根は無意識領域にある、ということ。 その場合にも、無意識領域という想定が有効になると思います。 そういった領域があるわけではありませんが、このように比喩として表現することでわかりやすくなるでしょう。 このようにして、自分で抑圧していた感覚があることに気づくことによって、その感覚は白日の元にさらされて砕け、あたかも堰き止められていた土砂が取り除かれた川のように再び元の流れを取り戻すことが可能になります。 > ★ ~~~~~ 「私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした」 に関しても、 「これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。」 に関しても、 その根拠が示されていない。 ~~~~~~~ ☆ ふざけてはいけません。ムイシキは いくら理論として実際に使ってもそれの検証が出来ないものだと言っているぢゃないですか。検証のできない事柄を示して理論どおりだと言っても 根拠がない。ゆえにそういう理論を用いて人についての判断をおこなうのは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離なのです。 : 一般的に心や精神の問題は検証が難しいものでしょう。 脳科学の発達で大分解明されている部分もあるようですが、まだほんのわずかです。こういった問題に関して、 >検証のできない事柄 : だというだけの理由で >人間性のゆがみであり 人間性からの遊離 : と断定するのはどうなのか、ということを申し上げました。 つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。 神の検証はできるのですか。 私見を差し挟めば、無意識に関しては、繰り返しになりますが、記憶しているはずなのに思い出せない記憶があることは誰もが理解できるのではないでしょうか。 場所を特定しろと言われれば現段階では無理でしょうが。 とはいえ、件の回答者さんもブラジュさんが「男根主義者であるようです」という理由で無意識の存在が確認できた、と言っているのに、男根主義者であるという根拠を明らかにしていません。 この意味で、「無意識の存在が確認できる」というには根拠に乏しい。 どっちもどっちだと言ったまでで、ふざけたわけではありません。
お礼
はこぶるさん 前々回では 口角泡を飛ばしていましたが 前回は ののしっています。これにめげずにご回答を寄せていただきまことにありがとうございます。 ★ ヒラメキは非思考の庭から突如天啓のごとく生じる、ということでしょうか。 ☆ 精確に言いますと: ○(ヒラメキとは) ~~~~ もっとも非経験の場に近いと思われるもの(と言っても 感覚的なことですが)は 単なるイメージがひらめいたという直感です。まだ海のものとも山のものとも分からない状態であり得ます。 そこからでも 人はいわゆるアイディアを見い出すことがあると見ます。 次には 直観が ヒラメキのひとつとして 来ます。これは むしろすでに概念が固まっているかたちだと言ってよいと思います。すでにモノゴトの本質をも見抜いたというような内容を持ち得ると。 いづれのヒラメキにしても そこから 言葉化して今度はその言葉いっぱいに思考の世界において中身を取り扱います。取捨選択 練りあげ 磨き上げといった整理作業や論理の展開などが行なわれて行きます。 では このヒラメキは どこからくるのか? いまは 過去の学習経験や思考の蓄積から来るものは 別としています。言いかえると 経験や自分の意志から来るヒラメキではないヒラメキがある。こうわたしは 思っているという意味です。 つまりは それは すでに経験を超えていると見るからには 非経験の場であり これをわが心に受け容れたときには 非思考の庭が成ると見るわけです。 したがって いま扱っているヒラメキは この非思考の庭に起きる。と見ますし ということは 非経験の場なるナゾの何ものかから来ている。と――想定上―― 見るというかたちです。 ● ヒラメキは わが心の非思考の庭に 或る日或る時 ふと どこからか確かに啓示のごとく 起きる。 こうなると考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~ 「《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知って」と言う場合ですが、 この「知って」という状態になるための契機といったものはあるものでしょうか。 ~~~~~~ ☆ 古代人は お日さんをアマテラスというごとく 神と呼んだでしょうし 嵐をもスサノヲ(スサは 荒ぶのスサと言います)と呼んで これも神と言えば神々のひとはしらとしたようです。(古代インドでは スールヤ神が 太陽神のようですし インドラ神は 日本での帝釈天のことですが 雷霆神だそうです)。 自然界の中にさらに超自然を捉えて とにかく《かみ》と呼んだようです。つまりはこれがすでに 非経験の場のことだと見ます。雷を《神鳴り》というごとくにです。 言いかえると その日輪や雨風の自然現象そのものが 神であるというのでなく それの仮りの姿という意味で偶像だと――厳格には――捉えたと思います。神々は 非経験の場そのものとしての《かみ》の言わば分身であろうと。 したがって ここには いわゆる大自然に対する畏敬の念を生む素地があるでしょうし その心をすでに《非思考の庭》と見るなら そこには《ナゾの何ものかへの きよらかなおそれ》をいだいているという己れの姿を人は見い出すと思います。 そのように ただ経験世界に閉じこもるというのでなく そうではなく この世をも超えた世界を想定したならば――つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持ったならば―― その《閉じていない》というところが 《心の明けであり心の伸び》だと見ます。これは 一般に《信仰》と呼ばれるのだと。 大海に比される心の中に そのきっかけの時点では 心の中から出た思いとして起こるというのではなく まして心の表面で感情が起こりそれをめぐって心理があれこれはたらくというのでもなく 心を超えた場とのかかわりと捉えているのだと見ます。 ★ 「人間存在の拠り所を 非経験の場に置くこと」が「人間存在としての自己を活かすため」であることの根拠はなんでしょうか。 ☆ この世の経験的なものごとは 無常であり果敢無いと知ったあとの知性においては 拠り所は まづ 無いと見ると思います。そこから 神という言葉があるのを知って この神に――なぜなら 超経験なら 相対の世界を超えているその絶対に――拠り所を見い出す。(あるいは そのとき いや そうではない わたしは けっきょくその超経験の場も それは《無い神》だと思うと言って 無神論という信仰を持つ場合もあると見ます)。 つまり 拠り所であるなら このいまの自分を活かすためであると考えて不都合はないと思います。 ★ ~~~~ 人から悟られないようにではなくて、自分自身に悟られないように、です。 隠すというのはいわゆる抑圧のことで、これは自我の防衛機制の代表格ですね。 ~~~~~~ ☆ でしたら この《抑圧》について・つまり隠したし抑圧したというコトについてわたしは 記憶しているということだと思います。つまり 知っているという意味です。普段は 無意識だとしても 基本的にわたしは記憶において知っていることだと見ます。 つまりその《わたし》の内部で ★ 自我の防衛機制 ☆ という作用があったとしても すべては《わたしが 記憶において――そのコトもそれを隠したことも――すべてを知っている》というのが ふつうの現実だと見ます。 言いかえると その全体としての現実が 現実であるゆえに ★ ~~~~ また、場所や領域という表現にあまり拘る必要はありません。 記憶の中に残るが、しかし、なかなか意識に浮上してこないもの、これを無意識と呼ぶだけです。 ~~~~~~ ☆ ということが きわめて煮詰めた言い方では どうでもよい。となります。すなわち ★ それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。 ☆ と一応は言えても この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。その区別に さして意味がないと見ます。したがって 領域を特別視する謂われもない。こう見ます。 記憶の中で眠っているものは すべてムイシキの状態にあります。それだけだと見るという意味です。 このことが大事なのは 次の場合です。 ★ ~~~~ まず、なんらかの思いに苦しむ人がいる、ということが前提的事実としてあるわけです。 それは「思い」ではなく「思い込み」であり、なぜそのように思い込むのかといえば、その根は無意識領域にある、ということ。 ~~~~~~ ☆ ムイシキの領域が特別にあるわけではないという認識が重要だと ここで 成ります。すべての《思いこみ》も《思い》も みな記憶の中に《根を張っている》ことに間違いないからです。 どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動だとかの見方があるので それに影響を受けて ムイシキを特別視しようとするクセが 人びとについてしまった。ただそれだけだと見ます。 ★ 実際問題として、思い込んでいる人に、錯覚だ幻想だと言っても納得しないでしょう。 ☆ 記憶から過去のいやな思い出をよみがえらせたのですね? と問えば それで済むことです。それによって悩んでいるなら その過去の事件をあらためて分析し心に納得ゆくようなまとめを得るようにする。これだけのことです。ムイシキだからこう そうでないからどう といった捉え方は 要らないはずです。 精神分析の手法は ここまででも 要りません。 ★ 無意識領域という想定が有効になると思います。 ☆ いいえ。記憶とその想起があるだけです。眠っていたものは すべてムイシキだったものだというだけです。 次の事態は 上で述べた《過去の事件の分析と納得のゆく整理》という作業の中にぜんぶ含まれます。 ★ このようにして、自分で抑圧していた感覚があることに気づくことによって、その感覚は白日の元にさらされて砕け、あたかも堰き止められていた土砂が取り除かれた川のように再び元の流れを取り戻すことが可能になります。 ★ つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。 ☆ だから 他人に対して その人となりなどについてこれこれだと ムイシキ理論を用いて 判断しそのことを言って その中身が かならず当たっているのだぞと言い放っても自由だという意味ですか? 《検証できない根拠にもとづく判断を 他人におしつけても 〈否定する根拠もないから〉 大丈夫だ》という意味ですか? ★ 神の検証はできるのですか。 ☆ ふたつあります。ひとつは すでに述べて来たように 経験事象との対応を――想定のかぎりでですが――おこなって どこまで経験科学の検証に耐えられるか これを見ようとして来ています。ところが ムイシキ理論は ついぞ行なえないのです。他人に対して当てはめた診断を 言いっ放しであり 押しつけたままになります。これは 人間性が問われなければならない問題です。 もうひとつに ムイシキは 経験事象に属するので 神の問題が いわゆる公理として良心・信教の自由にもとづき 信仰として持たれているという現実と異なっていることです。言いかえると 信仰について この主観の内面の問題だという基本からさらにコミュニケーションの場に出て 経験合理性で何とか納得しうる説明を求めているし その成果を発表している。というところです。
- Tefu_Tefu
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お早うございます。 >全体を〔も〕見ること――ホーリズム<この考え方は、経営者あるいは統治者の考え方ですね。全体の利益に対してどれだけの経費が掛ったかということ。哲学者の方が考えられているとは思いもつきませんでした。これが出来れば立派な実業家ですよ。 私もマズローの欲求段階説は、おかしいと思います。これは、人間のピラミッド型の組織に於いての統計の結果だと思います。その階級に於いて達成される欲求のことです。ピラミッドの上にいく程、人数が少なくなるので難しくなるというだけのことです。別に、段階はないと思います。逆に、聖職者や統治者は下の欲求が満たされていないのかも知れません。だとすると、悩み多き人達かもしれませんね。自分たちの生活レベルを下げるのに怖がって自己実現の欲求どころではないのかもしれません。(笑) >感情や欲求を理性で抑制する<過度の感情の抑制が人間の自立に悪影響を及ぼしているということでしょうか?これが>その人の境地<ということでしょうか? 家族で考えた場合、三つ子の魂百までといいますから影響は、あると思います。心理学では、潜在意識として残るということですね。そのために、睡眠状態であるいは癒しの状態での治療が有効的であるということでしょうか?私は、カインに於いては、十分成熟した大人であり影響はないと思います。 >《自然淘汰》は ただ動物の世界だけだとわたしは考えます。< そうでしょうか、人間はどうしても感情が理性より優先してしまうと思います。でも、動物と違うところは、知恵があります。知恵により感情を抑え理性が生まれたのです。 >《カインの言い分》< エデンの園のお話ですね。キリスト教の思い込みなのであまり興味がないのですが? カインは、悪魔であるへびが、主が造られたエバをそそのかして私に知恵の実を食べさせ、性欲などの欲望を感じさせた。そして、知恵はさらに神と同じように善悪を私に教えた。だから、私は主が私の摘み物に対して喜ばれなかったので恥ずかしく思った。それが、アベルへの妬みになり殺害した。罪=欲は主が与えたものだということですね。 どうなんでしょう。このころ、人間の中に知恵ある者が現れたということでしょう。みんな、同時に知恵がつけばいいのですが。まあ、人間が突然全員アインシュタインになるのは無理でしょうね。(笑)一部の人が優れた知恵を得た為に、善悪などなかった生き物が我欲を膨らまし罪が生まれたのでしょう。そして、彼は、あらゆるものに真実の名を付けたのでしょうね。カインは、その被害者だというのでしょうか?私は、進化だと思います。知恵ある者は、人間を繁栄させるために彼の精いっぱいの知恵を使い信仰も造ったのでしょう。一人の人間の寿命は、昔なら50年も生きれば長寿です、今は130年ぐらいは可能性があるとか少しは人間は進化しているのでしょうか?(笑)
お礼
てふてふが一匹 韃靼(だったん)海峡を渡って行った。 という詩がむかしありました。そのことを思い起こさせるてふてふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 この質問では 完全にイッポンを取られましたから何とか挽回せねばならぬと ねじり鉢巻きで頑張っているぶらじゅろんぬです。まぁ じょうだんですが。 つまり反論をかかげます。 ★ 知恵により感情を抑え理性が生まれたのです。 ☆ いえいえ。理性は むしろ感性――つまり知覚作用――の中から芽生え大きく育つのです。その《芽生え》や《育つこと》 これらは 人間の知恵そのものですが。つまりは おそらく《記憶》という行為能力にあって それは 特に自己秩序作用といったハタラキであるかと考えます。自律神経と言うのでしょうか ひとりでにはたらいていてくれるものと思います。 何が言いたいかと言えば 感性と理性とどちらが エライか? そりゃあ 感性のほうです。感性の中から――泥沼の中から 蓮の花が咲くように―― 理性が実って来ます。 たとえば あなたが 夫と子供もある女性と恋愛に落ち入ったとします。これについて 理性は何と言うでしょう? 人の道を説くでしょうか? あるいは ばれないように注意せよでしょうか? おそらくこのとき 感性は そのあふれ出る感情いっぱいにして それでもあなたに告げるでしょう。《わたし(=感性)は この道を行くのは 好かん》と。 おそらく 言葉にしては 感性は語らないかも知れません。けれども すでにじつは 初めから この道をすすもうとは思っていない自分があるのを あなた自身は知っているのです。なぜか? それは 決して理性がおしえたからではなく 感性として最初の一瞬にすでに分かっているのです。エライでしょう 感性は? 理性は この感性の まさに良いところを パクって精一杯恰好をつけつつ論文を書くだけのことです。 そうはお思いになりませんか? スサノヲのほうが アマテラスより立派なのです ほんとうは。 ★ 人間はどうしても感情が理性より優先してしまうと思います。 ☆ これでいいぢゃないですか。これがあるから 理性も生きる場所をあたえられています。 それに 理性は 大した力ではありません。感情をもそして理性をも引っ張るのは けっきょく存在の全体としての《わたし》です。 仮りに理性で何ごとも仕切ったとします。それでは ほとんど必ずあとからしっぺい返しが来ます。恰好だけよくても 足が地についていない。それが 理性です。 ですから 理性も感性も引っくるめた人格全体としての《わたし》の問題になる。こう考えます。 《カインの言い分》についてですが: ★ ~~~~~~ ・・・そして、知恵はさらに神と同じように善悪を私に教えた。だから、私は主が私の摘み物に対して喜ばれなかったので恥ずかしく思った。それが、アベルへの妬みになり殺害した。罪=欲は主が与えたものだということですね。 ~~~~~~~~ ☆ 違います。 (1) 善悪を知る木から採って食べると その名のとおりなら ひとはそこで善悪を知る。そして確かにこの木を知恵の木とも言っています。 この事件は ただし そこで《へび》が介在している。それはなぜか? という問いです。 (2) 善悪を知る木の実というのなら けっきょく人にとっては おのれの心に尋ねて よしとするか あるいは それはちょっとおかしいとか やばいとか――なぜなら 顔を赤らめたり胸の動悸がはげしくなったりする―― これらふたつの選択があることに対応しているのではないか? 良心に従う――ということは 上に触れたように けっきょく元は感性におけるモノゴトの仕分けとしての選択において決まっていると思われるその中身において 言い方としては 良心にしたがう――ことのほうを 善とよぶ。これにさからうほうを 負の善 という意味で悪と呼ぶ。 このとき エワは そしてあとでアダムも 善にさからうほうをえらぼうとした。つまり 神の言いつけにさからうというかたちで 記されているそのことをおこなおうとした。 けれどもそれが なんで へびが間に入って エワをそそのかすというようなコトになっているのか? この問いです。 (3) カインは神にささげ物を持って行ったとき 目を留められなかったので激しく怒って顔を伏せた。 ▲ ~~~~~~ 6: 主はカインに言われた。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 ~~~~~~~~~ ☆ カインは こう思っていた。 ○ (カインの思い) ~~~~~ 主よ あなたにささげ物をささげることは 善であると思います。したがいます。きょうささげた物も決して優れていないわけではありません。 問題は このようにおのれの心にしたがってよしとするコトをえらびおこなうその善が どうして 主よ あなたを経由して成り立っているのですか? つまり 問題となるのは 同じ趣旨だと思いますが 少し違います。いま述べた善にさからうとき・つまり悪をえらびそれをおこなうとき それは 人がその意志によって――心に逆らってですが おのれの判断と意志によって――おこなうということではないのでしょうか? なぜそこに へびが介入しているのでしょうか? へびは要らないと思います。 わたしが 人間として 悪を侵すのです。へびの仲介はないと思います。 なぜ へびなのですか? (のちのカインの述懐として:) 弟のアベルは このわたしの疑問に何ら反応を示さなかった。まるで善一筋。悪は知らぬという顔。われは へびではないと言ったきり。 あとは かあーっとなって よく覚えていないほどです。でも それも へびの介在なしに わたしが 人殺しという悪を思いつき わたしの意志でおかした行為です。そのつぐないを一生かけて あるいはこの命を差し出して おこなおうと思います。 でも ひょっとして 主よ あなたは 人が人をころすというその負の善なる意志行為 これを見越してわれら人間をお造りになったのではありませんか? それはそれとして そのように負の善に向かう意志とそのコトの実行は 人間が負うべき間違いです。そのときなぜ ヘビが現われるのですか? わたしは へびにそそのかされて 悪行をおこなったのではなく 自分の意志でおこなったのです。だから つぐないをします。 へび これは何なのですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- hakobulu
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#22です。 > こういう事実認識のことではなく 問題は トラウマならトラウマと呼ぶ症状になって現われるということ しかもこの症状は 一生なおらない(完治はしない)ということを言っている。これは けしからんという物言いです。 : 症状になって現われる、というより、現に現われた症状に対してトラウマと命名しただけと思われます。 完治しないというのは無能な医者の言い訳にすぎないでしょう。 記憶は無くならないでしょうが、誤った認識のに対する視点の転換が可能になれば、その記憶の質は自ずと変化するものとわたしは思います。 > いちばんの(という意味は けっきょく一生に一度の わが人生を決めるところの)ヒラメキは わが心の燈心を点(とも)す力のあったそれです。これは どう考えても わが身と心の中から現われたとは思えません。わが身と心に――知覚をとおして――現われるのですが 人間としての持ち分の中からは この着火するハタラキは出て来ないと考えるのです。 : むろん、無意識などという概念も含めてですが、全ては脳の働きに関することであり、 >人間としての持ち分の中 : から出てくるものと思います。 >そのわが心の――もちろん比喩ですが――燈心を点すということ 言わば核反応を起こすかのごとく ひとに力をよみがえらせるそのハタラキ これらの作用は 人間わざではないと捉えるという意味です。 : それまでの蓄積なしに、そういった作用は発生し得ません。 ヒラメキという言葉で表現してもかまいませんが、少なくとも人間わざではないと「捉える」ということと、人間わざではないと「断定する」のとでは天地の違いがあります。 >さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。 : それは単に人間というものの弱さの証明にすぎないでしょう。 つまり、考えるを放棄したときに信じるが発生するのは至極自然な心理作用だろうと思われます。 考えるは自らの思考がより所ですが、信じるの場合はそれ(自己)を放棄しているので、その代替として神が想定された。 こういうことではないでしょうか。 > 言いかえると もはや 人間の持つ言葉から 神や信じるという語は消えてなくなるという意味です。そうなるまでは――これは 良心および信教の自由に属す事柄であるのですから―― わたしは《わが心に非思考の庭が成った》 それが 信仰の成立でありそのまま信仰の動態であると説明しているわけです。 : いや、これは良くありませんね。 ブラジュさんの見解は、「そうなる」時期を遅らせるだけの役割より果たしていませんよ。 ポピュリズムを哲学に持ち込む必要はあるのでしょうか。 > ところが ムイシキになると まるで そんな気配はないのです。その想定がおこなわれているのみです。 : いや、ですから、無意識というのはあくまで比喩であることはおわかりでしょう。 意識する、自覚する。 これの対義語としての無意識と単純に考えれば良いだけなんですけどね。 >なぜ《地下の穴倉》は 独自の領域と見なされるのか? これに答えなければなりません。それも ままならないはずです。 : それは簡単です。 地下の穴倉を必要とする、という心的な作用を人間が持っているからです。 不都合なことは隠してしまいたい、という、これですね。 むしろ、自然な感覚でしょう。 つまり、あるふたつの記憶がなぜ同質の記憶として扱われないのか、という、その理由に焦点を当てることによって問題が解決される場合があるから、ということになると思います。 >そして いかにムイシキと呼びたいひとつの記憶領域に《根を張っている思い込み》があるとしても それは 症状を呈することとは 関係ないということ。 : これは逆でして、症状を呈するからこそ、《根を張っている思い込み》なのです。 症状を呈しないことに関して人間の所作朝から晩まで分析するのは暇人のすることですし、何の意味もないことでしょう。 >ムイシキの無意識の内なる活動によって そのコンプレックスは起こっているのだという説明 これは 簡単に人が盗用できる理論であり論理なのです。 : しかし、論理というのは納得できるか否かで採用するか否かも決まるのではないでしょうか。 なぜ納得できないのか、という点をすり合わせていくしか方法はないでしょう。 「事例」に関しては、相互のやりとりの結果として以降の表現がなされるわけなので、一部だけを拝見しての判断は避けたいと思います。(全てを拝見するだけの気力もありませんし) 男根主義というのはよく知りませんが、フェミニズムの対義語的な意味なのでしょうか。 いずれにせよ、この点に関する当面の問題点はふたつと思います。 まず、男性であるならば大なり小なり男根主義でなくてどうするのか。 つぎに、あえて「主義」と評される以上は、何らかの理由があるわけでしょうから、そこについて(互いに)語ればよいことでしょう。 「男根主義者であるようです」 「ところが、あなたは違うと否定なさっている。」 どちらの場合も、その(男根主義者、および、否定の)根拠についての記述がなされていない点が問題であるといえば問題。 これだけのことでしょう。 無意識という概念自体になんの罪もありません。 「私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした」 に関しても、 「これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。」 に関しても、 その根拠が示されていない。 それは、わたしがよく拝見していないだけなのかもしれませんが、そこをつめていけばよろしいのではないですか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ○ 非思考:思考に非ず ☆ この言葉を雑に扱っておられます。無思考つまり 思考がない のではありません。思考停止でもありません。 思考中にも 非思考の庭にヒラメキが起こるということをしっかりと把握してください。 ★ ~~~~ つまり、考えるを放棄したときに信じるが発生するのは至極自然な心理作用だろうと思われます。 考えるは自らの思考がより所ですが、信じるの場合はそれ(自己)を放棄しているので、その代替として神が想定された。 こういうことではないでしょうか。 ~~~~~~ ☆ 言いたくないですが 蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘ります。まるで違う世界であるということ。違いについて何とか知ろう・分かろうとしないのならば いくら言葉を費やしても話はまとまりません。 ○ 考えるを放棄してはいません。しかも 放棄してもいいのです。非思考というのは ヒラメキになれば 知覚をともないますから それにつれて心理作用も帯びて来ますが 心理などというのは大海の波風であるに過ぎません。心ないし精神が 大海です。そこに知覚もおこります。その前にイメージのごとき混沌としたヒラメキが起こり得ます。 ★ 考えるは自らの思考が拠り所です ☆ そんなばかな。拠り所は おのれ・《わたし》・その人格と境地・存在 そういうものです。しかもこの《人間存在》が有限で相対的で経験的に可変的であるゆえに それを超える非経験の場を想定するのは ごくふつうの想像力によるものです。 無限・絶対・非経験(超経験)・不可変性などとしてその内容が 推測されます。それもあくまで想定からの派生という程度です。 ですが 人間存在という拠り所は けっきょく果敢無くうつろいゆくものであると知っている人間は 《考える》という言葉では表わし得ない人の《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知ってそれを 《信じる》と呼んだのです。 ★ 信じるの場合はそれ(自己)を放棄しているので ☆ めちゃくちゃです。人間存在の拠り所を 非経験の場に置くことは 人間存在としての自己を活かすためであり その自己に立って 信じるのです。めちゃくちゃです。 自己を放棄しようがしまいが 非経験の場は想定上 存在します。それを受け容れたなら わが心に非思考の庭が成っている。それだけです。 言いかえると それ以上の拠り所はないわけですから たしかに身をゆだねるということも起こりますが その必要もないほど ふつうに日常生活を送る。ただそれだけの話です。 非経験・非思考という説明をないがしろにしないでください。 ★ ~~~~ 地下の穴倉を必要とする、という心的な作用を人間が持っているからです。 不都合なことは隠してしまいたい、という、これですね。 むしろ、自然な感覚でしょう。 ~~~~~~ ☆ こんな無責任な話はありません。《かくす》ということは 自分がそのことを知っています。忘れようとするだけです。人からさとられないように隠すということですか? だったら さとられないようにするというハカラヒ(計らひ)があります。これを隠す。なら 記憶に残るのは必然です。 つまり その隠す場所が どこであるか そんなことは どうでもよいはずです。記憶の中に残ることは 変わりないのです。どこであろうと 関係ないはずです。まさか 隠し場所を脳にわたしが指示して どこそこに仕舞っておいてくれと言うのでしょうか? めちゃくちゃです。 ★ ブラジュさんの見解は、「そうなる」時期を遅らせるだけの役割より果たしていませんよ。 ☆ これは反論になっていません。未来永劫に《非思考の庭》はありつづけると言っているのです。表現につけこんで 論理だけで突っ込むのは議論ではないでしょう。幕間の雑談ならいいですが。 ★ これは逆でして、症状を呈するからこそ、《根を張っている思い込み》なのです。 ☆ というとき その《症状》は直るということをすでにおっしゃっています。 ★ 完治しないというのは無能な医者の言い訳にすぎないでしょう。 ☆ だとしたら この《根を張っている》ということは 事実ではないということになります。それで《思い込み》と規定しているとも言えるのですが それだけでは話が済みません。《思い込み》も《根を張っている》ということも すべて錯覚であり幻想である。こう明言しなければならないはずです。つまり トラウマという名づけはいいとしても けっきょくその言葉に含まれていると人びとが思っている症状の部分 これが いっさいないのだと明言していなければならないはずなのです。それこそ 単なる心理作用のみであるということでしょう。大海である心は びくともしません。 つまりは ムイシキから起こる症状は 何もないのだ。せいぜいが 錯覚であり幻想であるだけだとはっきりさせる必要がありましょう。 つまりは もうそのときには ムイシキという言葉すら――精神分析の用語としては――要らないということです。つまりは 精神分析ということ自体が 意味がないということです。ムイシキがなくなれば そういうことになります。 ★ ~~~~~ 「私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした」 に関しても、 「これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。」 に関しても、 その根拠が示されていない。 ~~~~~~~ ☆ ふざけてはいけません。ムイシキは いくら理論として実際に使ってもそれの検証が出来ないものだと言っているぢゃないですか。検証のできない事柄を示して理論どおりだと言っても 根拠がない。ゆえにそういう理論を用いて人についての判断をおこなうのは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離なのです。 ふざけてはいけません。 はこぶるさん あなたも ついに そこらのわるふざけ専門の哲学屋に成り下がったのですか?
- hakobulu
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#20です。 >ということは 記憶の倉庫のほかにムイシキの領域があるのですか? : そうですね。 たとえば、倉庫地下の穴倉にでも眠っているような在庫というほどの意味です。 なかなか日の目を見る機会に恵まれないという意味で、それを無意識と名づける。 しかし、ブラジュさんは穴倉と言ったって倉庫には変わりないだろう、とおっしゃっているわけで、つまり呼び名の問題にすぎません。 「なかなか日の目を見る機会に恵まれない記憶がある」という点では同じことでしょう。 > ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう? : いえ、そうですよ。わたしの理解ではですが。 > ★ 「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけ ☆ の領域があるのでしょう? : ですから、これはあくまで比喩であることは当然でしょう。 記憶の中で、容易に浮かび上がってこないものを想定する際に(こういった想定をすることの有意性についてはブラジュさんも異論はないはずですが)、それを無意識の領域に格納されている記憶、のように表現するだけですよ。 前意識などという区分けを追加する場合もありますが、特に触れる必要はないでしょう。 > 誰れかが あなたはマザコンだろう? と言われてそれを否定したなら 相手は そのように否定するのは ムイシキ理論のセオリどおりだ 意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはずなのだ と返して来る。これです。 : コンプレックスというのは複合・錯誤などと考えてよいと思いますが、マザーコンプレックスというのは他の女性を母親と勘違いして認識することです。 しかし、母親(あるいは代替的な女性)からの影響が皆無の男児というものは存在しないわけです。 つまり、多かれ少なかれ、成長後も男児というのは恋人や妻などに対して母親の面影を探そうとします。 また、そうでなければおかしいでしょう。 ただ、そのこと(対象の女性を母親と取り違えること)によって現実の生活において不都合が生じるような場合、複合・錯誤であることを認識する必要が出てくるだけです。 つまり、 >意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはず : なのはむしろ当然なのですが、だからといって、それがどうしたというのか、ということになります。 何の不都合も生じていない人間に対して、そういった用語を適用して喜ぶのは子供のやることですが、それにいちいち腹を立てるほうもどうかと思います。 記憶として深く刻まれている「母親から受けた影響」は膨大なものがあるでしょう。 しかし、いちいちそれを意識しているわけではない。 また、思い出そうとしても殆んど思い出せない記憶もある。 それを無意識と呼ぶだけですよ。 無意識という呼び名が無くなったからといってマザコン人間がいなくなるわけではありません。 ただ、程度の大小があるだけで、マザコンの要素を持たない男は誰一人としていないはずです。 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといった風情が感じられますが、無意識には何の罪もありません。 ですから、 > これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? : というのは全く根拠を欠いた推論と言えるでしょう。 歪み、遊離しているとすれば、それを扱う人間の問題にすぎません。 > これを 《そこまでの扱いをする》という見方は おかしいでしょう。ごくふつうのことなのですから。 : いえいえ、ヒラメキや非思考の庭も検証できないと思うのですが。 > ヒラメキは その直感ないし直観じたいにおいてすでに経験的なものごととして得られたなら――それもふつうのことだと思いますが そしてもはやそれを解釈する必要もないわけですから―― 必ずしも非思考の庭に起きたそれ(ヒラメキ)だとは確かに見ないでしょう。ただし たとえば方向性を示す場合とか 同じようなことですが いまおこなっている道筋を変えてみるようにといった指示だとかなら 信仰にかかわるそれだと見なせましょう。 : どうもわかりづらいので端的にお尋ねしますが、 非思考の庭という領域はどのあたりに想定されているのでしょうか。 ヒラメクというのは感覚の作用だと思いますが、「あ!」とヒラメイタ段階ですでにそれは蓄積された記憶に基づく営為でしょう。 方向性を示す、あるいは道筋を変えてみる、というのは、環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。 > しかも ムイシキにかんして問題となるのは あくまでその過去の亡霊のよみがえりが その人に一生付きまとうと見なしているところです。 : 記憶は(取捨選択や上書きなどもあるでしょうから一概には言えませんが)基本的に一生付きまとうと言って良いでしょうが、一生付きまとうことが問題なのではなく、単なる記憶にすぎないものを亡霊とみなしてしまう、という点に問題があるように思います。 単なる記憶ではなく亡霊なのだ、と言う場合には、亡霊とみなさざるを得ない現況があるから、ということになるでしょう。 たとえば街中における車のバックファイヤーがベトナム従軍時の敵の砲声に聞こえてしまう。 この場合、記憶における敵の砲声は亡霊と言えますが、それはバックファイヤーが敵の砲声に聞こえてしまう、という現況を反映したものでしょう。 敵の砲声は過ぎ去った過去のことであり、現在という時制には起こらないことだと認識できると亡霊は記憶に戻るはずです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 納得できません。少しづつ微妙に焦点がずれていると考えます。 ★ 敵の砲声は過ぎ去った過去のことであり、現在という時制には起こらないことだと認識できると亡霊は記憶に戻るはずです。 ☆ こういう事実認識のことではなく 問題は トラウマならトラウマと呼ぶ症状になって現われるということ しかもこの症状は 一生なおらない(完治はしない)ということを言っている。これは けしからんという物言いです。 ★ ~~~~~~ 非思考の庭という領域はどのあたりに想定されているのでしょうか。 ヒラメクというのは感覚の作用だと思いますが、「あ!」とヒラメイタ段階ですでにそれは蓄積された記憶に基づく営為でしょう。 方向性を示す、あるいは道筋を変えてみる、というのは、環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。 ~~~~~~~~ ☆ 直感ないし直観 これが ヒラメキであり 欧米で言うインスピレーションのことです。単なるイメージであって ほとんどその意味が分からない(あるいは 混沌とした状態である)場合さえあるはずです。そして 少しは概念として捉えることのできるイメージやさらには直観(これは かなり理論化したいわゆる本質的な内容を伴なうものであると思います)としてのヒラメキもある。こういう事情ですが・・・ こういう事情ですが まづ 直感とかイメージとか言う以上は 知覚においてそれは現われます。むろん 経験的な事象です。 問題は それが どこから来たかです。 いちばんの(という意味は けっきょく一生に一度の わが人生を決めるところの)ヒラメキは わが心の燈心を点(とも)す力のあったそれです。これは どう考えても わが身と心の中から現われたとは思えません。わが身と心に――知覚をとおして――現われるのですが 人間としての持ち分の中からは この着火するハタラキは出て来ないと考えるのです。 孤りいるということや 人生のむなしさ・はかなさを身に染みて感じるときの闇のような・わが心の暗い世界を 偉人の英知や人びとのなさけや思いが癒してくれることはありますが そしてその闇に光を投じてくれることもあります。ありますが そのわが心の――もちろん比喩ですが――燈心を点すということ 言わば核反応を起こすかのごとく ひとに力をよみがえらせるそのハタラキ これらの作用は 人間わざではないと捉えるという意味です。 科学による事実認識が世界を照らすこともあり得ますし 人びとの思いが 互いに自分たちの心をやわらがせることもあり得ます。要するに落ち込んだとき その凹みをあたたかくつつむこと これは 人間わざでもありえます。 ところが 心の奥なるまたは底なる場所の燈心に 火をともす これは おそらく 人間わざではない。こう考えます。それゆえ 非経験の場を想定します。さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。 もしこの心の燈心に火をともすといったヒラメキが あくまでどこまでも経験事象であり そのハタラキも人間わざの範囲におさまるというのなら それはそれでかまわない。言いかえると わざわざ神や信じるといった表現を当てなくても そのヒラメキが起こるのであれば それでよいわけです。 言いかえると もはや 人間の持つ言葉から 神や信じるという語は消えてなくなるという意味です。そうなるまでは――これは 良心および信教の自由に属す事柄であるのですから―― わたしは《わが心に非思考の庭が成った》 それが 信仰の成立でありそのまま信仰の動態であると説明しているわけです。 いまは この説明がいちばん説得力がある。こう思ってのことです。 言いかえると ★ 環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。 ☆ これでは 納得が行かないというただただその感覚に 根拠を――つまり無根拠という根拠を――見い出すというところです。つまりもし おっしゃるように 経験的な心的現象として《わが心の燈心に火をともす》ヒラメキが起きるのであれば それこそ トラウマは人間であるかぎり直るでしょう。完治すると断言しているべきでしょう。 ★ いえいえ、ヒラメキや非思考の庭も検証できないと思うのですが。 ☆ これは 非経験の場とのかかわりですが そのかかわるときには 知覚が起こりますから 経験現象となります。したがって その現象にかんするかぎり――自然科学者でさえ ヒラメキが事実であり現実であると認めているからには―― やがて脳内活動としても細胞組織の動きとして解明されるようになりましょう。 と言えるのです ヒラメキの場合には。 ところが ムイシキになると まるで そんな気配はないのです。その想定がおこなわれているのみです。 ★ ~~~~~~ たとえば、倉庫地下の穴倉にでも眠っているような在庫というほどの意味です。 なかなか日の目を見る機会に恵まれないという意味で、それを無意識と名づける。 しかし、ブラジュさんは穴倉と言ったって倉庫には変わりないだろう、とおっしゃっているわけで、つまり呼び名の問題にすぎません。 「なかなか日の目を見る機会に恵まれない記憶がある」という点では同じことでしょう。 ~~~~~~~~ ☆ もしほんとうにこうであるならば ムイシキの領域という呼び方は まづいでしょう。なぜ《地下の穴倉》は 独自の領域と見なされるのか? これに答えなければなりません。それも ままならないはずです。 ならば ただの記憶のことです。 ★ ~~~~~~~ > ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう? : いえ、そうですよ。わたしの理解ではですが。 ~~~~~~~~~ ☆ でしたら 次の命題について そのムイシキは 何ら特別の意味はなく ただ記憶の一分野だということになります。 ★★(回答No.17)~~~~~~ にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。 イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。 思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。 ~~~~~~~~ ☆ そして いかにムイシキと呼びたいひとつの記憶領域に《根を張っている思い込み》があるとしても それは 症状を呈することとは 関係ないということ。ここまでをしっかりとはっきりと明らかにしていなければならないでしょう。ですから仮りに《トラウマ》という用語さえをもただの呼び方の問題に過ぎないとして受け容れるとしても このトラウマは 過去のいまいましい記憶がよみがえったことによるただの一時的な現象であるに過ぎない。こうきちんと言っていなくてはなりません。そういう問題です いま扱っている問題は。 ですから マザコン等々のコンプレックスにしても 問題は事実認識のあり方を超えて起こります。 この場合は 直らないという問題であるよりも 検証ができないのにムイシキが活動していると言い張るところにあります。ムイシキの無意識の内なる活動によって そのコンプレックスは起こっているのだという説明 これは 簡単に人が盗用できる理論であり論理なのです。包丁の悪用・誤用の問題どころではなく まさに理論どおりに応用しているとさえ言わねばならない事態です。 その事例をお示しします。わたしが最近受けた事例です。 ●(【Q:われわれは 魂が去勢されていましょうか?】回答No.9)~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7277186.html 精神分析的な話し方が、対話として不毛であるという指摘がありましたが、私はどうだか知りません。結局お書きになっているのは、無意識の存在を否定したというだけのことで、その理由も、統計も示されていません。したがって、何ら説得性をもつものではありません。 しかし、傍から見れば、あなたは自覚なさっていないが、(すでに私が述べたように)非常な男根主義者であるようです。ところが、あなたは違うと否定なさっている。この事例で、私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした。無意識である以上、当人は自覚することができず、「え?そんなことはない、おまえの深読みだ」と否定するものです。あなたの反応はセオリー通りです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ ~~~~ これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? ~~~~~~~~
- Tefu_Tefu
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お早うございます。 人間は、感情の動物であると言われます。このときの喜怒哀楽の激しい感情を“情動”と言います。 感情は、情動(情緒)、気分、情熱、情操の総称です、元々は英語で、Feeling=比較的短時間で過ぎて行く感情、Emotion=心の動きを伴う感情で、主に情動と呼ばれます、Affection=何かに対する(向かう)感情と分けられています。感性は、主に美的な感じ方の表現で、この場合の感情とは関係がありません。理性により、人は感情を抑えています。 人間の快楽はマズローの欲求段階説より、生理的欲求(physiological need)、安全の欲求(safety need)所属と愛の欲求(social need/love and belonging)承認(尊重)の欲求(esteem)、自己実現の欲求(self-actualization)があります。これらの欲求は、脳により判断されると思います。人は、五感により神経を通り脳で感じるのです。そして、近年脳内麻薬、情報伝達物質により人の苦痛、快楽はコントロールできるようになってきています。ヨーガに於いては、五感の刺激で感情(潜在意識)に働きかけることで昔から、人の苦痛を取り除いたり、快楽を得ることができるのです。しかし、それは一時的なものです。 カインとアベルは、主からしたら失敗作だったとすると。何故、カインだけ感情が理性より弟殺しに至るまで優先したのでしょうか? それは、間違った信仰だったからです。では、正しい信仰とは何か?朝、晩、神の言葉(聖書)を音楽と共に五感に感じるように行うことです。これにより、人間の感情(潜在意識)は幸せを感じ穏やかになるのです。その結果、アベルは幸せの内に天国に召され、カインは追放されさすらうものとなったのです。その後カインは、知恵により痩せた土地で農耕を発展させ文明を創ったのでしょう。日本では、縄文時代から弥生時代にあたると思います。 主は、本当に失敗作の人間を造ったのでしょうか?聖書とミサ曲と集会により感情はコントロールできるのではないですか.感情(潜在意識)により過ったカインは、直観あるいは直感と努力で多くの作物を得ることができ文明を発展させたのではないのですか。カインは償いを認め主にお返しをした。アベルは信仰で天国に導かれた。主は、この物語で人間の信仰について語っているのです。それは、信仰は感情(潜在意識)をコントロールして天国に人を導く道具なのです。お金や偶像崇拝も信仰の道具です。主は、人にカインのように生かさせるためと、アベルのように信仰させるために、わざと失敗作ともいえる人間を造ったのではないのでしょうか。 私は、主がいないとすれば、生物の相互依存関係が人間の潜在意識(感情)や理性の根源であると考えます。あらゆる生物は、独自に進化します。自然淘汰(環境適応、弱肉強食)は、進化の一部です。 信仰の本来の目的は、健康な肉体を保ち、感情を抑えることにより理性で人の過ちをなくすことです。しかし、環境が激変したとき人口抑制機能になるかもしれません。よって若者が宗教に嵌ればマイナスの面(人口抑制)が多くなると思います。以上、私の考えですが間違っているかもしれません。
お礼
てふてふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 信仰の問題だというご見解 異論ありません。 つまりは――ただし 各論において異論があることになりますが―― 人間という存在にかんしては 感性や理性 あるいは感情やそれの活かし方といった個々の要素要因を超えてと言いますか あるいはそれらをぜんぶ引っくるめてその人の境地 この境地の問題だという見方になるかと考えます。 信仰の問題だということは 《境地》の問題だと見るという意味です。 存在を個々の要素要因に分けて捉えるその分析に特に異論はありません。ただしこれらの要素がすべて鍵を握るという見方には賛成できません。所謂る要素還元主義に落ち入っては行けないと考えます。 つまりは 全体を〔も〕見ること――ホーリズムと言うのでしょうか そこらへんはあまり勉強したことがありません―― これは 大事でしょう。その見地からも 人の・その人の境地ということ これは 必ずしも目に見えないですからつかまえにくいですが 肝心でしょう。 少々物言いをはさみますと マズローの仮説は ちょうどわたしの世代が 二十歳代に現われたかと記憶しています。さっそく――これは いくぶん関連していたものですから――読みました。 結論は それらの要素があることは分かる。分かるが 何で段階だとかがあってその順序に従うなどということを言うのか? と思ったものです。しかも 《快楽》だとか《欲求》だとか なんでそんな概念でくくらなければならないのか? ともです。《欲求》という言い方には違和感がありますが 《自己実現の欲求》が 何よりも先に来るということ しかも それはほど存在ないし人格の全体のことであろうと見ました。つまり 境地のことです。 いいかえると この自己実現の思いとその実践が あとのすべての欲求を包み込むのだと。 自己実現というよりは 自己到来もしくは自己還帰であって つまりはもともとの《わたし》に立ち帰ることであって そこからさらにこの《わたし》を練り上げて行く そういうつねに自己表現としての文体もしくは動態である。こう いまでは 捉えます。 自己実現と言っても クリスマスツリーのように飾りをいくつかつけるようにして実現していくのではない。人生において嫌でもついて来るしがらみ そのしがらみから自由な存在そして共存 このような共生のあり方を試行錯誤して模索して行くのだと。 けっきょく 生理的欲求もあれば 人間どうしがふつうに自由に話し合える人間性としての思い これもある。ただそれだけのことだ。とも結論づけました。(だいたいが アメリカ人の理論は くだらんとさえ 暴論を吐いていました)。 暴論は 見下してください。ただし 全体としてそれらの仮説に――つまりその理論を繰り出すその発想などに――引きずられて行ってしまわないようにとも願います。老婆心です。 ですから その影響だとわたしが思うこととして ここでも出ていると思うことは 《感情や欲求を理性で抑制する》といった発想のことです。しかも わるい影響だとわたしは思っています。 一にも二にも 抑制するからさらに大きなかたちとなって現われる。のではないでしょうか? 人の身と心との全体としてまた境地として 感情が起これば それは感情だと見る。そこから出発するというように思います。だいたい 段階や次元が低いとか高いとか そのように格づけする発想が間違っています。全体で 人間です。 ですから アダムもエワも カインもアベルも 《失敗作》ではありません。(とあとで 再考・再論されていますが)。ほどよい状態の自然本性として生まれて来ている――何なら 造られた――と思いますよ。 ただし 《自然淘汰》は ただ動物の世界だけだとわたしは考えます。それだけぢゃ 人間として能がない。わたしが生きるということは ほかの《わたし》たちと共に生きるということです。それが 人間という生物です。感情や理性がどうのこうのと言う前に 存在の全体として そう造られています。そしてそれは 自由意志 この一事に帰着します。むろん記憶や知解といった能力とともに自然本性としてそなわった意志能力のことです。 そうでないと ヒトは 一方でやはり弱肉強食の格差社会に生きる動物としての状態〔のみ〕に成り下がりましょうし 他方ではアベルのようにただ天の国に召されるというだけの人生〔のみ〕になりかねません。ヒトは 天使でもなければ獣でもありません。ほどよく塩梅されて造られてある。のではありませんか? てふてふさん わたしは質問者としてさらに問いを発展させました。No.19のぐれいぞーんさんへのお礼欄に《カインの言い分》として書きました。よろしかったら お考えください。そのNo.19の補足欄には アダムとエワの物語を資料として載せてあります。
補足
お礼欄について 入力まちがいがありました。 あいさつを除いて三つ目のパラグラフの末尾の一文: ☆☆ 《欲求》という言い方には違和感がありますが 《自己実現の欲求》が 何よりも先に来るということ しかも それは ≫ほど≪ 存在ないし人格の全体のことであろうと見ました。つまり 境地のことです。 ☆ この ≫ほど≪ は要りません。おわびしてなおします。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#18です。 >《意識していなかったこと》は 《無意識だったこと》です。(潜在意識にあったというようなことは 措いておきます)。 言いかえると この意識は 記憶の倉庫から現われたものです。 つまり この記憶のほかに 《ムイシキ》という領域が独自にあるというのは あまりにも勝手な独断である。こういう問題です。 : なぜ、倉庫にあるものと倉庫にないものを分けてはいけないのか。 その理由がよくわかりません。 どちらも在庫であるには違いないのであって、呼び名がどうあれ、それほど問題にされるべきことなのでしょうか。 「あまりにも勝手な独断」と言うには大げさすぎるような気がしますね。 > しかも問題はそれにとどまらないからです。 自分の意識や意識していない記憶の中からではなく あるいは ふつうに身体の生理としての欲求からでもなく それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来たという見方が なされてしまう。 : それは全く逆であると思います。 つまり、 >それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来た : わけではないのに、 >それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来た : と思い込んでしまう。 これです。 そもそも、無意識というものを >別個で独立した : と捉えること自体が誤りでして、「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけではないかと思います。 「自らと無関係の意識」ということではないことでしょう。 > あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。 : 具に利用されるか否かはあくまで運用面での問題でしょう。 包丁で殺人が為されたから包丁が悪い、という論理と大差ありません。 >記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえ : とおっしゃったことを撤回なさるのですか? 悪魔が命令しようが神が命令しようが、自分のやったことは自分のやったことです。 その原動力が常に、一元的に明確に意識できる意志によるものであるとは限らないというだけの話であって、ごく一般的な事象でしょう。 なにがそんなに不思議なのかよくわかりません。 責任論ということであれば、それはまた別の話になるでしょう。 >これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。 > それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? (たとえば 村上春樹と河合隼雄との連携プレーなどです) : 両者ともよく知らないのでなんとも言えませんが、どうも、精神分析の尻尾だけを見て毛嫌いなさっているような印象を受けますね。 また、神父の大半が(おそらく)凡人であるのと同様に、精神科医とて大半はおそらく単なる自営業者でしょう。 もしそうであるようならば、あまり期待しすぎても意味はありません。 > したがって その非思考の庭に或る日或る時 ヒラメキが起きる。その内容を捉え もし単なるイメージであったなら出来るだけ人間の言葉で表わしうるように思い描いたり考えたりしながら 概念として言葉として表現しようとする。ここから元はヒラメキであったそのものを活かすようにして 日常生活における自己表現へとすすむ。 つまり このヒラメキには《身をゆだねる》ことは いっさい関係ありません。 : いや、そうではなくて、ヒラメキに対してそこまでの扱いをするということ自体がすでに「身を委ねる」ということだと言っているわけです。 無意識の証明をせよ、とおっしゃる一方で、 >或る日或る時 ヒラメキが起きる : という、唐突な前提を元に論を進める、という神経がわたしには全く理解できません。 つまり、 >記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえ : であるのに、それを無意識と呼ぶことに対してことほどさように拘る割には、という意味ですが。 無意識を想定することの弊害に対する根拠が全く不明である、というのが貴論の難点となっているように思われます。 ちょっと中途半端になりそうだったので、あえて補足させていただきました。 ひとまず今回はこんなところです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いえいえ ぎゃくに問いたい。 ★ なぜ、倉庫にあるものと倉庫にないものを分けてはいけないのか。 ☆ ということは 記憶の倉庫のほかにムイシキの領域があるのですか? 記憶の倉庫に眠っていたもののほかに ムイシキだったものが意識されるようになったということがありますか? つまり 記憶以外に在庫があるのですか? なければ・つまりないはずですから 勝手な独断だと見ます。 ★ ~~~~ そもそも、無意識というものを >別個で独立した : と捉えること自体が誤りでして、「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけではないかと思います。 「自らと無関係の意識」ということではないことでしょう。 ~~~~~~~ ☆ これも 同じ問いが出されます。 ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう? つまり ★ 「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけ ☆ の領域があるのでしょう? わたしが 記憶とは別個にそれ独自の領域と言ったのは むろん 人体の内ないし精神の内のことです。しかもそれが どこを探しても記憶のほかの場所としてはない。だから おかしいと言っています。《自らと関係している》というのは もともと あたりまえです。ヒトの中から起きて来ることだというのでしょうから。 ★ ~~~~~ > あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。 : 具に利用されるか否かはあくまで運用面での問題でしょう。 包丁で殺人が為されたから包丁が悪い、という論理と大差ありません。 ~~~~~~~~ ☆ 包丁は それの道具としての使い道が決まっています。ムイシキ理論は 言わば万能です。それを振りかざした場合それによってつく傷は 包丁によって傷がつく場合よりは はなはだ分かりにくい。 ☆☆ 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。 ☆ というのは 総論でして その中にはいくつかの場合があり得ます。いちばんひどい例は こうです。 誰れかが あなたはマザコンだろう? と言われてそれを否定したなら 相手は そのように否定するのは ムイシキ理論のセオリどおりだ 意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはずなのだ と返して来る。これです。 こんなばかな話はありません。 ムイシキについては検証できないと来ているからです。包丁どころの話ではなく 多勢に無勢のときには そのやり玉に挙げられたなら めちゃめちゃにされてしまいます。 ですから 次の捉え方は 違うのです。 ★ ~~~~ 悪魔が命令しようが神が命令しようが、自分のやったことは自分のやったことです。 その原動力が常に、一元的に明確に意識できる意志によるものであるとは限らないというだけの話であって、ごく一般的な事象でしょう。 ~~~~~~~ ☆ 悪魔を例に持ち出したのがわるかったようですが 問題は違うのです。 ゆえに ☆☆ ~~~~ これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? ~~~~~~~ ★ いや、そうではなくて、ヒラメキに対してそこまでの扱いをするということ自体がすでに「身を委ねる」ということだと言っているわけです。 ☆ これは 一般論の問題として議論しても始まりません。ひとつの最終として現われた自己表現が 生活の中で有効であったとしたら それでよいという問題です。ヒラメキの効用がそこに見られるという意味です。 これを 《そこまでの扱いをする》という見方は おかしいでしょう。ごくふつうのことなのですから。ヒラメキにも 言わば当たり外れがあるわけです。というより 信仰にかかわるヒラメキは ぜんぶ当たりだと一応見られますが それでも どう応用すればよいか分からない場合があるということでしょう。ですから 例示したことは 応用が効いたという場合なわけです。別に特別扱いということではありません。身をゆだねるということとは 筋が違いましょう。 ★ ~~~~ 無意識の証明をせよ、とおっしゃる一方で、 >或る日或る時 ヒラメキが起きる : という、唐突な前提を元に論を進める、という神経がわたしには全く理解できません。 ~~~~~~ ☆ これは異なことをおっしゃる。ヒラメキは むしろ自然科学者のほうが なじみが深いのではないですか。ふつうのことですよ。 ヒラメキは その直感ないし直観じたいにおいてすでに経験的なものごととして得られたなら――それもふつうのことだと思いますが そしてもはやそれを解釈する必要もないわけですから―― 必ずしも非思考の庭に起きたそれ(ヒラメキ)だとは確かに見ないでしょう。ただし たとえば方向性を示す場合とか 同じようなことですが いまおこなっている道筋を変えてみるようにといった指示だとかなら 信仰にかかわるそれだと見なせましょう。 ムイシキは そのムイシキの領域じたいをヒトの中に想定しているのですから 仮りにヒラメキのような内容物の意識化が起こったとしても すべて経験事象だと考えられます。単なる仮象だとしても その経験事物としての過去の亡霊にかかわるモノゴトです。それに限られます。 ただし こんなことは もしそれがあっても 記憶の中から過去の思い出が意識上に浮かんだというだけのことだと一般には見るのだとも言っています。 しかも ムイシキにかんして問題となるのは あくまでその過去の亡霊のよみがえりが その人に一生付きまとうと見なしているところです。それゆえ 死へのいざないという内実しか 精神分析にはありえないというところです。引導を渡す役割をになっているとも言えましょう。 そんな役目も要らないし ムイシキから浮かび上がる過去の亡霊などはいっさいないということです。
- grayzone
- ベストアンサー率50% (1/2)
アベルはカインよりもなにか御心に適ったところがあって、《だから》その献げ物に神は目を留められたのだ、というそういう前提に立って、その理由を捜しているだけではないか、と思うのです。しかし、そのように理由を見つけては、《だから》神はカインよりアベルを愛されたというのは、あまりにも人間的論理を神の世界にまで持ち込んでいることになるのではないか、そういう印象を拭い切れないのです。 まず注意したいことは、カインとアベルの献げ物に対する神の不公平について、わたしたちは、いろいろその理由を求めて考えているわけですが、肝心のカインとアベルは、二人とも何の説明も神に求めていないことです。二人とも黙っています。アベルが黙っているのはそれはそれで分かりますが、不公平な扱いを受けたカインも何も説明を求めていないのです。彼は後でアベルを殺して、神に追及されるまで、ずっと黙ったままです。何の説明も神の不公平な扱いについて求めていません。しかし、彼は何の説明も求めてはいませんが、決定的な一つのことを、黙ったままでやっているのです。5節の後半に記されていることです。 『カインは激しく怒って顔を伏せた。』 そしてこの沈黙のままのカインの態度に対して、神も6-7節で、初めて沈黙を破って語られたのでした。 『主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」』 この5-7節に、いま間題にしています神の不公平の謎を解くカギがある、と考えています。 カインはまず激しく怒りました。当然です。誰だって怒ります。この神の不公平は黙って済まされる性質のものではありません。しかし、その怒る彼は、顔を伏せたとあります。ということは、神の不公平な扱いに怒りつつも、その時そこで、怒り続けるわけにはいかない、したがって顔を伏せるより仕方のないものが、自分の中にあることに、彼は気付いたということでしょう。 それは一体何であるのか、それは分かりません。しかし、神がカインの献げ物に目を留められなかったその原因となったものを、カイン自身はその時、分かっていたのです。だから顔が上げられなかったのです。「正しいのなら顔を上げられるはずではないか」と神は言われているのに、上げられないものが自分にあることが分かっていたのです。 ということは、カインと神の間には、わたしたち第三者には分からない、しかし、カイン自身と神には分かっている、そういう何かがあった、ということになります。この話を読んでいて、一番教えられたことはこのことです。カイン自身と神には分かっているが、ひとには分からない、そういう神とカインの関係、繰り返しますが、神と本人自身にしか分からない、第三者の知ることのできない、そういう関係、神との関係とは本来そういうものである、ということです。 今までなぜ神はカインの献げ物に目を留められなかったのか、そのわけを知ろうとしていろいろ言われてきていますが、しかし、第三者のそういう一般的な推測、説明、考察、論議の対象に、神との関係はそもそも、なるものではないということです。一般的論議の的になることを許さない、しかし、その本人には切実に問題になる、そういう、《その人自身にとってのその人の事柄》、それが神との関係というものだということです。 もう少し「カインが激しく怒って顔を伏せた」5節の場面を考えてみると、ここには「カインは激しく怒って顔を伏せた」、と一息に書いてあります。しかし、激しく怒っている時と、顔を伏せている時とには、若干の時間のずれがあるのではないでしょうか。なぜなら「お前が正しいのなら顔を上げられるはず」と神が言っておられるように、カインはその怒りが正当なものなら、顔を伏せる必要はないのです。顔を上げたままで怒ればよいのです。その彼が、顔を伏せているのは、自分は正しくない、と気付いているからです。つまり、彼は最初、自分は正しいと思って激しく怒ったものの、そこで神に問われて、実は自分は正しくなかったと気付かされたから、顔を伏せているのです。ですから、激しく怒っている時と、顔を伏せている時とは、時間的に重なることではなくて、そこには若干の微妙な時間のずれがあるはずではないでしょうか。 こういうことはわたしたちも経験すると思います。相手に非があると思って、それを口にして責めた途端に、実は自分の方にあった非に気付く、そして、振り上げたこぶしの下ろし場所に困って、顔を伏せる、そういうことがあるのではないでしようか。 言い換えれば、激しく怒っている時は、《彼が神に》、《自分の正しさ》を振りかざして問いかけている時です。それに対して顔を伏せている時は、逆に《神が彼に》、《神の正しさ》をもって問いかけ、彼が自分の正しくないことに気付かされている時です。言い換えれば・怒るカインは、神に間いかけるカイン。しかし、顔を伏せるカインは、神に問われているカインです。そこには微妙な時間的ずれがあります。いずれにしても、ここでカインは神に問いかける者から、神に問われる者に、変わっているのです。注意深く読めばそういうことです。 ところでカインが、神に問われて気付いた自分の正しくないこと、それは一体何であったのか、これは何度も言いますが分かりません。それは、カインと神だけが知っている問題です。このことは、しっかり押さえておかねばなりません。第三者であるわたしたちは、そのことに対して推測は控えねばなりません。 しかし、それでもハッキリ分かることがあります。それは、カインが自分の正しくないことを、神に間われて気付きながら、それを素直に認めていない、ということです。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」、そう神に言われている彼に、彼の頑なさを感じます。カインの犯している正しくないことが何なのか、これはサッパリ分かりませんが、それを神に示されながら認めようとしない彼の頑なさ、これはよく分かります。そして、その顔を伏せている頑なな彼に、神は言われました、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」。ここでこの話で初めて、罪の問題が出てくるのです。注意したいことは、彼が正しくないことをしていたこと自体は、そして、そのために目を留めていただけないような献げ物をしたこと自体は、罪ではなかったのです。 人間誰だって正しくないことを、程度の差こそあれ、皆して生きています。これは仕様がないのです。問題はそれが問われた時です。その時、それを認めるか、認めないかです。カインはそれを頑なに認めようとしませんでした。そして、そこに彼を戸口で待ち伏せて、襲いかかろうとしている罪の間題があったのです。 自分を正当化しないことです。頑なでないことです。カインを素直にさせなかったものは、アベルへの妬みだったでしょう。弟の献げ物に神が目を留められて、自分の献げ物が無視されたことへの怒りであったでしょう。しかし、カインはアベルを妬んだから、その献げ物を無視されたのではありません。献げ物が無視されたのは、先に申しましたように、彼には、何かわたしたちには分からない不正があったからです。そしてその不正は、神に問われるまでは彼にも分からぬことであったのであり、その点は仕方のないことでした。しかし、その不正が問われた時、つまり、彼がそれに気付いた時、カインはそれを素直に認めるよりも、自分を正当化してそれを認めず、アベルヘの妬みに流されてしまったのです。顔を伏せてしまったのです。それが罪でした。ですから、不正と罪とは別問題なのです。 求められるのは、自分の正しくないことに気付いたら素直に認めること、それだけです。それが「お前はそれを支配せねばならない」と、最後に言われた神の言葉の意味です。自分の正しくないことに気付いておきながら、それを、口実をつけたり、弁解をしたり、ひとに責任を転嫁したり、ひとが気付いていないことをいいことにして認めようとしない、とにかく、自分に甘いこと、素直でないこと、頑ななこと、それが罪なのです。 神との関係は神とわたしとだけが分かっている事柄で、余人の知らない事柄ですから、不正があっても・それをひとはおそらく知らないでしよう、いや、知りません。誰も知りませんが、誰も知らないからこそ、まず、そこでその正しからざることを自分自身が認めることで、それを支配しなければならないのです。そこに、神からわたしたちに求められる、最初にして最後の課題があるのです。 正しくないことを認めたからといって、それを実際に正せるかどうか、それは分かりません。しかし、それは別問題です。とにかく、わたしたちは、自分自身の甘さ、頑なさを支配して、自分の非を素直に認めねばなりません。戸口で待ち伏せている罪に対しては、それしかありません。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」、と言われたのはそういうことでしょう。
お礼
灰色地帯さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ていねいに説明なさっていて ほとんどそのままを復唱することになるようなご文章ですので その点 お礼としてのお応えが簡単すぎることになるかも知れませんが 前もっておことわりしておきます。 大きな視点として ふたつ おそわりました。 ひとつは わたしの見方で《信仰》であり そのあり方が 次のようだと明らかにされています。 ★ 神との関係は神とわたしとだけが分かっている事柄で、余人の知らない事柄です。 ★ カインと神の間には、わたしたち第三者には分からない、しかし、カイン自身と神には分かっている、そういう何かがあった、ということになります。 ☆ そして 次のようにも指摘なさるとき つまり ★ それは一体何であるのか、それは分かりません。しかし、神がカインの献げ物に目を留められなかったその原因となったものを、カイン自身はその時、分かっていたのです。 ☆ というとき その《一体何であるのか》と言えば それが 回答No.1の方が指摘されたヘブル書11章にもとづき やはり信仰であり さらに質問者としてですがそれは《信仰のゆがみ》であろうと捉えたものでした。 あるいはつまり 《不正》と捉えておられます。 ★ 献げ物が無視されたのは、先に申しましたように、彼(カイン)には、何かわたしたちには分からない不正があったからです。そしてその不正は、神に問われるまでは彼にも分からぬことであったのであり、その点は仕方のないことでした。 もうひとつは いま取り上げた《信仰のゆがみ》もしくは《不正》と そして《罪》とはちがうということです。 不正と罪とは別だということ。 ★ しかし、その不正が問われた時、つまり、彼がそれに気付いた時、カインはそれを素直に認めるよりも、自分を正当化してそれを認めず、アベルヘの妬みに流されてしまったのです。顔を伏せてしまったのです。それが罪でした。ですから、不正と罪とは別問題なのです。 ★ 「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」、と言われたのはそういうことでしょう。 * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ わいわいえいとさん どうもわたくしの見方はまちがっていた ようです。おわびして このように訂正しますので よろしくお願 いします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 正しくないことを認めたからといって、それを実際に正せるかどうか、それは分かりません。しかし、それは別問題です。とにかく、わたしたちは、自分自身の甘さ、頑なさを支配して、自分の非を素直に認めねばなりません。戸口で待ち伏せている罪に対しては、それしかありません。 このあと 今度はわたしがカインに成り代わって 別様に反論してみましょう。別様にです。批判というのとはちょっと違います。 ▲ ~~~~~ 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。 カインは激しく怒って顔を伏せた。 ~~~~~~~ ☆ ぐれーぞーんさんも ていねいにきちんとここを読み込んで分析されています。 すでに簡単に反論のようなかたちで入ることにします。 カインの言い分として 次のようなことが取り上げられるのではないか? そういう別様のお話です。 ○ (カインの言い分) ~~~~~~ ですが 主よ わが母エワとそして父のアダムをそそのかしたあの蛇 あの蛇は どうしていたのですか? どうして親たちを 主の言いつけにさからったことをするようにそそのかしたのでしょう? なるほど はじめには すべての被造物をご覧になって はなはだ良しと見たというその話は アダムとエワとが 自由意志を持ちそれを発揮するというところまでを含めて 良しとされたのだと考えます。早く言えば ヒトがウソをつくという自由選択をも備えているというところまでを含めて 良しとされたのだと。 けれども それだとすれば 主よ なぜ蛇が出て来るのでしょう? 善悪を知る木から採って食べてはいけないというあなたの言いつけに対して わざわざ蛇という第三者の仲介があったのは どういうことでしょう? つまり言いつけに対して ヒトがそのままおのれの自由意志によって さからい またウソをついて言い訳をするということで よいのではないでしょうか? なぜ 蛇がそこにいるのでしょう? 自分の自由な――ただしへそ曲がりの――選択であったなら それゆえに わたしがやりました わたしがあなたに逆らいましたと素直に受け答えできると考えます。どうして そうはなっていないのでしょう? なんで《へび》なのでしょう? こんな小細工をする 主よ あなたは わたしは嫌いです。好かんことです。わたしは あなたから 遠ざかりたい。そう思っているだけのことです。 だから ささげ物が顧みられなかったときわたしは 《激しく怒って顔を伏せた》のです。 それとも わたしたちヒトは 主よ あなたのあやつり人形なのでしょうか? 弟のアベルは それに何の抵抗もなかった。主よ 弟はあなたのためには死んでもいいという顔をして わたしに向き合っていた。 わたしは 蛇を説明しないあなたは 好きません。あなたのいないところへ行きたい。 《不正》とは 何ですか? 《信仰のゆがみ》とは何? 《罪》ですか? つみっていったいなんのことですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
補足
お礼欄の末尾にある《カインの言い分》 これを理解するために聖書のくだりを参照していただければと思い 引用しておきます。 ▲ (創世記 2:7―3:24) ~~~~~~ 2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。 2:8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 2:9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。 2:10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。 2:11 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、 2:12 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。 2:13 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。 2:14 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。 2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 2:19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 2:20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 2:21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 2:22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 2:23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。 2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 2:25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。 第3章 3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。 3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。 3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 3:12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。 3:13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 3:14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。 3:15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 3:16 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。 3:17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 3:18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。 3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。 3:20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。 3:21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。 3:22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 3:23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 3:24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- hakobulu
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#17です。 > それに 記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえです。 : そうですね。 その眠っているという状態を無意識と呼んでいるだけだと思うのですが。 単に名称の違いですから >特定して見せなければウソ : とこだわる必要もないでしょう。 > それに――感覚の問題として言えば―― ヒラメキは それまで何ら知らなかったし むろん意識してもいなかった知恵のようなものがあたえられることです。 >これが 信仰ないしヒラメキの起こる場所です。つまりは 非経験の場との接点とも言えます。 : ヒラメキというのはそういったものでしょうね。 悟りや啓示なんかもおそらく同じでしょう。 > ☆ ひょっとして トラウマは消えると言っておられるのですか? : 様々でしょうから一概に断定はできないでしょうが、緩和されることはあると思います。 「思い込み」と述べたのは、トラウマのメカニズムに関しての私見です。 つまり、トラウマは「起こり得ないことにも拘わらず、未来的に起こるかもしれない」という怖れが源泉だと思います。 > ★ なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。 ☆ 過去は思い出しうる現在として 記憶にありますが それが 現在の生に対して 何ら影響はおよぼさないというのは 違うと思いますよ。記憶がよみがえるなら それとして感想を持ち感慨にふけることもあり なかんづくそのいまいましい過去のことであるなら 過ぎ去ったことであっても その現在の自分にとってつらい思いをさせます。どうして この事実を否定されるのですか? : 「感懐」や「つらい思い」はトラウマとはたぶん呼ばないはずです。 上でも触れましたが、起こりえない過去のそれと同じことが再び起こるのではないか、という怖れが現在の生活を脅かすほどの影響力を持つ場合にトラウマという言葉が使われるのではないかと思います。 「感懐」や「つらい思い」が引き起こされたとしても、そのこと自体は「現時点での生に対して影響を及ぼした」とまでは表現しない。 広義に解釈すれば、なんでもトラウマになるでしょうが、この言葉はわたしとしてはあくまで狭義に使用したいと思っているだけです。 「過去のそれと同じことが再び起こるはずはないのだから、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能」 こういうことになると思います。 > ☆ 記憶において過去がまだ活きている。ただこれだけのことに 思い込みがどこからか付いてくるのですか? なんで? : 体験を記憶する際には、一般に解釈が付随するものだからではないかと思います。 >そういう精神分析の存続のための一段上の思い込みなのではないですか? そうでなければ 精神分析は 砂上の楼閣のごとく崩壊してしまうからでしょう。 どうしても トラウマは永続して欲しい。思い込みだが それは存続するのだと 人びとをだましつづけている。だけだと考えます。 : 精神分析に興味はありますが、全くの一素人なので治療として有効か否かは知りません。 認知行動療法と組み合わせると面白いのではないか、という漠然とした印象は持っていますが。 ただ、トラウマという用語がなくともトラウマという現象は発生するわけですから、それに対してどうかということになっていくと思います。 >☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。 : そのようですね。 非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという、そういった営為がなぜ行われるのかを考えていくと信仰の意味がわかるのかもしれません。 >☆ 死の国行きのソファ列車ですよね。トラウマは 永遠について回る。観念しなさいという宗教でもあります。心的作用だとかベクトルだとか言っても すべては 完治せずという名の列車に乗るようになるための促しであるに過ぎません。死の宗教 それが 精神分析です。 : ちょっと検索してみましたが、たしかに、治療としての評判は良くないようですね。 ただ、多様なようですから、精神分析とひと括りに非難しても不毛でしょう。 表面的な知識しか持っていないので詳細をお示しするのは難しいですが、自分の状況を納得いく形で把握するためのひとつのツールとして有効な側面は色々あるように思われます。 ご質問の意図とはちょっとずれた回答に終始してしまったようで申し訳ありません。 丁寧に応じていただきありがとうございます。 今回はとりあえずこんなところで失礼します。
お礼
口角泡を飛ばしてご批判に――前回は――反論しました。 まづはご回答をありがとうございます。 ムイシキとそして信仰にかかわるヒラメキ この二点で 応答しておきます。 トラウマにかんしては まだ荒削りの内容しか出て来ていないかも知れません。(わたしが専門的なことを知っているが小出しにしているとか もったいぶっているとかという意味ではなく ほんとうは詳しくないという意味ですが)。 問題は ★★ ムイシキ領域 ☆ というように《領域》を持ち出すときです。 じつにかんたんなことです。 それまで意識していなかったことが意識にのぼる。このとき《意識していなかったこと》は 《無意識だったこと》です。(潜在意識にあったというようなことは 措いておきます)。 言いかえると この意識は 記憶の倉庫から現われたものです。 つまり この記憶のほかに 《ムイシキ》という領域が独自にあるというのは あまりにも勝手な独断である。こういう問題です。 しかも問題はそれにとどまらないからです。 自分の意識や意識していない記憶の中からではなく あるいは ふつうに身体の生理としての欲求からでもなく それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来たという見方が なされてしまう。これです。 あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。 こんなことは 生まれながらにそなえた人間の自然本性にはありません。そこから逸れて行く動きを 文学などは好んで題材にしたりしますが それは 遊離した状態を扱っているということだと考えられます。想像力を持て余しているのでしょう。とだけ言っておきます。 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? (たとえば 村上春樹と河合隼雄との連携プレーなどです)。 こういう物言いです。 信仰にかんする誤解があります。180度違う見解になる事柄ですので かさねてこちらの見解を明らかにします。 ★ ~~~~~ >☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。 : そのようですね。 非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという、そういった営為がなぜ行われるのかを考えていくと信仰の意味がわかるのかもしれません。 ~~~~~~~ ☆ ここで わたしから見て完全に異なると思われる点は 次の見方です。 ★ 非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという・・・ ☆ これは 信仰の中身にはなく またヒラメキともまるで違うことです。 もし《身をゆだねる》というのであれば 《非経験の場》(つまり 神です)をめぐってそれとの関係がわが心において《非思考の庭》と成るべく それを(つまり 神)を受け容れる。このとき 人は この非経験のナゾの何ものかに身をゆだねている。というふうに捉えます。 したがって その非思考の庭に或る日或る時 ヒラメキが起きる。その内容を捉え もし単なるイメージであったなら出来るだけ人間の言葉で表わしうるように思い描いたり考えたりしながら 概念として言葉として表現しようとする。ここから元はヒラメキであったそのものを活かすようにして 日常生活における自己表現へとすすむ。 つまり このヒラメキには《身をゆだねる》ことは いっさい関係ありません。 という相違点についてでした。 これからも 対話はつづくもののようです。そういう性質の主題であるのかも分かりません。 とりあえず 今回はここまでとわたしもします。ありがとうございました。
お礼
やり方をおしえてさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。 ☆ 文脈をも交えて引いてみます。 ▼(ヘブライ人への手紙11:1-4) ~~~~~ 1: 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 2: 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 3: 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このあと エノクやアブラハムやヤコブ・イスラエルらあるいは ヨセフやモーセなどなどのことがらをめぐって 信仰とは何か・その見えない力のことが語られています。 ここで なお分からないのは こうです。 ▼(同上) 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。 ☆ アベルが信仰の篤い人であったことは そのまま受け容れるしかありません。分かります。ですけれども ▼ アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ ☆ たからと言って その《いけにえの優れ具合い》によって・あるいはつまりカインのいけにえは劣っていたということによって ▲ (創世記4:5) カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。 ☆ ということなのでしょうか? つまりまづ ★ 弟を殺したことがやましかったのでは? ☆ という理由は ちがいますよね? なぜって やましかったあと ころすまでに到ったのですから。 整理しつつ考えてまいりますが: (1) カインも 神にいけにえをささげているということは 事実である。 ▲(創世記4章) ~~~~ 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として 持って来た。 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。 主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。 ~~~~~~~~~~~~~ (2) 《土の実り》は 《羊の群れの中から選んだ肥えた初子》よりも劣っていた。あるいは絶対的にまちがっていた。もしくは いやしいものであった。ということなのか? (3) あるいは――いまのつてで言えば―― その農作物だとか羊の初子だとかのモノの問題ではなく いけにえをささげるときの心の問題なのであろうか? (4) おそらくヘブル書にしたがえば それら全体としてのその人の《信仰》のあり方やその中身の問題であったということであるらしい。そういうことなのか? つまりは 人の気持ちや心の問題をも超えて 否応なしに 〔ひょっとして心の目にも見えないところの〕信仰のあり方として決まっている・つまりは 神の目から見て 決まったということであろうか? (5) つまりは もしそうだとすれば 信仰とは ひとつに人間の心や意志のあり方を超えて すでに神のほうから見て 決められていると取るべきか? つまりいちおう人間はその自由意志で考え動くのであるから その意志による自由選択が どうなるかを神は予知していて その信仰のあり方がけっきょく決まっている(分かられている)というかたちになるのか? (6) もしそうだとすれば カインは ▲(創世記4:5) ~~~~ カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。 カインは激しく怒って顔を伏せた。 ~~~~~~~~~~~~~ というのであれば そのときただちにその信仰の問題だということが――つまりは 人間の側の自由意志によるのではなく そうではなく 神の側の予知の中におさまる自分の信仰のあり方が問題だということが――すでに分かっていた。ということだろうか? (7) カインは アベルにくらべて(もしくは比べるという問題ではなくかも知れないが) いけにえに何をささげたかではなく そもそも信仰のあり方が おかしかった。そしてそのこと自体について 神が《そのいけにえに目を留めなかった》そのことによって ただちに納得した。こういうことなのか? (8) すなわち カインとアベルとそして神とのあいだで すべては――最終の決定的な要因としては―― それぞれの信仰のあり方が決めるということなのだろうか? (9) そうしますと むしろこうなりますまいか? すなわち 《いけにえに何をささげるか》にかかわらず・あるいは もっと言えば たとえ《いけにえに何をささげるにしても・ささげなかったにしても》 それにはかかわることなく 信仰のあり方が 神に見られていた。分かられていた。――したがって 初めからカインは弟のアベルをけっきょくにおいてころすようなことになると分かられていた。ということなのだろうか? (10) だとすれば この一般化して《ひとごろし》ということの意味は どういうことなのか? なぜアベルという人間は――あるいはアベルでなくとも 人が―― ころされることになったのか? そのことにどういう意味があるのか? という問いに成って来ませんか? (11) それは 弟をころして《呪われる者》となったから カインはわるいのではなく そうではなく もともと信仰のあり方によって わるいおこないをする人間であった。となりましょうか? (12) そしてそれでも カインは 神による守護をも得て 生き抜く。生き続けるということにつながりましょうか? (13) こういう物語なのでしょうか? (14) でももし こういった広く捉えて《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。こう取ってよいでしょうか? (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか? (16) もしそうだとしたら ▲(創世記4:8) ~~~~~ カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、 カインは弟アベルを襲って殺した。 ~~~~~~~~~~~~~~ というようなかたちで いま現代において 襲われるときには 人は抵抗するということでよろしいでしょうか? なぜならカインの問題はすでに済んでいる。ゆえに 二番煎じを演じる謂われはない。と考えられましょうから。 ヘブル書の記事をおそわり 一気に考えてまいりました。 このようでよろしいでしょうか? どこか間違えましたでしょうか?