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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:聖書として適切な言葉)

新約聖書における情欲の罪

このQ&Aのポイント
  • 『新約聖書』は多くの人に理解してもらへるやうに、わかりやすい言葉で書かれました。
  • 『新約聖書』において、情欲をいだいて女を見ることは姦淫の罪になります。
  • 様々な訳文において、同じ趣旨が表現されています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

 この聖句は モーセの律法をめぐっての議論です。  律法の一点一画をもおろそかにしないという原則をイエスは述べていますが ここでの問題は この一例としては《なんぢ 姦淫するなかれ》という否定命令をめぐってどう受け取るかです。  《人妻》かどうかの違いが訳文のあいだにあって それに応じて《姦淫》かどうかに分かれるという問題もあります。がその点は 措いておきます。  さて問題は 互いに自由な人間どうしとして男と女とが交わえるか。すなわち ふるい言葉では 神のこころに合ったツイ(対)関係がどうすれば築けるか。にあります。  ここでも アブラハムの信仰が 鍵をにぎります。    モーセに与えられた倫理規範を守るには アブラハムに与えられそれをアブラハムが守ったというその信仰に立ってこそ成し得る。という問題です。  ですから モーセの律法における禁止法を きみたちは おのれの人間としての理性や努力によって遵守することが出来ると思っていたなら それは 大間違いである。という意味で 《あの女を犯してやろうという心つもりでその女を見たなら すでにそれだけでモーセの律法を侵していることになるんだよ》と説き明かしている。  人間の能力と努力とでは むつかしいと。  質問に挙げられた文例は そういう一節です。  人類にとっての普遍神を指し示した。だけのことです イエスのつとめは。倫理規範から自由です。聖書は すべてそうです。旧約聖書をもその目で――後づけですけど――見るという意味です。  

noname#214841
質問者

お礼

追加の御回答をありがたうございます。回答番号1でパリサイ人の話が出てきましたので、律法に目を向けるのは当然のなりゆきでせうか。 >《人妻》かどうかの違いが訳文のあいだにあって 文脈からすれば、人妻のやうに思へます。bragelonneさんはそちらの趣味なのです。ブログに「結婚」についての議論がありましたが、bragelonneさんの見解が正当に見えます。といふよりも、それが聖書に書いてあるとほりのことです。 >人間の能力と努力とでは むつかしいと。 おつしやるとほりです。 >人類にとっての普遍神を指し示した。 bragelonneさんならでは、の御意見です。私は、三位一体以外の件では、ほとんど、bragelonneさんに賛同します。 >倫理規範から自由です。 これがパリサイ人にとつて理解しがたいことだつたのでせう。 いつもながら、詳細な分析に感謝してをります。

その他の回答 (4)

回答No.5

 ★ (No.1お礼欄) 言葉そのもののわかりやすさと、解釈の困難さはまた別の問題だと思ひます。  ☆ ということは 《解釈》をしない段階での《理解》ということでしたか。  すなわち:  ★★(趣旨説明欄) 『新約聖書』は多くの人に理解してもらへるやうに、わかりやすい言葉で書かれました。  ☆ という《理解》は 額面どおりの意味を捉えるという趣旨なのでしたか。  だとしたら わたしの回答は そんなことは どうでもよいということになります。  ふつうに書けばよいというのが 聖書記者の姿勢であったと捉えてよいのではないでしょうか。なぜなら それが かれらのそれぞれの信仰にもとづく思想であり姿勢であると考えられるからです。  すなわち 回答No.1に述べましたように なぜどうでもよいかと言えば:    羊は羊飼いの声を聞きわける  からです。ふつうの書物とは 性質が違っているという意味です。

noname#214841
質問者

お礼

御回答ありがたうございます。、 >羊は羊飼いの声を聞きわける さう書かれてゐますね。「声を聞きわける」ことができるのは、だれなのか、判断が困難です。現代の組織宗教の管理者たちとは思へません。bragelonneさんからは反対されるでせうけれども、アウグスティヌスなどの教父たちであるやうにも見えません。(比較的聖書に忠実なのはテルトゥリアヌスだと思つてゐます。) たちまち今回の質問の趣旨は、「額面どおりの意味を捉える」といふことです。bragelonneさんは不満足でせうけれど。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12512)
回答No.4

ずいぶんたくさん調べましたね! いずれもそれなりに良いと思います(ナニワ太郎など、「オモロイ」ですね!)が、強いて選べば「新改訳」でしょうか。といいますのも、私はかねてより、日本聖書協会1955年改訳版、「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのある。」に親しんでいましたので(大した理由ではありません)。 (1)このたびもまた、興味あるご質問をありがとうございます。この問題、一見世俗ぽい事柄に見えて、その実、考えてみれば「基本にして永遠なる課題」かもしれませんね。 実は、学生時代に「聖書研究会」なるところに名を連ねたことがありました。新約の冒頭がこのマタイ伝ですから当然と言えば当然ですが、入会後まもなくこの場面に遭遇したことを覚えています。はじめは、「ネクラばっかりで、お通夜の雰囲気だ」と思いましたが、男女十数人、次第に白熱していきました。 (2)上述のとおり、「入会後まもなくこの場面に遭遇した」のでした。ところが、ここから先へはなかなか進みません。というのもモーゼの十戒から、旧約「出エジプト記」(20-14)、「申命記」(5-18)などへ次々飛び火したからでした。 それだけではありません。飛び火した先からまた飛び火して、動物と人間、肉体と精神、欲望と理性などの話題と議論百出…とは相なった次第です。 (3)会の男どもは、これを見るなり、一様に「じゃあ、オレはもう罪人だぁ!」。で、女性たちは、「それって、どういうこと? ただのヤらしいって感じだけど」(の表情)。 動物としてのオスの本能…などから、「女を見て情欲を抱くのはむしろ自然なことで、情欲を抱かないのはよほどの聖人かホモだっちくらいじゃないか?」というのが男どもの弁。 生物としての種属保存の本能と仕組み、その合目的性などへの言及によって女性たちも何とか納得してくれたようでしたが、「でも、それを理性でコントロールしなさいというのが、この律法の教えでもあるのでは?」というお返しに、我ら一同「ハイ! 頑張ります!」で一件落着(の模様)でした。 (4)しかし、マタイ福音書5-28は、「哲学的問題」として別の尾を引いたのでした。 すなわち、「情欲や姦淫」は人類発祥以来の問題であっただろう。地中海周辺では、ヘレニズム対ヘブライズムという対立・相対関係があって、どちらかと言えば、ヘレニズムはそれに寛大、ヘブライズムは厳格だったと考えられます。 この対立・相対関係はその後、ロゴスとパトス、皇帝と教皇、俗と聖、ドン・ファンとベアトリーチェ(ダンテ)…などなど、さまざまな二項対立のような様相を呈してヨーロッパ精神史を綾取ってきた、と言えるのではないでしょうか(とみんなで話し合った)。 (5)さらに、ヨーロッパ史全体が、ある意味この「二項対立要素の弁証法的対立」の歴史でもあった、と言えるかも知れません。普遍論争、ルネサンス、皇帝と教皇の対立(カノッサの屈辱)、宗教論争と宗教改革、理神論と無神論(神殺し)、各種革命…などなどあらゆる大事件にこのことが関わった、と言っても過言ではないでしょう。 しかし、この問題は未だにアウフヘーベンできていないと思います。言えることは、これらの二大要素の、どの対をとっても、「お互いに対立しながらも、しかも相手を必要とする要素同士であって、どちらが優れているとか、価値がより高いなどと言えるものではない」ということです。これが我々の結論でした。 以上、話の輪を広げすぎたかも知れませんが、でもこれが学生時代の「聖書研究会」でマタイ伝該当部分をきっかけにして始まった会話であり、ある種の「出来事」でありました。このシリーズはかなり時間がかかり、ある時は部室で、ある時は学食で、またある時は芝生に車座になっての討論(風のやりとりやじゃれあい)でした。plapota様のご質問のおかげで、この一件を振り返りながら、しばし思い出にもひたることができました。 以上、ご回答まで。

noname#214841
質問者

お礼

いつも柔軟で広範な視野にもとづいた回答を寄せてくださり、感謝してをります。哲学のあるべき姿だと思ひます。 翻訳の読み比べが好きで、気に入つた外国書物は複数の訳本を揃へます。聖書は外国語訳をふくめれば100冊以上は手持ちがあるとおもふのですが、ほとんど物置に入れてあつて、見ることができません。日本語訳で最高だとかんがへるのは、岩波書店の新訳なのですけれど、貧乏なので購入できません。新改訳は私も好きです。口語訳は標準訳ですが、あまり感心しません。 >一見世俗ぽい事柄に見えて 「一見」でも「熟視」でも、低俗な質問です。質問を活かすも殺すも、回答者次第です。Nakay702さん、bragelonneさん、yuniko99さんのおかげです。 >学生時代に「聖書研究会」なるところに名を連ねたことがありました 以前にも「キリストの規約違反」の質問に回答をいただきました。ずいぶん聖書を読み込んでいらつしやることは私にもわかります。 >男どもは、これを見るなり、一様に「じゃあ、オレはもう罪人だぁ!」。で、女性たちは、「それって、どういうこと? ただのヤらしいって感じだけど」(の表情)。 納得です。人間とは何か、を考へさせてくれるのが聖書です。 >さまざまな二項対立のような様相を呈してヨーロッパ精神史を綾取ってきた、と言えるのではないでしょうか Nakay702さんは、二項対立容認派だつたでせうか。どこかで読んだ覚えがあります。私は反対派です。といふよりも、中間なのかもしれません。優柔不断ですから。また機会がありましたら、議論したく存じます。さういへば、OKWaveの社長が、とことん議論する場を設けるとおつしやつてゐましたが、いつになるのでせうか。やはり哲学に議論は必要です。 御回答ありがたうございました。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.2

聖書的に分かり易い表現というのは 大概は比喩を用いたものです。 或いは例を用いたもの 質問者様の上げたどの文も私には分かり易く 比喩も使ってませんね。 この場合は女性を見るとき、情欲を抱かない様にしろという事ですから 表現の問題ではなく 訓練の問題です。 全くクリスチャンでない私でも この訓練はマジでやりました ですから女性を見て淫らなことは思わないですねえ 最近は年のせいもあるかもですが^^ まあ このおしえが絶対という訳ではないと思いますので 法律やモラルを守ってればいいのではなでしょうか? つまりどれも皆同じで 訳のせいではないと思いますが?

noname#214841
質問者

お礼

御回答ありがたうございます。比喩も、用ゐる方法によつて、理解を助けたり、妨げたりします。私は比喩が下手です。 >女性を見て淫らなことは思わないですねえ yuniko99さんは人間ができていらつしやるのですね。私は無理です。 >最近は年のせいもあるかもですが^^ (笑) >法律やモラルを守ってればいいのではなでしょうか? 何事もほどほどに、といふことなのでせうか。厳格に対応しようとすると無理がたまります。御意見に賛成です。 >つまりどれも皆同じで 訳のせいではないと思いますが? 最近の翻訳はさほど違ひがないやうです。これも御指摘のとほりと存じます。今後も御指導くださいませ。

noname#214841
質問者

補足

この質問は、先日のyuniko99さんの日本国憲法の質問に促されて思ひつきました。今gooで類似の質問を立ててゐます。 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9029195.html https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9029187.html いつも発想のヒントを与へてくださつて、感謝してをります。

回答No.1

 突拍子もないことでこたえます。  次に引用するくだりの表現は 非常にわかりづらいものです。ですから:  ★ 『新約聖書』は多くの人に理解してもらへるやうに、わかりやすい言葉で書かれました。  ☆ という命題は ひとつの仮説であり まだ決してそれがただしいとは限らないと考えます。  ▲ (ヨハネによる福音書/ 10章 01節) ~~~~~~~  1: 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。  2: 門から入る者が羊飼いである。  3: 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。  4: 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。  5: しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」  6: イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。  7: イエスはまた言われた。  「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。  8: わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。  9: わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。  10: 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。  11: わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。  12: 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――  13: 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。  14: わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。  15: それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。  16: わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。  17: わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。  18: だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」  19: この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。  20: 多くのユダヤ人は言った。  「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」  21: ほかの者たちは言った。  「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 表現が意図的に平易になっているかどうか。この問題は 通りすがりに触れればそれでよいという性質のものではなく このくだり自体についてもその内容をめぐって同じくそうであるので 長く引用しました。  あと それでも文意を汲んで いまひとつの答えを提示します。  すなわち 《羊は 羊飼いの声を聞きわける》ということ。  だとすれば どんな文字や言葉で書かれていたとしても その表現をすべて羊のほうも聞き分けることが出来る。違うものは違うと聞き分けられる。と考えられます。  ですから 回答をあらためて述べますと:  ★ 『新約聖書』は多くの人に理解してもらへるやうに、わかりやすい言葉で書かれました。  ☆ とは わたしは考えません。(イエスは 比喩を用いたとは考えます)。  そして どの訳文が 分かりやすくて良いものか? についても その文章表現が問題になるのではないということ。そうではなく 読む者・聞く者が どんな訳文のどんな表現であったとしても 聞き分けることができる。ということ。  (極端なことを言うなら 誤訳でも構わないということ)。  そしてそこにつけ添えるには 《何ごとにも 〈とき〉がある。その時の満ちたときに 聞き分けるという事件が起きる》。こう理解しています。

noname#214841
質問者

お礼

御回答ありがたうございます。言葉そのもののわかりやすさと、解釈の困難さはまた別の問題だと思ひます。今gooで、日本国憲法の質問をしてゐるのですが、容易な言葉が使はれてはゐても、法解釈はいくらでも可能です。新約聖書の場合は、当時の民衆語コイネーが使用され、ギリシャ語初学者でもすんなり読めるやうな文章です。 人は、自分の望むやうに解釈したがります。引用文のパリサイ人が「彼らはその話が何のことか分からなかった」のは、立場の違ひで、当然のなりゆきです。

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