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カイン再考
- カインがアベルを殺す出来事から、人間の自由意志とその暗い一面を考える
- カインの事件は一つのテーマとして、人々に警鐘を鳴らすものである
- カインの行動は自由意志に基づくものであり、その自由意志が人を滅ぼす可能性を持つことを示している
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質問者が選んだベストアンサー
質問者の見方は深読みがあって面白いです ただ、自分としては疑問も感じます 視点の違いだと思いますが、見方はいろいろですね > 職業がどうであれ イスラエルの民であるなら ――モーセの律法にもとづく場合なら――みな神の民であり 人びとは同じひとつの神をいだいているということになるはずです ↓ 職業に貴賎がなくて同じようにというのは現代的な考え方と思います 当時は動物の生贄の血が重視され、イエスの血と肉が生贄となりました あの時代は男尊女卑であり、奴隷制度も当然と考えてました 新約時代でも〈教会で女は黙れ>と当たり前に書いてる時代です そしてカインとアベルの伝承は古い時代のものであり 遊牧が主で農牧は寄留地=モーセの律法は農耕民の風習を毛嫌います 口伝での伝承を編集した当時はまた自分のルーツは遊牧民というのが 民族の共同の価値観であり神の選びに疑問を抱かなかったと思います 自分が言いたいのは後から信仰的にどう解釈したかではなくて(これも大事な話) そもそも神話が自然発生的に生まれたときのあくまで神話としての成立の話です >むしろ何でもないところから ふとその殺意が芽生えるというような事例のほうが よかったかも知れないと思われて来るのです けっきょく聖書記者は その理由づけについてむしろ あいまいにした。そういう体裁を採った。 ↓ 不条理の殺人を表すためにその理由つについてあえてあいましにした これも現代的な考え方だと自分には思えます 現代作家では大切なことを書かないことが手法として大事と考えてる人が多いです 神話の世界でははノアの箱舟もそうですが一定のパターンがあり分かり易いことが多いです カインとアベルの物語で面白いと思うのは自分は次のところです 「お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」 「 いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」 さすらう者になるというところにイスラエルの歴史と重ねあわしたのか? 旧約の神が殺人を犯したカインに「しるし」をつけて守ったのはなぜか? 余談になりますが、日本の隠れキリシタンは250年以上口伝で創世記の話を残してます。 その「天地始之事」において創世記の神話が日本的に変容しています 面白いことに創造主として神やノアの箱舟とかはありますがカインとアベルの話はないのです つまり、カインとアベルの話は西洋の場合は農耕民と遊牧民のあいだの非常に大事な話ですが 日本の場合は問題にならないのでその話を聞いていても抜け落ちたと考えるられるわけです。 神話的視点の話は蛇足かもしれないがすこしても参考になれば幸いです。
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- littlekiss
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創世記2章18~25節 「人がひとりでいるのは良くない。」 アダムとエバ エバはアダムの肉体の一部から生み出された(創られた) アダムとエバは、子を授かった カインとアベル…… と、セツ ************************************* 11: 今、お前は呪われる者となった。 お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも なお、呪われる。 ************************************** 「人がひとりでいるのは良くない。」という言葉を前提に置くと カインがアベルを殺めた時点ではまだセツは存在していない(産まれていない) カインがアベルを殺めた時点で、アダムとエバの子はカイン一人となった アベルという存在の消失によってカイン自身が孤独感に苛まれであろうことを 独りで生きていくことの過酷さを見越した言葉。 「呪われる」という言葉で表現されているのではないでしょうか? 7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。 お前はそれを支配せねばならない。」 8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、 カインは弟アベルを襲って殺した。 ************************************** ↑ ここの言葉を読んで、ふと「門外漢」という言葉が浮かびました。 門の外に悪漢がいる??? 誘惑 揺れる心 二人が野原に着いたってことは…… すでに門の外 一線を越える してはならないことをしてしまう ( ▽|||)あぁ… お前はそれを支配せねばならない。←自制心をもてとの助言と読めば 主がカインを試して発した言葉であったのでは? なぜ? カインは長子、いずれ長となる者 その者が長としてふさわしい器かどうかを試したってことではないのかな 長となる者には全体の視点が必要となってくる 意思決定のテクニック(7)「全体最適」の視点を持つ http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080324/296916/ 一つの物事で誤った判断をしてしまわないように 門外漢:その分野の専門ではない人、畑違いの人 カイン:農耕の専門家 アベル:牧畜の専門家 12: 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す ことはない。 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」 ************************************** ↑ 農耕の専門家ということにあぐらをかきその地にとどまるのではなしに 住み慣れた地を離れ、遠く地をさまよい長となる器になるよう見聞を広める旅に 出されたのではないでしょうか。 皆を束ねれる者になるように ある意味、カインは主から重要な役目を担わされた そう考えると、↓下記の言葉が腑に落ちるのですが… *************************************** 15: 主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の 復讐を受けるであろう。」 ***************************************
- hisya
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前回は本の内容に即して書きましたが 今回は自分自身の意見を書いてみます (1)カインが農耕民でアベルが遊牧民について この物語で普通の日本人が疑問に思うのは 神がアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかったのは 不公平でないか?ということです。 現代人は神=公平と思ってるので疑問に感じるのです しかし、旧約の神と新約の神では神の観念が違ってます あくまで観念においてですが 新約の神は人類の神であり公平な神です(現代人の思い描く神) 旧約の神はイスラエルの神であり遊牧民の神なのです(農耕民の神を嫌う) だから、自分たちの信仰する神が自分たちの捧げ物を喜ぶのは当然です イスラエルから見たら公平でも異民族から見たら不公平になるわけです ただ、キリスト教においては民族宗教の枠を超えて世界宗教になったので カインが農耕民でアベルが遊牧民とかという問題は大したことではなくなる いわゆる選民思想的な要素は旧約聖書の中でも考えたくない事柄であるし そういうのはユダヤ教的な考えなんだということでしょう(無視してよい) あるいはキリスト教的に解釈するにはどうしても分からないことは 神しか知らない奥義とするか、聖書に書いてないから分からないとする またはカインが悪かったと無理やり解釈する(態度がどうとかです) (2)カインのアベル殺しについては イギリスの神話学者のフックの新年祭りの司祭逃亡のモチーフという説は >どうして明らかなかたちでそのように書かなかったのか? 質問者の疑問と同じようなことをわたし自身も感じますね ここからはあくまでわたし自身の推測ですがこの説は >農作物の拒絶というのは神のアベルに対するえこひいきでもなくて つまり、神は公平であることを言いたいがために持ち出した感じもします 現代人の学者も神=公平という観念で考えたいのでしょう カインのアベル殺しの物語は人間の最初の殺人が兄弟間で起こったということに わたし自身は深いものを感じます。人間は近いものほど憎しみ合います 歴史上でも日常でも骨肉の争い、近親憎悪ががどれほど激しいものか 同じ神から生まれた兄弟宗教であると言われるキリスト教とイスラム教の争い、 親の愛情をめぐる兄弟間の嫉妬や親亡き後の相続争いなどよく見られることです 人間というのは太古の昔からそれほど変わってないようです
お礼
ひしゃさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづ ★ 現代人は神=公平と思ってるので疑問に感じるのです ☆ というときの《公平・不公平》について――そのあとご議論では 別の観点から述べておられますが―― 或る意味で基本的な観点から 確認しておきたいと思いました。 それはすでに回答No.5のやり取りの中でそのお礼欄にも書き込みましたが ほかにも次のような文句がありますので。 ▲ (神のえこひいきか?) ~~~~~~~~~~ 1. 神は あわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむ。 (出エジプト記 33:19~ローマ書 9:15) 2. わたしは〔双子の兄弟のうち兄の〕エサウを憎み 〔弟の〕ヤコブを愛した。 (マラキ書1:2-3) 3. 神はそのあわれもうと思う者をあわれみ かたくなにしようと思う者を かたくなになさる。 (ローマ書 9:18) 4. 神は すべての人が救われることを欲したまう。 (テモテ第一書 2:4) 5. 風は思いのままに吹く。 (ヨハネ福音 3:8) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (4)は 公平を示しております。 さて ★ あくまで観念においてですが / 新約の神は人類の神であり公平な神です(現代人の思い描く神) ☆ これは まさに《現代人の思い描く神》として・その通念として取り上げておられる。ということだと見ます。 すなわち ▼ (マタイ福音22:32) ~~~~~~~~~~~~ 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出エジプト記3:6,15) とあるではないか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というごとく あくまで基本は 《個人にとっての神》であるということであり そのような個人の信仰における《もしそうだとしたら 人類の神であり公平な神である》というかたちになるのだと考えます。 微妙ですが 重要なことだと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 旧約の神はイスラエルの神であり遊牧民の神なのです(農耕民の神を嫌う) だから、自分たちの信仰する神が自分たちの捧げ物を喜ぶのは当然です ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは どうでしょうか。たぶん都市市民化した人たちもいたと思われます。そして 職業がどうであれ イスラエルの民であるなら ――モーセの律法にもとづく場合なら――みな神の民であり 人びとは同じひとつの神をいだいているということになるはずです。 そして ▼ (ホセア書6:6) わたし(=神)が求めるのは憐れみであって、いけにえではない ☆ これが 基本の基本であるというかたちの上に いけにえを求める場合もある。こう見るのですが そのときには 《牧畜民の捧げものを 優先して よろこぶ》というのも 二次的で派生的で何らかの条件によって要請され制約されたものだと見たい気持ちに傾きます。 そういうわけで――つまりは あくまで旧約の時代は まづその時代の情況として考えるという態度でいると思っていますから―― ★ ただ、キリスト教においては民族宗教の枠を超えて世界宗教になったので・・・そういうの(* 牧畜民と農耕民との違いなどの情況などなど)はユダヤ教的な考えなんだということでしょう(無視してよい) ☆ うんぬんというくだりは そういう場合が人びとのあいだにはあるかもしれませんが ここでは採っていないと思っています。 あるいは言いかえるなら 先ほどの《個人にとっての神》という命題については モーセの律法をめぐる神こそそうでなかったとしても アブラハムその人にとっては まったくそのままイエスの示す神であるかたちであてはまっている。こういうことです。 新約聖書の骨子は すでに旧約聖書にもじゅうぶんに現われている。こういう見方に立って いまは議論をすすめています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ カインのアベル殺しの物語は人間の最初の殺人が兄弟間で起こったということに わたし自身は深いものを感じます。人間は近いものほど憎しみ合います ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここについては 二点 反応を持ちました。 まづ もしころしたほうが 兄のカインではなく 弟のアベルのほうだった。といった仮りの想定をもゆるすような《兄弟間の憎み合い》を情況や事情として持ち出すことは ありうるのではないかと考えました。 その意味は どちらが殺す側かにかかわらず どちらも憎しみの炎を燃やしていたというように両方がわるいといった事態であるなら ありうると考えます。 ただ――反応の第二点としては―― 《人類の最初の殺人》を物語にして論じるには その《近親憎悪》を原因とするというのは それが確かに《骨肉のあらそいとして最も激しい》事例だとすればそうだとすればするほど その事例を事例とするのは かえって安易に物語をつくっている。と見られかねない。というおそれは 聖書記者らはいだかなかったか? とは思うのです。 自由意志のおのれ自らからの逸脱 そしてそれとしての人殺し 人間のおかすこの意志行為を議論するには むしろ何でもないところから ふとその殺意が芽生えるというような事例のほうが よかったかも知れないと思われて来るのです。 けっきょく聖書記者は その理由づけについてむしろ あいまいにした。そういう体裁を採った。 ということは 動機については わざと詳しくは触れなかった。ただし そのひとをあやめた人間の心理については 《顔が落ちた》というように 現実性をもって描いている。 質問者の見方は このようなものです。どうなんでしょうかねえ。いろいろあり得ましょうし あり得たほうがおもしろいとは思います。
- Tefu_Tefu
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こんばんは ブラジェロンさん カインとアベルのお話が余程お気に入りなんですね^^ そこで少し考えてみました 主はアダムとエワの息子カインとアベルを同じように愛していらしたと思います また カインとアベルも主を慕っていたと思います 農耕での貢物と遊牧での貢物を拝見した主は 肥えた子羊を気に入られたということですね 主は二人を愛しておられ二人の知恵の違いは何かと考えられたと思います 羊が肥えた理由は 十分な餌を求めて遊牧したからだと思います それに比べて 同じ場所で作物を育てれば収穫量が少なくなるのは当然なような気がします 愚かなことに カインは主に愛されたいあまりアベルを殺してしまった そこで 主はカインに罪を償わせカインの知恵を引き出すにはどうしたらよいかとお考えになられた それは カインに他の土地を見せることであり 他の土地に住むことである そうすれば 農耕の知識があるカインはその土地に合った作物を選別してたくさんの収穫を得ることができるだろうとお考えになられた 主はカインが農耕で生活していけると確信されていたのかもしれません だから 主を慕うカインを殺してはならないのだと わざわざ主の印を付けられた このお話は 一つの土地にこだわっては知恵は生かされない 知恵は知識と経験と何より行動により生かされるのだと云うことかもしれません 「行動することで知恵は生かされる」では^^ まあ~土を耕しても作物は育たないとは主の詭弁ですね それは 天候しだいです カインなら知っている
お礼
てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ カインとアベルのお話が余程お気に入りなんですね^^ ☆ そうでもいいんですが そういう問題ではないと思います。疑問が起きたら 何度でも問うて行きたい。こういう気持ちです。 ★ 主はアダムとエワの息子カインとアベルを同じように愛していらしたと思います ☆ 《えこひいき》説を取ろうと思いませんが これは 一概に決められません。 たとえば 次のような議論があります。 ▲ (ローマ書9:11-18) ~~~~~~~~~~~~~~~ その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」と〔母〕リベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」(マラキ書1:2-3) と書いてあるとおりです。 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を 慈しむ」(出エジプト記33:19) と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 聖書にはファラオについて、 「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、 わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(出エジプト9:16) と書いてあります。 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち わたし(=神)は 〔双子の弟の〕ヤコブを愛し 〔その兄の〕エサウを 〔まだ胎内にいるときから〕憎んだ (マラキ書1:2-3) というふうに書いてあるのです。《えこひいき》はありえると思います。 ★ 愚かなことに カインは主に愛されたいあまりアベルを殺してしまった ☆ これは よく分かりません。 弟のアベルがいなくなれば 神の愛を一身に受けることが出来るといったことでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~ それは カインに他の土地を見せることであり 他の土地に住むことである そうすれば 農耕の知識があるカインはその土地に合った作物を選別してたくさんの収穫を得ることができるだろうとお考えになられた ~~~~~~~~~~~~~ ☆ まぁ 生産力ないし生産性を増すようにとのことでしょうか。 でも それを わざわざ《ひとごろし》の出来事をとおしておしえるというのも 何かそぐわない。ような感じがするんですが。・・・ あるいはつまり 兄弟が相い助け合って・おぎない合って 生きて行けといったことをおしえてもよいと思うのです。 残念ながら いまひとつピンと来ませんでした。ごめんなさい。 たしかに ★ 知恵 ☆ の問題は 大きいとは思います。いろんなところで重要な位置づけをされていると思います。ソロモンの知恵といった主題もありますし。
- hisya
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わたしの読んだ本では次のような解説がありました なかなか面白い説だと思いますね カインとアベルの物語はオリエント神話の痕跡がある カインとアベルの供え物の競争の動機である 物語には農耕民と遊牧民の幾世紀に渡る宿怨が背景にある この物語は古代オリエントの農耕神と牧畜神の闘争の神話の変形と 見られるふしがある。古代オリエントの神話は女神の「夫選び」の モチーフからなってる。農耕神と牧畜神はそれぞれ自慢の供え物を 捧げてその優劣を競争する。その結果は牧畜神の勝利に終わる 明らかに物語はカインとアベルの競争の挿話と同じ主題である ただ、このメソポタミアの物語にはカインとアベルにあるあの悲惨の結末がない カインによるアベルの殺害の動機はなにか? この動機についてイギリスの神話学者のフックは古代バビロニアに伝わる 新年祭りの司祭逃亡のモチーフではなかったかという この説に従って解釈するとカインの農作物の拒絶というのは神のアベルに対する えこひいきでもきまぐれでもなくて実は農作物の不作という古代の切迫した状況を 伝えていた。アベルの殺害はそれを償うための祭儀であったというのだ カインは司祭として宗教的な目的で生贄としてアベルを殺害したのである だから、カインは復讐のためにアベルを殺害したのではない こうした解釈を可能にする有力な証拠がこの物語にはあるとフックは言う それは神が恐ろしい呪いの言葉といっしょに殺人者カインに刻みつけた奇妙な「印」である
お礼
ひしゃさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 おもしろい観点から謎解き〔と言うと語弊があるかも知れませんが〕をおこなっているとは思いましたが そうですね 説得されるまでには行きませんでした。とまづは 率直にお応えして こまかくご議論の内容を見てまいります。 ★ カインとアベルの物語はオリエント神話の痕跡がある ☆ 旧約聖書の記者が シュメール神話などから話題を拾い上げこれを物語の要素として用いているということ。これは あのノアの方舟の話がよく例に出されるように 一般にも指摘されていることと思います。 けれど その一般性にもかかわらず 最終的に出来上がった話は その思想としてほとんどまったく別のものとなっていると考えます。ノアが大洪水の犠牲となるのをまぬかれたといったことくらいではないでしょうか。重なっていて 同じようだと思えることは。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 古代オリエントの神話は女神の「夫選び」のモチーフからなってる。 農耕神と牧畜神はそれぞれ自慢の供え物を捧げてその優劣を競争する。 その結果は牧畜神の勝利に終わる ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そもそも 神ヤハヱーは 実際問題として いけにえをもとめるところもありますが 基本的には 次のような思想だと捉えます。 ▼ (新約・マタイによる福音書 / 12章 7節 ) ~~~~~~ もし、 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』 (旧約・ホセア書6:6) という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから 《夫選び》なる主題は論外ですし 《供え物〔としての いけにえ〕の優劣》についても ほとんどお呼びでないと考えます。 そうして ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 明らかに物語はカインとアベルの競争の挿話と同じ主題である ただ、このメソポタミアの物語にはカインとアベルにあるあの悲惨の結末がない ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということで 別様の解が提出されているのですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ カインによるアベルの殺害の動機はなにか? この動機についてイギリスの神話学者のフックは古代バビロニアに伝わる 新年祭りの司祭逃亡のモチーフではなかったかという ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち ★ 〔* 農作物の不作という情況に遭ってこれを解決すべく〕カインは司祭として宗教的な目的で生贄としてアベルを殺害したのである ☆ これは どこか割に合わないところがあるように感じます。 農耕民たちは 飢饉に遭って これを乗り越えようとしたとき もし生け贄が必要とならば おそらく自分たちの仲間からその候補はえらぶのではないか? そうしてこそ 有益だと人びとは思うのではないか? 牧畜民であるアベルをひっ捕らえて生け贄にするということは お門違いなのではないか? といった違和感をおぼえます。 ★ カインは司祭として宗教的な目的で生贄としてアベルを殺害したのである ☆ ならば どうして明らかなかたちで そのように書かなかったのか? 何の問題もない〔と考えられていた儀式〕なら そう書けばよいではないか? とは思われます。 どうでしょう。
- Y Y(@yy8yy8az)
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(あ)が大きなヒントになりました。 弟アベルのことは全く取り上げることなく“無視”していますね。 カインの行動のみを取り上げて、物語が進んでいます。 カインの行為(殺人)には厳罰を与えて、でもカインの懺悔(=私の罪は重すぎて負いきれません)の心は認めて、そして認めたからこそ「カインを殺すものは誰であれ七倍の復讐を受けるであろう」と云われたのだと思います。
お礼
わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いやぁ もっとひどい批難を受けるかと思っていたのですが つづけておおむね賛同が得られました。 ★ 弟アベルのことは全く取り上げることなく“無視”していますね。 ☆ カインの行為についても・つまりそのときの考えやまた心理のウゴキやについても あいまいであるようですし しかも相手のアベルについても ああ そういう人となりの人間かという納得が必ずしも得られるわけではありません。 しかも アベルは ただしい人間だ 心の清い人だという見方が ややもすれば固定されて来ているようです。 とにもかくにも そういう結論をみちびくには あいまいな内容になっています。あるいはつまり 安易にみちびいてよいものか 思案してしかるべきだと考えます。 ★ カインの行為(殺人)には厳罰を与えて、でもカインの懺悔(=私の罪は重すぎて負いきれません)の心は認めて、そして認めたからこそ「カインを殺すものは誰であれ七倍の復讐を受けるであろう」と云われたのだと思います。 ☆ カインの反省については その動機がむしろはっきりしないので やはり必ずしもよくは分からない。でも あやまちを侵したと悔いている。 そうして 復讐をやめようと言って ひとをころすことをも 人はしないものだというような話に持って行っているのではないか。――このように思ったわけでした。 ありがとうございました。 さらに回答を俟つことをもしたいと思います。
補足
お礼欄をおぎないます。 たとえばこれまでの《カイン観》としては 次のようなものがあります。ここでは これらに異を唱えていることになります。 ▼ (マタイ福音 23章 35節) ~~~~~~~~~ こうして(省略)、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。 * 正しい人アベル:この規定が 単純に一般性を持つということに 反対します。 ▲ (伝パウロ:ヘブライ人への手紙 11章 4節) ~~~~~~ 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。 神が彼の献げ物を認められたからです。 アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。 * 信仰によって正しい者:これは どこでも・いつでも成り立つ普遍 的な命題です。ただしだからと言って 必ずしも人となり やその性格やあるいはそのときの動機やについて明らかで ないことについて 簡単にあてはめることは出来ないと考 えます。 あるいはつまり 普遍的なことですから あてはめても よいわけですが あてはめたからと言って それがつねに 具体的にどういう意味を持つか これは 一概に決められ ません。 つまり 解釈としての預言には ただちには ならない ことになります。異言のままにおける判断にとどまります。 ▼ (ヨハネの手紙一 3章 11~12) ~~~~~~~~~~~ なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。 * カインは 行ないがわるい:これは 結果から見ての話です。 どうわるかったのか? 知り得ないで判断を持ってしまっ ているかと考えます。 つまりもしくは 信仰論からの大ナタがふるわれただけ だと考えます。 ■ (アウグスティヌス:カインをめぐって) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E5%8F%B2 § 4 アウグスティヌスの普遍史 古代的な普遍史は、アウグスティヌス(354年 - 430年)の著作『神の国』にて完成された。 彼は、歴史とは原罪を背負い死を免れなくなった人類が、神の導きに従いつつ正しい発展を遂げ、改めて永遠の平和が実現した「神の国」に生きるまでの道筋という意味づけを行った。これは「救済史観」と呼ばれる。 この救済史観についてアウグスティヌスは、アベルとその子孫に始まる神の愛に基づく「神の国」と、弟を殺したカインに始まる欲や傲慢などに支配される自己愛に基づく「地上の国」の二つの原理が混在しせめぎ合いながら過去の歴史は刻まれたという論を展開した。 * これについては つづけて次に引用枠の外でコメントします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらの見解にことごとく異を唱えようとするものですが なかでアウグスティヌスの見解との関連では 次のように考えます。 ▽ 《神の国》と《地上の国》とは互いに――人びとがこの地上の国にあるかたちにおいて――入り組んでおり それらの国境が決して――人間の眼には――さだかではない。 ▽ すなわちふたつの国は アベルにも欲望があり得るだろうし カインにも神への愛が消えてしまったのではないと考えられるごとく 地上の国では(つまり 人びとにとっては)よいところもわるいところも相いたずさえており 〔ふたつの国は〕互いにからみ合っていると考えられる。――《二つの原理が混在しせめぎ合いながら》に対応する解釈です。 ▽ ゆくゆくは救済が成り平和がおとづれるかたちで《すくわれる》というよりは そうではなく いま現在においてすでに神の愛はそそがれておりあまねく存在しはたらいており この永遠の現在こそが わたしと世界とのすべてである。――ということを カインの物語は語っているのではないか。 * なお 趣旨説明欄における《顔を伏せる=顔が落ちた》という表現の現実性については なお保ちたいと考えます。有効として留保します。 というのは なにせコトがひとごろしなのですから その重みということがあります。その重みをしっかりとこの表現で――それがたとえ哲学の理論によりは 文学上の表現のチカラにかかわるものであったとしても―― じゅうぶんに伝えたいところを伝えている。と考えられます。 つまり カインはかれがどういう人間でどんなキャラクターだったのかまた動機は何だったのかが明らかにならなくても その行為の重大さについては 聖書記者ははっきりしっかりと表現しておきたかった。のだと考えられ それは成功しているのではないかと思われます。《弟のアベルをあやめてしまって カインは 顔が落ちた》のです。
- Him-hymn
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アダムとイブの物語で、人間に自由意志が与えられたことを表現している。 カインとアベルの物語では、その自由意志には、他人に危害を加えない限りという制約があることを表現している。 以上のように考えられる。 殺人がいけない、人が殺すことがないようにするーーという狭いところで議論しているのではない。近代国家において、人は自由意志とその制約について考え、トマス・ジェファソンが独立宣言で、人に危害を加えない限り人は自由に考え、行動することができるというようなことを言っていたと思うが、聖書に精通していたジェファソンは、このアイデアを創世記4章から盗用しただけなのだ。近代どころではない、旧約聖書のトーラーの最初の書にすでにある考えなのだ。 この殺人の物語を読んで、読者は、ひどい、人殺しまでしてーーと思いながら、自然に、自由意志に制限があることに同感させられてしまっているのである。絶妙な仕掛けのある物語である。 遊牧民族vs農耕民族=社会構造を単純化したがる人たちの議論だね。これは。同感。 以上、ご参考になればと思います。
お礼
ひむ‐ひゅむんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 賛同してくださったのですね。 まづかんたんなほうからですが ★ 遊牧民族vs農耕民族=社会構造を単純化したがる人たちの議論だね。これは。同感。 ☆ つまり こういう対立する二項の話にすると いかにもそうだと見られがちな反面で しかしながら 粗い。粗いと言いますか そういう図式は 固定させて受け取ったなら おかしなことになるのではないかと思われます。生活上のなりわいの種類によって 神の嘉するかどうかが決まるというのは いかにもちゃちな話になってしまいます。 そう考えて しりぞけたいと考えました。 ★ この殺人の物語を読んで、読者は、ひどい、人殺しまでしてーーと思いながら、自然に、自由意志に制限があることに同感させられてしまっているのである。絶妙な仕掛けのある物語である。 ☆ ええ。まるで 善悪の木から採って食べたというアダムとエワとの話が 《第一章 自由意志について》だとすれば つづく息子カインをめぐる議論は 《第二章 自由意志の逸脱として ひとごろしについて》になるようではないかと。 ★ 殺人がいけない、人が殺すことがないようにするーーという狭いところで議論しているのではない。 ☆ ええ。つまり ▲ (出エジプト記20:13) ころしてはならない。 というように倫理規範として・禁止命令として打ち出すのではなく カインという人間の話として物語っている。 こう受け取ると分かりやすい。――というように思ったわけでした。 ありがとうございます。 もっと こてんぱんに批判ないし批難されるかと思っていました。 もう少し様子を見てまいります。いえ もう少しと言わず いろんな方から見解が得られればと思います。
- atti1228
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主は、憎しみなんかどこにあるのか知っている。知っていたんだよ。だけどどうすることもできなかった。悲しいね。人間の欲望って。
お礼
あってぃ1228さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そういう見方もありましょうか。 ただここでは そのような《にくしみ》の問題は 嫉妬と同じように取ってつけた要素なのではないか? と問うています。 ただただ《自由意志による自由意志そのものの抹殺》という主題 このひとごろしの主題を あつかっただけという見方を提出しています。 カインが何かしたから・あるいはアベルがカインの気に障ることをしたから カインは弟のアベルを殺すに到った――というような解釈をしりぞけようとしています。 ★ 人間の欲望 ☆ すらが ここでは(つまり 質問者の提起した見方では) かかわっていないというものです。 だから・それゆえ 聖書記者は 最終的にカインがどういう原因で その行為におよんだか? これを必ずしも明らかには書いていません。 つまり ただただ《ひとごろし》という主題を取り扱っただけだと むしろ聖書記者が言っているのかも知れません。 ただし 人殺しをした人間が そのあと どう扱われるか これについては 書いています。 ひとつには 人間は 仕返しをしないものなのだと語っているように考えられます。 つまり 人殺しの人間は 地上をさまよいつつも 生きて行けと言っている。 こんな物語にしたのではないか? です。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 職業に貴賎がなくて同じようにというのは現代的な考え方と思います ☆ いえ。これは 《貴賤》の問題ではなく 職業の・そして殊には農耕と牧畜といった大きく産業の違いを言っています。 狩猟・採集・漁労という原初的な産業は またそれぞれとしてあるでしょうし そうなのですが そしてこれらから一般に農耕が現われた。ただしそして その傍らでは ずっとつねに 牧畜・遊牧と分類される産業・職業もあって おこなわれて来ている。 ユダヤ人における産業観・職業観をくわしく明らかにすることができればよいのですが そこまでは分かりません。 そしてけっきょくの議論としては もしたとえユダヤ人たちは 遊牧民であるのが基本であって 農耕〔民〕を賤しいものと見るかたちで 職業に貴賤があったとしましょう そしてそうした場合 そうしたとしても けっきょく《同じひとつのユダヤ人という〔それぞれの族長共同体をたばねる〕共同体のもとに 生きている》ものと思います。 むろん人類の最初のころの話だとほんとうにすれば そういった種族や民族の集まりとその共同性がどこまでかたちづくられていたかは 分かりません。そしてしかも もしそのような見知らぬ種族どうしのあいだのあらそいだと見るなら それこそ《牧畜と農耕との違いやそれらの貴賤》を問題とするまでには到っていないのではないか。とも考えられるからです。 しかも書かれている限りでは 遊牧民アベルと農耕民カインとは 互いに兄弟と呼べるようなあいだがらだとも言うわけです。この《兄弟のような関係》という記述を どう扱うか これも――もし職業の貴賤という問題で解釈するなら―― まだ処理しがたい問題として残るかと思います。 すなわち ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 当時は動物の生贄の血が重視され、イエスの血と肉が生贄となりました あの時代は男尊女卑であり、奴隷制度も当然と考えてました 新約時代でも〈教会で女は黙れ>と当たり前に書いてる時代です ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という事情をすべてみとめた場合 《兄弟どうし》だという記述をどう処理するか? こういう難点です。 ★ 自分のルーツは遊牧民というのが / 民族の共同の価値観であり神の選びに疑問を抱かなかったと思います ☆ これは そのとおりだと思います。たとえばシナイの荒野を四十年 モーセは民を率いてさまよいました。これは おそらく遊牧といった生活様式が 自分たちの基礎であると言おうとしているのだと見ます。 従来の生き方や既存の社会制度などに浸りきることなく ふるい人からあたらしい人へと変わるには さまようような遊牧の生活方式がすすめられた。つまり アブラハムは――つまりその当時アブラムは―― 父祖の地を去って〔どこへとも明らかにされないまま〕行けと言われ そうしました。そういういわゆるノマドの生活は 推奨されているのだと考えます。 ただし ただし ただし そのノマドの生活ないしモーセのさまよいに彷徨う荒野の四十年 これは 基礎であり基本であるということは もはやそうではない農耕などの生活をいとなむユダヤ人も現われて来ている。ということを けっきょく意味するはずです。イエスは 父のヨセフが大工だったと言います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 自分が言いたいのは後から信仰的にどう解釈したかではなくて(これも大事な話) そもそも神話が自然発生的に生まれたときのあくまで神話としての成立の話です ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃるとおりなのですが・一般論としてそうなるのですが それでも ひとつに 人類の祖の時代の話を けっきょくじっさいにはずっと後に成ってからその後世の人びとが記者となって書いています。 ひとつに そうなると ひとのつねとして その時代の自分たちの価値観がその物語に反映してしまうのは 避けられない人間のさがだと考えられます。つまり 後世からの解釈も 多かれ少なかれ 紛れ込んでいる。こう考えられます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >むしろ何でもないところから ふとその殺意が芽生えるというような事例のほうが よかったかも知れないと思われて来るのです けっきょく聖書記者は その理由づけについてむしろ あいまいにした。そういう体裁を採った。 ↓ 不条理の殺人を表すためにその理由についてあえてあいましにした これも現代的な考え方だと自分には思えます ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。現代人のわたしが解釈したものであることに間違いありません。 と同時に 創世記を書いた聖書記者が アダムやカインの時代から遠くへだたった後世の人間として その世界観をもって書いている。この側面も見捨てるわけには行かない。こう考えます。 その聖書記者らが 《へそ曲がりでさらにはねじ曲げてしまった意志によるひとごろしの事例を取り上げるとき その動機については あいまいにして全体の話を描いた》 ゆえに そう解釈するという順序です。つまり《動機についてあいまいにしか書いていない》という事実について 解釈したものです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ カインとアベルの物語で面白いと思うのは自分は次のところです (あ) 「お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」 (い) 「 いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」 (う) さすらう者になるというところにイスラエルの歴史と重ねあわしたのか? (え) 旧約の神が殺人を犯したカインに「しるし」をつけて守ったのはなぜか? ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに言えるのではないかと思います。 質問者の現段階での立ち場も ここは必ずしもはっきりしません。 (あ)と(う)は すでに述べた《モーセの荒野におけるさまよい生活》に呼応しているのかどうか。 (い)と(え)は 少し考えがありまして・すでにこれまでのやり取りでも触れたと思いますが これは単純に《おのれの意志のひん曲げによって 自分であれ他人であれ ひとを抹殺するようなことは ひとはしないものだよね》と語っている。という見方です。 次のお話は おもしろそうですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 日本の隠れキリシタン・・・の「天地始之事」において・・・カインとアベルの話はないのです つまり、カインとアベルの話は西洋の場合は農耕民と遊牧民のあいだの非常に大事な話ですが 日本の場合は問題にならないのでその話を聞いていても抜け落ちたと考えるられるわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ したがって ユダヤ人のあいだでは 農耕民カインと遊牧民アベルとの確執が じっさいの問題として取り上げられ描かれているということでしょうが どうでしょうか。 つまり もしそうだとしますと いまでは――どの産業や職業に従事するかで 《毛嫌い》することがあったり果ては神からのめぐみに明らかな差別があったりすることは ないということですから いまでは―― もう意味がない。となります。 つまり 現代では 要らない話ということになります。 それよりは 現代にも通用する解釈としての話として受け取ったほうが おもしろいとはわたしには思われましたが どうでしょうか。・・・