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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:デカルトはアウグスティヌスをパクッたのではないか?)

デカルトはアウグスティヌスをパクッたのではないか?

このQ&Aのポイント
  • デカルトがアリストテレスの天体論に楯突いたのは、アウグスティヌスがすでに行っていたからではないかという問い。
  • デカルトがアウレリウスをパクッたのではないかと思われる。
  • デカルトの議論は、アリストテレスの自然学の世界観を打破し、地上と天上の空間を同じ一様で無差別な空間と考える先駆けとなった。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Nakay702
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回答No.5

いつも独創的なご質問をありがとうございます。 私は、アウグスティヌスもデカルトもよく知りません。ですから、このご質問に答える資格はないかも知れません。でも、強引にしゃしゃり出て答えちゃいます! (1)「デカルトはアウグスティヌスをパクッたのではないか?」に対する私の推測:   ―はい、デカルトはアウグスティヌスをパクッたと思います。 (2)その証拠は?:具体的な証拠はありません。何もありません。 (3)では、なぜデカルトがアウグスティヌスをパクッたと断言するのですか?:   ―文化の歴史がすべてパクリだからです。我々の文化史はパクリの歴史です。「2番   煎じの歴史」と言ってもいいと思います。 (4)ですから、デカルトがアウグスティヌスをパクッたとしても、全然不思議も違和感もないのです。 There is nothing new under the sun.(旧約「伝道の書」I-9)です。「日の下に新しいものはない」のです。文化史上有名な発明・発見は、その唱道者として特定の個人名を冠して語られますが、その多くは、ある種「2番煎じ」です。つまり、その人より前に同じことを発明・発見したり、提唱したりした人がいます。イエス・キリストの前にバプテスマのヨハネがいます。ルターの前にウィクリフがいます。ダーウィンの前にラマルクやリンネがいます。アインシュタインの前にマッハやローレンツがいます。 不幸なことに、発明・発見を最初に提唱したばかりに、処刑されてしまった場合がよくあります。血液循環の発見はハーヴィーの業績ということになっていますが、彼より半世紀以上前にセルベートという人が、偽名まで使って発表しました。が、結局は偽名がバレて処刑されてしまいました。もっとおぞましく、もっと悲しいのがG・ブルーノの例です。彼は、ガリレオより半世紀ほど前に「宇宙無限論」を唱えて、異端審問にかけられ、7年間も地下牢に囚われ、あげくの果てに焚刑に処せられました。足元に炎が上がって来る頃に、十字架上から周囲を見回して(教会関係者に)言ったそうです。「君らはビビッてるね。わしはビビっとらんよ。なぜ君らがビビッてるか分かるよ。君らは、自分が間違っていることを知っているからだよ」、と。ガリレオが「それでも地球は動く」とつぶやいたより35年も前の、1600年のことでした。(私は、学生時代、心底G・ブルーノに共感し、十字架上の彼の無念を思って、涙さえ流したものでした。) 個人的な業績だけでなく、もっと大きな歴史的潮流を見れば、ますます「日の下に新しいものはない」の感ひとしおです。その潮流の1つに「人間精神の自立」があったわけですね。古典古代ではアウグスティヌスやエリウゲナが、中世ではトマスやドゥンス・スコトゥスが、近世~近代ではベーコンやガリレオ、デカルトやニュートンらが輩出しました。この流れの中で哲学的真理が神学的真理から分離独立し、人間精神の自立、合理主義精神の確立が進捗してきたわけですよね。つまり、この線上でデカルトはアウグスティヌスに共感し、ある意味、彼を範とし、「パクッた」のでしょう。ただしこれは、bragelonneさんの用語に利用させてもらっただけで、私はただ「展開した」くらいに考えています。 以上、ご質問の本筋からそれてすみませんが、私なりの見方によるご回答まで。

bragelonne
質問者

お礼

 なかいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ There is nothing new under the sun.(旧約「伝道の書」I-9)です。「日の下に新しいものはない」のです。  ☆ どうですかねぇ。これはあまりにも概括的で抽象的な規定なのではないでしょうか。  言いかえると ヒトなるヒトがその自然本性に変化がない限り この世にあたらしいものごとは出て来ない。出て来たとしたらそれは すでにヒトに潜在的にあったチカラがそれなりにかたちを得て 現われたのだということなのでしょう。    ★ 文化の歴史がすべてパクリだからです。我々の文化史はパクリの歴史です。「2番煎じの歴史」と言ってもいいと思います。  ☆ これも そうなのでしょうが そんなことを言ったら では一番煎じは どこから現われたのか? パクリではないものごとは どのようにして現われたのか? と問わなければなりません。  まぁ 確かに造語と言っても すでにある言葉を加工したものでしょうし 外から持って来ただけのことでもあるのでしょう。ところが 使い方や表現の組み合わせは これまた新しいかたちが出来て来るかも分かりません。そして それであっても すでに人間の内にそのあたらしいものごとに対応する潜在力があったと言うかも知れません。  ただし マチガイをただすことは それとして新しいことであり 潜在性について発見したということもそれとして新しいものであるでしょう。  ですから   ★ (4) ですから、デカルトがアウグスティヌスをパクッたとしても、全然不思議も違和感もないのです。  ☆ というふうに可能性として規定するのではなく 具体的に実際にどうであったか? これをやはり確定しておくことも 哲学の仕事のうちに入るかと考えます。  すなわち  ★ イエス・キリストの前にバプテスマのヨハネがいます。ルターの前にウィクリフがいます。ダーウィンの前にラマルクやリンネがいます。アインシュタインの前にマッハやローレンツがいます。  ☆ こうだとしますと それぞれそのように後世から捉えられることになります。それでいいわけです。  つまり この質問では デカルトの以前にすでにアウグスティヌスがいたということを ひとつの定説とするかたちで結着がつくことなのだと考えるわけです。  ★ この――「人間精神の自立」の――流れの中で哲学的真理が神学的真理から分離独立し、人間精神の自立、合理主義精神の確立が進捗してきたわけですよね。  ☆ けれども アウグスティヌスに言わせれば――別の質問に《アカデミア派》というものが取り上げられていますが―― 人間精神はすでに初めから勝手に《独立》していたと言っているように受け取られます。  なぜなら その人びとは勝手に――自由にと表現すべきところでしょうか――神のことを自分たちの理性および自由意志によって ああだこうだと規定しているということだからです。ですから アウグスティヌスは 《ばかげているからこそ(不合理ゆえに) わたしは信じる》と言わなければならなかった。  その意味では 《人間精神の自立》は とっくに実現していたもののようですよ。  近代人になった時からは 《独立》しただけではなく 支配的な地位に立ち支配的なチカラを振るうようになった。のでしょう。  というように考え歴史の流れを捉えるならば  ★ つまり、この線上でデカルトはアウグスティヌスに共感し、ある意味、彼を範とし、「パクッた」のでしょう。ただしこれは、bragelonneさんの用語に利用させてもらっただけで、私はただ「展開した」くらいに考えています。  ☆ という表現では 効かないでしょうし すでに筋が違って来ている。と考えてもおかしくありません。  すなわち 理性が慣性の法則を認識したなら そのぶん〔という言い方は 控え目な近代人になりますが〕神の領域と領土を自分たちのもとに奪い取ったとでも思っているのでしょう。――というところまで言わないとならない側面があるかに思われるわけです。  《パクリ》をのみ問題としていますが 問題の根は深く――困ったことにと言わなければならないかたちで――張り巡ってしまっている。とも考えられます。  こういった《よしなしごと》が 世の中にはびこり そのよしなしごとを こうやっていちいちわざわざやり玉に挙げているわたしのような人間がいることも やはりその昔から変わらざる世の習いなのでしょうか。    

その他の回答 (5)

  • Nakay702
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回答No.6

「お礼コメント」をありがとうございました。 *>では一番煎じは どこから現われたのか? パクリではないものごとは どのようにして現われたのか? と問わなければなりません。 ⇒大海の水が河川をさかのぼり、野原の川や小川、渓谷を溯上して、小さな泉か木の葉からしたたる水滴まで辿り着くような場面を想定して、つまり、物の喩えとして申しましたので、一番煎じはと問われれば返答に窮します。とにかく、どんな斬新な発見・発想も、先行の人的営為や業績を抜きにして発現するものではない、と言いたいわけです。 >確かに造語と言っても すでにある言葉を加工したものでしょうし 外から持って来ただけのことでもあるのでしょう。ところが 使い方や表現の組み 合わせは これまた新しいかたちが出来て来るかも分かりません。そして それであっても すでに人間の内にそのあたらしいものごとに対応する潜在力があっ たと言うかも知れません。 ⇒そうですね。これぞまさしく人間ならではの知的営為の賜物でしょう。「間テキスト性」という言葉の示唆することもそれではないでしょうか。 >可能性として規定するのではなく 具体的に実際にどうであったか? これをやはり確定しておくことも 哲学の仕事のうちに入るかと考えます。 ⇒異論ありません。ただ、本件に関しては、私のような門外漢は「おまかせ」のスタンスを取るしかありませんが。 >《人間精神の自立》は とっくに実現していたもののようですよ。 ⇒それは、意味範囲、というか、定義の問題でしょうね。ホモ・サピエンスにだって、ある意味精神の自立はあったに違いないのですから。 > 近代人になった時からは 《独立》しただけではなく 支配的な地位に立ち支配的なチカラを振るうようになった。のでしょう。 ⇒おっしゃるとおりですね。これは、人類の幸福問題につながりますので、これに関して私は一言居士、いや「多言居士」を自認しており、コラムを寄稿した経験もあります。 “デカルトらを中心として提起・確立されてきた合理主義精神は近代以来の輝かしい人間賛歌であり、凱歌であった。それは否定できない事実だし、我々現代人はその恩恵に与かって文明を発展させてきたことも事実だろう。しかし問題は、理性主義を尊重しすぎて合理一辺倒にのめり込み、それに支配さえされてしまっていることである。早い話が、頭でっかちになりすぎたということで、これすなわち、全体(=全身・生命)が一部(=頭脳・理性)によって支配されてしまっているのではないか、生命体として全身とのバランスを欠き、中途半端に頭がよくなったことが問題ではないか、と考える次第である。 全体の一部にすぎない頭脳が、我々自身のみならず地球生命全体を滅ぼしかねない。頭脳に偏重する我々現代人は、地球上のあらゆる生命の生殺与奪権を掌握するという、いわば「人間帝国」を造り、体は一つなのにこれを切り刻んで部品化し、部品を寄せ集めれば全体に戻るだろうという要素還元主義的な(物理学などでは有効であろう)見方を生身の人間にまで当てはめ、それに染まり切って脱却できない。これらのことと、本来司令塔たるべき哲学の存在感が薄く、軽視されがちな風潮とは同一線上にあるようにも思える。ある意味、我々が進歩だと妄信して精出してきたことが、実はとんでもない愚行、自然を冒涜する反逆だったのかも知れない。いや、よく分からないが、少なくともそういうことに思いを致してみることが必要ではないだろうか。その意味で、我々が事態の原点に戻って考え直し、人間として「本当の幸福」を追求するのに最も頼みとなるのが哲学とその機能だと考える。今、我々はこういう憂慮すべき点にこそ頭を使うべきだと思う。人間的未来のために…。” おっと、つい調子に乗って埒外にまでそれてしまいましたね。失礼しました。 > こういった《よしなしごと》が 世の中にはびこり そのよしなしごとを こうやっていちいちわざわざやり玉に挙げているわたしのような人間がいることも やはりその昔から変わらざる世の習いなのでしょうか。 ⇒しかし、そのおかげで普段見過ごしていること、等閑に付していることに改めて思いを致すことができます。時折いちゃもんをつけたり、こき下ろしたりして失礼申しあげますが、上に述べたような意味では大変感謝しております。 以上、再伸まで。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ とにかく、どんな斬新な発見・発想も、先行の人的営為や業績を抜きにして発現するものではない、と言いたいわけです。  ☆ ええ。それでいいと思います。つまり この質問の場合は デカルトの前に アウグスティヌスがいたということになれば それでいいわけです。(もっと大きな困った問題もあるということにも 前回ちらっと触れましたが)。  あとは 争論にはならないと思います。  それどころか いま先ほど触れました《先行の業績の問題》以上に大きな問題があるといったことについて じゅうぶん表現し切ってくれているぢゃありませんか。  ★ 全体の一部にすぎない頭脳が、我々自身のみならず地球生命全体を滅ぼしかねない。頭脳に偏重する我々現代人は、地球上のあらゆる生命の生殺与奪権を掌握するという、いわば「人間帝国」を造り、体は一つなのにこれを切り刻んで部品化し、[・・・]  ☆ 言うことありません。  つまり その問題に デカルト大先生が一枚噛んでいるのではないか。こういう延長線上の議論ですね。  《人間帝国》という表現は 初めて聞きました。  なお コギトにつきましては あたらしい発見がありました。別の質問であつかっています。けっこうおもしろいですよ。  あるいは言いかえると 学者たちはいったい何をやってんだとなること 請け合いです。どうぞ。    この質問は たとえば《エーテル》論を 現代科学としてしっかりと明らかにしてくれる投稿が来ないなら もう締めましょうか。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5529)
回答No.4

EXILEさんの歌っているChoo Choo TRAINは ZOOさんの歌っているChoo Choo TRAINのカバーな訳ですが 私はどちらも本物だと思いますよ

bragelonne
質問者

お礼

 そのように 一つのものが ほかの先行するものの《カバー》だということ。そのことが――どちらも《本物》であると認められるとした上で――分かったなら その時点でその分かったということを公表するのがふつうのことではないか。  と問うています。  ご回答をありがとうございます。

回答No.3

あなたが聖アウグスティヌスに詳しいことは分かりました。 同時に、デカルトについてまったくと言っていいほど知らない、ということもよく分かりました。 あなたとは反対に私はデカルトについては詳しいですが、聖アウグスティヌスに関してはまったくと言っていいほど知りません。 だから、議論はかみ合わないと思います。 デカルトのいう「コギト」とか、「われ思う、ゆえにわれあり」が、すでに聖アウグスティヌスが言っていることで、その「パクリ」ではないか? と質問する前に、まず何よりもデカルトの著作を隅から隅まで読んで理解してからするのが「礼儀」なのではありませんか? 読まないで、変な憶測で、「パクリ」だなんていうべきではありません。 それに、あなたをしてそのような質問を、こんな忙しい時代にわざわざ長文で質問させる、その情熱の出所は何なのですか? 私には理解できません。 そんな「空しい」ことをするよりも、時間があったらデカルトの著作を少しでも読んだほうが、よほど為になるのではありませんか? 本当を言えば、私はあなたのお相手をしているヒマなんて無いんですよ。 だからあなたの長ったらしい文章を読んでいられないので、簡単にいくつか箇条書きに述べます。 (1)デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」は推論ではなく、直観であるとデカルトみずから言っています。 つまり、私が思うことから推論して私が存在する、と言ったわけではない、ということです。 「哲学の原理」の中で、デカルトは、私が存在しないで、どうして私が思うことがあろうか、私が存在するのは自明ではないか、と。 つまり「われ思う、われあり」は、あらかじめ私の存在を自明な前提に置き、その上で私の思考と私の存在は一致する、しかも経験を要せず、先天的・ア・プリオリに一致するというデカルトの真理観を述べたものです。 前に既に申し上げたように古代ギリシャのアリストテレスの真理観によれば、「思考と存在の一致」が真理と言われてきました。 これを真理の「対応理論」と言い、アリストテレスは思考が存在に一致するためには観察と経験を要すると考えていましたが、デカルトは経験を必要とせず、先天的・ア・プリオリに一致すると言ったのです。 そのデカルトの「コギト」をあなたは聖アウグスティヌスの「パクリ」ではないか、という。 私は聖アウグスティヌスに詳しくありませんから、それが「パクリ」かどうかはあなたが判断してください。 (2)古代ギリシャのアリストテレスの「天体論」と、その「自然学」の運動論は17世紀の「科学革命」まで、基本的に変わることなく、中世の自然学に受け継がれ、変革されることはなかった、とグラントの「中世の自然学」とか小山宙丸編の「ヨーロッパ中世の自然観」で述べられています。 それが正しいとしたら、聖アウグスティヌスがアリストテレスの天体論とその「自然学」の運動論を否定したとは思われません。 しかも、ガリレオと言い、デカルトと言い、数学によって17世紀の「科学革命」を成し遂げたので、聖アウグスティヌスが数学に詳しかったということを聞いたことはありません。 デカルトは空間というものを地上であれ、宇宙であれ、均一・一様で無際限であり、アリストテレスの地上の空間と天上の空間の差別を認めませんでした。 そしてアリストテレスのいう恒星天球というドーム状の天蓋があり、その外には神々の世界がある、というのも認めませんでした。 アリストテレスは天上の空間では運動は永遠であり、地上の空間では運動は強制力なしにはあり得ない、そして重い物体は本来の「トポス・場所」が大地にあるから落下しようとし、羽根のように軽い物体は本来の「トポス・場所」が天にあるから上昇しようとする、と言ったように、「トポス・場所」という考えはありましたが、一様な空間という考えはありませんでした。 アリストテレスは「物体は静止しているのが本来で、運動は例外である。そして強制力で運動する物体は本来のトポスに至って静止する」と言いましたが、デカルトはそれをひっくり返し、「物体は運動しているのが本来で、静止は例外である。運動している物体は、それを妨げるものがなければ直線的に永遠に運動を続ける」と言って「慣性の法則」を発見しました。 私は聖アウグスティヌスに詳しくありませんが、デカルトは宇宙を無際限で一様だといいましたが、中世末期のブルーノが宇宙を無限だと言って、火あぶりの刑に処せられたことからも、聖アウグスティヌスも宇宙が無限だと言ったとは思えません。 それに聖アウグスティヌスがアリストテレスの「天体論」と「自然学」の運動論を否定したとも思えません。 あなたはデカルトは聖アウグスティヌスがすでに言っていたことの「パクリ」ではないか、と言っていますが、どこが「パクリ」なのですか? 「5番目の<物体>--エーテルーー」って、何なのですか? 精神? そこから見れば、「地上の空間も、天上の空間も同じ一様で無差別の空間と考えることはオヤチャノコサイサイだったのではないでしょうか?」と言っているけど、聖アウグスティヌスに「天体論」とか「自然学」という著作があったのですか? そして宇宙空間は無限だ、と言いましたか? 宇宙空間が無限だということは、神なんか必要としない、神が世界を創造したことの否定です。 キリスト教の「教父」である聖アウグスティヌスが、神の世界創造を否定するようなことを言うと思いますか? もう、私はあなたの議論に付き合っていられません。 あまりにもバカバカしくて。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ あまりにもバカバカしくて。  ☆ と言われてこたえることをこれで最後としますが まづはご回答をありがとうございます。  ◆ アリストテレスの「自然学」の世界観、地上の空間が四層に分かれていて、互いに違った法則で運行されていて、地上の空間と天上の空間が別な空間と考えていた  ▲  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  下から上へ向かってまづ土が 次に水が 三番目に空気が 四番目に天があるのだとしても 魂の本性はこれらすべての上にあるから〔* そのことにアリストテレスやプラトンの天体論は反論しえないでいるの〕である。  アリストテレスはそれを五番目の物体と呼んだ(* 『天体論』四・六.さらにキケロ『アカデミカ』一・七・26 『トゥスクルム論談』一・一〇・22)が プラトンは物体とは呼ばない。五番目のものがあるとすれば それは他のすべてのものの上になければならない。しかしそれは物体ではないのだから 他のすべてをはるかに越えているであろう。  ではそれは 地上の身体のなかでは何をするだろうか。他のどれよりも精妙なそれは この物体の塊のなかで何を働くだろうか。他のどれよりも軽いそれは この重いもののなかで何を働くだろうか。他のどれよりも速いそれは この動きのにぶいもののなかで何を働くだろうか。これほどすぐれた本性の能力によっても 自ら持つ身体を天にまで上げることはできないであろうか。  現在地上の身体の本性が魂をこの地上にとどめ置くことができるのだとすれば 魂はいつかは地上の身体を上にあげることができるのではないだろうか。  (アウグスティヌス:『神の国』第22巻 第11章 泉治典訳( 1983 ))  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆  《五番目の〈物体〉――〈エーテル〉――》は 《地上の四層にあるそれぞれのもの》をはるかに超えているのであるからには その視点から見れば 《地上の空間も天上の空間も 同じ一様で無差別な空間と考えること》は オチャノコサイサイだったのではないでしょうか。  ☆ なおこの天体論議が 科学の目から見て議論に堪えるかどうかについては 言わずもがなのことである。ということは 《ふるい議論》だとおことわりした通りです。    しかもそのことが何故か指摘されているようですので それについても反論しておきます。:  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  時代には時代の「信念体系」があり、それをそういう「信念体系」のない時代から、「おとぎ話し」というのは誰だって言えます。  私たちの時代でも、私たちの時代の「信念体系」があり、後世の人から見たら「おとぎ話し」に見えるかもしれないだろう?  自分の時代を特権視すべきではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 別のデカルト質問で 貴重な資料を示す参考サイトをおそわりました。  デカルト本人が その《コギト》の《われ》とは何かについて明らかにした書面です。《非物質的な実体( an immaterial thing / incorporeal )》だと言います。けっきょく《霊 または 霊我=アートマン》だということになりそうです。    ▼ Augustine's Cogito Argument Pre-Dates Descartes' Cogito  ~~~~~  December 02, 2006  http://virtualphilosopher.com/2006/12/augustines_cogi.html  § Comments(上記のブログに寄せられたコメント) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   Posted by: bob April 07, 2009     On November 14, 1640 Descartes writes to Andres Covius, a Dutch Minister who brought Augustine’s argument to his attention:    you have obliged me by bringing to my notice the passage of    Saint Augustine which bears some relation to my “I think,   therefore I am.”    Today I have been to read it at the library of this city [Leiden],    and I do indeed find that he makes use of it to prove the certainty    of our being, and then to show that there is in us a kind of image    of the Trinity, in that we exist, we know that we exist, and we love    this being and the knowledge that is in us.    On the other hand, I use it to make it known that this “ I ” who   is thinking is an immaterial substance, and has noting in it that is    incorporeal. These are two very different things….13a   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まぁこれは英訳で議論するという傷がありますが それでもすなわち アウグスティヌスの言う《われ》が――デカルト本人も言うように―― 《三位一体なる神の似像(にすがた): imago Dei つまり 〈 a kind of image of the Trinity 〉》としての人間であるとするなら そこに霊我なるアートマンがやどると言っても 何の不思議もありません。  確かに《身と心つまり 感性の原野および思考の緑野から成る狭義の自然本性》としてのワレと《霊のやどると想定される非思考の庭》なるあたかもワレとは 互いに別のことです。すなわち デカルトが言うごとく《 These are two very different things. 》である。  ところが だから 議論が違って来るとは言わせません。非思考の庭なる《信仰の動態》を容れた《身と心とから成るわたし》が 広義の自然本性たる人間であるのですから。  すなわち  ★ 先天的・ア・プリオリに  ☆ 神の霊がやどるというそのわれ=アートマンのことです。    ただし それは それを《思考 つまり われ考える》と言うのは表現がふさわしくない。でしょうね。先天的なコトには 《われ考える》は含まれていません。思考を超えています。  しかもその先天的・超越論的なコトを もし思ったり考えたりしたとしたら それはその内容が得られる縁(よすが)は やはりヒラメキ(直感および直観)によるものである。マチガイないでしょう。  何ら問題なく――本人の証言とは裏腹に―― デカルトのコギト命題のよいところは ぜんぶアウグスティヌスの二番煎じである。こう結論づけてよい。でしょうね。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5529)
回答No.2

 ええっと。  ★ 本物  ☆ をそんなふうに規定していいのですか?  ほかの人が《あぁ 納得した。納得できたよ》と言えば それで決まりですか?  その問題が パクリかどうかには ついてまわっているのではないでしょうか。 良いに決まってるでしょ その時代に著作権が有ったってのなら話は別ですけどね

bragelonne
質問者

お礼

 いえいえ。著作権の問題は まったく関係ありません。  たとえパクリであっても 《本物》であれば――既成の議論を復活させたという功績があるからには―― よいわけです。  そういった根拠や理由がないのならば   ★ 良いに決まってるでしょ  ☆ と言えるとは限りません。  要するに中身で勝負。ということでしょう。  ご回答をありがとうございます。

  • pigunosuke
  • ベストアンサー率19% (1063/5529)
回答No.1

パクリであろうと、なかろうと それを聞いた人が納得したのなら、それは本物です

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  どうも昔は パクリはあんがい自由だったようですね。聖書の文句を引用だと示さずに自由に用いている。  ええっと。  ★ 本物  ☆ をそんなふうに規定していいのですか?  ほかの人が《あぁ 納得した。納得できたよ》と言えば それで決まりですか?  その問題が パクリかどうかには ついてまわっているのではないでしょうか。

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