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カインの心の闇とは?
- カインの心の深い闇について、具体的な解釈は読む者に委ねられています。
- カインが怒り、顔を伏せる理由についても、読む者の解釈に任せられています。
- 農民と遊牧民の違いが心のやましさに関わるのかは明確ではありません。
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弟を殺したことがやましかったのでは? 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。
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- hakobulu
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#13です。 >(ヒラメキは)どこか非経験の場 ないし それをみづからの内に受け留めたところの我が心の《非思考の庭》において現われると見る。 : 「受け留める」という述語の対象と、「現われる」の主語がよくわからないのでなんとも言えませんが、どこから来るにせよ、一旦自分の中に取り込むわけですから、それをヒラメキと言おうが無意識と言おうが構わないでしょう。 取り込んだ事柄を記憶はしているが、現時点で意識しているかいないかだけの違いです。 すでに脳にインプットされている点では同じことだと思います。 雷に打たれたように閃いたとしても、それは、雷に打たれることによって無意識領域に眠っていた記憶が浮かび上がってきたというだけにすぎないわけですから。 > ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。 : 受け止め方次第ですが、これはいわゆる「思い込み」だろうと思われます。 なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。 にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。 イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。 思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。 >あるいは なぜ信仰ということがあるのか こういった問いを突き詰めて行くなら 誰れもがすでに信仰を持っているという結論に到るでしょう。わが心に成った非思考の庭 しかもそれとしての動態 です。 : 闇雲にいわしの頭でも信じたくなることは誰にでもある、といった意味となんら変わるところがないような気がしますが。 > おもしろいことに 信仰の対象つまり ナゾゆえに非対象 なる神は じつに無根拠です。 ところが ムイシキも それが想定されるのは 無根拠においてなのです。しかも経験世界の現象だという理論内容となっています。 : たしかに面白いご見解ですね。 無根拠のものをなぜ信仰可能なのか。 (いわゆる救い足り得る要素を兼ね備えていることを否定するわけではないので)その心理作用自体を否定するつもりはないのですが、やはり、そこからなんらかの誤謬が発生してくるのは理の当然であるような気がします。 つまり、わたしに言わせれば、信仰とは救い号という汽車の乗車券であると同時に、誤謬という名の駅を通過、あるいは終点とする運命にあるわけです。 なぜかといって、乗客は、乗車すること自体に価値を見出すよう勧められ、且つ行き先は告げられないままに切符を買わされるからです。 運転士を信じてさえいれば良いのだ、という説明書を右手に。 そこにあるのは現状を脱するために、ただこの汽車に乗って「どこかに」旅立たなければならない、という、ある種の強迫観念であろうと思われます。(くどいようですが、そのこと自体を否定しようとするものではありません) 無意識の想定も同様に無根拠である、ということですね。 たしかに、それを見た人はいませんし、摑んだ人もいません。 ただ、人は意志の動物ですが、意志というだけでは説明の付かない自分というものを自覚することもまた可能でしょう。 無意識の場合、その気づかない部分すら自らの心的作用として認識しようとするベクトルになると思いますが、神となるともはや他律的としか言いようがなく、それが本質的な相違点になるのかもしれません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ムイシキは 経験世界を超えたところ・つまり非経験の領域を想定しているのですか? していないはずです。 あくまで 人間の存在あるいはつまり身と心の場に限られるはずです。 つまりは それに対して 非経験の場と接触するという想定において ヒラメキが得られるという捉え方です。(ここでは 経験的なモノゴトとして 勘がはたらいたといったようなヒラメキは 別としています)。 ムイシキとヒラメキとは その源泉となる場所が違います。ですから ★ どこから来るにせよ、一旦自分の中に取り込むわけですから、それをヒラメキと言おうが無意識と言おうが構わないでしょう。 ☆ とはなりません。 ヒラメキは そのまたたきをする一瞬の出来事です。それで消えます。 ★ 取り込んだ事柄を記憶はしているが、現時点で意識しているかいないかだけの違いです。 ☆ 別に取り込むことはありません。ヒラメキが起こったという記憶は残りましょうが。ヒラメキとして得られた一般に情報を活かしたなら もうその一つのヒラメキは おしまいです。お役御免となります。 ★ 雷に打たれたように閃いたとしても、それは、雷に打たれることによって無意識領域に眠っていた記憶が浮かび上がってきたというだけにすぎないわけですから。 ☆ この表現はおかしいですよ。最初には比喩で雷を出しておいて 次には実際に雷に打たれたと言っているように受け取られます。 それと 眠っていた記憶は ただ意識していなかったというだけのことです。潜在意識としてあったとも言えます。別に ★ ムイシキ領域 ☆ があるとは証明されていません。ただあると想定しているだけのことです。 それに 記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえです。わざわざ ムイシキを持ち出すこともありません。 それに――感覚の問題として言えば―― ヒラメキは それまで何ら知らなかったし むろん意識してもいなかった知恵のようなものがあたえられることです。それゆえ 想定として 非経験の場と言いますし それをわが心で受け留めたその場は 仮りにでも非思考の庭と言います。それは 心の伸びあるいは明けないし志向性のことです。 だからと言って 伸びならどこまで伸びるのかとか 明けならその言わば窓を明ければ何があるのかとか そういう問題ではないわけです。比喩であって 肝心なところは わが心が閉じられていないということです。これが 信仰ないしヒラメキの起こる場所です。つまりは 非経験の場との接点とも言えます。 ムイシキは あくまで勝手にそれがあると想定しているだけのものです。勝手にとか だけのものとか いうのは それが 経験世界のことだというゆえです。経験世界の中にあるのなら きちんと特定して見せなければウソです。 ★ ~~~~~~ > ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。 : 受け止め方次第ですが、これはいわゆる「思い込み」だろうと思われます。 ~~~~~~~~~ ☆ ひょっとして トラウマは消えると言っておられるのですか? ★ なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。 ☆ 過去は思い出しうる現在として 記憶にありますが それが 現在の生に対して 何ら影響はおよぼさないというのは 違うと思いますよ。記憶がよみがえるなら それとして感想を持ち感慨にふけることもあり なかんづくそのいまいましい過去のことであるなら 過ぎ去ったことであっても その現在の自分にとってつらい思いをさせます。どうして この事実を否定されるのですか? トラウマはあり得ます。ただし それが どこやらで蓄積されたというそのムイシキの所為だとは思わない。記憶として過去が活きている。ただそれだけのことです。 ★ ~~~~~~ にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。 イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。 思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。 ~~~~~~~~ ☆ 記憶において過去がまだ活きている。ただこれだけのことに 思い込みがどこからか付いてくるのですか? なんで? 思い込みがあると勝手に 要らぬ説明をつけ加えているだけではありませんか? ★ その根はムイシキ領域に張っています。 ☆ ですって? そういう精神分析の存続のための一段上の思い込みなのではないですか? そうでなければ 精神分析は 砂上の楼閣のごとく崩壊してしまうからでしょう。 どうしても トラウマは永続して欲しい。思い込みだが それは存続するのだと 人びとをだましつづけている。だけだと考えます。 仮りにいま言ったことが当たっていなくても けっきょくムイシキ領域に根を張ったトラウマが 人びとを死への旅路にいざなうという段取りになっています。ただちには死なないから その死までのあいだ 患者として医療事業の顧客として自分たちをうるおすという仕組みです。 ★ 無根拠のものをなぜ信仰可能なのか。 ☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。 ★ その心理作用 ☆ ではありません。あり得ません。非思考なのですから 知覚もおよびません。心理とは何ら関係ありません。《志向性》と言ってしまえば すでに思考において捉えた概念になっています。その最初のほんの一瞬における心の明け これが ヒラメキとして信仰の現われになりましょう。心理以前のことです。 汽車にも船にも乗るわけではありません。 船に乗って言わば巡礼の旅路をあゆむといった比喩の表現があり得ますが つまり一般に人生は 信仰においても試練であるといった内容ですが これは 一人ひとりの主観の問題です。 ★ 無意識の場合、その気づかない部分すら自らの心的作用として認識しようとするベクトルになると思いますが ☆ 死の国行きのソファ列車ですよね。トラウマは 永遠について回る。観念しなさいという宗教でもあります。心的作用だとかベクトルだとか言っても すべては 完治せずという名の列車に乗るようになるための促しであるに過ぎません。死の宗教 それが 精神分析です。
- Y Y(@yy8yy8az)
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物質と精神 物質は、大きさ、重さ、温度、形状、など。 精神は、喜、怒、哀、楽、これらは情。そして記憶、意識、などの働き。 なぜ物質としての(空間をも含んで)宇宙が存在するのか。 その中に現れた、人間はなぜ「精神」を意識するのか。 こんな不思議なことはない! “カイン”は精神の中の人。 神は精神。 だから“カイン”には“神”が存在する。 だから“神”は万人に存在する。 ・・・・・なんてことも、考えてみました。
お礼
つづいてです。 ★ だから“神”は万人に存在する。 ☆ ここは いいんぢゃないですか。 ただし ★ 神は精神 ☆ これは 多くの人が落ち入る勘違い。 ○ 【Q:神は 何でないか?】 ~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7295152.html (趣旨説明欄) 15. まとめて 神は何でないか? A. 神は 人間の精神ではない。 ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。 B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。 ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。 つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ こんなことを考えて来ています。
- Y Y(@yy8yy8az)
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なぜ苦手なのか。 それはブラジュロンネさんが理性の人だから。 聖書は心の世界。 そしてその主は神。 神とは=信仰。 信仰は理性に非ず。 信仰は感情。 聖書は感情を持って読むべし。 ・・・・・なんてことを思ってしまいました。 カインに対する神の情を感じます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 信仰は感情。 ☆ ここは違う。 ここも 信仰は理性に非ず また 感情に非ず。ですよ。 非思考の庭がわが心に成る。これが しかも動態として 信仰というコトです。どうでしょう。
なぜ議論が進まないのか。まず、ここは基本的には議論をする場ではありません。少しなら補足質問ということで応答できます。だが、矢継ぎ早に大量に書かれても応答しきれないのです。ましてや、指摘する箇所があまりに多い場合には、手間を惜しんでしまいます。ところで、 >わたしは モンテスキューは知りません。 それを確認して安心しました。というのも、それなら、落ち込んでも仕方ないではありませんか。知らないことについてテキトーなことを書いてしまった結果、相手にされなかった。それだけのことです。しかし、似た事態は、今度も繰り返されております。たとえば、 >わたしが 聖書記者の心つもりにまで分け入って 読解を示したので それは無理ですよ。聖霊が書いたものでしょう? 「聖書記者の心つもりにまで分け入る」ことがおできになるというのなら、あなたは自ら、自分が聖人だと言っているようなものです。普通の感覚からすれば、「なんか嘘ついてら」と思ってしまうでしょう。要するに、私があなたの「お城」とやらに入ってまで攻める労をとらない理由は、こういう議論の基盤を作る手続きが手抜きだなと感じるからなのです。 カインのお話しについて、私としては、いろいろ指摘もしてあげられますが、あとはご自分でお勉強できると思います。言語については、あなたの説明がやはりテキトーだと思うが、私は説明する手間を惜しんでいます。あなたが気になるのなら、キッテルを読んでもらうことにしましょう。 アウグスティヌスの解釈については、一元論という説をあなたがお持ちであることは理解しました。しかし、アウグスティヌスが自分で二元論としか言いようがないことを書いてしまっています。なぜなんでしょうね。あとはあなたが、自分で検証してみてください。 No10の補足欄は読みましたが、面白いと思った箇所は、ご自分で進展させてください。私が書くべきことは既に書き終えていると感じました。結局、どこまでも、無限に、あなたの問い求めに応じるわけにはいきません。ではこれにて。
お礼
なるほど。 マッチ‐ピンポンダッシュ 方式ですな。 議論を経て対話が実りのあるものになる。 押し売りはしないと言っておいた。 こういう手合いだとは ちと気づくのがおそかった。 順番をわざと変えた。こんなところで アディユー。
- hakobulu
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#6です。 > カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人間として登場しています。 : どのように信仰するか、ということなのですね。 なぜ信仰するか、という疑問を持ってはいけないと。 > 読者よ 問題は 信仰なのだ。 あなたの心と意志そのものなのだ。さとれ。 と行間において ふてぶてしくささやいている。ようなのです。 : なるほど。 信仰と論理が相容れないものであることが、改めてわかりました。 にも拘わらず信仰が定着しているという場合は、無意識によるものであることが明白でしょうから、その意味でやはり興味深いと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ○ ムイシキとヒラメキとの違い。 ☆ これは ムイシキがあくまで 人間存在の中に属する。つまりは 身と心のどこかにあると想定されている。しかし そこから起こってやがて意識されうる動きとしてあるものとしてしか分からない。 ヒラメキは 人間やこの経験世界の中からは――いま 信仰の問題にかぎるならば―― 出てくるものではない。どこか非経験の場 ないし それをみづからの内に受け留めたところの我が心の《非思考の庭》において現われると見る。要するに 神からの声です。 ムイシキは このじんるいの経験世界とその全歴史の蓄積とかかわっているのでしょう。むろん 個人としての意志行為の蓄積つまりその意味での歴史がおもなものでしょうが。 ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。 ヒラメキは これを超えます。トラウマを突き抜けるようにヒラメキます。生きることへとつなぎます。 ヒラメキのあり方はやがて脳の動きが探究され 解明されましょうが ムイシキにかんしては そのような将来の解明の気遣いはありえません。 ほんとうはムイシキなどはなく 潜在意識しかないと言っていいでしょう。あとは 身と心とにあたかも備わった欲動などが起きるというだけのことだと考えます。 ★ ~~~~~ > カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人 間として登場しています。 : どのように信仰するか、ということなのですね。 なぜ信仰するか、という疑問を持ってはいけないと。 ~~~~~~ ☆ けっきょく ★ なぜ信仰するか ☆ あるいは なぜ信仰ということがあるのか こういった問いを突き詰めて行くなら 誰れもがすでに信仰を持っているという結論に到るでしょう。わが心に成った非思考の庭 しかもそれとしての動態 です。 これを否定する場合には この世界が 経験合理性によって分かるその経験世界からのみ成っているという或る種の信仰をいだく場合です。言いかえると 非経験の世界は すべて 経験存在である人間のムイシキという場にあたかもおさまっていると主張する思想でありましょう。 おもしろいことに 信仰の対象つまり ナゾゆえに非対象 なる神は じつに無根拠です。 ところが ムイシキも それが想定されるのは 無根拠においてなのです。しかも経験世界の現象だという理論内容となっています。 どうでしょう。
批判は結構ですよ。しかし、神と信仰について、ご自分の定義を持ち出して反例となさるのは、客観的な議論ではありません。あなたは書いてらっしゃらないが、あなたの原点は以下の文章ではありませんか。 >人の国に属する悪しき者カインは、嫉妬にくるって、神の国に属する善き者アベルを殺害したのだ(「神の国」、第十五篇1、5)。 アウグスティヌスの見解は、ユダヤ教・及び初期キリスト教における見解を集約したといわれているが、ごくごく単純なものです。カインは悪者であった。だから神に退けられた。それだけのことです。 しかし嫉妬に狂うとは、アウグスティヌスはカインにも神への愛があったことを認めているということにはなります。彼の愛が報われなかったのはなぜなのか。これはすでに示したように、新約聖書では、「信仰」と呼べるものではなかったからだ、という解釈になっています。この見方を整理すると、嫉妬に狂う類の愛情と、信仰は別物だというわけです。信仰とは恋人を愛するようなやり方とは異なるというわけです。エロスとアガペーの差だと言えば、あまりに当たり前すぎて、今更、綿密に議論する必要もないでしょう。 こうした点は既にNo1のお礼欄でふれてらっしゃるようですね。カインの信仰は歪んでいた、と指摘しているのですから。「カインが生き抜く物語か?」と聞いていますが、そういうお話しでしょう。信仰の持ち様がダメなカインが生きて行けるように取り計らったのですから。 しかしそれではあまりにキリスト教的な解釈で、批判精神がないではありませんか。「学問として」であるのなら、新約聖書の記述をあれこれと批判検討し、客観的な視野を獲得するようにしなければ、おもしろくありません。そうした一案を示しましたが、あまり真面目にお考えくださる気はないようです。 反例は、最初に書いたように、ご自分の定義を持ち出していると感じられたので、私としては応答しようがありません。強いて言えば、上記に記したように、あまりにアウグスティヌス的な見解である、と感じました。そして、その他の考えは許容なさらない態度だな、とも感じました。 それからSaddiqとdikaiosについては、私は納得できませんでした。というのも、誰も二つの語のニュアンスが全く異なるとは言っていないからです。したがって、接点があっても全然不思議ではありませんし、反例になりません。反例を挙げるのなら、ギリシア語に「義」を示す語がいくつあり、Saddiqに該当する語がない、だから便宜上、似た意味をもつdikaiosを用いたのだ、と検証してみせなければなりません。あなたの反例はそこまでに達していらっしゃいませんね。そういうわけで、論理的に納得できません。 モンテスキューについてですが、私はたとえば、以下のような記述であれば、納得したと思いますよ。 http://dictionnaire-montesquieu.ens-lyon.fr/index.php?id=377 どうです、モンテスキューの他の文献から詳細に引用してきているでしょう? これと比べても、ご自分は立派な記述をしたと思いますか。私が要求している論述の水準と、あなたが十分と思う論述の水準には隔たりがあって、いくらあなたが言葉を費やしても、私には届かなかったのです。次第に私は煩わしくなり始めた。他の方との議論に割り込んでこられて迷惑だと感じた。あなたの言葉で言えば、「うるさい」と感じた。――それだけのことです。あなたにしてみたら、ごく首尾一貫したことを理路整然と語っていたおつもりでしょうが、私は何とも雲をつかむ話をしているな、としか感じなかったのでした。
お礼
そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。―― どうも進展のほどが うまく行きませんねぇ。なぜでしょうかねぇ。 だいたいあなたは 議論を途中まで引っ張って行って 放り投げる。 あるいは 城の堀のまわりに兵隊さんを幾重にも張り巡らし 議論が始まるかと思いきや あとは お結びでも食べて 昼寝している。 こちらが 信仰の定義を書いて ちょうど城の中の図面まで見せた格好になったら 攻めやすしと見るのではなく 《反例》だとおっしゃる。反例なら 原案がなくてはおかしい。 わたしが 聖書記者の心つもりにまで分け入って 読解を示したのでそれを読んだら もう腰が引けたのだろうか。 だが 文面はいまだに食ってかかって来ている。 ★ それから Saddiq と dikaios については、私は納得できませんでした。 ☆ じゅうぶんに納得の行く議論だとなおうったえます。 ★ というのも、誰も二つの語のニュアンスが全く異なるとは言っていないからです。 ☆ なら どうして 次のような新しい考え方が起きて来たというのか? ★★(回答No.9) どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。 ★ ~~~~~~ あなたの原点は以下の文章ではありませんか。 >人の国に属する悪しき者カインは、嫉妬にくるって、神の国に属する善き者アベルを殺害したのだ(「神の国」、第十五篇1、5)。 アウグスティヌスの見解は、ユダヤ教・及び初期キリスト教における見解を集約したといわれているが、ごくごく単純なものです。カインは悪者であった。だから神に退けられた。それだけのことです。 ~~~~~~~~ ☆ この図式はおかしいですね。あまりにもたとえばマニケーイズムだと見られます。つまりは グノーシス主義とほぼ同じです 善悪の二元論としては。 ただし アウグスティヌスの場合は むろんさんざマニケイストたちと議論を闘わせて来ているのであって 二元論ではありえない。悪は善の欠如というかたちで 善(むしろ 存在ないし生命)の一元論です。 それは たとえば次のような文章にもとめるべきです。 ◆ (アウグスティヌス:神の国と地上の国) ~~~ この天の国は地上を寄留している間に あらゆる民族からその市民を召し出し あらゆる言語の寄留者の社会をつくる。そして 地の国の平和をもたらして保存している習慣や法律や制度の相違においては何ら意を用いず それらのうちの何ものも廃止したり 破壊したりせず むしろそれらは異なる民族においてさまざまではあっても 地上の平和という一つの同じ目的をめざしている限り もしも唯一の最高の真なる神が崇拝されるべきだと教える宗教が阻止されないならば これを保持したり追求したりするのである。 それゆえに天の国すら地上において寄留している間は地上の平和の用い 死すべき人間の本性に属する事物に関しては 敬虔と宗教とを妨害せぬ限り 人間の意志の結合を保護しかつ欲求し 地上の平和を天上の平和にもたらす。 天上の平和こそは真の平和であって 厳密にはこれのみが理性的被造物の平和 つまり神を享受し神において相互を享受するもっとも秩序があり もっとも和合した社会であって またそう呼ばれてしかるべきものである。 (『神の国』 第19巻 17章 松田禎二・岡野昌雄・泉治典訳 1983) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 分かりづらいと思うので 解説をも引いておきます。 ■ (R.A.マーカス( Markus ):Saeculum ) ~~~~ 世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民にとっては まさにこの世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。 人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 世界( saeculum )というものを 《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国( Civitas Terrena )とのあいだの 中間地帯( no man's land )として》ではなく 《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見通しえた時のみであるという そのような現実の中に位置する或る時間帯( temporal life )として》見るというかれの理解から 発しているものである。 (§ 3 私訳 1970) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 言いかえると カインのその後に建てた地上の町も その秩序においては アベルの・神の国と同じ基礎に立ちその基盤じたいを共有している。 ★ 一案を示しましたが、あまり真面目にお考えくださる気はないようです。 ☆ No.10補足欄を参照のこと。 ★ そして、その他の考えは許容なさらない態度だな、とも感じました。 ☆ 許容する姿勢を見せているようですが けっきょく相手にあなたは許容しないのですね? と尋ねておけば 許容しなくても済むとでも思っているとしか見えない。 ★ 友情論 ☆ については ふたつつけ添えておきます。 わたしは モンテスキューは知りません。 もうひとつ。友情もけっきょく じんるいの次元で捉えないと つねに破綻に瀕していると言わざるを得ない。同胞が どれだけ 志を持つ青年らを失望させたか。ゆえに 実行や実現の現実性がなくても なおおのれの心の中では――閉じないで――開かれているというその境地に〔友情は〕還元されていくものと思われるということ。雲をつかむ話をしているのです。
- Y Y(@yy8yy8az)
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「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 これは、カインの“弟殺し”を「主」が予言したものであると、ようやく解かりました。 また14:のカインの言葉からは「主」に見放されてしまえば生きていけない、と訴えていて、だからこそ15:で「主」は、カインを見放してはいないという意味を込めて、「カインを殺す者は七倍の復習をうける」と言ったんですね? 「主」はカインを正しい信仰心を持つ者と見ていたんだと思います。 わたし「主」を信じるものは見捨てない。だからわたし「主」を信じなさい。 ・・・・・と、言っているようにも思います。 独り言(神様も出来の悪い子ほどかわいいのかもしれない)
お礼
わいわいえいとさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 「主」はカインを正しい信仰心を持つ者と見ていたんだと思います。 ☆ カインが聞いたら 涙を流してよろこぶ? かも知れません。 ★ ~~~~ わたし「主」を信じるものは見捨てない。だからわたし「主」を信じなさい。 ・・・・・と、言っているようにも思います。 ~~~~~ ☆ そうですか。そうですね。つよい信仰をお持ちなのですね。 こういう表現についてうんぬんするのは 苦手です。なぜでしょうかねぇ。信仰が強いとか弱いとかにかかわるからでしょうか。個人的になるからですかねぇ。 ★ 独り言(神様も出来の悪い子ほどかわいいのかもしれない) ☆ のですが 考えてみれば じんるいのすべての人びとが 子どもなのですよ? その内《出来の悪い子》は どれほどいましょうか? 一割? 二割? もし信仰をお持ちなら その神の意志と心に合わせて あなたも同じように出来の悪い子がかわいいというかたちになるということですが だいじょうぶですか? わたしは 何人も何人もは むつかしいと思ってしまいます。
前に随分と落ち込ませてしまったようですから、お詫びを兼ねて、投稿してみることにしました。一応、あなたをご満足させようと、調べてまいりましたよ。 まずアベルとカインのお話しに触れた一節は、新約聖書で、六ケ所あるそうですね。念のために列挙しておきましょう。マタイ福音書23、ルカ福音書11、へブル書11と12、ユダ書、ヨハネ第一書。これらが、旧約聖書のアベルとカインの箇所を解釈する上での手掛かりになると、従来は思われてきました。まず新約聖書に沿った先行研究をまとめることから始めましょう。 注目するべきは、マタイ・ルカでは、アベルの扱いは「義人アベルAbel tou dikaiou」となっていることです。この義人dikaiosはユダヤ教の文脈で出てくる義人saddiqとは異なる意味だそうです。 キッテル新約聖書神学辞典の「義」の項目によれば、Saddiqが「神の裁定により己の権利を擁護されたもの」であるのに対し、dikaiosは「己の義務を神に対して果たす一方……神の要求に答えて、神の御前で義人と認められるにふさわしき正しさを自ら保有する者」であるそうです。どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。 実際、すでにNo1の回答で指摘がありますが、「へブル人の手紙」には、「信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を捧げた」とあります。問題は、カインの態度に、信仰がなかったことであるという風に思えてきます。 だが、ここからが、実は思案のしどころです。上記はあくまで、新約聖書の記述であり、後世の者による一解釈であるとも言えます。すなわちマタイ・ルカ・「へブル人の手紙」の成立時期を考慮すると、どうやらこれは、ローマの迫害にあったキリスト教徒らが信仰を固める必要に迫られていた時期に書かれたことが明らかになります。義人アベル像を一つの比喩として、信仰を失う危機にあったものに対し、忠告するという意図があったようです(シュトラートマンの説)。 以上のように時系列を整理して考えると、いくら新約聖書であると言ったところで、一解釈に過ぎず、あまり新約聖書の記述に引きずられてしまってはどうしようもないことになります。結局、義人―アベルvs非・義人―カインという構図にしかなりません。そして、もっとも極端な例では、シュナイダーのように、カインは本質的に悪であり、当初から神に憎まれていた、などという単純な解釈に落ち着いてしまいます。いやはや、これでは世界には、生まれおちてから、神に嫌われる絶対的な悪がいることになってしまいます(というより、シュナイダーはユダヤ教的な解釈に行ってしまったと言える?)。それでは、カインがあまりにも不憫というものでしょう。新約聖書の記載にだけ頼った先行研究は、新約聖書の解釈の偏りを、図らずも、明らかにしてしまったと言えるのです。 おそらく、あなたはそういうことはご存じなのでしょうね。だが、それではよいと思わない。そこで、また別のモノの見方を求めているわけです。以下、私の分析を書いてみることにします。 すでに他の投稿者から指摘があるように、特に第七節は、間抜けなことを書いています。あたかも神がカインを挑発してしまったかのようです。これは神が悪いかに思えます。しかし、神は「どうして怒るのか(……)おまえが正しいのなら」云々と言い出すのです。これが私には二つの意味で、不思議なことに思えるのです。 まず、正しさを決めるのは、神ではないのか?神ではなく、カインが決めてもよいことなのか?という疑問が浮かびます。カインは神の喜びの度合いをみて落ち込んでいるが、正しさを決めるのは、神の笑顔では必ずしもない、おまえが自分で決めてよい、と読めるのです。 次に奇妙なのは、神が自らの失態を記録したと考えられるのです。結局、聖書は精霊が書いたものなのでしょう? 神は自らの失態を、自ら記していると考える他ないのです。これは何かしらの、神からのメッセージでしょう。あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます(※現実には、神の代理人である法王や、教会の高位のものが汝を優遇しないからといって、拗ねてはならぬ、正義は別にある、という意味にも思えてきます)。 こう考えるのなら、結局、カインは、どう振舞うべきであったのか? 神によろこんでもらうことを考えるのではなく、正しいことをしたという矜持を持っていればよかったのです。カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります(もっとも、そのような力は、アベルにもなかったかもしれません)。しかし、このように考えるのなら、神の範疇を超えた正しさを措定することになります。これは一体何か? 信仰では少なくてもないようです。だが、そもそも神を超えて「正義」が成立するのかどうか? これはまた、別の哲学的な問題になりそうです。 もっとも、神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは、グノーシス的な解釈だと批判を受けるかもしれません。しかし実際、「ユダの手紙」では(グノーシス派を意味する)「異端者ら」asebesはカインになぞらえて批判されているのです。新約聖書の義をめぐる解釈に対抗してカインを擁護する限りにおいて、結局はグノーシス的な物言いにならざるを得ないとは考えておくべきなのかもしれません。 アベルとカインの問題は、こうやって考えてみると、単なる信仰の問題であるという以上に、新約聖書の解釈の世界から外へ出る「綻び」であると捉えることができるでしょう。ちなみに私自身は、この問題について、特に信条はありません。グノーシス的な見解は、あくまで「分析」であり、私自身の意見とは異なりますので、ご留意ください。
お礼
★ 前に随分と落ち込ませてしまったようですから ☆ 昨年までなら やり取りが途中で切れても(つまりは 相手が途中でとんずらしても) まだ起こり得る事態であると受け止めていました。局面が変わったのです。そこへ 以前と同じ事態が現われた。このことに出遭って《落ち込んだ》のです。じゅうぶん分かるはずである説明をしているのにこれが伝わらなかった。この非力に蒼ざめたのです。それ以外に問題はありません。 言いかえると 今回つまりこの今のご投稿から見れば前回のやり取りの断絶については 途中での切れが しかもブロックされるという事態であったこと これも 予想していないことゆえだからです。 今回は おかしな動きがあれば ただちに断ち切ります。草鞋の底の埃をもきれいに払って 引きます。押し売りではないのですから。 さて何はともあれ ご回答に感謝もうしあげます。 全体として 残念ながら 批判を内容とするこちらからのお応えになります。 § 1 《信仰》の定義が 必要です。 ★ アベルとカインの問題は、こうやって考えてみると、単なる信仰の問題であるという以上に、新約聖書の解釈の世界から外へ出る「綻び」であると捉えることができるでしょう。 ☆ この《信仰の問題》とは何であるか? これが必ずしも明確ではないと受け取らざるを得ないからです。 むろん ご自身のそれがどうであるとか そういうことではなく哲学としての定義です。議論をすすめるための作業仮説でもいいわけですから 明らかにしておかないと 空回りの部分が出て来ましょう。 さらにつまりは あなたが《単なる信仰の問題であるという以上に》とか《新約聖書の解釈の世界から外へ出る》とかいうときに そこで捉えられている内容が わたしの見方からすれば やはり信仰の問題であったということがあり得るからです。 § 2 前章の言い分について 例証します。 § 2-1 ★ 神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは ☆ これは グノーシス主義が問題になる以前の問題です。そもそも ★ 神を超える ☆ という概念が 分かりません。おそらくそのように言えると思って疑わないのであれば こうでしょう。すなわち そのように超えられ得る神というのは 誰れか人間が想像し思考し作り上げた《神にかんする観念 ないし 観念の神》であるということです。(そして このことは グノーシス主義に確かに当てはまります)。これなら いくらでも よりすぐれた内容の観念神が作られ得るかも知れないからです。 § 2-2 そもそも 神についての説明はこうです。 ○ (神についての一つの説明)~~~~~ 神は――神と想定されたならば―― 《絶対》です。《無限》です。 その上も下もなく(超える超えないということは あり得ず) 並び立つものもなく ひとり満ち足りている存在です。 正義や慈愛や遍在や不可変性や全知全能などなどの言わば属性が添えられるのは この《絶対ないし無限》についての――人間の思考における――派生です。 ~~~~~~~ § 2-3 あるいはさらに反証として 《義 ツァディーク ディカイオス》なる言葉をめぐってですが: ★ ~~~~~~ どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。 ~~~~~~~~ ☆ これは この説について承知した上でではありませんが・それでも言えることには もともと旧約聖書について 新約聖書の出る前にギリシャ語訳(セプトゥアギンタ)が出ていますから そこでは 上の言葉は そのように互いに呼応しているということがあるからです。 言いかえると ギリシャ語には ヘブル語のツァディークの意味を忠実に伝える言葉がなかった。ただそれだけのことであるはずです。当てた言葉がやがて外延として 同じ意味を持つことはあり得ます。日本語には 渇愛とか愛欲といった意味での愛という言葉しかその昔にはなかったのが 別の意味に用いられるようになっています。そのようにです。 ちなみに キッテル新約聖書神学辞典を疑うわけではありませんが 次のような情報もあります。 ● ( dikaios ) ~~~~ http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=G1342&t=KJV1) righteous, observing divine laws : in a wide sense, upright, righteous, virtuous, keeping the commands of God 1) of those who seem to themselves to be righteous, who pride themselves to be righteous, who pride themselves in their virtues, whether real or imagined 2) innocent, faultless, guiltless 3) used of him whose way of thinking, feeling, and acting is wholly conformed to the will of God, and who therefore needs no rectification in the heart or life 3-a) only Christ truly 4) approved of or acceptable of God ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり最後のほうで ヘブル語の意味に合わせたかたちになっているということだと見ればよいはずです。 § 2-5 カインは 信仰がなかったのではなく それがゆがんでいたのだ。 ★ 実際、すでにNo1の回答で指摘がありますが、「へブル人の手紙」には、「信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を捧げた」とあります。問題は、カインの態度に、信仰がなかったことであるという風に思えてきます。 ☆ 同じく回答No.1へのお礼欄にて このことは触れました。文面には書いてないのですが カインにしたところで 神への信仰の中にあった。神の声が聞ける境地にあった。ただし反抗し遠ざかろうとしていた。だけなのだと。単純に言って 滅ぼされなかったからである。 § 2-6 上記§ 2-3 の引用文についてあらためて問う。 ★ すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。 ☆ 人が《信仰を持っている》ということは 事実としてあり得ますので 間違いではありませんが それだけでは 信仰を取り間違えます。 ○ (信仰とは 定義の二) ~~~ 信仰は あくまで神からあたえられるものです。 あたえられたものを受け取るのは 人の意志行為であり 経験行為ですが ――もし神秘になってもよいとのゆるしが得られればと断った上で言いますが――この意志行為として受け取るという経験行為も じつは あたえられるものだと見ているのが 信仰である。 人間の思考や判断など一切の経験行為はもとより その存在じたいも 神に先行することはない。 神がすべてに先行する力でありハタラキであると見るのが 信仰である。 これは 恩恵(恩寵・賜物・めぐみ)と言われますが むろんそれは 《ただで(無料で gratis )》という意味から来ています。《絶対》〔との関係〕とは 人間にとってそういうことであり 言わば《無根拠》である。 ゆえに 《神の前で信仰を持っている》と言ったところで・あるいはそれが まぎれもないその人の真実であったとしても なお信仰は 神に先行しない。という信仰でなければいけない。こう言えると思います。 それゆえに むしろ《神に好かれている》といった表現のほうが 信仰をあらわすのにふさわしいと考えられます。 ~~~~~~~~~~ 一たん休みましょう。このあとは 補足欄につなげるつもりです。
補足
お礼欄からつづきます。 § 3 あなたご自身の分析をわたしが分析します。 § 3-1 神は失態を演じたか? そのことを間抜けのごとく書かせたのか? ★ ~~~~~~~ すでに他の投稿者から指摘があるように、特に第七節は、間抜けなことを書いています。あたかも神がカインを挑発してしまったかのようです。これは神が悪いかに思えます。しかし、神は「どうして怒るのか(……)おまえが正しいのなら」云々と言い出すのです。これが私には二つの意味で、不思議なことに思えるのです。 ~~~~~~~~~ ☆ 次の考え方を導入すれば その《不思議なこと》を見てみる前に 疑いは晴れましょう。 ▲ (コリント前書 1:25) ~~~ 神の愚かさは人〔の賢さ〕よりも賢く、 神の弱さは人〔の強さ〕よりも強いからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ § 3-2 ★ 《正しさを決めるのは、神ではないのか?》 ★ まず、正しさを決めるのは、神ではないのか? 神ではなく、カインが決めてもよいことなのか? という疑問が浮かびます。カインは神の喜びの度合いをみて落ち込んでいるが、正しさを決めるのは、神の笑顔では必ずしもない、おまえが自分で決めてよい、と読めるのです。 ☆ これは 表現の問題です。文学の手法が入っているとして読むべきです。 どういうことか? たとえば次のように神がアダムやエワに問いかけるとき 神はその答えを知らないわけではない。いえ じゅうぶん知っていて尋ねています。そういう手法です。そうして 人間に対して あやまちうる判断でよいから自分で考えて決めなさいと言っているのかも分かりません。 ▲ (創世記 3:9-13) ~~~~ 主なる神はアダムを呼ばれた。 「どこにいるのか。」 彼は答えた。 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れて おります。わたしは裸ですから。」 神は言われた。 「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じ た木から食べたのか。」 アダムは答えた。 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から 取って与えたので、食べました。」 主なる神は女に向かって言われた。 「何ということをしたのか。」 女は答えた。 「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~ § 3-3 神は失態を演じたか? ★ ~~~~~~~~~ (あ) 次に奇妙なのは、神が自らの失態を記録したと考えられるのです。 (い) 結局、聖書は精霊が書いたものなのでしょう? 神は自らの失態を、自ら記していると考える他ないのです。 (う) これは何かしらの、神からのメッセージでしょう。あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます。 (え) (※現実には、神の代理人である法王や、教会の高位のものが汝を優遇しないからといって、拗ねてはならぬ、正義は別にある、という意味にも思えてきます)。 ~~~~~~~~~~ ☆ (え)は おもしろいですが ならば もっと先へすすんで欲しい。組織宗教の自己解体を勧めるというまでにです。 (い)の《精霊》は 聖書の神としては――《神の意志・愛》に相当するものとしては――《聖霊》と呼びそう書きます。(年寄りゆえの物言いでしょうが)。 ○ 〔(い)を厳密な表現に言い直すとしたら〕 ~~~ 聖書はあくまで 人間が書いたものです。聖書記者が ヒラメキ(インスピレーション)を得て書きました。ヒラメキは 神の聖霊のしわざだと見る場合があります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (う)の《メッセージ》は もしそうであるならば ★ あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます。 ☆ というふうに遠慮せずに さらに進めたほうがよいと考えます。この経験世界に起こる現象としてはすべて いかに神につなげられて捉えられるとしても その現象じたいは 仮りの姿であると。神そのものとして受け取ってはならないと。 《失態》かどうかは すでに前二節において基本的な見方を明らかにしました。 あるいはまた その時代その地域の人びとの信仰をめぐる境地のあり方に従って 神の言葉や振る舞いが 記者によって書き記されたと考えられます。境地が低ければ それに合わせて語ったり振る舞ったりする姿が描かれることになります。(これは 旧約の範囲にとどまると言うべきでしょうか)。 § 4 ★ 《結局、カインは、どう振舞うべきであったのか?》 一挙に引用します。 ★ ~~~~~~ (お) こう考えるのなら、結局、カインは、どう振舞うべきであったのか? (か) 神によろこんでもらうことを考えるのではなく、正しいことをしたという矜持を持っていればよかったのです。 (き) カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります(もっとも、そのような力は、アベルにもなかったかもしれません)。 (く) しかし、このように考えるのなら、神の範疇を超えた正しさを措定することになります。これは一体何か? 信仰では少なくてもないようです。 (け) だが、そもそも神を超えて「正義」が成立するのかどうか? これはまた、別の哲学的な問題になりそうです。 ~~~~~~~~~ ☆ (け)の《神を超える》問題は すでに§ 2-1および§ 2-2で述べました。ありえないという立ち場です。神を超えたら そこも神の領域です。そういう想定です。これで(く)にも応えました。 (お)から(き)までの三つの事項では カインの信仰に対する態度は如何に? という問いを発してその答えからおのづと解決策が出て来る問いだと考えます。 現代人なら 一たん神とは切り離されていると考えます。たぶん宗教改革のころにおいて 少なくとも教会の説く神とは切り離されたのだと。非キリスト教圏に住む人びとにとっては もともと〔聖書の神と特定したかたちにおいては〕結ばれていないでしょう。 どういうことかと言えば ここでカインは まだ――まだです まだ――神と結ばれていたと見るという意味です。と同時に 神から離れたい・あるいは神に反抗したいと思っていたのではないでしょうか? けれども あろうことか 弟のアベルをころすまではそのことの是非について分からなかった。そのあと 神との結びつきに目覚めた。(ここは 議論の分かれるところかも知れません)。 ですから 現代人のごとくに神を一たん別の場所に置いて(もしくは 放ったらかしにしておいて) 《どう振る舞うべきか》というような問い方は カインは しないのではないか? ★ (か) 神によろこんでもらうこと ☆ なら いまのまだ曲りなりにも保っている神との結びつきに従って生きればよいということくらいは 知っている。それが ――主観の問題でもありましょうが――《ただしいこと》だとも知っている。ですから むしろこの神の道から離れたかった。 ★ (き) カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります。 ☆ の《判断する力》は 別の意味になります。つまり 神との結びつきを解くための思惟および判断のことです。そもそも基本的に神に逆らうということについては 父親母親の事例で知っているはずなのですが。そしてその楽園から追われた状態については すでに受け継いでいると思われますが さらに神に《造反》するには どうすればよいかを考えていたかも知れません。 § 5 『ユダの手紙』は カインを全否定しているか? ★ ~~~~ もっとも、神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは、グノーシス的な解釈だと批判を受けるかもしれません。しかし実際、「ユダの手紙」では(グノーシス派を意味する)「異端者ら」asebesはカインになぞらえて批判されているのです。新約聖書の義をめぐる解釈に対抗してカインを擁護する限りにおいて、結局はグノーシス的な物言いにならざるを得ないとは考えておくべきなのかもしれません。 ~~~~~~ ☆ ユダ書簡は 《さばき》について書いています。それは 神のおこなうことです。ほんとうのところは 聖書記者としてのユダにとっても分からない。《警告》のような役目を持つ書簡だと見ます。 その《異端者たち》あるいは《神のさばきを受けるはずの不信心な者たち》は 《カインの道をたどる》と言うのでしょう? ですから 上に見たようにそれは 神の道から外れることを考えているということだと思います。 外れないなら 神の道であり もしそうならば《絶対的な正義の存在》は そこに初めからあったし いまもこれからもありつづけ どこへも行かず 移ろいゆくものでもない。こう考えられます。 《神を超えたものの存在の措定》は なぜ必要か まだ納得が行きません。 荒削りもあったかとおそれますが。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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A5です。 過ちを犯したのはあくまでもカインであるとする物語に沿って進めてみます。 >土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。 この場合の他者とは麦やコメの類です。 命を育み実りを産むとはいかなることか、殺して奪うだけとは違うでしょう。 食べる事は殺し奪う事でなく生かし育むことであるのが農耕です。 この発見と知恵は神の英知が助けとならなければなされなかった。 何故ならいまでも判ってない事が証拠だ。 生きると言う事が生きとし生ける者同士がつながることであるが実のところカインとアベルと言う物語の登場人物はどちらもそこまで英知を咀嚼し得なかったであろう。 話は仏教に飛びますが、生かすために死に、生きると言う行為のみがつながっていくのが輪廻です。 無邪気に殺しを働いた(羊)アベルの方が物語の読者に同情される野蛮な時代の物語です。
お礼
つづけてのご回答です。ありがとうございます。 ★ 食べる事は殺し奪う事でなく生かし育むことであるのが農耕です。 ☆ 分かりません。 稲や麦の栽培というのは 野生のままに放っておくのではないわけですから もちろん 種を蒔いて肥料をやり害虫や草を取り除き 育てるわけです。育つのをたすけるわけです。《生かし育む》。 そして《たべる》ことは その実あるいはほかには茎も根も花(?)も われわれ人間のからだのために栄養として摂ります。 このことについて なぜわざわざ ★ 殺し奪うことでなく ☆ と言うかというと それは どうもこの農耕との対比として 遊牧ないし牧畜における生活の様式が そうであるかららしい。つまり 遊牧畜におけるその獣や家畜に対しては《殺して奪う》ゆえに ★ 命を育み実りを産むとはいかなることか、殺して奪うだけとは違うでしょう。 ☆ と。 どうもおかしいですよ。 (1) 遊牧や牧畜においても 羊などに草を食ませ また家畜には餌をやります。つまり 生かし育てます。 (2) だとすれば あとでこれを殺し自分たち人間のからだのために摂取することは どちらも同じことです。動物と植物の違いがあるだけで どちらも同じ生物です。 (3) けれども そもそも 羊を飼っているのは ころされたアベルであり 土を耕していたのは 兄のカインです。カインが弟のアベルをころしたのですよ。 勘違いがありませんか?
- Y Y(@yy8yy8az)
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7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。の、次の文「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」が、私にはわからない。 ブラジュロンヌさんはどう解釈してますか。 カインに付けたしるしは、ありきたりな思いつきですが、額に十字の痣だと思います。
お礼
わいわいえいとさん つづけてのご回答をありがとうございます。 ★ 「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」が、私にはわからない。 ☆ これは のちのことになりますが けっきょく弟のアベルをころしたあとにも 《それでも 生きて行け》と言っているのだと見ます。前回 つぎのように ちらっと触れました。 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~ 信仰とそのゆらぎと 悪行とそれでも ≫それの自治≪ を最後までつらぬきとおすこと などがさらに付随した主題となっていましょうか? ~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《悪行を犯したあとの それでも 自己経営つまり自身の自治をつらぬけ》という意味ではないかと。 ★ カインに付けたしるしは、ありきたりな思いつきですが、額に十字の痣だと思います。 ☆ これは ご愛嬌だと思います。わたしが振っておいて何ですが よくは分かりません。 たとえば カインのこの《前科》を知ってそういう非行について思いを馳せる そうして言わば反面教師として 人びとは自省する よってカインをころすことはなくなる。といったことかとも思いますが まぁ 愛嬌としての問いであるかも知れません。 今回は 意外と多くのご見解に接することが出来て よろこんでいます。うれしいです。
お礼
やり方をおしえてさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。 ☆ 文脈をも交えて引いてみます。 ▼(ヘブライ人への手紙11:1-4) ~~~~~ 1: 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 2: 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 3: 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このあと エノクやアブラハムやヤコブ・イスラエルらあるいは ヨセフやモーセなどなどのことがらをめぐって 信仰とは何か・その見えない力のことが語られています。 ここで なお分からないのは こうです。 ▼(同上) 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。 ☆ アベルが信仰の篤い人であったことは そのまま受け容れるしかありません。分かります。ですけれども ▼ アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ ☆ たからと言って その《いけにえの優れ具合い》によって・あるいはつまりカインのいけにえは劣っていたということによって ▲ (創世記4:5) カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。 ☆ ということなのでしょうか? つまりまづ ★ 弟を殺したことがやましかったのでは? ☆ という理由は ちがいますよね? なぜって やましかったあと ころすまでに到ったのですから。 整理しつつ考えてまいりますが: (1) カインも 神にいけにえをささげているということは 事実である。 ▲(創世記4章) ~~~~ 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として 持って来た。 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。 主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。 ~~~~~~~~~~~~~ (2) 《土の実り》は 《羊の群れの中から選んだ肥えた初子》よりも劣っていた。あるいは絶対的にまちがっていた。もしくは いやしいものであった。ということなのか? (3) あるいは――いまのつてで言えば―― その農作物だとか羊の初子だとかのモノの問題ではなく いけにえをささげるときの心の問題なのであろうか? (4) おそらくヘブル書にしたがえば それら全体としてのその人の《信仰》のあり方やその中身の問題であったということであるらしい。そういうことなのか? つまりは 人の気持ちや心の問題をも超えて 否応なしに 〔ひょっとして心の目にも見えないところの〕信仰のあり方として決まっている・つまりは 神の目から見て 決まったということであろうか? (5) つまりは もしそうだとすれば 信仰とは ひとつに人間の心や意志のあり方を超えて すでに神のほうから見て 決められていると取るべきか? つまりいちおう人間はその自由意志で考え動くのであるから その意志による自由選択が どうなるかを神は予知していて その信仰のあり方がけっきょく決まっている(分かられている)というかたちになるのか? (6) もしそうだとすれば カインは ▲(創世記4:5) ~~~~ カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。 カインは激しく怒って顔を伏せた。 ~~~~~~~~~~~~~ というのであれば そのときただちにその信仰の問題だということが――つまりは 人間の側の自由意志によるのではなく そうではなく 神の側の予知の中におさまる自分の信仰のあり方が問題だということが――すでに分かっていた。ということだろうか? (7) カインは アベルにくらべて(もしくは比べるという問題ではなくかも知れないが) いけにえに何をささげたかではなく そもそも信仰のあり方が おかしかった。そしてそのこと自体について 神が《そのいけにえに目を留めなかった》そのことによって ただちに納得した。こういうことなのか? (8) すなわち カインとアベルとそして神とのあいだで すべては――最終の決定的な要因としては―― それぞれの信仰のあり方が決めるということなのだろうか? (9) そうしますと むしろこうなりますまいか? すなわち 《いけにえに何をささげるか》にかかわらず・あるいは もっと言えば たとえ《いけにえに何をささげるにしても・ささげなかったにしても》 それにはかかわることなく 信仰のあり方が 神に見られていた。分かられていた。――したがって 初めからカインは弟のアベルをけっきょくにおいてころすようなことになると分かられていた。ということなのだろうか? (10) だとすれば この一般化して《ひとごろし》ということの意味は どういうことなのか? なぜアベルという人間は――あるいはアベルでなくとも 人が―― ころされることになったのか? そのことにどういう意味があるのか? という問いに成って来ませんか? (11) それは 弟をころして《呪われる者》となったから カインはわるいのではなく そうではなく もともと信仰のあり方によって わるいおこないをする人間であった。となりましょうか? (12) そしてそれでも カインは 神による守護をも得て 生き抜く。生き続けるということにつながりましょうか? (13) こういう物語なのでしょうか? (14) でももし こういった広く捉えて《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。こう取ってよいでしょうか? (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか? (16) もしそうだとしたら ▲(創世記4:8) ~~~~~ カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、 カインは弟アベルを襲って殺した。 ~~~~~~~~~~~~~~ というようなかたちで いま現代において 襲われるときには 人は抵抗するということでよろしいでしょうか? なぜならカインの問題はすでに済んでいる。ゆえに 二番煎じを演じる謂われはない。と考えられましょうから。 ヘブル書の記事をおそわり 一気に考えてまいりました。 このようでよろしいでしょうか? どこか間違えましたでしょうか?