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クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?
- エレミヤ書31:31以降の解釈について、クリスチャンの方々はさまざまな考え方を持っています。
- 新約聖書でも、エレミヤ書のこの部分は言及されており、新しい契約の到来を予示していると解釈されています。
- この新しい契約では、律法を守ることよりも、個人の信仰が重要であり、人々は互いに教える必要がなくなります。
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こんにちは。 わたしは、クリスチャンでもキリスト者でもないので、『どうしたものか・・・』と思ったのですが・・・。 ☆ 板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。 ◇これに反するようなことが、エレミヤ書24節には書かれているのでは。 《良いイチジク》と《悪いイチジク》のお話。 神さま、「《悪いイチジク》は根絶やしにしてやる!!」とでもとれるような物騒なことをおっしゃっているでしょう。 こうした《排除の論理》というものは、新約のイエス像にもしっかり受け継がれている。 ───────── 11:12翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。 11:13そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。 11:14そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。 11:20朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。 11:21そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。 11:22イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。」 口語訳 マルコ福音書 ───────── イエスに逆らう者は滅びさってしまう。 もちろん、ここで書かれているイチジクを、古い律法に従う者と考えることもできますが、 それでもなお、 《滅び》という問題が出てくる。 逆らう者は、かならず、滅びる。 これを超えていない、解決していない。 そして、なお、意地悪い言い方をするならば、 石版に書かれたモノというカタチから、《ことば》という無形なモノに変わっただけなのではないか、という疑いも生じます。 石版という偶像から、《ことば》で語りうる、《コトバ》で示しうる《観念としての神》に置き換わっただけかもしれない。 《オシエ》が神の座に上り詰める余地を残している。 そして、神の座にのぼってしまい、人々を支配する道具と化してしまった。 なので、イエスは、十字架の上で死んじまう前に、 ───────── 23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 ルカによる福音書 口語訳 ───────── なんて言ってはいけない。 「《滅び》も《最後の審判》もないのだ」と言ってもらわないと、 悪い子(イチジク?)であるネコなどは、 『フンっ』とそっぽを向いてしまう。 「結局、なんも変わっていないではないか」 となってしまう。 《滅び》と《審判》という恐ろしいコトバを残しているうちは、 人々は、この暴力の前に屈してしまう。 この前で萎縮してしまう。 自由は得られない!! 《滅び》、《最後の審判》、《復活》などというコトバは、キリスト教から是非とも駆逐せねばならない!! などと思っておりやす。 仏教の《一闡提》も同じです。 誰が何と言おうと、 《一闡提》は存在しない!!。 ☆ (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。 ◇ほら、 わたし、基本的に《法身思想》がベースですので(ニコニコ)。 《オシエ》として語られる神さまについては、その違いに五月蝿(うるさ)いですけれども、 それは《オシエ》の部分、教義学としての《こだわり》です。 《オシエ》は、所詮、《筏・イカダ》、《補助線》に過ぎないですしね~。 でも、法身をヤハウェーと呼びたくはないな~。 死んでも嫌だ!! 《ヤハウェー》となると、ユダヤ教やキリスト教の《オシエ》という余計な不純物をたくさん含んでいますので。 「日本語の《神さま》ならば、いいじゃないの」と思っております。
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- kurinal
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B様、こんばんは。 こんばんは、 思ったよりも、寒くないですね。
お礼
そうですね。こちら方面も そのようです。 待ち人来たらず。クリスチャンの方がたは 《論争》を好まないようです。 くりなるさん お早うございます。ご投稿をありがとうございます。
- NemurinekoNya
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あっ、すいません。 「エレミヤ書第24節」ではなく、 正しくは、 「エレミヤ書第24章」ですね。
お礼
了解です。 それにしても 《滅び》や《最後の審判》の問題は こまったものです。 どこを開いても そう書いてあるかとさえ見られます。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんばんは。 こんばんは。
お礼
こんばんは。
お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 大きな問題を提示されましたね。《あたらしい契約》を問うにも 全体として考慮する必要があるだろうというわけだと思います。 § 1 最初に前提事項を確認します。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 石版に書かれたモノというカタチから、《ことば》という無形なモノに変わっただけなのではないか、という疑いも生じます。 石版という偶像から、《ことば》で語りうる、《コトバ》で示しうる《観念としての神》に置き換わっただけかもしれない。 《オシエ》が神の座に上り詰める余地を残している。 そして、神の座にのぼってしまい、人々を支配する道具と化してしまった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは さすがにないと思います。ありうる姿としては ないと思います。 つまり 事実問題としてあり得ますし じっさいにはほとんどいわゆるクリスチアニズムの歴史は そういう《悪貨が 良貨を駆逐してしまった》かたちで推移して来ているとは思います。思いますが さすがに その解釈は マチガイであると言えると考えます。 つまりは もともとモーセの律法なるオシエにしたところで それをそのまま実践することができるのは 聖霊のたまものであって――恩恵によるのであって―― 人間の知恵や知識や努力〔だけ〕によってなのではないと 分かっています。 石の板に書かれた倫理規範が あたまの中での理念や命題として受け取られるかたちに変わったとしても それでよいとは 誰も言っていない。 つまり厳密に言えば モーセにしても 個人としては アブラハムと同じように神の恩恵を承けて生きているのであり 民衆のあいだの外敵からの安全や社会内的な秩序のためには 律法もあたえられ これを守るという社会の仕組みとなったのは モーセじしんの信仰を台無しにしたわけではない。 ハバクク書には 《信仰によって生きる》が説かれています。 ▼ (ハバクク書2:4) ~~~~~~~~~~ 〔ギリシャ語セプトゥアギンタ〕 もし神なるわが霊が そのひとにおいて縮こまってしまい そこにやどりつづけることが無くなったとしても こころのまっすぐなひとは われを思うまこと(非思考の庭)の中から立ちあがり生きる。 * 〔ヘブル語〕 הִנֵּה עֻפְּלָה לֹא־יָשְׁרָה נַפְשֹׁו בֹּו וְצַדִּיק בֶּאֱמוּנָתֹו יִחְיֶֽה 見よ かのひとのたましいは みづからの内に這いつくばって まっすぐに立つことができない しかも そのひとのまこと(非思考の庭)にあってすなおなる者は 生きる。 ▲ (共同訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。 ▲ (口語訳) ~~~~~~~~~~~~~~~ 見よ、その魂の正しくない者は 衰える。 しかし義人はその信仰によって 生きる。 ▲ (KJV Hab 2:4 )~~~~~~~~~~~ Behold, his soul which is lifted up is not upright in him: but the just shall live by his faith. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ § 2 善悪や正邪を分けるのは どういうことか ▼ (エレミヤ書 24章):《良いイチジク》と《悪いイチジク》のお話。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神さま、「《悪いイチジク》は根絶やしにしてやる!!」とでもとれるような物騒なことをおっしゃっているでしょう。 こうした《排除の論理》というものは、新約のイエス像にもしっかり受け継がれている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▼ (マルコ福音書 11:12-22):《イエス いちじくの木をのろう》 ◇ イエスに逆らう者は滅びさってしまう。 ▼ (マタイ福音 25:31~46):《最後の審判。羊と山羊とを分ける。神の国を受け継ぐ者たちと呪われた者たちに分けられる審判) このたぐいの問題は 次の質問で考えました。 【Q:滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは】どうしてか? http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6646197.html ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~ ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~~~~ 2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ( a ) 《救われる者には命から命に到らせる香りである》のは分かるとして 《滅びる者には死から死に到らせる ≫良い香り≪ である》のは どういうことか? ちなみに いづれの場合にも 《キリストを知るという知識の ≫良い≪ 香り》(2:14)であるようです。同じ《香り》であるようです。 ( b ) 《滅びる者》あるいは《死から死に到らせる》というのは どうも 十字架上のキリスト・イエスから目を離す人びとを言っているのではないか? その意味は 神をではなく 無い神を心に抱く人びとのことではないか? ( c ) 《滅びる》とは 有る神が滅びるという言葉による表現上だけの問題であって そのような別様に(十字架から目を背けて背中越しに)キリストを見る人びとは いわゆる無神論の信仰を抱く者として その信仰によって救われる。こう言っていまいか? ( d ) したがって《死》も ただ表現上の問題であって 十字架上から目を背けることを言うのみではないか? ただ もし多少とも《死》とかかわりがあるとしたなら それはそのように目を背けたあと 神も無い神もいづれも抱かなくなった場合 そうすると きわめて相対主義的な顔も目鼻もないのっぺらぼうの思想(生活態度)によって生きることになる。これは《死》ではないか? ( e ) 《良い香り》が そのような生活における慣性の法則にしたがうような心のくせを死に至らしめたことになる。いわゆる独我論は この良き香りによって(あるいは 酔って)みづからをみづからが殺したその結果である。のではないか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いま読み返して 必ずしも煮詰まっていないようなのですが ひとまづのこたえとします。 それに 問題は § 1 の《信仰》なる大前提とともに 重要だと思われることには 例によって《永遠なる現在》を言いますから この《羊と山羊との選別 生と死との物別れ》は すでにこのいま・ここなるワタシにおいて 成っている。とも捉えなくてはならないものと考えます。 いま現在のワタシにとっての考え直しであったり我れへの立ち帰りであったりする物語の内容なのだと捉えます。 § 3 イエスは ユダヤ人であり その人びとと歴史の枠内にいる(いた) その枠を開くのは 後世に託された。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なので、イエスは、十字架の上で死んじまう前に、 ───────── 23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。 ルカによる福音書 口語訳 ───────── なんて言ってはいけない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この犯罪人であるユダヤ人に対しては そのようなユダヤイズムの枠内で話をした。のだと思います。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「《滅び》も《最後の審判》もないのだ」と言ってもらわないと、 悪い子(イチジク?)であるネコなどは、 『フンっ』とそっぽを向いてしまう。 「結局、なんも変わっていないではないか」 となってしまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 去って行ったあとでないと 弟子たちをふくむ人間にとっては 何も分からなかった。だから ユダヤイズムの枠を取り去って 世界へ開くのは イエスは後世に託した。と見ます。 でもただし パウロでさえ 世の終わりは すぐにでも来ると思っていた節があります。 § 4 《法身》が出たところで 三身常住の特に《応身》の問題 つまり イエス・キリストなるアラヒトガミとさえ比べられる三位一体の問題。 これは 先送りしますが 問題は いま・ここなるワタシが元気になるかどうか。だと見ます。 法身と応神との一体性が 心にすんなりと思われることがないと その場で――即身成仏として――元気が出ることは むつかしい。のではないかと。